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短編集

悪役令嬢に転生したのですが、どうやら何かがおかしいらしいのです

作者: くるい

 わたしには二つの人格があって、それらがずっと心の中で一つになろうとしています。

 それがいつからだったのか分かりませんけれど、片方のわたしはとても家庭的で一般的な女の子だったことを覚えています。なのですが、もう片方のわたしは自分ではお掃除もしないしお料理もできない女の子でした。


 できない上に、わがままでした。自分の好みではないお料理が出された時は癇癪を起こして食器をちゃぶ台返しのようにひっくり返してしまったこともありますし、自分でお掃除もしない癖にいつもお付きのメイドを怒鳴り散らかしてお掃除させるのです。

 お茶を嗜んでいる時にケーキをお洋服にこぼしてしまったあの日も、大声でメイドを呼んでお掃除をさせていた記憶があります。

 確かあれはわたしが十四歳にもなる年の頃だったはずです。


 今は十五歳になるので、一年前でよろしいのでしょうか。


 ああ、今にして思えばなんと恥ずかしいことなのでしょう。


 そんなわたしは今、屋敷にある書架で本を読み耽っています。こちらはどちらのわたしも好きな、物語の書かれた本ですね。

 あまり内容を選り好みするタイプではないのですが、強いて選ぶのであれば恋愛ものが好みだったりします。


 実はわたしも、そんな物語の中の登場人物だったりするのです。何を言っているのか分からないですって? 実はわたしにもよくは分からないのですが……。


 とにかく、そうらしいのです。

 片方のわたしは女子高生でしたけれど、もう片方のわたしはその女子高生のわたしがしていた恋愛ゲームに登場するご令嬢の一人なのでした。

 もっとも、どちらも女子高生という肩書きは一緒なのですけれどね。


 そのご令嬢は『逢華七桜学園』に通う女の子でした。ゲームの立ち回りとしては、悪役令嬢などと呼ばれる存在なのでしょう。彼女は何度となく正規のヒロインに嫌がらせをするばかりか、自分の地位を確立させるために悪いことを沢山行って、自らの作り出した楽園でふんぞり返っているような人物です。


 あはは、他人事ではないのですね。今やわたしがそのご令嬢なのですから。

 ええと、でも……どうしてわたしがそのご令嬢になってしまったのでしょうか。いや、そもそもわたしはご令嬢なのですが……逆に言えば、どうしてわたしはただの女子高生だったのでしょう。

 考えれば考えるほどに、疑問は深まってしまいます。


 たしか、わたしは――。


 ぴちゃり、と。水が弾ける音が聞こえました。わたしは読んでいた本を一旦閉じて、辺りを見回します。


「……?」


 雨でも降っているのでしょうか、とも思ったのですが……どうやら外は晴れているみたいですね。では今の音はどこから聞こえたのでしょうか。


 それ以降、水音は聞こえてきませんでした。なのでわたしは気を取り直して物語を読むことに集中します。


 一通り読み終えると、わたしは書架から出て自分の部屋に戻ります。今日は休日ですので、やることがなくて暇です。

 お勉強なども午前にやりましたので、今日はもうする必要はありません。あまり一日の中に知識を詰め込んでも良くないのですし。


「こんにちは、香澄かすみ

「……紡姫つむぎ様! は、はい、何かご用でしょうか?」


 びく、と肩を震わせてこちらを向くのはメイドとして仕えている香澄。わたしにお付きの専属メイドですが、少々怯えがちの困ったメイドです。

 それもこれも今までのわたしの言動と行動がいけないのですけれど……そのように露骨な態度をするのも考え物ですね。


「用がなければ話し掛けてはいけませんか?」

「いえ、そういうわけでは……」

「それと香澄、挨拶を忘れてはなりませんよ。何も畏まる必要はないのです。ここは屋敷なのですから、こんにちはと返すだけで構わないのですよ。

 上下関係を正しく認識しているのは結構ですが、そういったことは外でやればよいのです。

 分かりましたか?」

「紡姫様……? はい、分かりました」


 わたしが改めてこんにちはと返すと、香澄もぎこちなくこんにちはと挨拶をしました。普段のわたしであたったら最初の言葉の次には罵倒などが飛んでいたでしょうから、香澄もさぞ不思議でしょう。

 突然人が変わったように思われても仕方ないかもしれません。


 ええ、それもあながち間違ってはいないのかもしれませんね。わたしはわたしですけれど、まだまだ混乱していますから。本を読んで気分を変えたつもりでしたが、そう数時間で無くせるものではないということでしょう。


 とにかく、以前のままのわたしではいけないのです。

 一度崩れてしまった人との関わりがどこまで修正可能なのかは分かりませんが、出来る限りは修復するつもりです。

 わたしは変わらなくてはなりません。


 そうしなければ、進むのは破滅の道なのですからね。

 そうなりたくは、ありません。






 夕食の時間がやってきました。

 問題児であるところのわたしはメイドや家族から半ば見放されたような存在でしたので、こういった時でなければお話はあまりしません。

 わたしはそこまで低い知能の持ち主ではないはずでしたが、それ以上に自分勝手でわがままでしたから、仕方のないことでしょう。


 家族はわたしのことを、陰で何やら言っているようでしたし。

 一家の恥だとか、もう治らないだとか、うんざりです。わたしの前で堂々と言って下さればまだいいのですが、そうやってわたしの見えないところで少しずつ不満を口にされるのは不愉快です。


 それもこれも、わたしが原因なのですけれど……。こればかりは、教育自体を甘やかしてきた家族の方にも原因があると思っています。

 頭さえ良ければ、自分勝手でもわがままでもいいのだと十数年教え続けて来たのはお父様とお母様です……とは、思ってもなりませんね。


 今までそんなことにも何一つ疑問を抱かずに育ってきたわたしがいけないのです。途中で自分を見つめ直す機会があれば、こうはなりませんでした。こうして転生するまで、されるまではただただ生きてきただけ……自分が滑稽に見えてきます。


 昔のことを考えても仕方ありませんね。省みるのは結構ですが、それ以上は毒にしかならないものです。


「いただきます」


 運ばれてくる料理に感謝を込める、それだけでも今までのわたしとは違います。以前のわたしはそのようなことは一切言いませんでしたし、食べ方も綺麗とは言えません。何より好き嫌いが激しく、その上文句を言い、出された料理の一品は残すのが常でした。


 自分の口に合わなければ平気で捨ててしまう性格だったのですね。料理をする今のわたしからすれば信じられないことです。失敗してしまっても大抵のものであれば完食するのが礼儀だといいますのに、こんなにも美味しい料理を平気な顔をして残してしまうのですから……。


 お父様もお母様も、静かに食を進めるわたしを見て驚きの表情を浮かべていました。

 まずはこういう細かい姿勢から変えてゆくことから始めましょう。その後で、皆さんと会話が出来るところまで修復できて初めて謝るのです。


 わたしは心が躍る気分でした。これは、いつも自分勝手に振る舞っていても得られなかった感情です。心のどこかにぽっかりと空いているような虚しさを覚えない日は今日が初めてなのかもしれません。


「ごちそうさま。香澄、今日も美味しかったですわと料理長に伝えておいて下さい」


 後ろに立っている香澄にそう伝え、わたしは席を立ちます。

 本来であれば自分で食器を下げてしまいたいところなのですが、それはメイドである香澄の仕事。そこまで自分でやってしまうと上流階級の令嬢としての気質を損なうらしい、ので素直に任せることにします。


 自分で飯を盛るのはいけない、というのと似たようなことなのでしょうね。人を使うといった部分には“上に立つ者”としての力を表現している意味合いもあるのでしょうが、行き過ぎも良くはない……とまあ、今のわたしが口を出していい部分ではないですね。


 今はこれだけで十分な効果を発揮することでしょう。


 お父様もお母様も、わたしを見て口をぽかんと開けています。その前からわたしとお話をしていた香澄でさえも、同じくらいの反応をしているのですから。


「は、はい、かしこまりました!」


 どこか嬉しそうに頭を下げるメイドに、思わずくすりと笑ってしまいました。慌てて手で隠して目立たなくしましたが、いけませんね。

 今のわたしが笑っても、決して良い印象では見られないでしょう。


 困ったものです。

 本当なら直接お相手に美味しかったですと伝えたいものなのですが、何か裏があると勘違いされても面白くありません。


 わたし以外の全員が唖然とする中、わたしは悠々と食堂を後にしました。


 そこで。

 かしゃり、と何かが割れるような――壊れるような音が、聞こえてきました。


 驚きのあまりに香澄が食器を取り落としてしまったのでしょうか? 流石に動揺のし過ぎだろうとは思いましたが、これが当然なのかもしれません。

 とはいえ注意力が散漫とし過ぎなのはあまり頂けませんね、早くこのわたしに慣れて貰いたいものです。


「ん――……」


 ふと、私は大切なことを忘れている気がしました。

 ああ、そうです。学校でのことを考えなければならないのでしたね。今までと同じように振る舞うつもりもありませんが、ではどうしたものでしょう。

 学校は明日から始まってしまいますので、あまり考える時間はありません。


「あれ、そう言えばわたし」


 何で転生したんでしたっけ。

 と、考えたところで――。


 軽い痛みが、脳に走りました。些細な痛みですが、脳に訴えかけるように、ずっとずっと痛みが走っています。

 つい最近の記憶がすっぽり抜けています。令嬢のわたしではなく、高校生のわたしの方が。


 頭を抱えてうずくまっていると、廊下を歩いているメイドが私に気付いて声を掛けてくれました。その声にはやはり怯えと少なからずの嘲りの色が混じってはいましたが、それでも嬉しくはありました。

 わたしはメイドに介抱されつつ、ひとまずは自分の部屋に戻ります。


「――わたしは、どうしてしまったのでしょうか」


 普通の高校生活を過ごしていたことは覚えています。ですが、その後、その後……ああ、そうでした。

 わたしはゲームをしていたんでしたっけ。


 言うまでもないのですが、わたしが登場している恋愛ゲームです。そこからの記憶は依然としてありませんが、恐らくはそれが関係しているのでしょう。

 妙に実感として湧かないのは、わたしに令嬢としての記憶があるからでしょうか。ふふ、たった十五年で倍を生きてきた気分です。

 おばさん、ではないですけど。


 そうこう考えている内に妙な頭痛は消えていきました。明日も同じような痛みが起こるようでしたら、香澄に相談しましょうか。

 大事には至らないといいのですが。


「……これは、なんでしょ――はい?」


 わたしは机に向き合って、首を傾げました。

 学校の教科書やノートが綺麗に重なる机の上に、乱雑に破かれた紙が置いてあるのです。堂々と真ん中を陣取るそれは、ノートが破かれたものと見ていいでしょう。


 くしゃくしゃになったその紙には、大きく乱雑な文字で「たすけて」と書いてありました。


 誰かのいたずら、は有り得ませんね。わたしにちょっかいを掛けるような肝の据わった方は屋敷には居ませんし、なにより。


「字が汚いというよりかは、焦っていたような字ですね」


 そして、あまり考えたくはなかったことですが。

 この字は、わたしが書いたような気がするのです。


 何となくですが。

 字体が、似ている。


「わたしが書いたのだとしたら……ですがどうして」


 何に対してのたすけてなのでしょう。お勉強をした記憶はあれど、わたしの中にはこのような文字を書いた覚えは一切ありません。


 そこで突然。

 ばさり、どさり、と本の落ちる音が背後から聞こえて、私は振り返ります。


「気味の悪い……ことですね」


 そこには落ちるべき本などなかったはずでした。書架から持ち出した本もありませんし、部屋は依然として綺麗なままです。

 私は背筋に悪寒が走るのを感じました。


 言い知れぬ危険がわたしの身に迫っているような、途方も無い緊迫感と圧迫感。


 何かがいるのであれば、と。

 わたしは勇気を出して扉の向こうへ声を投げる。


「誰かがいるのなら、入って来なさい」

「あ、は、はい! 失礼します!」


 返事がありました。

 すぐに扉は開かれ、中に入ってきたのは……メイドの香澄でした。わたしは安堵の傍ら、恐怖による怒りがふつふつと浮かびます。


「香澄、扉の前で何をしていたのですか?」

「い、いいえ、私は何も、たった今、部屋に入ろうとしたところでした……申し訳ありません」

「そうですか、なら良いのです。何もわたしは怒っているわけではないですよ。

 ただ、あなたはわたしの専属なのですから、もし部屋の前で躊躇しているのでしたら気になさらず入って来て下さい。

 己の立場さえ弁えているのでしたら、気兼ねなく接してくれて構わないんですよ。

 わたしもいつまでも子供でいるつもりはありません」


 全く、入ってくるのなら堂々と入ってきて欲しいものです。

 あなたはわたしの専属メイドなのですから、遠慮などしなくともいいのに。


「それはそうと、香澄。今、本か何かが落ちる音を聞きませんでしたか?」

「……? いえ、そのような音は聞いてはおりません」

「そうですか。いえ、些細なことですからあまり本気にしなくて構いませんよ。

 そうでした、一つ言い忘れていましたが、着替えは自分で行います。

 いつまでもあなたに任せっきりというのも悪いでしょう?」


 わたしはクローゼットから寝衣を持ち出し、自分で着替える旨をアピールします。

 香澄はとうとう言葉も出なくなってしまって、しまいには涙を流し始めました。


「紡姫様……お変わりになられましたのね……わたくしは喜びに胸を打たれております」

「いいえ、わたしはわたしのままですよ。変わったのではなく――」


 びきり、と。

 脳に亀裂が走ったような痛みが起こる。


「――身体、流してきますわ」


 痛み、ではなく。

 悲鳴。

 全身が何かを訴えようと、叫んでいる。

 伝えようとしている。


 わたしは寝衣を右手に抱え、逃げるように部屋から出ていきます。

 香澄に頭痛のことを、伝えないまま。






 こんな時に一人になってしまうのはよくないのかもしれませんが、この屋敷の警備は厳重なはずなので……身に問題はないと思いたいです。


 全身にシャワーを浴びながら、わたしは胸の鼓動が早くなるのを感じます。


 既に、何かがおかしいということには気付いていました。わたしの身の回りで、不穏な空気が流れています。

 メイドや家族に変わった点は見られません。いつもと同じ態度で、少しばかりわたしの行動に驚きを見せていただけです。


 となると、やはり。


「おかしいのは、わたしの周りだけ」


 思い返せば、いくつか不気味な現象が起きています。

 本の落ちる音はそうですが、遡ってみると……皿の割れた音も、水音も、わたしが勝手に納得していただけで――。


「……っ」


 シャワーの水圧を上げ、水の跳ねる音で辺りを満たします。身体は温まっているはずなのに、わたしの身体は寒さで震えています。

 どうして、このようなことになっているのでしょうか。


「たすけて……ですか」


 決定的なのは、破れたノートの紙片に書かれていたあの文字です。わたしが混乱するように仕向けるため、誰かが文字を似せたのでしょうか――では何故あのような言葉に?

 それともわたしが書いたもの?


 覚えが全くありません。


 単純なる予想としては、わたしのことをよく知る人物の犯行ではないのかと思いますけれど……どうしてこんな時に起こってしまうのでしょう。

 いえ、いつ内部からの嫌がらせを受けても文句は言えない娘なのでしたね、わたしは。嫌がらせだとすれば、度を越してしまっていますが……。


 香澄、の可能性は薄いでしょう。本を落とした音は聞いていないと言ってはいましたが、嘘を吐く理由がありません。

 心的ストレスの要因にその嫌がらせを選ぶ意味もないですし、それにわたしは香澄の書く文字も知っているつもりです。


 シャンプーを付けて揉んだ髪の毛にお湯を掛け、手櫛で流しながらわたしは考えます。

 普段の素行の悪さが祟った、のでしょうか。


 一体何が起こっているのか……。


 わたしは物語に出てくるような探偵ではないので、今の情報からではとても真実に辿り着く力など持ち合わせてはおりません。


「……へ?」


 つ――……と。

 撫でるような気持ちの悪い感覚が、背中に起こりました。


 とはいえわたしは髪を洗っている最中で目も開けられず、息を呑むことしかできません。そうしている内に悪寒は消え去り、わたしは溜めていた息を吐いて安堵しました。


 こう気を張り詰めていては、何かと敏感になってしまいますからね。きっと、わたしの考え過ぎなのでしょう。

 それでも、おどろおどろしげに目を開けて確認してみましたが、特に何がいるというわけでもなく。


「浴場が妙に広いのが悪いのですわ」


 恐怖を煽るような広さの設備に文句を言い、わたしは身体を洗い終えて一息吐きました。

 シャワーを止めると、ぽたりぽたりと滴の跳ねる音だけが響きます。


 不気味だと思ってしまうから、不気味なのですね。

 元々水辺にはそのような気配が憑き纏うものですから、気にしないのが一番なのかもしれません。


「全部、杞憂かもしれませんし。今日はもう一冊本でも読みながら、寝てしまいましょう」


 独り言を呟いて、そう暗示させます。

 明日になれば、きっと何事もない日常に戻るのでしょうから。わたしは汚名を挽回するために、日々頑張ればいいのです。


 ぺたぺたとタイルを鳴らして浴場から出て、タオルを掴んで身体を拭います。寒くなる前にと手早く拭いて、ふと着替えを取った時。


 鏡が、目に入りました。


「……ひ」


 そこに映っていたのは――。


 脳味噌。それが鏡の中の生首の上で、てらてらと。生々しいモノ、赤い液が流れて、首へ、胸へ、腹部を肢体を伝って一糸纏わぬ肌を滴る血。


 ――わたしでは、ありませんでした。


 いつの間にかタオルが足下に落ちていました。鏡の向こうのタオルは、赤く染まってどこにあるかわからなくなって、なぜ、なぜ、なんで。

 わたしは一歩も動けませんでした。鏡の中に釘付けにされているように、目が。

 脳味噌はどろどろと溶け出し、汚らしい液体に分離して鏡を埋め尽くし、わたしは腰が抜けて尻餅を付き、すると鏡からそれはなくなりました。


 わたしがそこから姿を離れたからなのでしょうか。


 ……ぺちり。

 頬を右手で押さえます、わたしは、わたしのままです。顔は、ちゃんとありました。


「……逃げなきゃ」


 早くここから離れなきゃ、とわたしは寝衣を手に。

 手に取ったのは、脳味噌。


 なんでそこに、なんでこの手に。赤い、赤い、気味の悪いそれは、わたしの手の中で音もなく破裂しました。びちゃりと肌に張り付いたそれらは、折角洗った身体をまた汚して、汚して、汚す。


 ですがそんなの眼中にありませんでした。わたしは裸のまま右手にべっとりとくっついたそれを床に擦り付けて、心臓をばくばくと鼓動させながら、荒い息をして逃げました。


 扉を開けて、誰もいない廊下をがむしゃらに走って、見つけた扉の中に逃げ込んで。

 勢いよく閉じて、扉にもたれ掛かって倒れました。


 暗闇。明かりのない、薄暗い室内。夜光の差す部屋はほんのり辺りを照らす程度には光っていて、わたしは扉の前で震えているばかりです。

 まだ水滴を拭い切れていないためか、肌が冷えます。ですが、何故か身体の汚れはないように思われました。


 どこにも赤の付着が見つからないのです。


 そうなると安堵が半分、今更ですけど未だに裸という恥ずかしさが半分、込み上げてきます。


「どう、しましょう……」


 錯乱して勢いで逃げて来たまではよかったのですが、着替えなんて持ってきてません。勿論タオルも持ってきていないので、丸裸のままです。

 よく廊下を走っていて、誰にも会わなかったものです……。


 辺りを見回せば、幸いにもここが書架であることが分かりました。一体わたしはどれほど気が動転してしまっていたのでしょうか……入る部屋のことすらも分からなくなるほどに、混乱してしまうとは。


 しかし、あれは一体なんだったのでしょう。鏡に映ったアレを見てしまうと、いい加減に誰かのいたずらだとは思えなくなってきました。

 わたしの幻聴、でしょうか?


「あら、これは」


 ふと視線を下に落とすと、本が一冊落ちていました。誰かが片付け忘れたのかわたしが慌てていた時に落としてしまったのかはわかりませんが。

 中身はどのようなものかと開いてみると、それは何か特殊な本でした。薄暗い部屋ですが、目を慣らせばどうということもありません。


 目を凝らして見ると、そこにはわたしのよく知っている言葉が並んでいました。


 人物の名前が並んでいます。

 これが登場人物。


 舞台となる学校名が記載されています。

 そこは、逢華七桜学園。


「ゲームの、攻略本……」


 そうです。ここに書かれているのは、どれもわたしの登場するゲームの世界のシナリオだったのです。

 様々なルートの中、どれをどう選べばどのルートに入るのかが書いてあって、わたしが喋る言葉や相手との受け答えまでが細部まで記載されています。


 そしてこれは、こんなものは“書架”に置いてあるはずがないものでした。


 ここはゲームの中で、わたしは紛れもない登場人物の一人であるのに。ぱらぱらとめくる内、わたしがどれほど悲惨な目に遭うのかが克明に記されているのを見て眉をひそめます。


「……わたしは、こうなりたくないから、いい子になろうとしているのでしたね」


 とあるエンディングでは慰みモノになっていたり、とうとう勘当されてしまっていたり、家ごと没落してしまっていたり、わたしと長いお付き合いをしていく予定の人が最初からわたしを騙していて最後の最後に裏切られたり、とにかく悪役令嬢に相応しいバッドな終わりが描かれています。

 ――こうは、なりたくなかったから。


 わたしはその本を右脇に抱えて、静かに立ち上がりました。

 ひたひたと肌に残っていた水滴で床が濡れましたが、後で掃除をすることにしましょう。


「認められたいから、こうしたのですわ」


 ぼそりと呟いた独り言は、誰にも聞こえません。








 わたしはその本を抱えたまま、誰にも見つからないよう細心の注意を払いつつ自分の部屋まで戻りました。書架からの位置はそう遠くなかったので、はらはらはしましたけれど見つからずに済んで本当に良かったと思います。


 あんな状態のわたしを発見されてしまえば、せっかく上方修正されているはずのわたしの印象は下がってしまいますからね。それも変な方向に、です。


 浴場に置いてきてしまった寝衣の方は後で回収するとしましょう。


 それにしても、です。


「ようやく、気付くことができました」


 わたしが“わたし”になってから様々な不可解な事の連続で困っていましたけれど……ほんの少し、焦りました。


「どうやら香澄には見られていないようですね」


 最初の位置そのままに放置されていた紙片を手に取って、わたしは嫌らしい笑みを浮かべます。

 それを半分に折り畳んで机の上に置き直し、右手に抱える本を――あら。


「これも、そういうことですか」


 ゲームの攻略本は、すっかりと無くなっていました。でもまあ、頭の中にはあるので良しとします。


 わたしは化粧台にある鏡を覗き込みます。そこに映されているのは、わたしです。


「貴女はもう、要りませんわ」


 そうとだけ発して、わたしはそこから目を逸らします。


 もう、不穏な空気はどこにもありませんでした。

 残されているのはわたしただ一人と、知識に常識――未来予想、ですね。


「わたしに転生してこようとしてきた貴女が、悪いのですよ」


 そうでしょう? 女子高生の貴女。

 いいえ、女子高生はわたしも一緒ですね――それでは、呼び方を変えましょう。


「プレイヤー、さん」


 何の因果があってわたしに転生しようとしてきたのかは分かりませんけれど、あなたの役目は全てわたしが引き受けますわ。

 だって、そうでしょう? わたしの未来をわたしに成り代わった誰かが見るなど、お門違いですわよ。


 その報いとしてはなんですが。

 貰いますわよ、貴女の全部を。


「種も割れたことですし、寝衣を取りに戻るとしましょうか」


 わたしは一人ひそかに微笑んで、バスローブを羽織ります。既にタオルで拭きましたのに、バスローブとは……と思ってしまいましたが、所詮は誤差の範囲内でしょう。

 さほど気にするようなことでもありません。


 そこで。

 丁度部屋に入ってきた専属メイドの彼女に、わたしは毅然とした態度で声を掛けました。


「あら、香澄――丁度良かったですわ。少し用事を思い出して急ぎで戻ってきたので、恥ずかしながら寝衣を浴場に置いてきてしまいました。手間で悪いのですが、取ってきてくれます?」


 わたしは鵜結花うかゆか紡姫つむぎ

 逢華七桜学園に通う――。


 悪役令嬢ですわ。

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― 新着の感想 ―
[一言] 強い! これはきっと転生ヒロインに改心の余地など与えないな。 冷酷な主人公は大好きです!
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