日常の中の異常
バイト先は仕出し弁当屋で、朝から太一のテンションは高かった。
「何かいいこと、あったんですか?」
声を掛けて来たのは、蘆屋道綾子だった。清楚な感じの女子高生で、太一にとってバイト先での楽しみの一つだった。右肩で結んだ美しい茶色の髪と、深い二重の大きな瞳、輪郭のはっきりした小さな口元、消えそうに小さいが心を浄化する可愛い声。
全てが特別に思える綾子は、バイト先のアイドル的存在で憧れる男たちが群がっていた。
しかし、綾子は自分の事は話さず、その素性は謎に満ちていた。
「田舎からばあちゃんが出てきてさ、昨日から泊ってるんだ」
「そうなんですか」
自分で言った言葉に、太一は舞い上がりそうだった。しかも、綾子は優しい笑顔を向けてくれる……本当に何かに捕まっていないと、身体が浮きそうな感覚だった。
「一人暮らしのボロアパートだろ、参っちゃうよ。おまけに飼ってる犬とか亀とか鳥まで連れてくるんだよ、まったく」
「でも、嬉しそうですね」
「そうかな、帰りに惣菜買って帰んなきゃ。今日、どんなのがある?」
「肉じゃがと、キンピラ、ソーセージセットがあります」
「大盛りでお願いね、犬の奴が大食いなんだ」
蒐羅の食欲を思い出し、苦笑いする太一。
「わかりました、帰りに声掛けて下さい」
右肩で結んだ髪を揺らす綾子の背中見送る太一は、初めてこんなに話せた事に気付いて遅ればせながら胸の鼓動が高まった。
綾子は自分でも不思議な気持ちに包まれていた、嬉しそうな太一に吸い込まれるみたいに声を掛けてしまった。初めて話したのに、まるで前からずっと知っていたみたいな感覚は胸の中でモヤとなり、曖昧なまま存在し続けた。
「抜け駆けか?」
「何を話してたんだよ?」
バイト仲間達が、綾子と親しく話す太一を見ていて詰め寄った。
「田舎からさぁ、ばあちゃんが出て来たんだ」
嬉しそうな太一の顔に、周囲は溜息に包まれた。
________________________
夕暮れのいつもの道が、何故か輝いて見えた。つい昨日までの感覚は、疲れだけを残す意味の無い移動でしかなかった。両手に惣菜を抱え、どんな顔で皆が食べるのかを想像しただけで、気分は最高だった。
信号待ちで、交差点の向こう側に綾子を見付けた。総菜屋のエプロンではなく、制服の姿の綾子は、街の中でも輝いて見えた。
ふいに綾子の前に黒塗りの高級車が止まり、スーツの男が降りてくる。サングラスに顔は隠れているが、撫で上げた髪が三十前後の男を良い意味で周囲から浮かせていた。
綾子は伏せ目がちに車に乗り込むと、男が後から続く。一瞬の出来事に、太一の頭の中は妄想と演算が繰り返された。確かにショックはあったが、手の届かない高嶺の花だと初めから分かっていたし、諦めが今までの太一の専売特許だったから、大きく息を吐いて歩き出す。
気落ちや絶望に包まれても、家に帰れば待ってる人がいる……たったそれだけのことで救われるんだなと、太一は初めて気付いた気がした。
「何だこれ、旨いぞぉ」
思い切りソーセージに食らいつく蒐羅は、満面の笑み? を浮かべている。
「美味だ」
自分と同じくらいのソーセージを丸呑みした臥召羅は、次々に食らい付く。
「なんか、お酒が欲しくなるね」
摩姫羅が流し眼で太一を見た。
「ビールしかないよ」
「それは酒かっ?」
摩姫羅の目がランランと輝いた。
「摩姫羅は、酒癖悪いからなぁ」
呆れ顔の蒐羅が、ソーセージを頬張りながら呟く。
「びーゆっ! さいこうっ! 冷たくておいしいっ!」
あっという間に飲み干した摩姫羅が叫んだ。顔どころか全身が真っ赤になり、ほんのり赤くなった胸元は豊艶な色香を漂わせ、太一は思わず目を逸らした。
だが、横目でそんな様子を見た摩姫羅は嬉しそうに太一密着する。柔らかな感触が太一の腕や背中に張り付き、心拍が急上昇した。
「お、お茶みたいに飲むなよ」
完全に摩姫羅のペースに陥った太一が赤面しながら呟くと、摩姫羅はみるみる小さくなり五歳位の少女になった。摩姫羅の面影を残してはいるが、人形の様に可愛い少女は声までも愛らしかった。
「あわあわ感が、いいよねぇ~」
「何だ?! どうしたっ!」
「こいつは酒を飲むと、幼児化するんだ。まぁ、それが唯一の弱点だね」
食べながら蒐羅が他人事みたいに言う。
「弱点って?」
「戦いの最中でも、酒を見ると飲んじゃうんだ。子供になった摩姫羅なんか、低級の怪畏にでも簡単にやられるからな」
「飲まなきゃいいだけの話だろ?」
「だから、弱点。摩姫羅が我慢出来ると思う?」
反対に蒐羅が聞く、子供の姿のまま満面の笑顔でビールを飲む摩姫羅の姿に、太一は大きく溜息を付いた。
「無理みたいだね……」
「だろ」
でもそんな摩姫羅がなんとなく可笑しくて、式部の方に目線を移す。穏やかな頬笑みは、太一の心を優しく包み込み、大勢の食事の楽しさを倍増させた。
_____________________
「男同士で風呂に入ろう」
太一は蒐羅と臥召羅を誘った。
「アタシも!」
大喜びで服を脱ぐ摩姫羅を、慌てた太一が取り押さえる。
「お前! 女だろ! 後からばあちゃんと入れ!」
「やだやだ! あたしも!」
暴れる摩姫羅だったが、式部にたしなめられてやっと引き下がった。
「臥召羅、湯加減どう?」
「丁度良いです」
洗面器の中で、臥召羅が嬉しそうに目を細める。
「こら、修羅、布団の中に入るなら綺麗にしないと」
嫌がる蒐羅を泡だらけにして、太一が笑う。
「何だ、この泡! どんどん湧いてくる」
「シャンプーだよ、言い匂いだろ」
「うん、好きな匂いだ」
最後は三人で湯船に浸かり、誰かと一緒に風呂に入るのがこんなに楽しいものかと太一はずっと笑顔のままでいた。
風呂から上がると、皆で一緒にテレビを見る。摩姫羅や蒐羅から次々に質問が飛ぶが、太一は一つづつ丁寧に答えた。地面が水を吸う様に、式部達は新しい知識を吸収した。
「本当に分かってるの?」
あっけないくらいに簡単に納得する事に笑顔の太一が聞くと、式部も笑顔で頷く。
「あい、分かります」
「前の世よりは、かなり進んでるけどね。根本的には変わらないよ、要するに道具の数が増えただけだろ」
寝転んだ摩姫羅が欠伸を交えて言った、酔いが醒めたのか元の姿に戻っていた。
「何だって? 前にも来たの」
唖然とする太一に、式部が笑顔で答えた。
「あい、何度か参りました。武家の世はそれ程は変わりません、大きく変わったのは明治の世からです。今世の全てを動かすエレキテル、恐ろしささえ感じます」
「怪畏が多いのも頷けるね」
「光が多い程、混沌も大きく深くなる」
座ったまま後ろ足で耳を掻く蒐羅に、臥召羅が落ち着いた声を被せる。そして、”何度か来た”と言う式部の言葉に太一は愕然とした。
現代を象徴し形成する源は電気であり、式部の見識は太一の想像を遥かに上回る程に的確だった。そして、続け様に蒐羅や臥召羅の言葉が脳裏に木霊した。
確かに太古の昔から戦争や犯罪は存在した。事故や天変地異も有り続けた。しかし、その全ては繁栄に比例して破壊力と凶悪さを増大し続けている。
「分かってる太一? 今の世の危うさを」
摩姫羅は怪しい笑みを向ける、悪寒に包まれた太一が俯いた。
「これ、摩姫羅」
「だって、姫様」
式部は穏やかに摩姫羅を制し、太一に優しい頬笑みを向けた。
「太一殿、我らが付いております」
「うん」
体の内側から、温かいモノに包まれた太一は自然と笑顔になった。