終
「お姉ちゃん、ほら、お兄ちゃんが来てくれたよ」
隆人は絵に話しかけている。当然ながら壁の絵は動きもしなければ微笑みもせず、ただ隆人の話を無言で聞いているだけだ。
「お姉ちゃんと結婚するんでしょ? 取られるのは寂しいけど、我慢するね」
濁りの無い純粋な瞳をこちらに向けてくる。家族全員が姉を失った悲しみから正気を失っているのか、隆人を安心させる為だけに演技をしているのか判断がつかなかった。だが、こんな事をしても一度死んだ人間は戻らない。これは単なる現実逃避だ。
「隆人君。俺は君のお姉さんとは結婚しない。それに君のお姉さんはもう‥‥」
死んでいるんだ。
そう口にしようとした瞬間に小さな声が耳に届き、部屋の中の空気が変わった。全身を侵食していくように、ぷつぷつと鳥肌が立つ。俺の聞き間違いでなければ、女性の声でこう聞こえた。
「うそつき」
あまりの恐ろしさに思考が停止する。不気味な部屋を静寂が支配した。俺は壁の絵から目が離せなくなり、絵の女と見つめ合うように呆然と立ち尽くしていた。女の顔が、段々と憤怒の表情に染まっていく錯覚に陥る。いや、錯覚ではない。確かに表情が変化している。確かに動いている。あと数秒で這い出てくるのではないか、こちらに手を伸ばしてくるのではないか。
ここに居続けてはいけない、とようやく正常な思考を取り戻したその時だった。
「うそつき! うそつき! うそつき! うそつき! うそつき! うそつき! うそつき! うそつき! うそつき! うそつき! うそつき! うそつき! うそつき! うそつき! うそつき! うそつき! うそつき!」
隆人だった。白目を剥き、俺を見つめながら、壊れた人形のように大声でこう繰り返した。その瞬間、線香の匂いが急激に強くなった。目が痛くなるほどの強い匂いで、鎖が解けたかのように身体の自由が戻る。声にならない声をあげながら、一目散に駆け出した。
部屋の外で立っていた塚原を突き飛ばし、玄関で自分の靴を拾い裸足のまま駆け出した。そこからどうやって帰宅したのかは全く覚えてない。電信柱の影から、あの女が出てくるのではないかという恐怖に震えながら、無我夢中で家路についたのだろう。
自分の部屋の中で一息ついてからも、身体に纏わりつく線香の匂いは消えなかった。脳が麻痺しているのか、本当に匂いがするのかわからない状態だ。一人でいるのが怖くなり、その日のうちに沙也加の家に転がり込み、全てを話した。沙也加はしばらく一緒に住もうと持ちかけてくれた。そして塚原と縁を切るようにと念を押されたが、結果的に言えばその必要は無かった。
塚原は大学を辞め、俺の前から忽然と姿を消した。
呆気なく、全てが終わったのだ。
悪夢の様な体験をした数日後、荷物を纏めるために自宅に戻ることにした。同棲はともかく、次の部屋が見つかるまでは沙也加の家にお世話になるつもりだった。何かが居そうな気がして、恐る恐る扉を開けたが、そこにはいつも通りの俺の部屋が広がっていて、夏の蒸し暑さが充満しているだけだった。
片付けは順調に進んだが、忌々しい絵の存在が常に頭の中を支配していた。この部屋に置いていこうかと悩んだが、結局ゴミと一緒に纏めてしまった。ゴミ袋に入れてしまえばこちらのもので、そこから恐怖心が芽生える事はなかった。
急な退去だと言うのに大家は快く引き受けてくれたので、挨拶も無しに去るのはどうかと思い、茶菓子を持って伺う事にした。大家はふくふくとした表情を浮かべ、気にしなくていいのにと微笑んでくれた。
「それにしても、結婚するんだってね。おめでとうね」
「いや、結婚じゃなくて同棲ですよ」
退去するという連絡を入れた際、恋人と一緒に住むとしか言わなかった気がする。結婚はまだ考えてなかったので、思わず否定してしまう。
「え、嘘を言っちゃいけないよ。彼女さんがウチに来て、あんたと結婚しますって挨拶しにきたんだから。美人で良い嫁さんじゃないか」
大家はからからと嗤う。
「挨拶に、来た……?」
衝撃のあまり、呼吸が止まりそうだった。
俺の知る限り、沙也加は絶対にそんなことをしない。
「あんまり年寄りをからかうもんじゃないよ。ほら、彼女さんが来てるよ。行ってきな」
大家の信じられない言葉が耳に届いた瞬間に、線香の匂いが漂ってきた。
冷や汗が、止まらない。
「うそつき」
線香の匂いが急激に強くなる。
振り返るより早く、俺の左手に冷たい腕が絡みつく。
どこからか、不規則な拍手の音が聞こえてきた。