紫式部と清少納言
「何、先客?」
摩姫羅が驚いた声を上げる。怪畏の集まる場所に来ると、誰かが先に戦っていた。
「式だ、結構やるな」
犬の姿のまま、蒐羅がニヤリと笑った。
「あいつ、この前の奴だな」
薄笑みを浮かべた摩姫羅が腕組みをした。反目は果敢に闘ってはいたが、次第に怪畏の数に押され始める。振り上げた錫杖の先が怪畏の体を引き裂くが、その影が消えないうちに次の怪畏が押し寄せる。
「お嬢様、一度後退させた方が宜しいのでは?」
「そうですね。反目、一度引いて下さい」
生天目の具申に綾子はすぐに指示を出したが、引きたくても反目は防戦で精いっぱいだった。
「どうする、加勢するかい?」
蒐羅が聞いた瞬間、摩姫羅が飛び出す。電光石火、瞬間に反目の傍に行くと右肩の隼鷹を一閃、疾風が怪畏を吹き飛ばす。
「あなた、は?」
肩で息をしながら反目が聞く。
「後はそこで見てな」
肩越しに振り返り、摩姫羅がニコリと笑った。その向こう側でも蒐羅が狼に変化して怪畏を食い千切っていた。
「お嬢様、あれは?」
「あの人は……」
摩姫羅の姿が、太一と仲良く話していた姿とリンクする。混乱という文字に思考を占領された綾子は、ただ摩姫羅の姿を目で追い続けた。
ほんの数分で怪畏の姿は無くなった、茫然とする綾子をよそに反目が摩姫羅の傍に近寄り、片膝を付いて頭を下げた。
「神将様とお見受け致します。ご加勢、有り難く存じます」
「いいって、そんなこと」
照れた様に頭を掻いた摩姫羅が、少し顔を赤らめた。
「何? 摩姫羅、照れてんの?」
横で蒐羅がちゃかす。
「うるさい」
睨んだ摩姫羅に、蒐羅は横を向いて舌を出した。
「私は反目と申します。綾子様に使えし式です」
「アタシは摩姫羅」
「オイラは蒐羅だよ」
自己紹介する反目に摩姫羅と蒐羅が答え、近付いて来た綾子が深々と頭を下げた。
「助けて頂き、お礼申し上げます。蘆屋道綾子と申します。これに控えしは私の護衛、生天目です」
すぐ後方に控える生天目を紹介すると、生天目は無言で頭を下げる。しかし、その後は言葉が続かない綾子は、不安そうな目で摩姫羅を見詰めた。その視線は、女でしか分からない意味を含み、蒐羅は不思議そうに首を傾げる。
「まぁ、立ち話もなんだし、家に来る? すぐ傍だし」
息苦しさを感じる雰囲気に、堪りかねた摩姫羅が提案した。
「でも……」
綾子は生天目を見たが、首を小さく振って遺憾の意思を示した。その横では犬に戻った蒐羅を反目が撫ぜる、その様子に摩姫羅は溜息混じりに続けた。
「アタシ達の姫様にも会って欲しいし、太一も喜ぶって思うんだけど」
「行きます!」
太一と言う言葉が綾子を押す、考える間もなく言葉が飛び出す。自分でも分からない、行くと行った事に、後悔にも似た感情が絡まっていた。
「まぁ、そうなら」
なんとなく勢いに押された摩姫羅は、目を見開いた。
「お嬢様!」
止めようとした生天目を置いて綾子は歩き出していた。反目も蒐羅と並んで、後を付いて行く。大きく息を吐き、生天目も後を追った。
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「綾子ちゃん……」
一番驚いたのは太一だった。ドアを開け入ってきた綾子を見た瞬間は、本当に死ぬかと思うほど心臓が収縮した。
「今晩は」
初めての太一の部屋、来る途中から締め付けられた綾子の胸は、太一の顔を見た瞬間に押し潰されそうになる。玄関で固まる二人に、ニコやかな式部が割って入った。
「ようこそお出で下さいました、式部と申します。これは烈亀神、臥召羅」
テーブルの上で臥召羅がお辞儀をした。
「初めまして、蘆屋道綾子と申します。これは私の式、反目です」
綾子の横で、反目がペコリと頭を下げた。
「へぇ、はーちゃんか、可愛いね」
なんとか落ち着いた太一が、反目に微笑んだ。
「……はーちゃん?」
聞こえないぐらいに呟いた反目は、少し俯いて頬を染めた。
和室に移ると、臥召羅が甲羅に乗せてお茶を運んでくる。そんな様子にも綾子は驚きもせずにいたが、正面に座る太一の顔が見れないでいた。普通の人である太一に、反目が見えることの疑問さえ綾子は感じていなかった。
「我らは訳あって、今は太一殿と一緒に住んでおります。怪畏は初め、臥召羅の張った結界に集まると思っていたのですが、どうやら違ったようです。諾子と呼ばれる怪畏の仕業だと分かりました」
式部は座り直すと、凛とした声で説明した。
「藤原香子様ですね、怪畏の頭目は清原諾子様、と言うことですか?」
背筋を伸ばした綾子は、式部を藤原香子と呼んだ。
「藤原? 清原?」
太一の頭の上に? のマークが沢山浮かぶ。
「紫式部様、清少納言様は女房名です」
恥ずかしそうに太一に説明した綾子は、頬を染めた。
「今度は清少納言……女房名って?」
「筆名みたいなもんさ」
「まぁ、似たようなもんだけどね」
大きく溜息を付いた太一に摩姫羅が説明し、蒐羅が突っ込む。無知な太一でも聞いたことはあった、紫式部と清少納言の確執。
時間と比例して、綾子は次第に心の落ち着きを取り戻す。どうして太一の顔を見れただけで、胸のモヤモヤは吹き飛んだのかは綾子には分からなかったが、気分のよさは口を滑らかにする。摩姫羅や蒐羅の強さは、絶望的戦いに一筋の光明となり綾子の背中を押した。
「私達、東の阿閦衆は西の阿弥陀衆、南の宝生衆、北の不空成就衆と共に怪畏を滅してきました。昨今の怪畏の増加と比例し、各衆は減る一方です……既に式を操る者は各衆にも数えるほどです。東の地は一番の人口密集地帯、無論、怪畏の数も群を抜いています。阿閦で残る式は反目のみです。明治の世よりの激しい戦いは四真目のうち、双目、三目、全目を失いました。それは操る式廻しをも失うことと同義でした」
私が阿閦衆、現世代最後の式廻しです。今の未曾有の危機は私達だけではどうする事もできません。どうか、お力添えをお願い致します」
「あい、お引き受け致します。元より諾子殿との関わり、ワラワにも責任の一端ががあります」
式部は笑顔で即答した。綾子に会えた喜びに浸っていた太一だったが、その秘密を知ると綾子が式部達と同じ側で、自分だけが反対側にいる様に感じた。それは寂しさと悔しさが混ざり、握りしめた拳が少し震えた。
アパートの前では車に寄り掛かり、生天目がタバコを吸っていた。初めて見た神将と呼ばれる者の圧倒的戦いは、恐怖に近い感覚で生天目を包んでいた。それは迫り来る、もっと凄惨で激しい戦いの序曲の様な予感が混ざっていたからかもしれない。