仁、告白される!
月曜日の朝、仁は教室へ入るなり自分の机に突っ伏した。昨晩は遅くまで起きていたせいで、ひどい寝不足だったのだ。もちろん、影子さんにエッチなことをしていたわけではない。してはいないが、眠れなくなるような事をしてしまったのは、事実だ。
神社の前で太一と別れた後、帰宅した仁は夕食と入浴を終え、念入りに歯を磨き、両親におやすみを告げて自室へと戻った。部屋の灯りを消すが、ベッドには入らない。太一は影子さんのことを勝手にカノジョと決めつけていたが、仁はそうではないと考えていた。もちろん、彼女をカノジョにすることに異論はない。しかし、その前にやらなければならない事がある。
仁は机のスタンドライトで自分の影を作り、影子さんを呼び出した。
「影子さん。おれのカノジョになってください!」
仁が告白すると影子さんは目を丸くして、逃げるように影の中へ潜って消えた。仁は呆然と自分の影を見つめるが、彼女が戻ってくる気配は無い。しょんぼりと立ち上がり、スタンドライトのスイッチに手を伸ばすと、頭の中で『はい』と言う声が響いた。およそ感情と言うものが一切感じられない、機械のように平坦な、少女の声だ。はっと息を飲んで振り返れば、影の中で目から上だけを覗かせる影子さん。
「今、『はい』って言った?」
影子さんは頷き、また影の中へ引っ込んでしまった。仁は嬉しいのと照れくさいのとで、結局、深夜過ぎまで眠れなかった――と言うわけである。
「旦那、昨夜はお楽しみでしたね」
仁があくびをするのを目ざとく見つけて、太一がニヤニヤ笑いながら言った。
「ずいぶん余裕だね、太一。僕も、これでカノジョ持ちなんだから、独りぼっちは太一だけだよ」
仁はやり返すが、太一には通用しなかった。
「カケヒサマのご利益は、お前がモルモットになってくれたおかげで確認できたからな。俺に影子さんより、おっぱいが大きいカノジョができるのは時間の問題さ!」
「仁にカノジョ?」
彰吾が話に割り込んできた。
「お前、よくもぬけぬけと顔を出せたな」
カマキリのポーズで威嚇する太一をあっさり無視して、彰吾は仁に同じ質問を繰り返した。
「カノジョが出来たって、ホントか?」
仁は頷く。
「そうか」
彰吾はイライラと爪を噛みながら考え込んだ。しばらくして彼は顔を上げ、ひどく困った様子で仁に言った。
「今日の放課後、体育館裏に行ってくれないか。友だちを助けると思って?」
「ねえ、彰吾。何が何だかわからないよ」仁は正直に言った。「とりあえず、事情を聞かせてくれない?」
「天草に頼まれたんだ。彼女の友だちが、どうしても仁に話したいことがあるから、体育館裏まで来るように伝えてくれって」
「おい、それって告白か?」
太一が聞いた。
「多分、そうだと思う」彰吾は頷く。「仁にカノジョがいるなんて思ってなかったから安請け合いしたけど、こんなことになるなんて」
彰吾は頭を抱えた。
「なんで仁ばっかりモテるんだよ」
太一はくさった。
「えーと……おれ、どうしたらいい?」
仁は、おろおろしながら二人の友人を交互に見た。
「二股を掛けるか、後から来たのを二号にするかだな」
「太一、それどっちも同じ」
仁は指摘した。
「うまく言って断ってくれ」
彰吾は手を合わせて言った。それは最も真っ当だが、同時に最も困難な選択でもあった。もし、しこりが残るような断り方をすれば、彰吾と和紗の関係に悪い影響を与えることは必至だ。
「わかった、なんとかしてみるよ」
「ありがとう、仁!」
彰吾はいきなり抱き付いてきた。勉強もスポーツも容姿も完璧な彰吾だが、彼にはハグ魔と言う悪癖があるのだ。仁は慣れっこだったので、容赦なく肘で彼を押しやった。
「まあ、ドッキリの可能性だってあるわけだし、あんまり構えない方がいいぞ」
と、太一がアドバイスをくれる。
「なるほど、ドッキリか。それなら気楽に行ってもよさそうだね。うん、適当に引っ掛かって来るよ」
仁は、あははと笑って言った。言ってて、ちょっと悲しくなったが、気にしないことにした。
放課後、帰り支度をすませた仁は、いそいそと体育館裏へ向かった。太一は付いて行くと主張したが、邪魔をするなと言う彰吾に連行されて先に帰宅している。
約束の場所にたどり着くと、そこには誰の姿も無かった。まあ、そうだろう。その誰かは、きっとどこかの物陰で、くすくす笑っているに違いない。そうやって一〇分ほど晒し者の気分を味わった後のことだった。
「あの」
背後から声を掛けられ、仁は飛びあがりそうになった。振り向けば、体操服姿の女子がいたたまれない様子で立っている。彼女はゆっくりと仁に歩み寄り、それにつれて仁の視線は上を向いた。彼女の身長は、仁より頭一つ分は余計に高かった。彰吾と同じくらいはありそうだ。
「私、荒尾香澄、です。和紗ちゃんの、友達で、二組の」
香澄は顔を赤くして、しどろもどろに言うと、いきなり頭を下げた。
「遅くなってごめんなさい。バスケ部の練習抜けられなくって、なんか汗まみれだしっ!」
ずいぶんテンパっている様子だった。仁は「気にしてないよ」と言って安心させるが、内心は気になりっぱなしだった。
香澄は可愛かった。胸は小さいながらも腰はくびれ、袖や裾から伸びる手足はすらりと長く、モデルのような体つきをしている。その上、汗で濡れた体操服が、微かに彼女の肌を透かしているのだから、気にならないはずがない。微かに甘い汗の香りがフェロモンのように作用して、仁はくらくらと目眩を覚えた。
「あの、ええと、多比良くん」
「あ、はい!」
仁は思わず姿勢を正した。
香澄は、お尻のポケットから封筒を取り出すと、それを両手で差し出し、言った。
「好きです。私と付き合ってください!」
どうしよう、断らなきゃ。けど、荒尾さんは可愛いし、カノジョになってくれたら素敵だろうなあ。身長? もう、いいや。姉と弟に見られるからなんだって言うんだ。こんなにいい匂いのする女の子が、カノジョにしてくれって言ってるのに、断るなんておかしいじゃないか。
『だめ』
頭の中に、影子さんの声が響く。思わず「はい」と言いかけていた口を、仁は慌てて閉じた。彼は神妙に封筒を受け取った。それは汗で湿気り、ちょっと皺が寄っていた。
「少し、時間をもらってもいいかな。これの返事も、ちゃんと書きたいし」
封筒を顔の前に掲げると、ふわりと香澄の匂いがした。
「はい」香澄は、少しがっかりした様子で頷く。「それじゃあ、金曜日。私の部活が終わった後で、返事、聞かせ……やっぱり、それ返して!」
香澄が慌てた様子で手を伸ばした。
「ええ、なんで?」
仁は思わず手紙を背中に隠す。
「だって、汗まみれの手紙なんて、渡せない!」
涙目で訴える香澄に、仁は言った。
「でも荒尾さん、一生懸命書いたんだよね。だったら、おれ汗まみれでもなんでも気にしないよ。とにかく、金曜日にはちゃんと返事をするから、ね?」
それでようやく香澄はあきらめ、立ち去った。その背を見送り、仁は大きなため息をついた。危ない所だった。雰囲気にほだされて、もう少しで告白を受け入れてしまうところだった。
「意気地なし」
背後から声がした。ぎょっとして振り向けば、体育館の角から和紗が姿を現す。しかし、駅ビルで見かけた時の可愛らしい笑顔は無く、まるで別人のようだった。
「なんで、すぐに返事しないの。僕の親友の香澄ちゃんが、あんたをカレシにしてやるって言ってるのよ。普通、そこはハイを即答でしょ?」
足音荒く歩み寄ってくる和紗を見ながら、仁は「ボクっ子だったのか」とぼんやり考えた。
「金曜日!」和紗は人差し指で仁の胸を突いた。「もし、香澄ちゃんを泣かしたりしたら、タダじゃおかないからね」
さほど背丈が変わらない和紗にすごまれ、仁はこくこくと頷いた。すると、和紗はにっこりと笑顔になった。駅ビルで見た時の、あの可愛らしい笑顔だ。
『後ろ、飛ぶ』
影子さんの声が頭に響く。言われるまま仁は飛びずさるが、和紗の笑顔に見とれていたせいで、わずかに反応が遅れた。和紗は強く右足を踏み込んで「エイッ!」と言う鋭い気合いを発し、掌底で仁の胸を突いた。仁は車にでも跳ねられたかのように吹き飛ばされ、ごろごろと地面を転がる。
「タダじゃおかないって意味、わかった?」
和紗は、胸を押さえて地面に転がる仁の横にしゃがみこみ、笑顔で言った。
「僕ね、護身用にちょっとした格闘技をやってるんだ。だから、香澄ちゃんへの返事はよく考えてした方がいいよ」
護身用と言うレベルの威力ではない。和紗に一言くれてやりたかったが、胸を突かれたせいで息がつまり、なかなか声が出せなかった。それでも仁は懸命に声を絞り出し、言った。
「パンツ、見えてる」
和紗はきょとんとした。彼女は一回、瞬きをしてから目を見開くと、顔を真っ赤にしながらぺたんとアヒル座りをしてスカートを両手で抑え込んだ。
膝丈のスカートで顔の横にしゃがまれたものだから、仁は彼女のパンツが、小学生が穿くような色気のない子供用の白パンツであるとわかるほど、間近でそれを覗き込むことになってしまったのだ。もちろん、黙っていると言う選択肢もあった。しかし、パンツはパンツ。それも、友人のカノジョのパンツだ。黙って見過ごすのは、あまりにも卑劣な気がした。
「死ね、エロ男子!」
和紗はすくと立ち上がり、怒りに震えながら拳を振り上げた。仁はぎゅっと目を閉じた。しかし、彼女の拳が振り下ろされた先は仁の顔ではなく、その横の地面だった。仁が目を開けると、和紗はまだ赤い顔をしていた。
「今は勘弁してあげる。入院でもされたら、香澄ちゃんとの約束も果たせなくなっちゃうし」
物騒なことを言うと、和紗は背を向け歩き出した。しかし彼女は、二、三歩行った先で足を止め、慌てたように振り返る。
「このことは彰吾くんにはナイショだからね!」
そう言い置いて、和紗はそそくさと立ち去った。
仁は地面に転がったまま、大きなため息をついた。誰か、ドッキリのネタばらしに来てくれないかなあ、などと考えるが、もちろん、そんなものはいつまで経っても来ることはなかった。
翌日の朝。登校した仁が席に着くなり太一がやって来て、告白の詳細を根掘り葉掘りと聞いてきた。相手が誰かと、返事を金曜日まで保留にしたことは話したが、和紗が実はグラップラーであることは、もちろん伏せてある。
「二組の荒尾?」
太一は意外そうに言った。
「知ってるの?」
「有名だぞ。男子にもファンは多いけど、どっちかって言うと女子から好かれるタイプかな。今年のバレンタインのチョコ獲得数は、彰吾より多かったって噂だし」
「そうなの?」
「ああ。それと本人も、実は女子の方が好きなんじゃないかって噂もある。荒尾って男前なところがあるから、わからんでもないな」
うんうんと一人で納得する太一を見ながら、仁は首を傾げた。
「カケヒサマのおまじないもだけど、太一ってどこからそんな噂を集めてくるわけ?」
「姉ちゃん」
太一は即答した。
「太一のお姉さんって、三年生だったよね?」
上級生が下級生の噂に詳しいと言うのも、おかしな話である。
「荒尾も彰吾も、上級生のお姉さん方にウケがいいんだってさ。けど荒尾は、なんだって仁なんかを好きになったりしたんだ?」
「知らないよ。と言うか、なんかってなんだよ」
「手紙は読んだのか?」
仁は頷いた。しかし、そこに書かれていた文字や文面は実に女の子らしく、太一が言うような男前な感じはしなかった。ひょっとして、と仁は思った。
「無理、してたのかな」
「何が?」
「荒尾さん。告白の時、女の子らしく見せようとして、色々頑張ってたのかなと思って。そうだとしたら――」
健気だ。
「お、二股コースか?」
太一がにやにやしながら言った。
「そんなことしないよ!」
仁は顔を赤くして否定した。
「昨日の話か?」
彰吾もやって来た。体育館裏での出来事は、大方の内容をカノジョの和紗から聞き及んでいるとのことだった。
「どうして、すぐに断らなかったんだ。まさか、俺に気を使ったんじゃないだろうな?」
「いや、ぜんぜん」
仁は即答した。
「ちょっとは考えてくれよ」
彰吾はすねた。
「もらった手紙、荒尾さんの汗がしみてくしゃくしゃだったんだ。たぶん、おれに渡すためにずっとポケットに入れて持ってたんだと思う。そんなにまで、おれのことを一生懸命考えてくれたのに、おれが悩みもしないで断ったんじゃ、荒尾さんに失礼だろ? だから、ちょっと時間をもらうことにしたんだ」
「荒尾の汗染み付き……」
太一がボソリとつぶやく。
「太一、止めて。なんか、違うものに聞こえる」
「なあ、仁。お前、ちっちゃくて可愛くても、やっぱり男子なんだな。見直したよ」
彰吾は言って、仁をぎゅっと抱きしめ「えらい、えらい」と言いながら頭を撫でた。
「可愛い言うな!」
仁は彰吾を突き放し、それからあることを思い付いた。
「そうだ。彰吾に、ちょっと頼みがあるんだけど、聞いてくれるかな?」
その日の放課後、再び体育館裏へやって来た仁は、不機嫌さを隠そうともしない和紗と対峙していた。
「あんた、よくも僕の前に顔を出せたわね。バカなの。死ぬの?」
ひどい言われように仁は少しへこんだ。
「で、彰吾くんを使ってまで僕を呼び出して、何の用?」
「どうしても、わからないんだ。荒尾さんが、なんだっておれのことなんか好きになったのか。手紙にも書いてなかったし」
「そんなの、カレシになってから聞けばいいじゃない」
和紗はふんと鼻を鳴らした。
「無理だよ。おれ、カノジョがいるから」
和紗は目を丸くした。
「うそっ。だって彰吾くん、そんなこと言ってなかったよ?」
仁は、駅ビルで和紗たちと別れた後、影子さんと恋仲になったことを教えた。
「だから、彰吾は知らなかったんだ。あいつが悪いわけじゃない」
「当たり前でしょ。悪いのは生意気にカノジョなんか作ったあんたよ。ちょっとは身の程を知れ」
「そこまで言わなくてもいいじゃないか」
仁は涙目で抗議した。
「うるさい、黙れ」
和紗は容赦なく言うと、しばらく間を置いてから話し始めた。
「ひと月くらい前かな。その日は香澄ちゃんのバスケ部がお休みで、僕たちは一緒に帰ることにしたんだ。その時、校門の辺りでちょうどあんたを見かけて、香澄ちゃんはあんたのことがすっかり好きになった。つまり、ひと目惚れってヤツかな。香澄ちゃん、それまで恋愛になんて興味がなかったのに、その日からあんたのことについて調べたり、女の子らしくする方法を僕に聞いたりするようになってさ。それで、僕はあんたと仲のいい彰吾くんに告白して、カノジョになった。彼からあんたのことを聞き出して香澄ちゃんに教えてあげるとか、何かと便利そうだと思ったから」
そこまで言って、和紗は急に顔を赤らめた。
「だからって、彰吾くんのことを利用してやろうと思って告白したんじゃないからね。好きなのはずっと前から好きだったし。変な誤解しないでよ!」
逆ツンデレか。と仁は感心しながら、誤解なんてしてないと言って和紗を安心させた。結局、香澄が仁を好きになった理由は、ひと目惚れと言うこと以外、何もわからなかった。一体、自分のどこにひと目惚れの要素があると言うのか。仁は首を捻るばかりだった。
「ありがとう、天草さん。話、聞けて良かった」
仁が礼を告げて立ち去ろうとすると、和紗が追いかけてきて聞いた。
「ねえ。あんた、どうするの?」
「断るよ。二股なんて器用なことはできないし、影子さんと別れるなんて、もっと無理」
「そんなに好きなの。その、影子さんのこと?」
問われて、仁は考えてみた。考えて、やっぱり彼女が好きだとわかった。何がどう好きかはわからないが、どうしても好きなのだ。それでようやく、香澄も同じなんだと気付いた。誰かを好きになる理由なんて、後から言い訳のようにくっ付けるもので、本当はそんなものなど大して重要ではないのだ。
「うん、好きだよ」
仁が答えると和紗はため息をつき、それから笑顔を見せた。
「今度、その子に会わせてくれる?」
体育館裏を後にした二人は、校門のところで待つ太一と彰吾を見つけた。和紗は無垢な笑顔を浮かべながら彰吾に駆け寄り、当たり前のように彼の右手に自分の手を滑り込ませる。彼女の正体を彰吾に教えたら、一体、どう思うだろうと仁はぼんやり考えた。
「ちゃんと話せた?」
彰吾は恋人に微笑みかけた。和紗はこくりと頷く。彰吾は「えらい、えらい」と言いながら彼女の頭を撫で、和紗は顔を赤くしてうつむいた。その様子を見て仁は、まあ言っても信じちゃくれないだろうなと結論付けた。
「それじゃあ、俺たちは帰るよ。また明日」
彰吾は友人二人に手を振った。
「またね、彰吾、天草さん。今日はありがとう」
「おう、さっさと行っちまえ」
太一はカップルの背中に向かって、しっしと手を振ってから、仁に目を向けた。
「それで、天草に何を聞いたんだ?」
「荒尾さんのこと。おれ、彼女のことなんにも知らないから」
「知らない方が良かったんじゃないか。それなら、好きにも嫌いにもならないだろうから、振るのだって簡単だろ?」
「告白された時点で手遅れだよ」仁は苦笑しながら言った。「好きだって言ってくれる女の子を嫌いになったり、どうでもいいなんて思ったりなんてできないだろ?」
「まあ、ちょっとでも好意っぽいものを見せられたら、とにかく好きになっちゃうのが男子だよな」
太一はうんうんと頷き、同意した。
「なんか、カッコ悪いね。おれたち」
「言うな」
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