影子さん、現る!
多比良仁は黄昏時の薄闇に覆われた学校の敷地内を、半ばべそをかきながら全力で走っていた。一三歳の男子中学生としては、ひどく屈辱的なことではあるが、今は格好にこだわっている余裕などない。
『右』
平坦な声が頭に響き、横っ飛びで転げた仁は校舎の基礎に頭をしたたかにぶつけた。しかし、痛がる間もなく、すぐ横を何かがすさまじい勢いで通り抜ける。それは学校の敷地を囲むブロック塀に突っ込み、鈍い音を周囲に響かせた。砕けたブロックから砂煙が舞いあがり、その中に五つの赤い光がぼんやりと浮かんだ。空豆のような形の大きな二つの光と、その間で逆三角形に並ぶ小さな三つの丸い光。砂煙が次第に晴れ、そこに現れたのは大型犬ほどもある真っ黒な蜂だった。大きさもさることながら、赤く煌々と光る目や、煤にまみれたような光を弾かない鈍い黒の体色からして、明らかに真っ当な生き物ではない。巨大蜂はカチカチと大顎を鳴らしながら宙に留まり、へたり込む仁を赤く輝く複眼と単眼で睨みつけた。
『左、転がって、起きる』
仁は反射的に声に従がった。柔道の受け身のように一回転してから身を起こし、ほんの数瞬前まで彼がいた場所へ目を向けると、大顎で地面に咬みつく巨大蜂の姿があった。巨大蜂は獲物を逃したことに気付き、いらいらと羽根を鳴らしながら仁の方へ向き直る。追いかけっこでは勝負にならない。巨大蜂は全力疾走の仁よりも早く飛び、スタミナもあるのだ。
選択肢は少なかった。仁は巨大蜂と距離を取りながら、先ほど空いたばかりの塀の穴に向かって、じりじりと移動を始めた。塀の向こう側は通学路だ。登下校時間を除いて人通りはほとんどないが、国道と繋がっているせいで車の通行量は多い。
『今』
再び頭の中に響いた声を合図に、仁は塀の穴へ向かって駆け出した。巨大蜂は再び空中へ戻り、逃すものかと仁に突進する。しかし、仁は穴の手前で立ち止まると、くるりと振り向き巨大蜂と対峙した。目的は穴から外へでることではなかった。
『私を、呼ぶ』
背後に空いた大穴から強烈なヘッドライトの光が差し込み、仁の背中を照らした。仁は足下から伸び出る影に向かって叫んだ。
「影子さん!」
※
そもそもの始まりは日曜日。仁はクラスメートの国見太一と一緒に、隣町の駅ビルでエレベータの到着を待っていた。本日発売のゲームを手に入れるため、わざわざ片道二〇分の電車に乗ってやってきたのだ。目指すは四階のおもちゃ売り場だが、開いたエレベータの扉から流れ出る人たちの中に、見知った顔があった。
「あれ、彰吾?」
思わず上げた仁の声を耳にとめ、少年はぎょっとした様子で立ち止まった。彼は神代彰吾。仁や太一のクラスメートで、彼ら三人は幼稚園時代からの友人だった。
「仁に、太一。こんなところで何やってるんだ?」
「お前こそ何やってるんだよ」
太一が食って掛かった。
「そうだよ。一緒にゲーム買いに行こうって誘ったのに、用事があるって断ったの、彰吾の方じゃないか」
仁が言うと、彰吾はきまりの悪そうな笑みを浮かべた。
「ああ、そうだったな。悪い。今、その用事の途中なんだ」
そして後ろに目配せをすると、彼の背後から小柄な少女が姿を現した。
「えっと……二組の、天草さんだっけ?」
仁が言うと、少女は小さく頭を下げた。彼女は隣のクラスの天草和紗。クラス合同の授業などで名前と顔は覚えていたが、仁たちとの接点と言えば、その程度しかなかった。
「カノジョかっ!」
太一は身構える。
「まあ、そうなって一週間くらいだけど」
彰吾は視線を逸らし、あらぬ方を見る。
「用事って、デートのことかっ!」
「ちょっと天草さんの買い物に付き合ってただけだよ」
「それをデートと言わずして何と言う!」
太一と彰吾がやり合ってる間にエレベータが行ってしまったので、仁は和紗の横を抜けてボタンを押し直した。
「なんか、ジャマしてごめんね」
仁が謝ると、和紗は頬を赤らめながら首を振った。
「けど、彰吾にカノジョがいるなんて、ぜんぜん知らなかったな。なんで教えてくれなかったんだろう」
彰吾に向かって、アメリカザリガニのようなポーズで威嚇する太一を見て、仁はすぐその訳に思い至った。
「あれじゃあ、内緒にしたくもなるね」
仁と和紗は顔を見合わせて笑った。
エレベーターが到着したので、仁は威嚇のポーズを続ける太一の上着の裾を引っ張り、それに乗り込んだ。仁が手を振ると、閉まる扉の隙間から両手を合わせる彰吾と、手を振り返す和紗の笑顔が見えた。天草さん、可愛なあ――などと思っているところに、絶妙なタイミングで太一が言う。
「お前、ああ言うのが好みなのか」
「えっ?」
無意識に声に出してしまったのかと、仁はぎょっとする。
「顔、ゆるんでるぞ」
思わず両手で頬を持ち上げる。
「まあでも、わからなくもない」
訳知り顔で頷く太一。
「なにがだよ」
「おまえ、ちっちゃいからな。天草みたいに、ちっちゃい女の子が好みなんだろ」
「ちっちゃい言うな!」
「けど、やっぱり女子は、彰吾みたいに背の高い男子の方が好みなんだろうな」
仁の抗議を無視して、太一が言う。
「なんだよそれ。おれにはカノジョができないって遠回しに言ってる?」
「いや、ぜんぜん遠回しじゃないぞ」
口惜しいのでスニーカーの爪先で、太一のふくらはぎを二、三回蹴ってやった。確かに、仁は背が低い。幼い顔つきも相まって、しばしば小学生に間違われることもあるほどだ。もちろん、そんな容姿では女子受けもしない。そもそも男子扱いされた記憶がない。以前など体育の授業の時、仁がまだ教室にいるのに、体操服に着替えはじめた女子がいたこともあった。その場はごめんと言って逃げ出したが、後から咎められるわけでなく、仁は余計に傷ついたものだ。一方の彰吾は勉強もスポーツも並み以上で、見た目も恰好よかったから女子人気は高かった。今年のバレンタインでは、複数の女子からチョコをもらっている。どこでこんな差が付いたのかと思い返してみると、彼らが出合った幼稚園時代には、すでに女子からちやほやされていた。なるほど、スタート地点からして違ったようだ。
おもちゃ売り場で首尾よくゲームを手に入れた仁と太一は、地階のフードコートへと向かった。一番安いハンバーガーのセットを買って空いている席に着き、買ったばかりのゲームを開封して説明書を読みながら、攻略についてあれこれと話す。しかし、仁は今一つ気が乗らない。彰吾と和紗に会ってから、正体のわからないモヤモヤしたものが胸に引っ掛かっていた。
「しっかし、彰吾のやつも薄情だよなあ」
仁のポテトを勝手につまみながら太一は言った。
「薄情?」
「だってそうだろ。俺らと遊ぶより、カノジョとのデートを取ったんだからさ」
「けど、太一だってカノジョがいたら、そうするんじゃないの?」
「そりゃあ、カノジョをがっかりさせたらカレシ失格だからな」
勝手な言い草だった。
「まあ、いもしないカノジョのことを言ってもしょうがない」太一は、ふと真面目な表情を作る。「それよりも、どうすればカノジョを作れるか考えてみよう」
「えー」
「なんだよ、その面倒くさそうなリアクション」
「面倒くさそうなんじゃなくて、本当に面倒くさいんだよ」
「彰吾ばっかりカノジョがいて口惜しくないのか。なんて言うか、嫉妬的な?」
「太一、それすごくカッコ悪い」
そうは言いつつも、仁は胸につかえるモヤモヤの正体にようやく思い至った。要は、つまらない嫉妬心なのだ。
「カッコ悪くても一〇〇パー彼女ができる方法、知ってるんだけどなあ」
「とりあえず、聞くだけ聞こうか」
仁が身を乗り出すと、太一はとある『おまじない』について話し始めた。
彼らの住む町には、煮栗神社と言う小さな神社がある。太一の言うおまじないとは、その神社にお参りすることだった。もちろん、ただお参りすればよいと言うものではなく、それなりの手順があった。まず、お社に夕日が当たる時間に神社を訪れ、自分の影の頭の部分を、お社の入口の格子に映す。その状態で二拝二拍の後、目を閉じたまま「カケヒサマ、カケヒサマ、私の影にお越しください」と唱える。そうすると、カケヒサマと言う神さまが自分の影に宿って力を貸してくれるので、意中の相手に告白すれば必ず「はい」の返事をもらえるのだと言う。ただし、お参りの最中は決して目を開けてはならず、他の誰かに見られてもいけない。
「完成!」
仁はストローの袋で折った鶴を掲げて見せた。
「おまえ器用だな……って、まじめに聞け!」
「だって、胡散臭いし。どうせ出所は女子の噂だよね?」
「まあ、確かにそうだけどさ」
太一はあっさり認めた。
「けど、カケヒサマのおかげで付き合い始めたってやつらは結構いるから、そんなにバカにしたもんじゃないぞ。うちのクラスだけじゃなくて、姉ちゃんのクラスにも何組かいるって話だ」
「で、太一は誰に告白するつもりなの?」
「今、それを聞くか?」
「だって、これって告白を成功させるためのおまじないで、カノジョができるおまじないじゃないよね。だったら、まずは告白したい相手がいなきゃ、お話にならないよ」
「そりゃあ、そうだけど……」
しばらく答えるのを渋っていた太一だが、仁の追求に根負けしてぽつりと言った。
「委員長」
仁たちのクラスの学級委員長は、クラス一の秀才で眼鏡女子。真面目でとっつきにくい所もあるが、クラスのどんな女子よりも大人っぽく、美人だった。彼女を思い起こせば、いつも一人で静かに本を読む姿が浮かぶ。
「あー、確かに太一が好きそう」
「だろ? やっぱり、知的な女子っていいよなあ」
「そうじゃないよね」
「え?」
「太一が委員長を好きな理由って、主におっぱいだよね」
委員長は細く見えるのに、実はおっぱいが大きいと男子の間では評判なのだ。
「いや、主にって言い方はどうかと思うけど……うん、おっぱいは好きかな」
太一は認めた。
「おっぱい星人め」
「うるさいなあ。そう言うおまえはどうなんだよ」
「おっぱいは嫌いじゃないけど、大きすぎるのはちょっと」
「おっぱいから離れろ。好きな女子だよ。クラスに誰かいないのか?」
言われて仁はクラスの女子の顔を思い浮かべた。が、告白したい相手はいなかった。かと言って、女子に興味が無いわけではない。ただ、自分を上から見下ろす女子を恋愛の対象にするのは難しかったし、クラスの女子は全員、仁より背が高かった。
「うん、クラスの誰かがカノジョになってるイメージがわかない。おれなんかと並んで歩いたら、絶対に姉弟にしか見えないやつばっかりだし」
ちょっと泣きたくなった。
「がんばれ」太一は励ました。「それなら一年生あたりも含めて考えよう」
「考えてどうするんだよ。おれ、一年なんかに知り合いいないのに?」
部活でもやっていれば、下級生や上級生との接点もあるだろうが、生憎と仁は帰宅部だった。
「そのうち、できるかも知れないだろ。だから、その時に備えておまじないやってみようぜ」
「太一がやればいいじゃないか。今、好きな女子がいるんだから」
「バカだなあ。おまじないに成功して俺にまでカノジョができたら、幼稚園以来ずっとつるんできた俺たち三人の中で、おまえだけ独りぼっちになるだろ? そんな薄情なマネ、俺にはできないね」
「そんなこと言って、おれを実験台にするつもりだろ」
「よくわかったな」
「わからなかったら、それこそバカだよ」
そう言って、仁はすっかり冷えたハンバーガーにかぶりついた。
結局、仁は太一と一緒に煮栗神社の階段の前に立っていた。ここを昇れば鳥居があり、それをくぐれば参道だ。お社までは一分と掛からない。それほど小さな神社だが、夕日を受けるように建つ西向きの社殿は、全国的にも珍しいものだと、郷土史に詳しい先生が話していたのを、仁はぼんやり思い出した。
「やっぱり、やるの?」
無駄だとは思ったが、仁は聞くだけ聞いてみた。
「もちろん、やるに決まってるだろ。お賽銭は俺が出してやる」
恩着せがましく言う太一から、手渡されたのは五円玉だった。しかし、なぜ彼は自分でやらないのだろう。ふと考えて仁はその理由に思い至った。確か太一は、オカルトの類が死ぬほど苦手なのだ。おそらく、カケヒサマとやらが怖いのだろう。もちろん、そんなことを指摘しても太一のプライドを傷つける以外に、何か状況が変わるわけでもないから、仁は「わかった」とだけ答え、その場に太一を残し一人で階段を昇り始めた。
参道にたどり着くと、すでに影法師が長く伸びていた。おまじないの手順に従って、賽銭箱が置かれたお社の入口に影法師の頭が掛かるように、立ち位置を調整する。あとは作法通り、頭を二回下げて拍手を二回。目を閉じて呪文を唱える。
「カケヒサマ、カケヒサマ、私の影にお越しください」
ちょっと恥ずかしい。ひょっとすると、お参りする姿を誰かに見られてはいけないと言うルールは、このために後付けしたのではないかと勘ぐってしまう。もちろん本当のところは、いかにも効きそうだと思わせるための演出なのだろう。告白した相手に必ず「はい」と言わせるのだから、どこか呪いめいてさえいる。何一つデメリットがないのでは説得力が無い。
しかし、本当に「必ず」なのだろうか。自分のことを嫌っていたり、それどころか眼中にすら入れていない相手や、すでにカレシやカノジョがいる相手でも?
ふと、エレベーターの扉の隙間から見えた和紗の笑顔を思い出し、仁は慌ててそれを振り払った。確かに可愛いとは思ったが、今日出会うまで意識もしていなかった相手ではないか。大切な友人から奪い取ってまでカノジョにしたいとは思わない。そもそも、そんなことを考えること自体が卑しい行為だ。若干の自己嫌悪を抱きながら、仁は何かが起こるのを待った。
何も起きなかった。やっぱり、おまじないはおまじないなのだ。ホッとしたような、ガッカリしたような複雑な気分で一礼し、目を開けぎょっとする。影法師のちょうど顔のところに、赤い目が輝いていたのだ。いや、これはきっと背後の夕日が、何かに反射しているだけだと思い込もうとしたが、無駄だった。後ずさると、影法師と一緒にその赤い目もくっついてきたからだ。影法師は参道の白い石畳の上に横たわり、ぎょろぎょろと赤い目を動かして周囲を眺めている。しばらくそうしてから、影法師はむくりと身体を起こし、仁ににじり寄ってきた。
「お前、なんなんだよ!」
仁の問いに影は何も答えない。口が無いんじゃ答えられるわけないかと、半ば自棄になって考えた途端、影にぱくりと口が開いた。三日月形のそれは、仁を見つめる目と同じような真っ赤な光にあふれ、ぞっとするようなにやにや笑いを影法師に与えている。しかし、それを見た仁の中に、わずかな好奇心が芽生えた。彼は頭の中の恐怖を無理やり隅へ追いやり、あるイメージを思い浮かべる。
赤い目が戸惑うようにぱちりと瞬きをした。恐ろしい口は閉じて消え、影は渦を巻きながら次第に形を変えていく。そして仁の前にはもう不気味な影法師はなく、代わりに小柄な少女が立っていた。それは、仁が頭の中に思い描いた通りの姿恰好だった。ただし、何もかもがイメージ通りと言うわけではない。相変わらず真っ赤な瞳を除いて、彼女には一切の色彩がなく、まるで白黒写真から抜け出して来たかのようだったし、丸襟のブラウスに吊りスカートと言う古めかしく幼い格好は、「女の子のオバケと言えば、トイレの花子さんだよね」などと言う、雑念が反映されてしまったもののようだ。もっとも、同年代の女子のファッションについて仁はかなり不勉強だったから、結果的にはこれでよかったのかもしれない。ともかく、得体の知れない化け物は姿を消し、やはり得体は知れないが可愛らしい少女が現れた。ちょっとたれ気味の大きな目も、小さな口元についたふっくらした唇も、背中に垂れた長い黒髪も、そして自分を見下ろさない低い背も、全て仁の理想の女子像だった。
仁はこれの正体について、とやかく考えることを止めた。自分が望むことと、頭に思い描くことを同調させるのは、これでなかなか骨が折れる作業なのだ。まるで受信状況の悪いテレビのように、彼女の姿に時折ノイズが掛かって見えるのは、そのせいかもしれない。余計なことを考えて、また恐ろしい影法師に戻ってしまうのは避けたかった。それよりも問題なのは、彼女とのコミュニケーションだ。人の姿をしているが、話は出来るのだろうか。試しに、と聞いてみた。
「キミ、名前はなんて言うの?」
少女は首を傾げた。とりあえず、こっちの言うことに反応することはわかったが、どうやら名前は持っていないようだ。
「それじゃあ、影子さんって呼んでいいかな」
少女は微笑み、頷いた。途端、彼女の姿からノイズが消えた。仁には理由がわかるような気がした。どんなものでも、名前があるとイメージしやすくなるものだ。影から生まれた女の子だから、影子さん。ネーミングセンスはともかく、仁にとって、それが一番、彼女をイメージしやすい名前だった。
「おれは、仁。よろしく、影子さん」
太一の反応は仁が予想した通りのものだった。オカルトを大の苦手にする彼が影子さんを見れば、こうなることは目に見えていた。
「仁、お前、それ、ゆうれ……!」
腰を抜かして神社の階段を二、三段転げ落ちる太一を見て、人体実験の被験者にされた仁は溜飲を下げた。
「幽霊なんかじゃないよ。彼女は影子さん」
仁が紹介すると、影子さんは何も言わなかったが、ぺこりとお辞儀した。
「影子さん?」
太一の目に恐怖以外の色が浮かぶのを見て、仁は境内で起きたことを詳しく話して聞かせた。話が終わる頃には太一もすっかり平静を取り戻し、うーんと唸りながら何事か考え始めた。
「つまり、だ」太一は言った。「どんな仕掛けかわからないけど、影子さんはお前のイメージで作られてるって事か」
太一は影子さんの服装をしげしげ眺め、それから仁に目を向けた。
「お前って、レトロ好きだったんだな?」
「他の服を思い浮かばなかったんだよ」
すると太一は、大きなため息をついた。
「仁、お前にはがっかりだ」
「なにが?」
仁は、友人が何にそれほど失望しているのか、さっぱり理解出来なかった。
「服装が思い浮かばないなら、なせ裸にしなかった!」
仁は衝撃を受けた。それは正に、パンが無ければお菓子を食べればいいじゃない理論。仁は、そんなことをちらりとも考えなかった自分の迂闊さを責めた――が、気配を感じて影子さんの方を見れば、彼女は顔を赤くしてふくれっ面をしていた。いや、彼女には赤く光る瞳を除けぼ色彩と言うものがなかったから、恐らく顔の紅潮は仁の思い込みだろう。しかし、ちょっと涙目でエッチな男子に責めるような視線を投げる彼女は、とても――
「可愛い」
仁は思わず呟いた。太一もバカみたいに、こくこく頷く。それで影子さんは、あっさり機嫌を戻した。今は照れたようにもじもじしている。
「ちょろいな」
太一がこっそり言った。仁も同意せざるを得ない。
「けど、影が女の子のままじゃ、ちょっと不便じゃないか?」
太一の言うことはもっともだ。彼女を引き連れて街中を歩きでもしたら、騒ぎになることは目に見えている。このままでは、家にも帰れない。
「元の影に戻せないのか?」
太一の質問に、仁はハイもイイエも返せなかった。こんな事態になって、三〇分も経ってないのだ。影子さんのことを何も知らない彼に、答えられるはずもない。影子さんに目をやると、彼女は頷いて仁の影の中につま先から沈み込み、姿を消した。
「影子さん?」
仁が名前を呼ぶと、影子さんは仁の影からにゅっと顔を出した。影に飲み込まれて、このまま消えてしまうんじゃないかと心配していた仁は、ほっとため息をついた。
「カケヒサマって、思ってた以上に凄い神様だな」
影から這い出す影子さんを見ながら、太一が感心するように言った。
「どう言うこと?」
「だって、告白する相手がいなかったら、代わりにカノジョを召喚してくれるんだぜ?」
太一のトンデモ理論に、仁はあきれ返った。
「あのね、太一。影子さんは人間じゃなくて影なんだよ。カノジョになんて、出来るわけないじゃないか」
「人間かどうかなんて関係ないだろ。見た目は女の子なんだし、なにより可愛い。どこに問題がある?」
友人の海よりも深い包容力に、仁は軽く目眩を覚えた。
「問題だらけだよ。デートとかどうするの? 手も握れないじゃないか」
「なんで?」
「影ってことは実体がないんだから、触れないだろ。ほら」
仁は影子さんに向かって右手を突きだした。思いがけず、手の平にふにゃっと柔らかな感触。見れば目を丸くする影子さんと、彼女の控えめな胸をわしづかみにする自分の手があった。
「ごめん!」
仁は慌てて手を引っ込めた。影子さんは両手で胸をかばい、ふくれっ面で睨んでくる。太一の平手が頭に飛び、仁は涙目で友人を睨み付けた。
「痛いな。なにするんだよ!」
「黙れ。なにが『触れない』だ。がっつりおっぱい触ってるじゃないか!」
太一も泣きそうな顔をしていた。きっと羨ましいのだろう。彼は影子さんに目を向け、彼女に右手を差し出し、言った。
「影子さん。せめて、せめて握手させてください!」
何が「せめて」なのかはわからないが、太一は必死の様子で頼み込んだ。影子さんは困ったような顔をしながらも、彼の右手をそっと両手で包む。太一は幸せいっぱいの笑顔を仁に向けてきた。
「なあ、仁。お前が要らないなら、俺にくれ」
「ダメ」
仁はきっぱりと言った。そもそも、他人に譲ったりできるようなものなのだろうか?
「ケチ」太一は唇を尖らせた。「まあ、いいや。影子さんのカレシの座はお前に譲るよ。けど、さっきみたいにエッチなことは、ほどほどにしとけよ」
「しないよ!」
仁は顔を赤くして言った。影子さんは何も言わなかったが、不審に思っていることは目を見れば明らかだった。
某特撮ヒーローにいたんです。自分の影に魂を移し、悪と戦うヤツが!




