影子さん、戦う!
体育館から、部活動中の生徒たちの声や、ボールの弾む音が響いてくる。バスケ部の香澄も、まだこの中で練習に励んでいる頃だ。
約束の金曜日。例のごとく同行を主張する太一は彰吾に強制連行され、仁は体育館の裏口に設えられた階段に独り腰かけ、香澄を待っていた。彼の手には、水色の封筒が一通握られている。中には、香澄にもらった手紙への返事が、彼の込められるだけの誠意を込めて書き綴ってあった。この五日間、香澄は何を思ってこれを待っていたのだろう。影子さんに告白をして、驚いた彼女に逃げられたとき、仁は時間が永遠に止まってしまったように感じられた。あれと同じ気持ちを香澄も抱いていたのだとしたら、熟思なとせず、その場で断ってしまえば良かったのかも知れない。ただ、そうなれば香澄の気持ちが込められた手紙を読むことは出来なかったし、その返事を書くことも出来なかった。それは、良いと言えるのか。
いつの間にか体育館は静かになり、辺りは薄暗くなっていた。あれこれ考えている間に、ずいぶんと時間が過ぎていたようだ。しばらくすると、香澄がやって来て、仁は立ち上がり彼女を迎えた。
「遅くなってごめんなさい。後片付けとか着替えしてたら、こんな時間になっちゃって!」
香澄は、前にここで会った時と負けないくらい、テンパっている様子だった。彼女を落ち着かせるのに五分ほどを要して、ようやく仁は本題を切り出した。
「約束の返事だけと」
「は、はい!」
香澄は神妙に頷く。
「荒尾さん、ごめん」
香澄の表情が曇った。仁は石でも詰まったかのような胸のつかえを覚えながら、手紙を差し出した。
「おれ、好きな人がいるんだ。だから……」
「違う!」
香澄は仁の手から手紙を叩き落とした。そうして、自分のしでかしたことが信じられないとでも言うように、首を振ってよろよろと後ずさる。
「違う。私、そんなつもりじゃ……」
体育館の角に取り付けられた照明が、オレンジ色の光をポッと灯した。日が暮れ辺りが暗くなり、センサーが反応したのだろう。その光りが、香澄の足下に黒い影を生んだ。
「違う」
香澄は首を振った。
「違う、違う、違う、違う。私、カケヒサマにお参りしたんだから、多比良くんの答えは間違ってる。私、カケヒサマの声が聞こえるまで、ちゃんと目を閉じてたし、誰にも見られないようにした。カケヒサマのおまじないは、絶対なの。好きな人がいたって関係ない。告白したら、必ずはいって言って貰える。だから、多比良くんは、はいって言わなきゃいけないの」
香澄はうつむき、熱に浮かされたようにブツブツと呟いた。何か様子がおかしい。仁が「荒尾さん?」と呼び掛けても、彼女は答えない。ひたすら繰り言めいたことを呟き続けている。
「ああ、そっか」
香澄は顔を上げ、笑みを浮かべた。
「うん。それ、いいアイディアだね」
何も無い空中を見つめて、香澄は言った。
「多比良くんのカノジョ、殺せばいいんだ。殺してしまえば、多比良くんは私のカレシになるしかないから、きっと私の告白にもはいって言ってくれるよね。でも、多比良くんの彼女って、誰かな。どこにいるのかな?」
香澄は笑顔を仁に向けた。
「多比良くん、教えてくれるよね?」
「荒尾さん、何を言って……」
「そっか、教えてくれないんだ。困ったなあ」
香澄は仁の言葉を遮り、言った。彼女の奇妙な振る舞いに不安を覚え、仁は泣きたくなった。
「どうしたらいいかな?」
香澄は見えない何かと相談し、ふとため息を落としてから、ひどくがっかりした様子で言った。
「うん、そうだね。そうするしかないか」
仁を見つめる香澄の眼差しは、憐れみに満ちていた。
「多比良くんを殺そう。誰だかわかんない女の子に盗られるくらいなら、その方がずっといい」
仁はぎょっとして、一歩後ずさった。
不意に、ブンブンと唸るような音が辺りに響いた。仁は香澄の足下の影に、赤い光の点が二つ、ぽつぽつ点っていることに気付いた。香澄の影から真っ黒い油滴のようなものが上に向かってこぼれ、それは香澄の顔の前でぶよぶよと原生動物のようにうごめき、大型犬ほどもある漆黒の巨大な蜂に姿を変える。二つの複眼とその間に挟まれた三つの単眼は、影子さんの瞳と同じ真紅の光を放っていた。
「手伝ってくれるの? ありがとう、カケヒサマ」
影子さんの警告の声が頭の中に何度も響くが、仁は凍り付いたように動けなかった。
「じゃあ、殺して」
香澄が仁を指さすと、それを合図に巨大な蜂は、仁に向かって突進した。その時、仁の前に小さな影が飛び込んだ。それは鋭く気合を発し、巨大蜂を横薙ぎに蹴り飛ばした。
「何なの、この化け物?」
和紗は用心深く構えながら、地面にひっくり返りブンブンと唸る巨大蜂に視線を落として言った。
「天草さん」
なぜいるの? と問う前に、彼女は答えていた。
「遅いから様子を見に来たの。それで、こいつは何?」
「仕組みはよくわからないけど、荒尾さんが作ったんだと思う」
仁が答えると、和紗は小さく舌打ちした。巨大蜂が態勢を立て直し、再び仁に襲いかかってきたのだ。和紗は繰り出される攻撃をさばき、蜂を拳で叩き落としてから蹴り飛ばす。
「和紗ちゃん、邪魔しないで。私、多比良くんを殺さなきゃいけないの」
香澄がぼんやりとした表情で言う。
「香澄ちゃん、まともじゃない」
和紗はぎりっと歯を鳴らした。彼女は横目に仁を見て言う。
「香澄ちゃんは僕が止める。あんたは逃げて」
「でも……」
仁はためらった。自分の返事のせいで香澄がおかしくなったのだとしたら、何もせずに逃げ出すべきではない。
「正気に戻った時、自分が好きな人を傷付けたって知ったら、香澄ちゃんはきっと後悔する。そんなこと、させるわけにはいかない。それとも、こう言って欲しい? 足手まといだ、さっさと行け」
仁は頷き、走り出した。背後で数合の打撃の音と、和紗が発する気合いの声が聞こえる。彼は振り返らず、体育館裏から校庭へ飛び出し、校門を目指した。校庭には人の姿は無く、遠くには影絵のような街並み見える。日没は、とっくに過ぎていた。
真っ直ぐに校庭を突っ切り、たどり着いた校門は固く閉ざされていた。なんとか開かないものかと門扉をがちゃがちゃ揺らすが、それは当たり前のように施錠されている。乗り越えるしかないか、と足を掛けた時、唐突に影子さんの警告が頭に響いた。
『伏せて』
仁は伏せると言うより、仰向けに地面へ倒れ込んだ。わずかに遅れて、恐ろしげな羽音を立てる何かが、すさまじい速さで彼の頭上を通り過ぎた。巨大な蜂が、校門の向こう側でゆらゆらとホバリングしながら仁を見下ろしていた。
仁は飛び起き、学校の敷地を囲う塀に沿って走り出した。蜂が追ってきたと言うことは、和紗がしくじったのだろうか。しかし、彼女の無事を案じている暇はなかった。影子さんの指示が矢継ぎ早に飛び、仁は巨大蜂の攻撃をかわすことで精一杯になった。彼は影子さんに導かれるまま全力で走った。恐怖で半ばべそをかきながらたどり着いた先は、学校の敷地の角。間一髪で避けた蜂の攻撃は、ブロック塀の一角を破壊し、そこに大穴を空けた。仁は急いでそこから逃げ出すべきだと考えたが、影子さんは彼に違う指示をくれた。
仁は再び攻撃を仕掛けてきた蜂を転がってかわし、じりじりと塀に空いた大穴へ向かった。巨大蜂は地面を噛むのを止め、仁の動きを追うように身体の向きを変える。
『今』
影子さんの合図で、仁は一気に大穴へ向かう。彼の意図を察した巨大蜂が飛びあがり、獲物目がけて突進する。しかし、仁は穴の手前で足を止め、くるりと振り向いた。通り掛かった車のヘッドライトが、蜂の開けた大穴から仁を照らし、彼の足下に長い影を作った。仁は自分の影に向かって叫んだ。
「影子さん!」
仁の影から飛び出した影子さんが巨大蜂の進路をふさぎ、素早く顔の前に手の平をかざす。鈍い衝突音が響き、巨大蜂は弾き飛ばされ、空中をふらふらと後退した。影子さんは地面を蹴り、巨大蜂に向かって走り出した。巨大蜂は態勢を立て直し、高度を上げ、今度は上空から影子さんに襲い掛かる。影子さんは足を止め手の平をかざす。仁は先ほどと同じ結果を予想するが、そうはならなかった。空中でくるりと身を翻した巨大蜂は影子さんの背後に回りこみ、彼女の背中に痛烈な体当たりを見舞ったのだ。影子さんは顔から地面に突っ込み、そのまま数メートルほど滑って、ようやく止まった。
「このっ!」
仁は崩れたブロックの大きな塊を両手で持って、背中を向ける蜂に投げ付けた。振り向いた巨大蜂はバカにするように、ひょいと身を傾げて彼の攻撃をあっさりかわす。仁はむきになってブロックの破片を何度も投げ付けるが、一発も当てることは出来なかった。仁がブロックを投げ付けるのをやめると、巨大蜂は高度を上げ、ブランコのような弧の軌道を描いて、仁に襲いかかった。しかし、その突進は唐突に止まり、まるで何かに引っ掛かったように、巨大蜂は空中でがくりとバランスを崩した。後肢を掴む白い手があった。蜂が仁の攻撃に気を取られている隙に、こっそり忍び寄った影子さんの手だった。
影子さんは巨大蜂の身体を力任せに振り回し、仕上げとばかりに地面へ叩きつけた。巨大蜂は地面を何度か跳ね、数メートル転がった先で、ぴくりとも動かなくなった。影子さんの手の中には蜂の脚が一本残されたが、それはすぐに煤のような粉になって崩れ去った。
影子さんは巨大蜂に歩み寄った。しかし、彼女が間近に迫ると巨大蜂は擬死をかなぐり捨て、影子さんに襲いかかった。不意を突かれた影子さんは仰向けに倒れ、巨大蜂に組み敷かれた。恐ろしげに開いた大顎が眼前に迫り、影子さんは両手で蜂の頭を掴み、それを懸命に押しのけようとする。
「影子さん、針だ!」
仁は叫ぶと同時に走り出した。巨大蜂が卵形のお尻を持ち上げ、その先端にある毒針を影子さんに突き立てようとしていた。しかし、駆け寄った仁がお尻にむしゃぶりついたせいで、蜂は狙いを外し、毒針はスカートの裾から伸びる影子さんの太腿の間の地面に突き刺さった。影子さんが力任せに蜂の頭をもぎ取ると、蜂の身体はしばらくじたばたともがいてから、次第に静かになって、ぼろぼろと崩れ去った。
「やっつけた?」
仁が聞くと、影子さんはこくりと頷いた。仁は大きなため息をひとつもらした。しかし、安堵も束の間、彼は大事なことを思い出した。
「天草さん!」
仁が体育館裏に駆け戻ると、彼の足下に和紗の小さな身体が転がってきた。「大丈夫?」と聞いて差し出す仁の手を借りて、彼女はよろよろと立ち上がった。和紗はぼろぼろだった。制服はそこかしこが破れ、身体のあちこちに擦り傷が出来ている。
「なんで戻ってきたの。まだ終わってないんだよ?」
和紗は顎をしゃくって香澄の方を示した。香澄の周囲には、最初に現れたものよりも一回り小さな蜂の怪物が四、五匹ほど飛び交っていた。
「増えてる……」
仁は絶句した。
「あんたが行った後、あのでかいヤツを抑えきれなくなって逃がしちゃったから、香澄ちゃんをひっ叩いて止めようとしたんだけど、そうしたらあれが出てきたの。でかいヤツはどうしたの?」
「影子さんがやっつけた」
「影子さん?」
和紗がきょとんとして聞くと、影子さんは体育館の角から二人の前にゆっくりと歩み出た。
「紹介するよ。おれのカノジョの影子さん」
「僕には、あの蜂と同類に見えるんだけど?」
和紗は引きつった笑みを浮かべる。
「同じ仕組みだとは思うけど、影子さんはちょっと違うんだ」
「何が?」
「影子さんの方が一〇〇倍可愛い」
「一〇〇倍かどうかはわからないけど、可愛いのは認めるよ」
和紗はくすりと笑い、影子さんは首を傾げてお辞儀した。
「荒尾さんは?」
仁が見る限り、香澄はぼんやりと宙を見つめるばかりで、周りの様子にはまるで関心がない様子だった。
「蜂が増えてから、声を掛けても反応がないの。たぶん、蜂を操るのに一生懸命なんだと思う」
仁は名案を思い付いた。
「それなら、荒尾さんの気を散らしたら、蜂のオバケも消えるんじゃない?」
「さっき言った事、忘れたの?」和紗はため息をつく。「香澄ちゃんをひっ叩いてやろうと思って近付くと、あの蜂たちが邪魔してくるの。けど、いい作戦を思い付いた」
和紗の作戦とは、彼女が蜂と戦っている間に仁が香澄の気を散らすと言う、シンプルなものだった。仁の提案で、影子さんも蜂への対応に加えることになったが、ひとつ問題があった。
「気を散らすって、おれは何をすればいいの?」
「何でもいいよ。いっそ、キスでもしてみる?」
和紗が言うと、影子さんがぶんぶんと首を振って、その案を却下した。和紗は苦笑しながら、キス以外なら何でもいいと訂正した。
「それじゃあ、始めるよ」
表情を引き締めた和紗が、影子さんと肩を並べて香澄に歩み寄った。たちまち蜂たちが反応し、一斉にカチカチと大顎を打ち鳴らしながら、彼女たち襲いかかる。攻防を繰り広げる少女たちを尻目に、仁はこそこそと香澄に近付いた。
「荒尾さん」
仁は呼びかけるが、香澄はぼんやりと宙を見るばかりで、何の反応も見せなかった。
「もう、こんなこと止めよう。天草さん、親友なんだよね。彼女に怪我をさせてまで、何がしたいって言うの?」
影子さんと和紗に目をやれば、多勢に無勢は明らかで、蜂たちの猛攻に押されている様子だった。もはや余裕はない。どんな手を使ってでも、蜂を操る香澄の集中を乱さなければならない。うまく行くかどうかはわからないが、やるしかなかった。
「荒尾さん、ごめん!」
仁は手を伸ばし、香澄の胸に両手を押し当てた。さらに、ダメ押しとばかりに何度か揉みしだくと、香澄のぼんやりした瞳に光が戻った。彼女は顔を真っ赤に染め、両手で胸を押さえて悲鳴を上げ、ぺたりと地べたに座り込んだ。途端に蜂たちは煤と化し、あっけなく崩れ去った。
「荒尾さん、大丈夫?」
仁が呼びかけると香澄は頷き、ぐっと唇を噛んだ。すぐに和紗が駆け寄り、仁の頭を平手でひっ叩いた。
「何で叩くの?」
仁は涙目で抗議する。
「当たり前よ。香澄ちゃんのおっぱいに触るなんて、何のつもり?」
「キス以外なら、何でもいいって言ったじゃないか」
「黙れ、エロ男子!」
理不尽だとは思ったが、仁は口をつぐむしかなかった。ふと影子さんを見れば、彼女はふくれっ面で腕組みをして、仁を睨んでいる。
「ごめんよ。でも、仕方なかったんだ。話し掛けてもダメだし、だからって女子をひっ叩くわけにもいかないだろ? キミたちも危ないところだったから、とにかく急いで何かするしかなかったんだ」
仁は両手を合わせて懸命に言い訳した。それで影子さんは、渋々と言った様子で彼の言い分を認め、頷いた。仁は、ようやく安堵のため息をついた。
蜂の羽音が聞こえた。わずかに遅れ、香澄が悲鳴を上げる。急いで目をやれば、座り込んで怯えた様子の香澄と、彼女をかばうように抱きしめる和紗。そして、二人が見つめる影の中には、二つの赤い光がぎょろりと浮かんでいた。
「どうして。やっつけたのに?」
仁は影子さんに聞くが、彼女は何も答えてくれなかった。彼らが手をこまぬいている間に、影は巨大な蜂に姿を変えた。
「香澄ちゃん、止めて!」
和紗が叫んだ。しかし、香澄は首を振るばかりだった。それでは、これは彼女の意思ではないと言うのか。
『名前』
影子さんの声が頭に響く。それを聞いて、仁は理解した。影子さんに名前を付けたとき、固まったのは見た目の姿だけではない。名付けとは、彼女の在り方そのものを定める行為だったのだ。在り方が定まらないものは、元の形に戻ろうとする。つまり、それは自分の影だ。
「荒尾さん、こいつの名前は?」
仁は素早く聞いた。
「カケヒ……サマ?」
香澄は真っ青な顔で言った。
「違う。こいつは、キミが考えた怪物なんだ。そんな借り物の名前じゃなくて、キミが考えた名前を付けなきゃいけない」
「そんなこと言われても、無理だよ!」
香澄は叫んだ。それが合図だったかのように、巨大蜂は仁に飛びかかった。影子さんが素早く動き、その攻撃を受け止め、蜂を投げ飛ばした。
「影子さん、やっつけたらダメだ。そのまま抑えてて」
影子さんはこくりと頷き、地面でもがく蜂の側へ歩み寄る。
仁は香澄に目を戻した。
「どうして蜂なの。理由、あるんだよね?」
香澄はいやいやをするように首を振った。
「そんなこと聞いてどうするの。香澄ちゃん、イヤがってるじゃない」
和紗が責めるような目を向けてくる。しかし、仁は止めなかった。これは、どうしても必要なことなのだ。
「荒尾さん、答えて」
仁が促すと、香澄はぽろりと涙を落とし、口を開いた。
「アシナガバチって言われたことがあるの。小学生の頃、好きだった男子に、手とか足がひょろひょろ長いから、アシナガバチみたいだって。すごいショックだった。それで私、自分の身体が嫌いになった。だから、こいつはきっと、私なの。私が大嫌いな、私。自分に名前なんて、付けられるわけないでしょ?」
涙で顔をぐずぐずに濡らし、香澄は微笑んだ。仁は地面に膝を突いて、彼女の手を取った。
「こんなこと言ったら、またエロ男子って怒られそうだけど、おれは荒尾さんのカラダ、好きだよ」
香澄はきょとんとした。和紗は期待に違わず「この、エロ男子!」と罵るが、黙れとは言わなかった。
「ここで告白された時、おれは荒尾さんのことモデルみたいだって思ったんだ。背が高くて、手足もすらりと長くて、腰なんかきゅっと細くてさ。おれ、ちっちゃいから背の高い女子は苦手だったのに、それでも荒尾さんがカノジョになってくれたら素敵だろうなって考えるくらい、荒尾さんを綺麗だと思った」
仁は、少し離れた場所で巨大蜂と力比べを続ける、影子さんをちらりと見やった。多分、彼女は怒ってるだろう。こんなに忙しくなければ、またふくれっ面でじろりと仁を睨んでくるに違いない。
「だから、あれは荒尾さんじゃない。どう見ても今の荒尾さんは蜂には見えないし、あの蜂だって荒尾さんには見えない。あいつが好きでも嫌いでも、名前を付けてはっきり区別してやらなきゃいけないんだ。そうじゃないと、あいつは自分を荒尾さんだと思い込んで、勝手なことをし続けるよ」
香澄は影子さんをじっと見つめ、言った。
「あの子も、カケヒサマ?」
「うん。影子さんって言うんだ。友だちに、カケヒサマのおまじないをしたらどうなるかって、実験台にされたときに出て来た」
「可愛い子だね。それじゃあ、多比良くんのカノジョって?」
仁は頷き、「殺すなんて言わないでよ?」と、冗談めかして言った。半分くらいは本気だった。
「そんなことしないよ」
香澄はくすりと笑い、袖口で目元を拭った。それからすくと立ち上がり、巨大蜂に向かって言った。
「もう止めて。私がしたいのは、そう言うことじゃないの」
巨大蜂はぴたりと動きを止めて、香澄を見た。
「キミは私の気持ちを勘違いして、私はキミの勘違いを自分の気持ちだって思い込んでしまったの。ごめんね、イヤなことを押し付けて」
巨大蜂はゆっくりと飛びながら、香澄の目の前にやって来た。和紗は用心深く身構えるが、仁は首を振ってそれを止めた。影子さんが隣にやって来て、仁の右手に自分の左手を滑り込ませてきた。仁はその手を握り、「ありがとう。お疲れ様」と労いの言葉を恋人に掛ける。影子さんはにこりと笑みを返した。
「私ね、バスケ部でよく蜂みたいって言われてるんだ。ボールを奪って、相手のデフェンスを縫ってゴールを奪う動きが、蜂にそっくりなんだって。昔、言われたことが気になって、ずっと素直に喜べなかったけど、今はもう、そんなことないよ」
香澄は巨大蜂の額にそっと手を触れ、仁と和紗と影子さんを見て言った。
「トゲヒメってどうかな。刺す姫って書いて、刺姫。中二病くさい?」
「そんなことない。カッコいいよ」
和紗は絶賛した。仁も異論はなく、影子さんは何度も頷いた。
「よろしく、刺姫」
香澄が言うと、刺姫は翅を震わせ一際大きくハミングした。それからくるりと宙返りを打ち、香澄の影に飛び込んで姿を消した。
「ごめんね、和紗ちゃん。怪我、痛いよね?」
和紗は謝った。
「平気。帰ったらパパとママに怒られそうだけど、うまく誤魔化すよ」
「おれは、彰吾に怒られるだろうな」
仁はため息をついた。他人のカノジョを、文字通り傷物にしたのだから、責められて当然である。
「謝るのは私だよ。怪我させたのは刺姫なんだし、飼い主の責任」
香澄は苦笑して言った。
「それじゃあ、一緒に謝ろう」
仁は提案し、二人は顔を合わせて笑いあった。
ひとしきり笑った後、香澄はふと顔を赤くして言った。
「あのさ……私、二号じゃダメかな?」
「ええっ?」
仁は素っ頓狂な声を上げた。
「私、やっぱり多比良くんが好き。最初は、ちっちゃくて可愛くて、こんな男子がいるんだって驚いて好きになったんだけど、今はもっと違う理由で好き」
「香澄ちゃん」和紗はため息をついた。「今まで、こいつとのこと応援してたけど、もう止める。こんなエロ魔人のカノジョになったら、おっぱい揉まれるくらいじゃすまないよ」
エロ男子からエロ魔人に昇格した仁は、しょんぼりとうなだれた。
「ちょっとくらいなら、私は構わないけどなあ」
香澄が言うと、影子さんは仁と香澄の間に割って入り、両腕をクロスして何度も首を振った。
「やっぱり、ダメか」香澄は苦笑した。「じゃあ、友だちで。それなら、影子さんも文句ないよね?」
影子さんは渋々頷いた。
「いい気にならないでよね」
と、和紗が仁に言った。
「なってないよ」
仁が言うと、和紗はふんと鼻を鳴らし「どうだか」と呟いた。
※
土曜日の朝。仁たちは駅ビルのフードコートにいた。壁際のソファに座る仁の横には香澄が座り、友だちと言った割りにはカノジョ然と振る舞っていたので、仁はひどく居心地の悪い気持ちを味わっていた。何より、斜向かいに座る太一の嫉妬目線と、頭の中に響く影子さんの警告がつらい。仁の正面には顔に何枚かの絆創膏を貼った和紗と、彼女の怪我を気遣い何くれとなく世話を焼く彰吾。
彼らは、金曜日の放課後の出来事について話し合うために集まっていた。最初に仁は、和紗の怪我が自分と香澄の間に起きたごたごたのせいであることを彰吾に告げ、頭を下げた。香澄もそれにならうが、意外なことに彰吾はあっさりと二人を許した。
「昨日、電話で天草から少し聞いたんだ。振られて怒った荒尾が、仁にひどいことをしようとするのを止めようとして怪我をしたって。怪我をしたのは残念だけど、天草がやるって決めたことで、俺が怒るのはよくない気がするんだ。お前たち二人も、仲直りしたんだよな?」
「うん。和紗ちゃんのおかげで、今は友だちだよ」
香澄は笑顔で言った。それを聞いた彰吾は、「えらい、えらい」と言いながら和紗を撫で、和紗は顔を赤くしてうつむいた。
「ホントか? 俺にはちっとも友だち同士に見えないぞ」
太一が疑わしげに香澄を見て言った。
「でもほら、タイマンはったらマブダチって言うだろ?」
と、仁。
「俺が言ってるのはそう言うことじゃない。まあ、いいや。それで、昨日は何があったんだ?」
仁は体育館裏に始まる信じがたい事件について話し始めた。もちろん和紗の奮闘は内緒なので、少しばかり脚色は加える。カケヒサマのおまじないや影子さんの存在など、前知識の無い彰吾は話の内容に懐疑的だったが、親友の香澄を正気付かせるため、暴走する刺姫の前に和紗が身を投げ出すなどと言う、仁のでっち上げを聞いた途端、あっさり自分の疑いを引っ込めた。
「天草。電話で聞いた話より、ずっと危ないことをしてたんだな。ブロック塀に穴を空けるような怪物の前に飛び込むなんて、無茶すぎるだろ?」
恋人に説教されながら和紗はしゅんとうなだれて見せるが、実は彰吾に見えないよう、仁に剣呑な眼差しを向けていた。彼女の唇が「オボエテロヨ」と動く。しかし、どうしたって彼女が怪我をした理由は必要なのだ。仁としては、むしろ感謝して欲しいくらいだった。
「けど、刺姫はなんだって暴走したんだ。仁が影子さんを連れてきたときは、そんなこと無かったぞ?」
太一が言った。
「おれは、すぐに名前を付けたからだと思う。名前が無いと影のままで、自分を本体の分身か何かと勘違いするみたいなんだ」
「私の刺姫も、そうだったの」
香澄が説明を引き継いだ。
「あの子、自分を私の影だと思い込んで、私が無意識に思ってることを、代わりにやろうとしたり、私にやらせようとしてたんだ。私も、あの子のアドバイスが一番の方法だと思えてしまって、私たちは止まらなくなった」
「それが暴走ってことか。けど、カケヒサマってなんなんだ。縁結びの神さまみたいに思ってたけど、影子さんや刺姫のことを考えたら、なんか違う気がしないか?」
太一が言った。
「どう言うこと?」
仁は聞いた。
「だって、影を実体化する能力なんて、告白にどう使うんだよ」
言われてみればもっともだ。しかし、仁には心当たりがあった。告白された時、彼は香澄の汗の匂いを嗅いで、危うく彼女の告白を受け入れそうになってしまったのだ。まるで、フェロモンに誘われた昆虫のように。
「私、やっぱり汗臭かった?」
香澄はしょんぼりと聞いた。
「いや、いい匂いだったよ。それも、頭がくらくらして何も考えられなくなるような、すごくいい匂いなんだ。もし影子さんが声を掛けてくれなかったら、おれ、あの場でハイって答えてたと思う」
「ちょっと、そこら辺を走ってくる」
「荒尾さん、座って」
腰を浮かせ掛けた香澄を仁は急いで止めた。
「とにかく、あの匂いも刺姫の力だと思うんだ。相手を言いなりにしてしまう、フェロモンの匂いを出す力。他の、カケヒサマにお参りした人たちも、ひょっとしたら自分にぴったり合う影がいて、自分でも知らないうちにその力を使ってたんじゃないかな」
「ちょっと待って」和紗が青い顔で口を開いた。「その人たちって、香澄ちゃんや多比良くんみたいに、影に名前を付けてないよね。それって……」
仁と香澄は息を飲み、顔を見合わせた。
「まずくないか?」
太一が言った。
「まずいね」
仁はうんざりした。
「聞いた限りじゃ、俺たちがどうにか出来る問題じゃないだろう。とにかく、もうおかしなことには関わらないことだな。ところで、俺だけ影子さんに会ってないんだけど?」
彰吾が言った。しかし、ここは人があふれる休日のフードコート。こんなところで影子さんを呼び出して大丈夫だろうか。心配しながらも、仁は自分の影を探しながら、恋人の名前を呼んだ。
「影子さん?」
白い腕が二本、仁の顔の横ににゅっと伸び、彼を抱きしめた。すぐに笑顔も追い掛けてきて、仁の顔に頬を寄せる。香澄が「ずるい」と言って、ソファから上半身を生やした影子さんは彼女に舌を見せた。
「えっと、この子が影子さん」
仁は困りながらもくすぐったい気持ちで紹介した。
「おれのカノジョだよ」
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