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背後から、俺の肩にそっと手が置かれる。塚原の手だった。咄嗟のことに驚いてしまい、小さく声を上げる。塚原は俺の様子など気にもとめず、笑顔で囁く。
「姉ちゃんさ、人見知りだったから今まで相手がいなかったんだけど、お前と気が合うみたいで良かった。大事にしてやれよ」
まるで、俺が塚原のお姉さんと結婚するかのような言い草だった。あの奇妙な絵を思い出し、瞬時に冷や汗が吹き出す。背中を伝う汗の感覚が不快だった。
「お前、何言ってるんだよ‥‥」
塚原は俺と沙也加が付き合っている事を知っている。数日前も学食で一緒に昼飯を食べたので、別れたと感違いしているはずもない。これが質が悪い冗談ならどれほど良かっただろうか。塚原の目は本気だった。
「姉ちゃんは奥にいるよ」
反射的に奥の部屋を見てしまう。扉は開いていないが、隙間からは明かりが薄く漏れている。
「そう、娘は奥にいるわよ」
「そうだ、娘は奥にいる」
「姉ちゃんは奥の部屋だよ」
「奥にいるから早く」
「待ってるぞ」
「早く」
どう考えても三人の様子は普通じゃない。挙動が妙に不自然で、子供の頃に遊園地で見たカクカクと動く鉄の人形に似ていた。俺が固まっていると、不意に左手に小さな手が絡みつく。
「お兄ちゃん、一緒に行こう」
隆人は俺の手を掴んだまま歩き出す。反抗することができず、導かれるがままに奥の部屋へと一歩一歩進んでいく。脳は危険信号を発し、精神も拒んでいるのだが、何故か肉体が思うように動かない。心と身体が別離してしまったようだ。
見たくない。
奥の部屋はダメだ。
行きたくない。
だが。いくらそう叫ぼうとしても、声が出ない。乾いた感覚が喉を掻き回すだけだった。
部屋に近寄るにつれ、鼻腔が刺激される。線香だ。大量の線香の香りが鼻に届く。むせ返りそうなほど強い香りは本能的に死のイメージと結び付き、三途の川をゆったりと渡っている気分に陥った。あの部屋が現世の空間だとはとても思えなかった。
一歩、一歩、少しづつ、距離が縮まる。
そして、扉の前に到着した。隆人の手が扉のノブを回し、俺と手を繋いだままするりと部屋に入っていく。俺の腕が伸び、それに従うように足が自然と動き出す。ああ、嫌だ。入りたくない。嫌だ、助けてくれ。背後からは再度、ぱちぱちぱちと不規則なリズムの拍手の音が響いていた。
線香の香りが充満する部屋の中は、辺り一面が真っ白に塗りつぶされていた。そして、その白の中に塚原に似た和風姿の女がこちらを向いて立っている。生気が全く感じられない表情で、微動だにしない。顔立ちは整っていたが、美しさよりも不気味さのほうが勝っていた。だが、何かがおかしい。
あれは、人間ではない。
徐々に違和感を覚え、やがてその正体を把握した。
目の前の女は、真っ白な壁に精巧に描かれた絵だった。