変身
多分、真夜中だろう……太一は怪しい音に眠りから引き戻された。その音は粘度の高い液体が、床に落ちる様な音。それは文字にするなら、ピチャピチャという背筋を凍らせる音だった。
薄目を開け、そっと部屋の中を見る。街灯の微かな光が、カーテン越しに薄暗いシーンを演出する。眼球だけで、部屋を見回すが視野には何も入らない。ただ、何かの気配だけが太一を背中から冷やした。
「どうしたの?」
摩姫羅の声が神様の声に聞こえた。太一は声の向こうに確かに摩姫羅を感じたが、姿は見えなかった。
「何か、いる」
「あれね、あれは怪畏だよ」
少し眠そうな摩姫羅の声は普通だった。
「何だそれ?」
太一の声は思い切り裏返る。
「民は”鬼 ”と呼んでるみたい」
「鬼ですと!」
瞬時に角と牙の形相が太一に激しくぶつかった。
「別に驚くことなんてないよ、あいつ等どこにでもいるから」
欠伸と一緒に、摩姫羅の声だけが響く。
「けど、けど……」
恐怖に太一の言葉は掠れた。
「臥召羅が結界張ったんで、覗きにきたのかなぁ」
太一位置の気も知らず、全く平穏な摩姫羅の声は欠伸と混ざる。
「そんな……」
「大丈夫だよ」
安心させる言葉と同時に、太一の背中に何か大きな暖かいモノが触れた。本当に驚いた時は声なんて出ない、ただ反射的に飛び起きた。
瞬間、視界に寝乱れた派手な着物の女が飛び込む。背中までの漆黒の髪、目を逸らしたく成る程の切れ長な美しい深紅の瞳、蕾の様な赤い唇。そして肌蹴た胸元からは、純白の胸の谷間が太一を惑わせた。
「誰っ?!……です、かっ?」
太一の喉は恐怖さえ置きっ放しにし、カラカラに乾いて思い切り声が裏返る。
「何? 何で変な顔してんのよ。アタシだよ、摩姫羅」
「摩姫羅ですと? 何で俺のベッドに居る。鳥じゃなかったのかっ?」
思わず太一は大声を出す。
「どうしたの?」
蒐羅の声がしたと同時に、部屋の入り口には巨大な白い狼がいた。その目と牙は獰猛に光を放ち、額には梵字の様な印が付いてい背中には七本の触手、蒐羅だと認識出来たのは両耳が黒かったから。
「まさか臥召羅は……」
太一の脳裏に大怪獣が炎を吐き、ビルを破壊する映画の画面が大写しになる。勿論、サラウンドの音響付きで。
「大丈夫だよ、臥召羅は落ち着いてるから。ここで変化したら大変だからね」
寝乱れたまま摩姫羅がポリポリと頭を掻く、太一の想像を見ていたみたいに肯定して。
「安心しろよ、外の怪畏は狩って来た。隠したつもりはないけど、これがオイラ達の本当の姿なんだ」
背中の触手を揺らしながら蒐羅は低い声を太一に向け、さっきの不気味な音が錯覚ではなかったことを証明する。
「太一殿、本当に申し訳ありません」
気付くと式部は部屋の入り口で深々と頭を下げていた。
「すまない、我の結界が怪畏を呼んだ」
式部の横には臥召羅が、また後ろ脚だけで立ち頭を垂れた。その姿は小さな亀のままで、太一は少し溜息を付いた。
しかし混乱した思考は太一の頭の中で渦を巻き、言葉を失わせた。
「やはり、太一殿にご迷惑です……皆の者」
式部は悲しそうな顔で摩姫羅達に目配せした、その小さな手にはあの鏡があった。
「御意」
臥召羅は直ぐに頷き、蒐羅は黙ってそっと目を閉じた。
「太一、ごめんね」
摩姫羅も立ち尽くす太一の耳元で囁く。震えが止まらなかった、それは受け止めきれない驚きと恐怖、しかし奥底には別の意味も存在していた。
ついさっき寝る前に感じていた、ワクワクする喜びににも似た感覚。それを思い出みたいに感じる事が、堪らなく嫌だった。
「待って、よ……」
頭で考える前に、太一の口からは言葉が漏れた。ゆっくりと式部が視線を太一に返す。
「……ばあちゃん、行くなよ」
「しかし、太一殿」
呟く太一に、俯き加減の式部の小さな声が重なる。
「行くなって」
太一は跪き、式部の胸に顔を埋めた。着物の優しい匂いは、甘いお香の香りだった。懐かしい感覚と同時に、溢れだす安心感が太一を包み込んだ。
「それではお言葉に甘えて、もう少し居させてもらいます」
式部に撫ぜられた太一は、知らなかった肉親の温もりを確かに感じた。
__________________________
朝起きると、泣いていたのか太一は目元に違和感を感じた。全てが夢だったという感覚が背中に悪寒を走らせたが、隣に眠る呀壬羅に大きな溜息を付く。それは安心と同義だった。
大きく背伸びした太一は起き上がると朝食の準備に取り掛かった。
「太一殿、これは?」
トーストを目前に、式部が首を傾げる。
「パンだよ、美味しいよ」
「ぱん?」
「姫様、旨いよ。この卵や肉もいける」
ベーコンエッグを頬張り、摩姫羅が嬉しそうに笑った。当然、人の姿のままで。
「確かに美味だね、太一、この肉は何の肉だい?」
テーブルの下で蒐羅が尻尾を振った。
「豚だよ、ベーコン。亀って、何でも食べるの?」
微笑む太一は、テーブルの上で必死にベーコンに噛り付く臥召羅に問い掛けた。
「ご心配無用、石や木でも食します」
顔を上げ、目をカモメみたいにした臥召羅の顔は油でベトベトだった。
「美味しいですよ、太一殿」
式部もトーストを食べ、笑顔を向けた。
「よかった」
何年ぶりだろう、こんなに食事が楽しいなんてと太一は笑顔に包まれた。
「昼食、ここに置いとくからね」
テーブルの上に、昼食の準備をして太一は式部に微笑んだ。
「太一殿、お出かけですか?」
「うん、バイト。夕方には帰ってくるから」
「そうですか」
「この時代、まだよく分からないだろ? テレビで色々見れば少しは分かるよ」
既に摩姫羅達三人? は並んでテレビに釘付けになっていた。
「姫様、面白いよ。この時代の民達の様子がよく分かる」
目を輝かせた摩姫羅が、満面の笑顔で振り向く。
「それじゃ、行ってくるよ」
「お気を付けて」
式部はキチンと玄関まで見送り、太一はまた新しい気分になった。見送られることの嬉しさに、舞い上がってしまった。