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生きる意味

挿絵(By みてみん)


――彼女の話。








 私は緊張しながら掲示板を眺めていた。自分の受験番号があるか、注意深く確かめる。


「あ、あった……」


 つい声が出てしまった。見間違いじゃないか、もう一度受験番号を見比べる。あってる。

 嬉しくて、私はすぐに携帯を取り出した。お母さんにメールしてから、やらなきゃいけない手続きのことを確かめた。


 高校卒業後、私は別に働きに出てもよかったけど、大学へ行くようにお母さんが強く薦めるから、勉強を頑張ることにした。片親であることに負い目を感じるな、と言うことだったのかもしれない。お母さんは私の学費のためにずっと働いてくれていた。だから、頭は良くなかったけど、少しでも学費を抑えるために公立の大学を目指した。おかげで一年浪人しちゃったけど、今日結果が出て本当に安心した。


『やったね!今日はすき焼き!!』


 お母さんからのメールに、幸せを実感した。頑張ってよかった。心からそう思えた。




 高校は公立の女子高だった。

 中学校での事があり、ある日を境に私は学校へ行かなくなった。卒業式すら出席しなかった。でも、高校では何事もなく三年間通うことができた。クラスのみんなが仲が良くって、湿り気もなくて、明るく過ごせる毎日だった。

 それでもやっぱり目立つ方ではなかった私だけど、穏やかな日々にたまに中学校の頃を思い出す。何があったのか詳細まではだんだん忘れてしまっていくけれど、惨めな気持ち、感情の切り離し方、抉られるような痛み、それから恐怖。それらの感覚はいつでも取り出せて、たまに夢にまで見る。

 きっと私はあの時自分を見限ってしまったんだ。こんな程度の人間だって、知ってしまった。自分を卑下する癖はなかなか抜けなくて、でもそれは私が誰かを見下すことがないという証明でもあった。こんなことずっと考えてるなんて、私はきっとよっぽどな根暗だろう。

 それに比べて、お母さんはなんでこんなに明るいんだろう。


「ほらあ!これ、いいお肉なんだからー!」


 お母さんは、すき焼き用に自分で買ってきたお肉にテンションが上がっていた。

 私のお母さんは小柄な身体に元気が詰まってるような人だった。父は私が九才の頃亡くなり、それ以来母は女手一つで私を育ててくれた。明るくて朗らかでなんの暗がりもない人で、それから私に甘えるのが上手だった。私は頼られるのが嫌いじゃなかったから、家事とかは率先してやっていたし、お母さんが喜ぶのがとても嬉しかった。


「サニーで買ってきたの?」


 サニー、というのは、お母さんのパート先のスーパーマーケットの略称だった。正式名称は『サニーマート』で、地域密着型の小さなチェーン店舗だ。


「そう!ユウ君がおまけしてくれたの」

「ああ、大学生の」


 ここ数ヶ月、お母さんはユウ君という男の子の話をよくする。私と年が近いようで、大学生のバイトというのは聞いている。とても良い好青年らしくて、若いのに気が利くし、よく働くし、その上イケメンらしい。当然パートのおばちゃんたちのアイドルで、お母さんも例に漏れない。


「じゃあ味わって食べないとね」


 すき焼きの用意が終わると、お母さんは早々に缶ビールを開けて仏壇のお父さんのコップに注いだ。

 それから一番にお父さんにすき焼きをよそう。正直毎日きっちりご飯やお水を替えてるわけでもないし、線香も思い出したときしかあげてない。でも、お祝い事のごちそうは、きまってお父さんが一番だ。


「一隆君、亜子はがんばったよ」


 お母さんが写真のお父さんににっこり笑う。私も、お母さんの隣でお父さんの遺影を見る。

 警察官だったらしいお父さんのことはほとんど覚えていないけど、お母さんが今でもこんなに好きな人なんだなって思う。お母さんがお父さんのことを話すときは、すごく嬉しそうで、私はその話を聞くのが好きだった。本当はもっとお父さんと一緒にいたかった。きっと、今日だってお父さん喜んでくれただろうから。


「さ、飲もう!食べよう!飲もう!」

「……なんで飲もうを二回言ったの」


 私たちはすき焼きの前に戻って、今日の手続きの話やらをしながらお肉を堪能した。ビールを何本も空けるお母さんに書類関係の話をしたところでどれだけ覚えててくれるかわからないけど。


「一隆くーん!飲んでるかー!」


 酔っ払ったお母さんはいつものごとく仏壇のお父さんに突撃しに行った。減るはずのないコップにこれ以上ビールが注がれないように、私はお母さんを制止してお布団を敷く。たぶんまあ、あの一連のやりとりは布団を敷いてくれっていう合図のようなものなんだろうけど。お母さんは強くないのにお酒が好きだからちょっと心配になるけど、私も一緒にお酒が飲めるようになったときが少し楽しみだ。二人してぐでんぐでんになったら目も当てられないけど。

 私は電気を消して、空になったすき焼きの鍋を片付けることにした。


 大学に入ってからの新生活は、なるべく自分にとって重要そうなものとそうでないものを選り分けるところから始まった。

 授業の選択、バイト、時間配分。大学生活を目指して今まで必死に勉強してきたけれど、これからは違う目標を立てなきゃいけない。将来のことなんてまだ決めてはいないけど、なんとなくおぼろげに、小学校の先生なんてどうだろうって考えていた。

 まだ本当にそう確信しているわけじゃないけど、教育学科を受けたのはそれを少し意図していたからだ。


「他校との合同サークルなんてあるんだー」

「テニス、フットサル、落研?色々あるね。やば、合同先、早稲田とか東大とかじゃん」


 通りすがりの人の会話が聞こえた。サークルか、なんて考えてみるけどやっぱりやめた。中学高校と部活には入ってなかったし、サークルなんて華やかなものとは無縁でいいし、それよりバイトをいれた方がきっといい。

 大学デビューなんて目論むこともなく、私は地味に授業を受けるだけだった。

 でも不思議なことに、何個かの授業でよく見かける人達と少しずつ席が近付いていって、誰かともなく話すようになって、一緒に授業を受けるまでになった。こんな風に友達ができるのは、やっぱり嬉しい。

 よく話すようになったのは私を含めて五人で、女の子ご三人、男の子二人だ。みんな教職か公務員を考えていて、就職にちょっと不安があるみたい。年齢の話にならなかったから、私が一年浪人したことを言えなかったのが少し心残りだった。


「私フットサルのマネージャーしてるよ」


 サークルの話になったとき、仲の良かった一人、黒河マリカという女の子がそう言った。


「フットサルって、確か東大と合同だったよな」


 バスケの同好会に入ってるという冬馬君がマリちゃんに聞いた。


「うん、そう。女子たちはギラギラしてるよ~フットサルやってる東大生なんて格好の獲物だから」

「うわ、肉食」


 この授業を受けてるのはこの三人。授業が始まるまでもうちょっと時間がある。


「亜子ちゃんはそういうの入らないの?」

「うん、バイト忙しいし」


 話を振られるけど、私は無難なことしか言えない。


「亜子ちゃんクールだからなー」

「バスケのマネージャー大歓迎だぞ、入野」

「やだ」

「っつーかバイト忙しいっつってんだろ」


 間髪いれず拒絶すると、マリちゃんから援護射撃がくる。マリちゃんは小柄で可愛らしい雰囲気なのに、結構毒舌な冗談を言ったりする。ひどい、と冬馬君が笑って、私たちも笑った。




 バイトは週4日ほど入れてる。授業をいっぱい取ってる分どの日もあまり長く働けないけど、バイトは貴重な収入だ。少しでも多く生活費や学費の足しにしたい。

 本当はおじいさんがやってるような小さなお店の店番、みたいなバイトが良かったけど、入れる時間や融通を考えればそうもいかない。今はチェーンのコーヒー店の仕事を少しずつ覚えてるところだ。先輩たちが優しくて、どんくさい私も大きなミスなく働けてるからありがたい。


「お疲れ様でした」

「おう、気を付けて帰れよー」


 社員さんに見送られて、私は店を出た。普段お母さんが寂しがるからしないんだけど、今日はたまたま人がいなかったから閉店までバイトに入っていた。

 コーヒー店だけど飲み屋から連れ立ってコーヒーを飲みにくるお客さんが多いので、金曜の夜なんかは閉店まで賑わう。慣れない時間帯と客層に戸惑ったけど、足を引っ張らず社員さんを助けられたならよかったな。

 地元までは電車で三駅。駅のホームで、人の多さにちょっと辟易してしまった。乗換駅だし飲み屋も多いから、特に金曜の夜は電車が混む。こうなると時間をずらしても意味がないし終電とかの方が混みそうだから、意を決してぎゅうぎゅうの電車に乗り込んだ。


(……つらい)


 足の位置や体勢に気を付けて人の迷惑にならないようにしてみるけど、そんなの関係無く寄りかかられたりカバンが当たったりする。

 お酒とタバコの匂い。気にしないようにしているけど、後ろの人の手が押し当てられているような気がする。スカートではないけど、内股に届きそうなくらい手が入ってくるのは相当不快だ。それでも自意識過剰だったら嫌だし、なんとか体の方向を変えて後ろの人の手から逃れた。


(……変だ)


 後ろの人の手は私のおしりを追いかける。そればかりか指先がかすかに動いてる。これは明らかに故意だ。


「何してんだよ」


 後ろの人の手をつねってやろうとした矢先、男の人の声が鋭く車内に響いた。


「痴漢、してたよな?」

 私のすぐ隣にいた若い男の人が、サラリーマン風の男の人の手を掴んでいた。あれが私の尻をまさぐっていた手のようだった。


「な、なんだよ、言いがかりだぞ!俺は今居眠りしかけてて……」


 サラリーマンは慌てていたが、男の人は怯むことなく堂々としていた。


「私、見てたわ。女の子嫌そうにしてたのに、この人それ目を開けて見てたし」


 OL風の女の人も味方してくれた。サラリーマンは「ちがう、やってない」と訴えたが、車内はザワザワしてサラリーマンに不利な空気を作っていた。

 その間に次の駅に到着し、扉が空いた。


「降ります。悪いけど、君もいいかな」


 サラリーマンの手を掴まえたままの男の人に、満員電車の中の皆が道を譲るようにする。

 バイトから帰ろうとしただけなのにこんなことになるとは思っていなかったけど、助けてもらったんだし知らないふりをするわけにもいかず、私も一緒に降りることにした。サラリーマンを含む私たち三人は、駅員室に向かった。男の人の力は強いらしくて、サラリーマンの腕をあっという間に捻って逃げられないようにしている。


「大丈夫だった?」

「え?」


 男の人が、私に声をかけてくれた。

 明るい金髪を伸ばし、顔立ちは整っていて、見た目は軽そうな感じ。どこかで見かけたことがあるような気もするが、思い出せない。電車か町中で見たことあるのかもしれない。


「怖かったでしょ」

「あ、ああ、ええ、まあ」


 気持ち悪さはあるが、どちらかといえば戸惑いの方が強い。でもそんなことを言っても可愛いげがないし、適当に頷いておく。

 他の車両から降りてきた人達なんかにもじろじろ見られながら、改札口前の駅員室へ行き、事情を説明した


「ちがう、ちがうちがう!俺はやってない!!冤罪だよ、冤罪!!え!?どうしてくれるんだよ!!!」


 男の人が拘束を解いた途端、サラリーマンが大声で喚きはじめた。駅員さんが二人がかりでサラリーマンをなだめて、残りの優しそうな駅員さんが私の話を聞いてくれた。

 私の説明はずいぶん下手だったけど、大体のことを聞くと、男の人にも何があったかを尋ねていた。

 男の人は私が嫌がる様子や電車の中での証言などを詳細に語ると、あとはもう警察が酔っ払って喚いて仕方ないサラリーマンの身柄を引き取るという話になった。


「どうもありがとうございました。ご親切に助けていただいて……」


 私はまだ警察を待たなきゃいけないらしいので、帰りがけの男の人に深々と頭を下げてお礼を言う。男の人は何でもないように手をふった。


「たいしたことしてないよ」


 それでも私の気はおさまらなくて、後日お礼を届けさせてほしいと言っても、名前すら名乗らず男の人は帰ってしまった。見た目はちょっと怖そうなのに、気さくで優しそうで、いい人だ。

 駅員さんが呼んだ警察が着くと、私の連絡先を伝えて、それでもうその日は帰ってよくなった。サラリーマンが酔っ払っていることもあるし、帰る電車の時間もあるので、駅員さんから警察に説明してくれるという話になった。

 こんなたくさんの大人を巻き込んでしまうとは思わず、駅員室から出るとやっと帰れる、という思いが強かった。

 お母さんに今のこと言って余計な心配かけるのもなあ、と思ったところで、満員電車の最終電車がホームへ滑り込んできた。




 私が満員電車の痴漢の話をすると、マリちゃんは「チカン最っっっ低」と怒りをあらわにしていた。


「で、そのあとってどうなるの?」

「一回警察に行って警察の人がまとめた告訴上を確認して、これで告訴しますから、って」

「え?裁判とかすんの?」

「面倒ですって警察の人に言ったら、多分相手は示談を交渉してきますからって」


 そんな風に手にしたお金もなんだか厄介だ。ただバイトから帰るだけだったのにまさかこんなことになるとは思わなかった。


「でも、そんな風に助けてもらえるって、ちょっと嬉しいよね。フラグ立ったんじゃない?」

「いいよ、フラグなんて」


 マリちゃんが望むような展開はきっとない。私はあんまり男の人が得意じゃなくて、免疫もない。私はなるべく当事者ではなく傍観者であるように努めているから。それに、ああいうシュッとした男の人に彼女がいないはずないし、別世界の話だ。


「何?フラグって」


 授業が始まるちょっと前、いつものメンバーが集まり出した。冬馬君が会話に割り込むように私たちの前に座る。


「亜子ちゃんの王子様の話!」

「ファッ!?」


 マリちゃんに冬馬君がまんまと煽られる。


「嘘だよ、冬馬君」


 あまり大勢に聞かせる話でもないことをマリちゃんも理解してくれて、架空の王子様話を冬馬君や他のみんなにして、私が完全否定することでこの話は終わった。

 王子様だろうとなんだろうと、あの人とはもう会うことはない。お礼くらいはしたいな、とは思ったけど、お礼と言っても菓子折りくらいしか思い付かなくて、それならただの私の自己満足なんじゃという気がしてきて、今日はそのことを考えるのは止めることにした。


「今日言ってた王子様って、元ネタでもあるの?」


 三時限目が終わってバイトまでの時間、大学の図書館でレポートの作成をやろうかな、と思っていたら、同じく空き時間をもて余している冬馬君も一緒に行くという話になった。

 断る理由もなかったけど、二人きりというのは少し気まずい。マリちゃんはサークルがあるらしく、他の子は別の授業だったり帰ったりしてしまった。あまり気まずい空気を出しても冬馬君に悪いので、私はポーカーフェイスを心掛けた。感情を顔に出さないのは得意だった。


「元ネタ?って?」


 マリちゃんの作り話を蒸し返されるとは思わなくて、最初冬馬君がなんのことを言ってるかもわからなかった。


「いや、だって、なんもないのにいきなりあんな与太話するか?」


 痴漢されたことを吹聴するつもりは全くなく、冬馬君は変なこと気にするな、と率直に思った。どう言ったらいいか少し考えて、適当でいいやと結論付けた。


「実は私かぐや姫だから王子様の迎えが」

「嘘だろ」

「うん」


 冬馬君も私が適当に答えていることを察して、それ以上ツッこむこともなかった。意味のないことを懇々と説明するのは苦手なので、それでありがたい。


「……マリちゃん、いるかな」


 図書館へ向かうには、テニスコートやグラウンドのそばを通ることになる。ここは都心部から外れたところにあるので敷地面積は広い。だから合同サークルなんかもたくさんあるのだろう。マリちゃんがマネージャーをやってるフットサルサークルも、このグラウンドにいるはずだ。

「それらしいサークルは見かけないな」


 グラウンドにはそれなりに人がいたけれど、マリちゃんの姿は見えない。それもそうか、と思っていたら、近付く人影があった。


「こんにちは、また会ったね」


 立ち止まられて声をかけられ、冬馬君の友達かなにかと思っていたが、そうじゃないとすぐ気がついた。金髪の長髪、痴漢で助けてくれたあの人だった。


「あ!あのときの!」

「覚えててくれた?」


 クスクス、と笑うこの人が身に付けているのは、ゼッケンのようなものだった。どこかで出会ったことがあるとは思っていたけど、同じ大学だとは思わなかった。

「その節はありがとうございました」


 よく知らない人と話すのは緊張するけど、お礼お礼、と考える。まさかこんな場所で会うとは思わないし、当然菓子折りすら手元にない。


「あのあとは変な人に遭ってない?」

「はい、あの人も警察の人が告訴上を作ってくれて」

「よかった。君可愛いから、変なやつに目をつけられやすそう。気を付けてね」


 か、可愛い……。嫌味がなく自然過ぎて、否定し損ねてしまった。軽そうに見えるし、女の子を褒めるにも慣れているんだろう。ここはお世辞としてありがたく受け止めておく。


「あ、その、同じ大学だったんですね」

「あー、君はここの学生か。実は俺、サークルでここに来てるだけで」

 そうだとしたらもっと奇遇だと思った。そう言おうとすると、グラウンドの向こうで誰かが誰かを呼び掛けている。


「あ、呼ばれた。じゃ行くよ」


 グラウンドに手を振る彼に、私は慌ててカバンのポッケを漁った。


「あ!あ、じゃあ、これ、お礼……」


 出てきたのはいちご味の飴玉一個。情けない手持ちだけど、このまま見送ってしまうのも失礼な気がした。


「こんなもので恐縮ですが……とりあえず気持ちです」

「気にしなくてもいいのに。でも、ありがとう、ありがたくいただく」

 私の手のひらにある飴玉を取って、にっこりと微笑んだ。アイドルだったら黄色い悲鳴が沸き起こりそうな、キラースマイル。結局名前も知らないまま、男の人はグラウンドへ帰っていってしまった。


「……今の、誰」


 すっかり存在を忘れていた冬馬君が、ぽつりと口を開いた。


「えーと……王子様の元ネタ」




 その後は、レポート作成というより、冬馬君との世間話の時間になってしまった。

 ついあの男の人との会話の中で告訴上とかなんていう言葉を使ってしまったから、本当のことを避けて伝えるのも限度があった。

 痴漢されて、という話からすると、冬馬君は「チカン最っっっ低だな」と怒ってくれた。前々から思っていたけど、マリちゃんと冬馬君はなんか似てる。


「でも、ずいぶん偶然だよなあ、まさかこんなとこで会うなんて」


 冬馬君の一言が、私の心情を表していた。本当に、こんなところであの日のあの人に会えるとは思ってもみなかった。


「おかげで飴くらいしか持ってなかったよ」

「いーんじゃん、飴で。別に本当に見返りが欲しかったわけじゃないだろうし」


 軽く肯定されるのがなんかリアルで、今はちょっと嬉しい。


「ね、飴玉さっきのが最後なの?」


「ううん。もう一個あるけど?」

「じゃ、ちょうだい」


 甘いものが好きだとは思わなかったけど、残ってたのはレモン味の飴玉。冬馬君にあげると「サンキュ」と、早速口に含んでいた。


「……なあ、王子様って」

「え?」


 ノートを広げてやっとレポートをまとめようとすると、冬馬君が思い出したように王子様の話を持ち出す。


「王子様って、入野はああいうのが好み?」


 そんなこと聞かれるとは思わなくて、私はとても変な顔をしてしまっていたと思う。


「え?いや?別に、王子様とか私はどうでもいいから」


 冬馬君はちょっと難しそうな顔をして「そうか」とレポートに向き直ってた。

 男の人が全体的に苦手、と言ってしまうのもなんか冬馬君に悪いし、なんて答えるのが正解なのか私にはわからなかった。




「こんにちは」


 授業が終わり一人で大学から帰ろうとすると、不意に声をかけられた。振り向くと、例の金髪のお兄さんだった。


「あ、こんにちは」


 会釈をすると、お兄さんは少し足早になって私との距離を詰めた。


「今帰り?」

「はい」

「ずいぶん遅い授業取ってるんだね」


 時計が指しているのは、日も暮れかけた18時前。大学の授業にしては遅めの時間帯だが、教職を取るための授業は他のと被らないためにこんな時間になってしまう。そう言うと、お兄さんは「へえ、教師になるの?」と笑った。


「いや、まだわからないですけど。可能性として選択肢広げてるだけで」

「偉いね。俺なら遊ぶ時間が欲しくてギリギリの単位しか取らないけど」


 別に自分が特別偉いとは思わないけど、お兄さんの単位の取り方は、とても見た目に適っているように感じる。


「あの、そちらはサークルの帰りですか?」


 キョロキョロと見回すけど、お兄さん以外の人は見掛けない。私が他のサークルの人がいないか気にしてるのを察して、肩を竦めた。


「そう。俺これからバイトだからここで時間潰させてもらった。あ、帰り電車?駅まで一緒してもいいかな」


 校門に差し掛かり、お兄さんは腕時計を一瞬覗いて、私に微笑んだ。同じ方向なら別々に行くこともない。


「もちろん。でも、これからバイトですか?遅い時間ですね」

「バイト先うちと近いから遅くても平気。あ、そういえばこの前ってバイトで遅くなったの?」

「ええ、まあ」

「居酒屋?女の子が帰り11時過ぎるバイトなんて感心しないな」


 フェミニストっぽいお兄さんの台詞に、私も苦笑する。

 痴漢に遭っておいてなんだが、私みたいな朴突としたのを女の子扱いしてくれるなんて、律儀というかなんていうか。


「この前はたまたまなんです。コーヒー店でバイトしてるんですけど、いつもはもっと早い時間に上がれてますよ」

「そう?今日はバイト?」

「いえ、帰ります」

「そっか。でもやっぱり夜道になっちゃうだろうし、帰り気を付けて」


 お兄さんはたくさん心配してくれるしすっかり年下の気分だけど、一体いくつだろう。よもや私の方が年上なんてことはないだろうか。


「あ、そうだ。ずっと名前も聞いてないなって気になってて私の名前は」

「入野亜子」

「え?」

「駅員さんにそう言ってるの聞いちゃった」


 一瞬びっくりしたけど、それはそうかもしれない。私あの時二回くらいフルネーム名乗ってるし、呼ばれもしてた。


「俺は間宮」

「間宮さん」


 名前を口に出してみた私に、間宮さんはにっこり笑う。


「……やっぱり、もっとお礼欲しい」

「あ、もちろんさせてください」


 突然の間宮さんの心変わりではあったけれど、それは願ってもない申し出だった。いくらなんでも飴玉一個でチャラになってると思うほど厚かましくない。


「お礼は、亜子ちゃんの連絡先、がいいな」


 間宮さんは携帯電話を取り出して私を見る。


「え……連絡先?」


 そうくるとは思わなかった。どちらかと言えば教えたくない。間宮さんみたいな人と初めて知り合ったし、長期的にお付き合いするかと言えばちょっと疑問だ。でも今更お断りできないし、要領がいいというかなんというか。

 女の子とか紹介できそうにないし、間宮さんにとってプラスになるかはわからないけど。


「……いいですよ。そんなのでよければ」

「やった。じゃあ赤外線送って」


 そんなやり取りも間宮さんは手慣れてるように見える。私がちょっともたつきながら連絡先の送信を終えた頃に駅に着いた。


「亜子ちゃんは何線?」

「東横線です。武蔵小杉で乗り換えますね」


 切符売り場あたりで確認を取ると、私たちはPASMOをかざして改札を抜ける。そして並んで同じ階段を登った。


「ああそうか、そうだよね。渋谷方面だ」

「!?」


 行き先を言い当てられてしまった。

「俺たち、同じ方面の電車に乗ってたんだから」

「あ!」


 痴漢の時に同じ車両に乗ってたということは、つまり私たちは同じ方向に帰ることになる。


「俺は新丸子だけど、亜子ちゃんは?」

「え、すごいですね。私もその駅で降ります」


 そんな偶然があるものなんだとびっくりする。


「マジで?俺たちご近所さんだったりして。駅のどっち側?」


 間宮さんもびっくりして身を乗り出していた。


「商店街じゃない方です」

「あはは、ほんとに近所かも。え、一人暮らしなの?」


 電車に乗り込んでも、会話は途切れなかった。


「いえ、母と二人暮らしです」

「そうなんだ。俺は一人暮らし。新丸子に住んで長いの?」

「ええ……ここ数年引っ越ししてないし、小さい時からこの地域で」


 私は友達としゃべっても話題が途切れがちなくらいお話するのが苦手だけど、間宮さんはとてもおしゃべりが上手だった。


「そっかあ。じゃあ地元トーク聞きたいな。おすすめの総菜屋さんとかない?コンビニって飽きるし」

「作ったほうがいいですよ、ごはん」

「そう思う?だよね~」

「お惣菜なら商店街にある、肉屋さんのメンチカツが美味しいです」

「え、お惣菜の話になっちゃう?今、亜子ちゃんがごはん作りにきてくれるっていう展開期待したんだけど」

「なんでですか」

「夢くらい見るさ!」

「…………っふ」


 つい笑ってしまった。ちょっと負けた気になったけど、間宮さんは私以上になんか楽しそうだった。


「笑顔、可愛い」

「!?や、やめてください」


 直球でそんなこと言われたことがない。ましてやここは電車の中で、他の人に聞かれてないかキョロキョロしてしまった。


「いや、本当のことだから」

「いいですよ、褒めていただかなくても」


 当の間宮さんはけろりとしている。フェミニストというのは恐ろしい生き物だ。


「褒めたつもりはないけどな」

「え、けなされてたんですか、私」

「いやいや、本音が漏れちゃっただけだから」


 この人はそういう訓練でも受けているのかと思うくらい的確に爆弾を落としていく。世の女の子だったら真に受けてしまうところだ。私はそういうのにスルー機能がついているので、慌てることなく別の話題に変えることにした。


「私、パン屋さんも好きですよ。カエルの紳士が立ってるお店。商店街の結構行った先にあるんですけど」

「パン屋?行ったことないかも。カエルの紳士、ってどういうこと?」


 私の話題変換にも間宮さんは動じることがないからすごいと思う。ちょうど乗換駅に着いたので、隣のホームに移るまでシルクハットを被った焼き物のカエルが目印なことと、15時の焼きたてパンが狙い目だと間宮さんに伝えておいた。


「いいこと聞いた。パン食べたくなったし。でも、亜子ちゃんの手料理も待ってるよ」


 すごい角度で再び料理を催促されたが、なんと答えるべきやら。料理は言うほど得意じゃないし、世話焼きみたいなことはまず私には無理だ。


「料理なら彼女に頼めばいいじゃないですか」


 通りすがりみたいな私に言わなくても、と間宮さんを見ると、間宮さんは目を丸くしてた。


「え?いるの?俺に彼女?」

「え?いないんですか?」


 常に彼女二人はいます、みたいな人だと思っていたので意外だ。


「……ごめんなさい、つい決めつけちゃいました」

「いや、亜子ちゃんから見てモテそうってことなら俺も捨てたもんじゃないんだな」


 ただ単に軽そうだなと失礼なことを思い込んでるだけなんだけど、否定しづらくなってきてしまった。

 電車は私たちの降りる駅に着き、バイト先に行く間宮さんと私は改札口で別れた。

 間宮さんは最後、「メールするからね。あと、見かけたらガンガン声かけるから」と言いながら、人懐っこそうな笑顔で手を振っていた。




「下心があるな」


 間宮さんとの顛末を話すと、冬馬君は不機嫌そうに吐き捨てた。


「連絡先なんてあからさますぎる」

「え?いーじゃん!下心あったって!始まらないより始まるほうが」


 マリちゃんは反対に上機嫌だ。別に恋愛相談をしているつもりはなかったので、この流れは不本意である。


「何が始まるっていうの……」

「もー亜子ちゃん!」


 わかってるくせに、とでも言うようにマリちゃんは私の腕をつついた。その日は、三現終わりでバイトがあって、帰り道は珍しく冬馬君と二人きりになった。


「……なあ、入野」

「何?」


 大学から駅までは徒歩10分くらい。遅刻しそうな時はもどかしい距離だけど、私は歩くのは別に嫌いじゃない。


「……あの、今度の日曜さ……映画でも、観にいかない?」

「ごめん、バイト」


 冬馬君はずいぶん言いにくそうにしてたが、私は断らざる得なかった。バイトだから仕方がない。


「あ、そっか……」


 そんなに誘いにくい映画でも観たかったんだろうか。


「じゃあ、メシでもどう?今日は難しいだろうけど、学校帰りとかでもいいし」


 なんだかわからないけど、冬馬君がぐいぐい来てる。思い当たることはないけど、なんかちょっと怖い。


「うん……?いいよ、もちろん。そういえばみんなで改めてごはんとか行ったことないね」

「そ、う、だな……」


 冬馬君はそれ以上なにも言わなくなってしまった。みんなでご飯に行きたかったわけではなかったのか、私にはちょっとわからない。まさか私を誘いたかったわけでもないだろうし。

 駅に着き改札前で、予定を決めてご飯行こうね、と約束して私たちは分かれた。




 気が付けば月日は過ぎていた。まだ梅雨明けしない七月になると、やっと時間の進みが遅くなったように感じた。

 間宮さんからのメールは毎日のように来た。絵文字デコメが散らばった文面は、まさしく間宮さんらしい。内容はたいしたことじゃなくて、『なにしてんの~』とか『◯日サークルあるから!』とか、そういう感じだった。私はこのメールに何か意味があるのだろうかと考えながら、『バイトしてました』とか『会えたらいいですね』とか、無難な返信をしていた。

 私のメールは間宮さんに比べて地味そのもので、デコメのやり方も詳しく知らない始末だ。私の返信に間宮さんの返信はすごく早くて、メールを放置しがちな私にはややプレッシャーだったことは否めない。

 一度だけ最寄り駅のホームで会って、途中まで同じ車両に乗ったこともある。私はバイトに行くところで、間宮さんは土曜の授業に出るところだったらしい。私の言っていた肉屋さんやパン屋さんに行ってすっかり気に入ったと話していた。

 大学で会うことはそんなになかった。二度三度くらい間宮さんを見掛けてあいさつをしたくらい。キャンパスは広いし、私はそんなにグラウンドに近づかない。そもそも間宮さんが合同サークルでうちの大学に来る回数も知れたものだった。四月は勧誘などでたまたまよく来ていたらしい。たまに来ても間宮さんだってサークル仲間とサークルしに来てるんだし、そうそう会うはずがなかった。

 しかし、その日はマリちゃんとテラスで軽食を取ってるところだった。


「亜子ちゃん!」

「!?」


 いきなり両肩を叩かれて声にならないくらいびっくりする。


「あはは、ごめんごめん。偶然見掛けたからテンション上がっちゃった」


 間宮さんだった。一人じゃなくて、友達も一緒みたいだ。


「間宮さんと堀米さん!あれ、どうしたんですか?」


 なぜかマリちゃんが間宮さんとそのお連れさんの名前を知っている。堀米さん、と呼ばれた黒髪の細身の青年がマリちゃんに答える。


「取ってた授業休講になったからちょっと早めに来た」

 それを受けても、マリちゃんや間宮さん、私の疑問は解けない。


「え、で、なんで間宮さん、亜子ちゃんのこと知ってるんですか?」

「いや、こっちこそ、なんで亜子ちゃんとマリちゃんが?」


 二人は同時に私を見るが、知ったことではない。むしろ二人がどうして知り合いなのかを私が聞きたかった。


「あ、そうか……え!?嘘!?」


 マリちゃんがひとりでに合点した。そして驚愕している。


「もしかして、亜子ちゃんの王子様って間宮さんのこと!?」


 まだ王子様という呼称が継続しているらしいが、痴漢から助けてくれた人、という意味ではマリちゃんの言う通りだ。

 間宮さんは話に割り込むようにしながら、「何々、王子様ってなに?照れる」と頭を掻く。


「そう、助けてくれたのか間宮さん。王子様ではないけど」


 王子様、というのは否定しておく。すると、マリちゃんは私の肩を掴んでガクガクし始めた。


「言ってよ、亜子ちゃん!」

「え?え?」


 まだ私には事態が飲み込めない。


「あー、つまり、俺とマリちゃんは同じサークルってこと」


 間宮さんが要約してくれる。なるほど、それならマリちゃんと間宮さんが知り合いでも頷けた。


「そっかあ、偶然って重なるもんだな。世界は狭いな」


 堀米さんが感心したようにつぶやいた。

 間宮さんたちと私たちは同じテーブルに着いておしゃべりを始めた。なんのことかわかってなかった堀米さんに事情を説明すると、深く感嘆していた。彼も間宮さんと同じフットサルサークルに所属しているらしい。


「なんだかわからないけど、私がいてもたってもいられない」


 本人の言う通り、何故かマリちゃんが落ち着かずソワソワしてる。しかし、なんとも言えない。

 マリちゃんと同じサークルだと言うのなら、目の前の二人は東大生だということになる。私の中の東大生像とはすごくかけ離れてる。特に間宮さんは。


「試合観にきてよ、社会人サークルとかとリーグ戦やってるから」

「時間が合えばぜひ」


 にへら、と笑う間宮さんの提案を却下はできないけど、実はあんまり乗り気にはなれない。サッカーさえわからないんだから、フットサルなんて更にわからない。

 しばらくテストや夏休みの話をしてから、三人は一緒にサークルへ行ってしまった。私はバイトだ。テーブルを立つとき、マリちゃんはぽつりとつぶやいていた。


「冬馬には悪いけど、私は断然間宮さん派ね」


 なぜそこに冬馬君の名前が出るのかわからなかったが、マリちゃんは間宮さんのことが気になっているらしかった。


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