たったひとりの人
※ぬるいエロ描写あり
――彼の話。
帰ってきた部屋は暗かった。もう夕方前だというのに、カーテンも開けず、電気もついていない。だけど人の気配がある。あいつはまだ寝ているらしい。物音にも構わず、買ってきた2リットルペットボトルの茶を冷蔵庫に入れ、代わりに取り出したペットボトルの茶をコップに汲んで飲む。
「あたしにも頂戴」
掠れた寝起きの声が投げかけられた。茶のことだろう。返事もせず、コップに汲んでテーブルの上に置く。
「学校帰り?やばいなー、寝過ぎた。ちょっとアルコール残ってるし」
だらしのないキャミソール姿にも気にかけず、時計を確かめてごく自然な所作で女はタバコを取り出した。大方朝まで飲んで、それからずっと寝ていた、というところだろう。
「ねえ……」
「……」
手が伸びてきた。ヌラヌラとした色をした爪をつけた指が、シャツ越しに筋肉を確かめているようだ。
「なんなの」
「セックスしない?」
男を切らしてる時はいつもそうだ。甘えるように構ってくる。
「最近、見惚れるほどかっこよくなってきたわねえ。ね、ちょっとだけでもさあ……」
最近はセックスの誘いがお気に入りらしく、しつこく言ってくるがまったくおぞましい女だと思う。
「しないよ、母さん」
飲み終えたコップを台所に置いて、自分の部屋に戻ろうとすると、あの女はキーキー怒っていた。
「なによー、反抗期ー!?」
「…………」
何を言われても無視した。部屋に戻って、鍵をかけて、椅子に座った。
あの女は、血の繋がった母親だ。あの年齢にしては綺麗にしているかもしれないが、それがあの女の唯一の武器だった。それ以外は何も残らない、クズみたいな女だとは思っているが、別に憎んだりはしていないし、育てて貰ったという意識もある。ただ、自分はいつかあの女を捨てるだろうという、根拠のない確信があった。
家に帰ったところで特にやることもなく、仕方なく参考書を開いた。何の味もしない勉強。すぐにそれも飽きて、外に出かけることにした。食事はいつも外食で済ませることになっているので、夕食はどこか行った帰りに寄ればいい。
何のあてもなく歩くと、駅前の商店街に出た。
いくつかシャッターが閉まっている店があるものの、人通りは少なくない。
夕方の雑踏に、先を急ぐ人たちと賑やかに連れ立った学生たち。その中に、彼女がいないか探してしまう。黒髪の、制服姿の彼女。もしいたとしても――俺はどうしたいのだろう。
あの日から、彼女は姿を消してしまった。一緒に行くはずだった高校も、彼女は後になって別の女子高に変えてしまった。
文字通り、俺には何も残っていない。あるのはどうだっていい毎日。苛立ちすら放棄した、無味の地獄。
「あっ、今屋くーん!」
呼び掛けられたことに思案を中断して、顔を上げた。
「……真田さん」
顔は覚えているが、名前はなかなか覚えられない。同級生の女子だというのは思い当たった。教師にギリギリ注意されないくらいに髪を染めていて、明るくて活発、クラスの中心にいるような女子だ。特別仲が良かったつもりはなかったが、馴れ馴れしいのは性格だろうか。
高校に入ってからは尚更、他人を認識するのが億劫になってしまった。距離を空けすぎない人付き合いは心得ているため、日常生活には問題はない。
「今屋くん、寄り道?」
「ああ、まあね」
制服のままで家を出たから、勝手に勘違いをされた。どうだっていいから適当に話を合わせると、なぜだか真田さんが俺の隣に並ぶ。
「ヒマなの、今屋くん?な、ならさ、お茶でも、行かない?」
少し頬を紅潮させながら、真田さんは俺を誘い出す。そんなつもりはまったくなかったが、暇で時間を潰すのに困っていたところだ。
「うん、いいよ」
俺は頷いた。
なぜこんなに虚しくなるのだろう。
すべてが下らない。何一つ価値を見出せない世界で、暗がりの中ただ呆然と息をするだけ。まわりを見渡せば、みんな愉快そうだ。どうしてそんなにバカみたいに笑ってられるんだろう。
もう、どうだってよかった。死なないからここにいるというだけで、何の希望も感想も持ち得ない。勝手に時間は過ぎていき、勝手に泥をかけあっていればいい。俺はそれを傍観するだけ。無気力に地獄を耐えるだけ。
彼女の話は、ほとんどがどうでもいいことだった。俺との共通点を探し、確認をし、共感を強調するという作業だった。俺が演技をして、やや大袈裟にでも話に乗ると嬉しそうにする。バカバカしい。
「ね、ね……連絡先交換……しない?またお茶しよう」
帰り際、彼女から提案があった。
彼女の好意はわかりやすかった。繁殖力旺盛なことだ。顔は悪くない。うるさくて目障りなところもあるが、暇潰しにはちょうどいいかも知れない。
あと何年で死ねるのかわからないけれど、暇はいくらでもある。
「真田さんてさ、なんで髪染めてるの?」
「え……?」
彼女の髪を指先で掬う。傷んだ毛先だ。
「黒い方が似合うと思う」
ほとんど、無意識のうちだった。真田さんは顔を真っ赤にしてうつむいて、コクコクと首を縦に振っていた。
ほどなくして、真田さんと付き合うようになった。
付き合うと言っても、たまに一緒に帰るくらいで、メールとかは面倒なので受け流すことにしていた。性欲処理にでも、と思っていたが、不思議なほどにそんな気は起きなかった。
帰り道、キスをするタイミングがあってもはぐらかした。心の底であったのだろう、こいつじゃない、と。
でも、いつまでもこうしてはいられないとは思っていた。手に入れられない彼女を何十年も想い続けて生きるなんて、耐えられない。だから、忘れてしまうしかない。一人じゃ駄目なら複数でもいい。女を覚えて、彼女の残り香を掻き消してしまわなければ。
「きょ、今日さ……両親留守で……うち、誰もいないの……」
思いがけず、真田さんの方から誘いがあった。まったく、繁殖力旺盛なことで。ありがたくその誘いには乗ることにした。
彼女は初めてじゃなかった。コンドームすら用意しているくらいだった。キスはやっぱりやめた。
セックスは悪くないものだった。少なくとも、射精するまでの高揚は、生きていることを実感する。それからはたびたびセックスをするようになったが、俺はきっと真田さんとセックスしているわけではないのだろう。彼女は代替品だ。
彼女とは2ヶ月ほどで別れた。理由は覚えていない。もしかしたらフラれたのかもしれない。彼女を人間として扱っていなかったから当然だろう。でも、痛くも痒くもなかった。次はすぐに見つかったし、また遊びのセックスに興じた。
なぜ、こうなのだろう。何が不満なのか自分でもわからない。何も楽しくないし、全てにおいて気だるい。
セックスと音楽だけが、味のない砂を噛むような日々に精彩を溢す。このまま、ぬかるんで死んでいくんだろうか。どうせなら早く死ねればいいのに。こんな世界に意味なんて無いのだから。
「……どちら様ですか」
「はっ……?」
たまたま授業をサボって帰ってくると、知らない男が家に居た。母さんは男と旅行だ。作業服のようなものを着てるし、間男というわけでもなさそうだった。
「…………………………」
「ま、待て待て!」
通報だな、と携帯を取り出すと、男は慌てた。
「……なんですか?」
「いや、電気の点検なので、今、警察呼ぼうとしただろ!?」
見たところは20代半ば。太い黒縁の眼鏡をかけてる。一人だ、他に気配もない。だいぶ慌てている。
「電気?って、これですか?」
リビングの棚の引き出しから、小型の盗聴器の残骸を取り出した。
「っ!?」
「意外だな。わざわざ回収するものなんですか?万が一にも見つかったらまずいものだったとか?」
男の目は、俺の手元に固定されていた。どうやら余程回収したいものだったらしい。
「い、いや、自分はそんな盗聴器とか、心当たりが……」
「よく盗聴器ってわかりましたね」
「!!」
好奇心から解体してみた基盤のクズを一目で判断できるとは、やはりこれを仕込んだ関係者で間違いがないようだ。どうでもいいが、俺に見つかることを含めて迂闊な人だ。
「……別に、好きに持って帰ってもらって構いませんよ。それ意外にも隠してあるんだろうし」
盗聴器の残骸をテーブルに置いて、台所に入る。
「……それが最後の一個だったんだよ」
観念したように男は白状した。
「そうですか。あ、お茶飲みます?」
「……飲む」
飲むんだ、と思いながら、戸棚からコップを2つ取り出した。
「別に深くは詮索しませんけど、おじさんは何者なんですか?」
「お兄さん、だ」
少しムッとしながらお兄さんは訂正した。
「それはこっちの台詞だ。なんで探知機にもかからないこれを見つけて、しかも盗聴器だとわかったんだ?」
コップを取った男は、話をはぐらかしながらこちらを探ってきた。俺以外に、他に気付いている者がいないかを知りたいのだろう。様子からして、個人的な興味でこの家を監視してたという訳でもなさそうだ。
「盗聴器に凝ってた時期があって、たまたまですよ」
「なんだよ、盗聴器に凝るって……犯罪だぞ」
「お言葉そのまま返します」
俺が反論すれば、男はギクリとしたのちに知らない振りを決め込んだ。
「……誰が狙いだったんですか?」
「……詮索しないんじゃなかったのか」
今度はこちらから探りを入れてみると、男は慎重に返してきた。
「これ、集音機能もさることながら、記録を取って決められた時間にのみ電波を発する。解体しても、メーカーの名前一つ出てこない。こんな技術と手間のかかることを、どこの誰がやろうというのか。興味はありますね」
「……お前、本当に何者だ?」
男は俺を睨む。
「間宮千里の息子、としか言いようが」
敵対意識をかわすように、事実だけを口にする。
「うちにどんな人種が出入りしてるかぐらいはなんとなく知ってます。俺には関係ないから、お兄さんが何者であろうとも構いません。ここで黙って帰っていくのなら、それでもいいですよ。母さんにも誰にも、盗聴器のことは話してませんから」
コップのお茶を飲み干すと、男はずいぶん気の抜けた顔をしていた。
「はあ……つーか、怒らないのか?盗聴されてたこと」
「別に」
頬杖をついて、カーテンがしまったままの窓を見る。まだ真っ昼間だから、カーテンがまぶしいくらいに光に透けている。
「あ、そ……」
男もそう返事をしたきり、何も言わない。
「……………………」
「………………」
「…………………………」
「…………」
沈黙の後、男は立ち上がった。
「帰る」
「どうぞ」
玄関まで見送ると、男はばつが悪そうだ。荷物は、工具入れ一つ。他に大がかりなものもない。
「お兄さん、その職業向かないんじゃないですか」
「うるせえ。給料はいいから気に入ってるんだよ」
ぶっきらぼうに言いながら、懐から折り畳みの草履を出した。緊急事態用にそこまで用意してるとは、場馴れを要される職種らしい。
「はあ……ついてねえ」
草履をつっかけた男は、吐き捨てるようにつぶやいた。
「お前、もう学校サボるなよ」
そうとだけ言い残して男は帰っていった。
結論を言えば、彼とは約一ヶ月後に再会し、それからしばらく定期的に会うようになる。
名前は瀬下アトム。本名らしい。
うちでやっていた盗聴は仕事であり、更に言えば公務員である。警察とはまた違う管轄にある情報収集と処理に特化した特別機関に属しているという。
治安維持を目標とした公安活動、政府や各省庁などの要請による諜報活動や、他国のヒューミント(要人への協力の勧誘、誘発、恐喝のこと)やその他諜報行為の阻止が主な職務内容であり、公務員ながらも違法な手法を使うことも多く、当然存在自体も機密にあたる。
スパイなんて言ってしまえば映画のようだが、やってることはまるで地味な情報収集。
「それも、リスクがついてまわる役回りの請け負いだよ。ま、うちの部はやってることが真っ黒で重労働な分給料はいいし、上にも行きやすいけどな」
と、本人が言っていた。
彼がうちの人の出入りを監視していたのも、まあなんとなくは想像もつく。母さんの客の中に、あるいは身内に、公的機関に目をつけられるような存在がいても不思議なことではない。
紆余曲折を経て、俺は月七万で週一、瀬下の手伝いをするようになった。金は瀬下個人から支払われる。
手伝いと言っても、大したことはしない。書類をまとめたり、下見を代わりにやったり、そんな程度だ。俺の働きは良かったらしく、瀬下はえらく俺を気に入った。
瀬下は、なんていうか印象通りの男だった。ぶっきらぼうだがさみしがりや、毎週少年ジャンプを買い、ジャンクフードを好むような男。何事もリアクションがでかい。酒が好きらしく、たまに連れていかれたと思えば、「ちょっといい私大を出たくらいじゃ官僚で勝ち抜くのは難しい」とか云々で二時間話せる。あの二時間は本当に無駄だった。
多少抜けているところはあるが、切れ者であることも間違いがなかった。若くして今の部署に抜擢されたというのは、無作為な人選ではないと言うことだろう。
俺にとって、瀬下のような人物は初めてだった。瀬下は、仕事の内容こそ違法なことばかりだったが、至って普通の公務員の感覚と常識を持っていた。
つまり、案外いいやつだった。他人の心配をしたり、お節介を焼いたり、見知らぬ人の手助けもする。俺でも一応テレビや本で道徳というものは知ってはいるけれど、目の前で実践し手本を見せるような大人は俺の回りにはいなかった。
瀬下との関係は、なんといえば正しいのだろう。雇い主であることは間違いはなかったが、友人、先輩、兄弟、どれもしっくりこない。形容できることが全てじゃあない。それで困ることはないので、俺は気にしないことにした。
「お前、あの家出ろよ」
仕事終わり、いつもの焼き鳥屋でだいぶ酒が進んだところで、瀬下がぽつりとこぼした。
「なんで?」
そんなことを言うのはめずらしかったので、つい意図を探ってしまう。
「なんでも何もないだろうが」
知らない男が出入りする娼館を実家と言ってしまうのはあまりにも、と言うことだろうか。瀬下は、酔っ払ってはいたが、真面目な大人の目をしている。
「お前にはもっと真っ当なところが似合う」
俺の内情を知った上で踏み込んでくる大人なんて、今までいなかった。そのことを恨めしく思ったことはなかったが、心配されるというのはこんな気持ちなのだと、今更ながらに知る。
「大学へ進学したら出るつもりだけど」
「……そっか。金貯めてんのか?」
ウーロン茶を飲む俺に、瀬下は焼酎を煽る。
「まあ。瀬下のところとは別にバイトもしてるから、そこそこ」
特別やりたいことがあった訳ではないが、あの家に留まり続けることは拒否したい。瀬下から手伝いの要請を受けたとき、何よりもいくら稼げるかを尋ねた。先立つのは金である。
「えらいな」
「……えらいというか」
これは余儀なくしていることだ。俺は居心地の良い居場所を持っていないのだから。
「大学はどこ目指すんだ?」
「東大」
「へえ………………」
焼酎ロックのグラスを揺らして、瀬下はたっぷり間を取った。
「はっ?」
そしてやっと声を発する。
「だから東大」
「なんでんなウソつくんだよ。バカ言え、東大だぞ!」
「この前法学部で模試B判定出たけど」
「…………」
瀬下は絶句していた。
「っくしょ~!なんだよなんだよ、イケメンで足長くて頭もいいのかよ!」
そしていじけ出す。
いい年した大人なのだから、そんなに取り乱すこともないだろうに。
「元気出して、うざいから」
「励ませよ!」
つっこまれてしまったが、気にせず砂肝をつまんだ。
「……お前、モテそうだな」
「ええ、まあ」
「否定しねぇ~」
受け答えただけなのに、瀬下は突っ伏して泣き出した。
「……でも、あんなもの、うざいだけだし」
今も切れない程度に遊び相手はいるけれど、それだけだ。うるさくて自分勝手で無知で浅ましい生き物たち。あいつらの喚き声を聞かされるよりか、こうして瀬下に絡まれているほうが幾分ましだ。
「え、なに、悠人はホモなの?」
「怒るよ」
「ごめんなさい」
あっけなく謝ったあと、でもさあ、と瀬下は話を続けた。
「もったいないね。俺がお前なら謳歌するよ。下校のときに女の子後ろに乗っけてチャリ2ケツとかさ~、いいよね、青春」
焼酎片手に夢を語り出したが、それに乗っかる気は到底起きない。
「……好きでもない相手に盛り上がれって言われても」
確かに一緒に帰る相手を探すのは難しくないかもしれない。それは恵まれているのだろう。でも、どんな女を連れて歩いたって、あの喪失感は埋まらない。
「もしかして、悠人って……恋したことないとか?」
尋ねられて、自嘲気味な笑いが口から漏れた。
「……初恋はしたよ。一人の女の子に」
あんな好きだった子はいない。どんなことをしても手に入れたいと願った子。
「なんだ、どんな子なのさ」
「そりゃ、とても可愛くて」
人にこんな話をしたことなんて、そういえば無かった。どう話せば伝わるだろう。彼女は唯一の人だ。俺の全てだった、美しい人。
「やさしくてあたたかくて、押しに弱くてでも強情で、他人のために自分をおろそかにしてしまう人で、誰よりも凛として、嘘をつくときこっちを見れない正直な子で……」
いくらでも彼女を紡ぐ言葉は出てくる。まだ、彼女を間違えずに思い描ける。忘れたかったのに、何一つ俺の中から消え去ってくれない。俺に笑いかける声も、俺を睨むあの目も、触れたときの体温も。
「……悠人、悠人」
ハンカチを差し出されて、やっと気付いた。涙が、ひとりでにこぼれていた。
「びっくりした……」
「いや、それ、こっちの台詞」
ハンカチは使わず、目頭を押さえた。瀬下は苦笑いしながらハンカチをしまった。
「初恋って言ったって、まだその子のことが好きなんだな、お前」
「そう、みたい、だね」
この一年半はいったいなんだったんだろうと思うくらい、亜子への気持ちは色褪せてなかった。
自分でも不思議な気分だ。他の人間を代理にできてしまえば楽なのに、とは理解している。喪失感さえ埋められれば、俺だってきっとここまで腐ることなく、人並みに生きてはいけるはずだ。心はこんなにも制御の効かないものだったのだろうか。
「何、別れたの?」
「いや、完全な片思い」
「はあ~、わからないな、現実ってのは。お前が片思い?で、フラれたのか?」
「なおかつ嫌われた」
最後、何を言われたんだっけ、と思い出してみる。ああ、そうだ、『残念だけど、貴方のことが大嫌い』、だ。
あの亜子にそう言われてしまえば、俺はもう動けなくなってしまった。あの時、俺は死んだのだろう。今は亜子の面影をそこかしこに探す、ただの亡霊だ。
「事情はまあ知らんが、一回フラれたくらいでふてくされるのか?」
「……どういう意味?」
ウーロン茶を飲み干して、瀬下の話を促した。
「もう一回くらい当たってみりゃいいじゃんか。お前、冷めたやつだと思ってたけど、そんなに好きな子がいるなら逃がすなよ」
「…………」
もう一回、なんて考えたことがなかった。でも、どうやって?俺は彼女に憎まれてる。謝って許してくれるのか?許してくれたところで、愛してくれるのか?
……彼女の声をもう一度聞きたい。彼女と見詰め合いたい。彼女を手に入れたい。
一度思い出した想いは、熱を持って俺の中を駆け巡った。それを自覚したら、もう自分でも止められない。
「ありがとう」
「おう?」
店員を呼び止めてオーダーをしていた瀬下に、礼を告げる。
「おかげで生き返った」
「……?」
膠が剥がれ落ちたように、世界が鮮明になる。
やはり俺を生かしてくれるのは亜子なんだ。亜子だけ。俺には、亜子しかいない。