ep.16 君の足跡
楽しそうにカメラのレッスンをするハルキとトウカちゃんを見て、私の中では沸々と言い表しにくい感情が喉元まで上がってきていた。
距離が近い……。絶対アレが当たってるでしょ! 何とは言わないけどアレ! ボインなアレ! 何とは言わないけど!
まあ別に私にとってはどうでもいいことだ。ハルキなんて知らない。
「随分ご不満そうだな、お姫様」
そう軽口を叩くのは横にいたシュウジだ。
「別に不満なんかないよ」
「嘘つけ。お前は昔から顔に出るんだよ」
「じゃあ私が何考えてたか当ててみてよ」むっと唇を尖らせて私はシュウジを睨みつける。
「大好きなハルキがトウカちゃんに盗られちゃう……。駄目よ、ナツキ。ハルキは私のものじゃないの。ハルキは私のただの弟なんだから。ううん、でもやっぱりこの気持ちは抑えられないの……トゥンク」
「……シュウジ、人って何発殴られたら死ぬと思う?」
「冗談だよ」肩をすくめながらシュウジは笑った。「ちなみにトゥンクは胸のトキメキの擬音な」
「はあ……」辟易するように私は溜め息をついた。
「まっ、なるようになるんじゃねえの」
「なんのことよ。バカ」
「さあな」
そう言ってシュウジは黙り込んだ。滝が静かに飛沫をあげる様子を私は見つめていた。
さっきから空虚さが私の胸の奥底を支配していた。心にぽっかりと穴が空いたような気持ちの悪い感覚。別にトウカちゃんがどうこうってわけじゃない。私は顔を動かさずに横目で木陰の方を見遣る。
そこには三角座りで持ってきた文庫本を読むカナデちゃんの姿があった。
ううん、違うんだ。やっぱり。他人がどうこうって話じゃない。これは自分の気持ちの問題。
ふとカナデちゃんが昨日お風呂で言っていたことを思い出した。
――羨ましいわ。あなたたちは仲が良くて。
彼女も弟がいる、と言った。
どうしてあんな話をしたのだろう。その弟とハルキを重ねているから? 姉弟の仲が良いのが羨ましいから? それとも皮肉?
いまいち掴みどころのない女だ、と私は思った。
♢♢♢
そろそろ日が落ちてくるであろうというところで、私たちは旅館へと帰る次第となった。帰路は行きと同じ道を通っているはずなのになんだか違う道のように感じた。不思議だ。
「そう言えばハルキくん。ここなあ……」
前を二人で歩くトウカちゃんとハルキの会話が耳に入ってくる。その横にはカナデちゃんも無言で寄り添うように歩いていた。彼女の長い髪が歩くたびに揺れるのを私は目で追う。私の横を歩くのはシュウジだ。
「もうすぐ日が落ちるのも早くなってくるんだろうな」ぼそっとシュウジが言った。
「そうだね」素っ気ないような感じで私は返す。
「夏が終わったら秋がくる。秋が終わればもう冬だ。環境もだんだん変わるだろう。当たり前のことだけどな。けど、そういうのが俺は怖い」シュウジは私の方を見ずに話を続ける。
「周りに合わせて自分も変わってしまうのだろうか。それは果たして必然的なものなのか。変わるのが怖いんじゃない。変わってしまうのが、変わらざるを得ないのが怖いんだ。諸行無常って言葉がある。どんなことにも永遠はないっていう風な意味だ。『平家物語』だったかな。確かにその通りなんだよ。永遠ってのはないんだ」
「……つまりどういうことよ」私もシュウジの方を見ずに問いかけた。
「今あるものを大事にしろってことだよ。変わることは悪いことじゃない。いろんな視座を持つのは大事なことだ。でも遠くの方ばかり見ていると近くが疎かになるのも確かだ。人生で優しく接することのできる人間、自分を価値の置けるものは有限だってことを自覚しろって話だな」
「……難しい話だね。わかんないや、私、馬鹿だから。でも今が楽しければいいかなって思う」
「まあ、その通りかもな。今が楽しめなければ生きている意味なんてないさ」
いまいち意図の掴めない話だった。シュウジはいつもこんなことを考えているのだろうか。
♢♢♢
旅館に着くと昨日と同様豪華な夕飯を用意して女将さんが出迎えてくれた。今晩は海鮮だった。美味しかったけど、なんだかそれどころじゃない感じというか、頭がぼーっとしていて料理を楽しむ余裕がなかったというか。
食後にトウカちゃんが温泉に誘ってくれたが、丁重に断った。気分じゃない。部屋についているシャワーで済ませることにした。トウカちゃんは体調が悪いのかと私のことを気遣った。
「ううん、大丈夫だよ」と私が笑顔を作るとトウカちゃんは心配そうにした。
「あんまり無理したらあかんで? カナデちゃんと二人で行ってくるけど部屋でちゃんと休んどきや? 明日は帰るだけやけど行きと同様長旅になりそうやしなあ」
「うん、ありがと」
いつも思う。こういう時、私はちゃんと笑えているのだろうか。とてもぎこちないように自分でも感じるのだ。頬の筋肉が引きつっているだけのように思える。まったく上手く笑えるようになりたいよね。
服を脱ぎ捨て、かいた汗を熱いシャワーで流す。そうすると不思議だけどいろんなことが体から徐々に抜けていくのだ。考え事とか不安とか空虚さとか諸行無常とか。平家の人たちも熱いシャワーを浴びて無
常感を洗い流していたのだろうか。だったらちょっと面白いなって思う。
風呂場から出るとコンコンとドアをノックする音が聞こえた。咄嗟に言ってしまう「どうぞー」
「おい、ナツキ、体調悪いって――待て。すっぽんぽん……」ドアを開けた先には驚きの表情を浮かべた浴衣姿のハルキがいた。
アイアムバスタオル一枚ナウ。「そりゃあシャワー浴びてたからに決まっとろうでしょうが」
「どうぞーって言っとろうでしょうが!? 恥じらいって知ってるか!?」
「いいじゃん、減るもんじゃなしに……」
「それは見せる側が言う台詞じゃないと思うんですけどね。ってかトウカさんに体調悪いって聞いたから来たのに全然元気そうじゃないか……」
「心配してくれたんだ」にやりと思わず笑ってしまう。
「ちょっとだけな。まったく……。とりあえず元気なら服着ろ。羽織れるもんあるなら上にも着とけ」
「え、浴衣一枚でいいじゃん。どっか行くの?」
「ああ、ちょっと行きたいとこあるんだ。外に出るから流石に湯冷めしたらマズいし」
外? 一体何の用事だろうか。ハルキの顔をじっと見る。
「……なんだよじっと見て」
「……逢引き?」
「ちゃうわ!」
♢♢♢
ハルキに連れられるがまま私達は旅館の外に出た。
「どこ行くのってば」
「いいから、黙って付いてこい」ぐっと手を握られて引かれる。
んん、いつになく強引だ。
ハルキの手、おっきくなったなあ。
「手繋ぐのなんて、あの時以来だね」
「あの時?」
「ちっちゃい頃のお祭り」
「……うん、そうだな」
少しの間、二人とも無言で歩く。
足取りは昼間通った林の中へと向かっていた。
まさか本当に逢引きでござるか……? 冗談で言ったんだけどなあ。
緩い坂道をひたすら歩き、昼間の場所までもう少しという所で脇道に逸れる。
「ハルキ、本当にどこに向かってるの?」繋いだ手をきゅっと握り直す。
「もうすぐだ。……ほら、着いた」
「着いたって、何……あっ――」
林を抜けた先は開けた場所になっていた。
そこには見上げる必要もないぐらいの、満天の星空が広がっていた。
「帰り際にトウカさんに聞いたんだよ。ここはほとんど山だから空気が澄んでいて星が綺麗だって。特に綺麗に見えるのがここなんだって」
あまりの光景に私は声を失っていた。
こんなの、テレビでも雑誌でも見たことない。
本物の星空だ。
「すごい」私は思わず漏らしたその言葉を自分で馬鹿みたいだと思った。でもすごいとしか形容できないのだ。
「うん、すごい」ハルキも少し笑って言った。
「ずるいぐらい、すごい」
「うん、ずるいぐらいすごい」
「ハルキ、ずるい」
「かもな。最近元気なかったから、なんとかしたくてさ」
「誰のせいだと思ってるのよ」
「ごめん」
「いいよ。許す」
私は気づいてしまった。大事なことに。
好きなんだ、私。ハルキのことが。
弟としてじゃない。
今まで誤魔化していたんだ。なんとか誤魔化せていたんだ。
でも……こんなのずるいよ。
頬に温かい一筋の涙が伝った。
「な、なんで泣くんだよ!」
「なんでもないよ……ううん、なんでもある」
「よくわかんないな……でも、元気になってくれてよかっ――」
その言葉を遮って、私は何も言わずハルキを抱きしめた。
「ありがと」
「……ん」
抱き寄せたハルキの耳は真っ赤になっていた。
そのまま何秒か経ってから離した。名残惜しいのでもう一度抱き締め、赤く染めた耳元で囁くように私は言う。
「先に戻ってて。私は後から行くから」
「……一緒に戻らないのか?」不安そうな顔でハルキが聞く。
「大丈夫。一人でも大丈夫だから」
「わかった」そう言ったハルキの体を私はそっと離す。
「気をつけろよ。足元暗いし」
「……うん」
旅館の方へと歩いて行ったハルキの背中が完全に見えなくなるのを目で追って確認してから、私は星空の方に向き直り、泣いた。
山奥の静かな夜に、子供のような私の泣き声だけが響き渡っていた。
ひとしきり泣いた後、心から笑った。
無常。常にあるものなんて無い。
なんでこんなことに気づけなかったんだろう。
なんでこんな簡単なことが分からなかったんだろう。
ありがとう、ハルキ。大好きだよ。
ハルキの足跡は無かったけど、彼が歩いた所と同じ軌跡を歩いた。一歩一歩、辿るように。
この時の私は、幸せな気持ちでいっぱいだった。
しかしそれは、この後に起こることを知らないからこその幸せなひと時だった。




