独り善がり
ぬるくエロ描写あり
――彼女のお話。
呼び出されたのは三階にある女子トイレだった。資料室じゃないのは、女子トイレでしか出来ないようなことをするつもりだろうか。私はすんなりと召集を受け入れた。
「入野さんの友情お試しゲーム!」
葉山さんたちはとても愉快そうだ。バラエティーの人気コーナーをやってるかのよう。
「この前、今屋君に邪魔されちゃったから~。ほら、阿川さん殴るくらいなら殴られるって言ってたでしょ?それがどこまで我慢出来るか知りたいなって。楽しそうでしょ?」
コーナー説明が入る。ガマン比べというつもりらしい。
「何でそんなの付き合わなくちゃいけないの?」
くだらないと言ってるつもりなのが葉山さんには伝わったみたいだった。みるみる怖い顔になっていく。
「逆に聞くけど、なんで入野さんは平気な顔して学校来れるの?存在がチョー迷惑だから、さっさと家に引きこもれって言ってるよね?」
私は驚くくらい葉山さんの言葉に何も感じなかった。
「入野さんがいるから阿川さんやられたい放題なんだから~今日だって入野さんがお断りっていうなら阿川さんが一人で罰ゲームぜーんぶ受けちゃうし」
昨日なら私が友代を巻き込んだと真に受けて落ち込んでいたかもしれない。でも、今日はそんなこと関係なかった。じゃあなぜここに来たかと言えば、葉山さんたちに用があったからだ。
「じゃ、レベル1はビンタね、ビンタ!やられたくないなら阿川さんをビンタしてよ、入野さん」
「断る」
そういうことには付き合うつもりはない。私がきっぱり断ると、葉山さんは友代の腕を引っ張って私の前に立たせた。
「だって。じゃあ阿川さんが入野さんをビンタしてよ。あ、ちなみに阿川さんもできないなんて言い出したら私たちが徹底的に二人をお仕置きするから。
ほら、じゃあ阿川さんヨロシク」
またコーナー説明が入る。コーナーの進行を促された友代は顔が青く、小刻みに震えている。
「で、できないよ……」
今にも消え入りそうな声で友代は断った。
「は?なんか言った」
葉山さんは威圧的に聞こえないふりをした。
「やりたくない、って!……言った」
友代は声を振り絞って言う。たった一言。でも、すごく勇気の要ることだ。
「……んなこと言っていいわけ?アンタも叩かれたいんだ?痛いのヤダー、なんて言ってたじゃん」
一歩前に出てきた貝沼さんが、そう言いながら右手を振り上げた。
叩かれたのは、私だった。乾いた大きな音をさせて、左頬に重たい衝撃がぶつかる。踏ん張らないことで少しでも衝撃を逃がそうとするけど、それどころじゃないくらい痛かった。空気に沁みたか思えば、ジンジンと皮の下が疼く。
「…………っ」
「ほら?痛そうでしょう?入野さんは面の皮が厚いからこれで済んでるけどさ~」
葉山さんたちは一斉に笑う。
今の一言で充分か、と私は引き際を見計らうことにした。
「次は昨日言った通りやんなよ。そいつ守るメリットないって言ったよね?」
「メリットとか……関係ない。今屋君は、関係ないよ」
私のわからない話を、葉山さんと友代がしている。なんで今屋君の名前が出るんだろう。昨日の放課後あれから、葉山さんと友代は何を話したんだろう。昨日の電話、友代は何を口ごもっていたんだろう。
「なに、ソレ。笑えないギャグなんですけど」
葉山さんの声は、冷え切っていた。友代は、震えてる。
「友代、もう行こう」
「え?」
友代を庇うように、私は一歩前に出た。
「もう充分付き合ったよ、いいでしょう、もう」
撮れ高も充分だ。友代はこのままここを出れるとは思ってないようだった。頷くこともなく、固まっている。
「何勝手なこと言っちゃってんの?そういうこと、あんたが勝手に決めていいわけないじゃない」
葉山さんはわかりやすく怒り出した。でも、私は引き続き友代を促し、スカートのポケットに手を入れた。
「友代、帰ろうよ」
「……でも……」
友代は身を竦ませている……いや、何かをためらっている。その様子に気付いたことで、反応が少し遅れた。
「ブスが調子乗んのもたいがいにしときなよ」
冷たい。
広尾さんの手にあったのは、わざとらしいまでに青いホースだった。それで水道水をかけられたようだ。
さっきのゲームで使う予定だったのかもしれない。だったらわざわざこんな女子トイレに呼び出されたのも納得がいく。
まだ広尾さんは気が済まないらしく、更にホースから水道水をばらまいた。
「!亜子……」
私は、友代を抱きしめるようにして水から庇った。先に濡れてしまったのは私だし、こうなればもうどれだけ濡れようか関係ないと思った。
「あともうちょっとだから……」
友代の耳元でつぶやく。
水が冷たいせいか、十秒が、とてつもなく長く感じる。
「ちょっと!こっちかけないでよ!」
笑いながら葉山さんは水を避ける。葉山さんたちにとっては、こんなの水遊びのようだ。
ピピピピピピピピピピピピピピピピピ
突然、空気を切り裂くようにアラーム音が鳴った。場違いな、大音量のキッチンタイマー。何事かとその場にいた全員が硬直した。
今だ、と友代の手を取り、身をかがめてタイル張りの床を這うホースを掴んだ。
「キャッ!?」
そのままトイレの出口を目指して走り出せば、水道の蛇口からホースが外れ、流れ出ている水が飛び散った。まんまと葉山さんたちの気が逸らされ、私と友代はトイレから出ることができた。
「亜子……それって」
「上手く使えてよかった」
私はポケットの中に手を伸ばして、うちの冷蔵庫から持ってきたキッチンタイマーを止めた。長年使っているだけあって、ポケットに入れたまま見ないで操作することができた。
それから、もう一つポケットに入れてた電子機器のスイッチを切る。昨日買いに行った音声レコーダー。今の会話は全部録音されている。何もしないよりかは、こんな風に残しておくほうがいいだろうと思って用意したけれど、これをどうやって使うかまではまだ考えていない。
「こっち!」
トイレから飛び出すと、今屋君がいた。状況を把握しているかのように、走っている私たちを先導する。
「!」
友代が減速して、立ち止まる。
「友代!?」
声をかけても、友代はまた走り出そうとはしなかった。どうしたんだろうと私も立ち止まろうとするけれど、今屋君が私の腕を掴んだ。
「早く行こう!」
追われている様子はない。でも、追い立てられるように私は今屋君と一緒に走った。
後ろを振り返ると、友代が小さく見える。私を呼んでいるような気がするけど、よく聞こえない。どうして友代は立ち止まったんだろう?
そういえば、さっき葉山さんたちと友代が、今屋君の話をしていた。それが関係しているんだろうか?そういえば、どうして今屋君はあんなところにいたんだろう。私たちがなんで走っていたのかもわかっているようだった。
そんなことを考えてると、今屋君に手を取られ、資料室に入った。
「あの、今屋君……」
情けないことにちょっと息が切れてる。でも、今思い浮かんだことを今屋君に確かめたかった。
「奥に隠れてよう。また葉山さんたちでしょ?」
やっぱり葉山さんたちだと今屋君は知ってる。でも、確かに見つかりたくないのは本当だ。引き戸から見えない棚の影に立つ。
「ひどいね、服濡れてる」
「うん、ちょっと寒い、かな」
かなり水をかけられてしまった。シャツだけじゃなくてスカートまでぐっしょり濡れてしまっている。
「むこう向いてるから、シャツ脱いだ方がいいよ」
「え?」
「短時間じゃ乾かないとは思うけど、そのままでいるよりは……ね?」
今屋君は着ていたブレザーを脱いで私に放り投げる。キャッチすると、今屋君はもうこちらに背を向けていた。
こんなんであっても、一応女子の恥じらいとして下着姿を晒すのは抵抗があった。今屋君も別に見たくもないだろうし、見たくないものを見ない権利というものがある。
少し迷ったけれど、変にどぎまぎしてもおかしいか、と私は早々に思い直すことにした。シャツを脱いで、ちょっと絞って広げて棚にかける。スカートはさすがに脱げないから、裾を絞るだけ。
「ありがとう、今屋君。もういいよ」
ブレザーはありがたく羽織らせてもらった。そのままにしては見せてはいけないブラが見えてしまうので、胸元で合わせを掴む。
「なんか……今屋君にセクハラしてるような気分になる」
だんだんいたたまれなくなってきた。美少年にイタズラしてる痴女の気分。
「……入野さんが今興奮してるってこと?」
「違います!」
今屋君はたまに思いもがけないことを言う。
「見たくもないもの見せてるような気分。ごめんなさい」
私は適当に床に座った。どんなに引き算してもたぶんきっと私がセクハラしてる勘定になる気がして、つい謝る。こういうところが私を地味にしているところなのだろう。
「そんなことないよ、今どきどきしてるし」
ずいぶん涼しげに言うので本心か疑う一方、そんなこと言われたことがないのでどんな顔をしたらいいかわからない。
「あ、あれ?そう……」
うつむくしかなくて、それに心臓が痛い。
もしかして私はバカな女なのかもしれない。浮かれてるような気もするし、少し緊張している気もする。今の自分の感情すらわからない。
今屋君が隣に座ったのにも距離をちょっと取りたいと思ってしまった。違う違う、今屋君にだって好みの女の子のタイプとか好きな女の子とかがいるはずたがら、ブスの私が自意識過剰になるのは失礼な話だ。
「………………」
「……………………」
しばらく今屋君もしゃべらなかったし、私も何も言わなかった。資料室は本当に静かだ。廊下の人通りの音もしない。
「友代、大丈夫かな」
ポツリと呟いた。一人にしてしまったけど、ちゃんと葉山さんたちに捕まらないところまで逃げたかな。友代には、聞かなくちゃいけないことがありそうだ。
「たぶん大丈夫」
今屋君は穏やかに励ましてくれる。私が今こうして不安に思うことなく時間をやり過ごしていられるのは今屋君が居てくれてるからだ。
「……ありがとう、今屋君。また助けてもらった」
ぺこり、と頭を下げた時、唐突に昨日の約束を思い出した。
そうだ、放課後図書室に行く約束してた。すっかり忘れてた。
謝ろうとしたけど、違和感しかなくて喉元で言葉が止まる。図書室は下の階、どうして今屋君は私の居る場所がわかったんだろう。
「どういたしまして。入野さんの役に立てたなら」
いつもの今屋君の笑顔が、ちょっとこわい。
なんであそこにいたか聞こうか?いや、どうせ先生からの言いつけがあったんだ。大体、今屋君が私を待ち伏せして何のメリットがあるんだろう。今屋君は親切にしてくれているだけ。それ以上でもそれ以下でも、疑ったら失礼になる。でも、答えが欲しいと思ってしまった。どうしてこんなに親切にしてくれるのか。
「今屋君は……どうしてこんなに優しいの?」
「え……?」
今屋君と目が合う。
「みんな私を避けていた時、今屋君はむしろ私に良くしてくれて�変なウワサ、聞いてたよね?」
今屋君は朗らかなようで本音なんかはあまり口にしない人だから、いつもみたいにはぐらかされてしまうかもしれない。それでも、少しでも私が納得できる理由が聞ければいいなと思った。
「……確かに、みんな入野さんのこと、ひどく言ってた」
「………………」
自分で言い出したことだけど、面と向かって肯定されると結構へこむ。
「でも、僕は信じてなかったし、本当かどうかわからないもので人を決め付けたくなかった」
「あんまり話したこともなかったのに、信じてくれたの?」
他のクラスメートたちが私を避けていたのも無理はないと半分思ってたから、今屋君はすごい人だな、って聞き返した。
「……ずっと、入野さんのこと見てたから。入野さんが純粋で誠実な人って知ってたよ」
思いがけない言葉に心臓が跳ねそうになる。いや、落ち着かないと。そう、私には友代を今屋君に引き会わせるっていう役目がある。
「と、友代が!」
気持ちだけ焦って、友代の名前を出したはいいけど、後は何をどう話そうか迷って言葉が詰まる。
「えーと……友代が、今屋君のこと褒めてたよ。優しくて、かっこいいし、それでいて気取らないって……」
突然何を言ってるんだろう、私は。でも、仕方がない。途中で話はやめられない。最後まで言おう。
「だから、友代を心配してあげてほしい。私は丈夫だから大体のことは平気だし、友代みたいな子こそ今屋君が味方だと心強いと思う」
黙って話を聞いていた今屋君の表情が、みるみる冷たくなっていく。あんなに優しい笑顔をしていたのに、目付きが刺すように鋭い。
「なに、それ」
口元にだけ薄く笑いを浮かべて、今屋君はぽつりとこぼした。
「どうしてあれを庇うの?」
語気は強い。すごく怒ってるみたいだ。私が何か怒らせるようなことを言ってしまったのだろうか。
「どうして……って、友代は私の友達で」
「あれが友達って言うの?利己的で卑怯なあれを?」
凍えるような冷たい目で射抜かれる。彼はもう笑ってない。でも、私は怯えるより先に反抗した。
「友代を悪く言わないで」
キッと今屋君を睨むと、一瞬今屋君の瞳がぐらつく。でもすぐに元に戻った。
「ずっと思ってたんだけど、入野さんは鈍感だよね」
ぐい、と引っ張られる。
「どうしてかなあ?どうして入野さんには伝わらないのかな?どうして思い通りにいかないんだろう?」
ブレザーの衿を掴まれている。今屋君の声が、今まで聞いたことのないくらい冷ややかだった。お腹の底がざわざわする。
「よりによってあれに阻まれるなんて納得がいかないよ。僕がやり方を間違えてたのかな?」
「あの、今屋、君?」
私は友代のことを言われてカッとしてたけど、どうして今屋君は急にこんなことを言い出したのだろう。わからない。わからないと思ったら、体が勝手に後ずさりをしていた。でも今屋君はブレザーにかけた手を離そうとはしない。
「じゃあ、仕方ないね。もっとわかりやすく伝えないと」
胸元を隠していた右手の手首を掴まれ、引っ張られた。一緒にブレザーも引っ張られ、胸元があらわになる。
外気に触れる肌が寒い。それ以上に背筋がゾワゾワする。今屋君が何を考えているか、私はまだわかっていなかった。ただ、悪い予感がしすぎて気持ち悪い。
「もう……クラクラする」
独り言のように言って、今屋君は私の右手首に唇を寄せる。これがどういうことか、薄々気付く。でも、信じられない。信じられないのに、私を掴む力は緩まない。
「今屋君、なにを……」
「は、入野さん……優しくするからね」
もう、今屋君の笑顔が知らない人のようだ。このままだと、どうなるんだろう。今屋君は私をどうする気なんだろう。わからない。具体的にはわからないから、漠然とした不安と胸騒ぎで吐き出しそうだ。
ブレザーの衿が引っ張られると、私は大した反抗をする間もなく床に転がった。いけない、と思うけど、あっさりと今屋君は私の上に馬乗りになる。私を見下ろす今屋君は、今屋君なのにすごく怖い顔をしてる。あんなに優しかった今屋君が、私に怖いことをするなんて信じられない。
「嘘、だよね?」
たまたま気が迷っただけで、本当の今屋君はこんなことしない。そう信じたくて今屋君に問いかける。
「嘘、だと思う?これ、入野さんのせいだよ」
今屋君の重さが、感触が、恐怖を呼び起こした。私を見下ろす今屋君の目は見開かれ、口元にうっすら笑みを浮かべている。
こわい。ゾッとして、私は小さく悲鳴を上げる。
「どうして怖がるの?こんなに君を愛してるのは僕しかいないよ。だから、ね?」
屈んで顔を近づけてきた今屋君が何を言ってるか、私はほとんど聞いてなかった。ただ、耳にかかる息に、身の毛がよだつ。
逃げなきゃ、とそれだけしか思い浮かばない。逃げなきゃ、逃げなきゃ。でも、どうしたらいいのかまではわからなかった。闇雲に動いても、今屋君は私を逃がしてくれない。
「たまらないよ、なにもかんがえられない」
今屋君は私の胸元に顔を埋めた。くすぐったいというより、気持ちが悪い。離れて欲しい、泣きそうだ。この期に及んでも、これは悪夢なんじゃないかと思ってる自分がいる。でも私の手首を掴む力も、床の冷たさも、現実だ。
起き上がろうとしても、今屋君が馬乗りになってるので無理だ。足は今屋君に固められてる。右手は掴まれてほとんど動かせない。あとは、左手だ。
「今屋君……待っ、て」
少しでも聞く耳を持ってもらえれば、と半ば無意識に懇願していた。それも空しく、今屋君は私の目を見て笑う。
「きっと気持ちよくするから」
何を言っているのかわからない。でも、今屋君とはもう話が通じないことだけはわかった。
もう、できることをやるしかない。泣き出しそうになりながら、左手でそっとスカートのポケットにある携帯電話を取り出す。
「……っ!」
生ぬるい舌が、私の胸元から首筋を這う。ゾワゾワと背中を撫ぜる悪寒に手元が狂わないよう、画面を見ずに携帯電話を操作する。チャンスは一回きりだ。
「僕の名前、呼んで?」
そう言いながら、今屋君は私の鎖骨に唇を押し付ける。その感覚をなるべく鈍らせながら、ちらりとスマホの画面を確認した。あともうちょっと。
最後のタップをすると、あと今屋君に気付かれないうちに通話が繋がるのを祈るしかない。
「は、あ……入野さん……こっちを見て……」
今屋君の右手が私の頬を撫でた。至近距離で今屋君は私をうっとりと眺めている。
「あ、ああ……」
今屋君の表情は目がとろんとしてて、恍惚としていた。今屋君の幸せそうな顔が、近づいてくる。唇が、触れそうだ。
『亜子!?亜子!?』
スピーカーにしていた携帯電話から、友代の声が聞こえてきた。
繋がった!
今屋君はすぐにスマホに気が付くが、手を出されないようにスマホを床にスライドさせて机の下まで放る。
「と、友代!しっ資料室!!来て!!」
ほとんど悲鳴のような声で私は電話の向こうの友代に助けを呼び掛けた。ただちょっと叫んだだけなのに、焦りすぎて唾を正しく飲み込めなくて咳き込んでしまう。
『資料室!?亜子、どうしたの!?』
咳で友代にすぐ答えられない。私の上に乗ってる今屋君は目を見開いている。
「僕を……拒絶するの?」
それでも今屋君は私の上から退こうとしない。
「これから、友代が来るから……だから、なかったことにしよう」
咳でまだちょっと上手くしゃべれない。でも、友代がここに向かってくるなら、今屋君は絶対に今の続きができない。だから、なるべく穏便な幕引きをしたかった。
今屋君が私に向かって言ってたこと、ほとんど聞いてなかったけど、あれは何かの間違いだったんだ。そう、きっとそう。
「なかったことって……何?」
「誰にも何も言わないから……だからもう、こんなことは」
今屋君を訴えるつもりなんてない。そう伝えたいだけだった。でも、今屋君は私を凝視して動かない。怒ってるみたいだ。
『亜子!亜子!大丈夫!?』
電話のスピーカーから友代の声が割り込んでくる。友代は走ってくれているみたいで、息切れと足音まで聞こえる。
「友代!待ってるから、だから、資料室に早く!」
『わかった、今行くね!待ってて!』
私が助けを呼ぶと、友代は応えてくれる。それが、とても安心した。
「……ねえ、よりによって、あれ、なの?」
私の安堵をなじるように、今屋君は怒りを湛えた声で私に語りかける。そうだ、まだ身体は自由になってない。まだ今屋君は私のお腹の上にいるし、ブレザーの衿も離そうとはしてくれない。男の子の今屋君を、私は無理矢理にでも押し退けることはできない。
「どうして?こんなに君を愛してるのに、僕よりあんなものを選ぶなんてどうかしてる。無茶苦茶だ」
落ち着いてきて、やっと今屋君が何を言ってるか聞けた。でも、愛、ってなんだ?無茶苦茶なのは、今屋君の方だ。
『ねえ、亜子!もしかしてさ……今、今屋君がそばにいるの?』
「え?」
再び電話から友代が呼びかけてくる。その質問の意味を私が考えているうちに、今屋君が立ち上がった。
私の羽織ってるブレザーの襟は離さないまま、机の下まで手を伸ばして無言で電話を切った。
「うるさかったね」
その今屋君の一言で、資料室は静寂に戻った。
「私、帰る。友代がもうここに来るから、一緒に帰る」
もう、おしまいになるはずだ。これでお開きだ。今日、何があったのか、私もまだ整理がついていないけれど、もうここには居たくない。
「アレがどんな奴か、知ってて言ってるの?」
ブレザーの襟を力任せに引っ張られ、起き上がった状態で今屋君に至近距離で見据えられる。
「どうして、今屋君が友代のことを悪く言うの?」
私も、負けないように今屋君を睨んだ。
さっきもそうだ。今屋君は友代の話を出すと途端に機嫌が悪くなる。友代は、私の友達だ。今屋君に悪く言われたら私だって腹が立つ。
「どうして?どうしてって……自分に都合が良い時にだけすり寄って、都合が悪くなったら知らんぷり。
君が一番辛かった時、アレは何をしてくれたって言うの?君はただ一人で耐えてただけだ。それでまだアレを庇えるの?」
今屋君は一息でそこまで喋った。どうして今屋君がそんなことを言えるのか、私にはわからない。まるで私に起きていたこと全部知っていたみたいじゃないか。
「最近になって君に近付いて来たのも、僕との仲を取り持たせるためだったんだよ?それって、友達って呼べる?」
「それの何が悪いの?」
私は鋭い声で反論した。それが意外だったのか、今屋君はぐっと口をつぐんだ。
「私は友代のことが好きだよ。友達だと思ってる。今までのことは気にしてないし、これからだって友代のためになることだったら私は協力する。
今屋君にとやかく言われることじゃない!」
たぶん、生まれて初めて他人に反抗した。こんなに怒ったことは今までにない。どんなひどいことされても、瞬間的に頭に血が上るなんてことはなかった。
今屋君はひどい。友代の何を見てあんなことを言えるんだろう。そもそも、友代が今屋君に何をしたというのだろうか。今屋君が、こんなに冷たい人だなんて知らなかった。
「……ねえ、やめてよ。そんな目で見ないで」
ぽつり、と今屋君がつぶやいた。
「僕は君を愛しているんだ。なのに、どうして?どうして伝わらないの?」
そんなの、私の方が聞きたい。今屋君の考えていることが、これっぽっちもわからない。
「亜子ッッ!!!」
衝撃音かと思うような大きな音をさせて、扉が開く。
「亜子っ!?」
友代はすぐに、上半身下着姿で羽織ってるブレザーを今屋君に掴まれている私を見つけた。気を取られた今屋君の隙を見逃さず、私はブレザーから袖を抜いて友代の方に駆け寄った。
「その格好……っ!」
「友代っ!」
上半身裸だし、脱いだシャツはあっちに干しっぱなしだし、携帯電話も床に置いたままだ。だけど、そんなことなりふり構わず、友代に手を伸ばした。今、私が頼れるのは友代しかいない。
「ごめんね、遅れて……」
眉尻を下げながら、友代は自分の着ていたカーディガンを私に羽織らせてくれた。
「何があったの?今屋君は、亜子に何をしたの……?」
資料室の奥に居る今屋君を警戒しながら、友代がちらりと私を見る。こんな姿をしていれば当然だろう。
「……何でもないよ。だから、もう帰ろう」
私は、疲れ切っていた。ここから早く出たいし、話を長引かせる気もない。
「ひどいことされたの?今屋君に?」
「………………」
友代は話を続けようとした。私は今屋君を糾弾するつもりはなかったし、何より、今屋君に恋心を抱いていた友代に今の出来事を知らせたくない。言い訳も思いつかなくて、私はじっと口をつぐむ。
「誤解されたくないな。僕は入野さんを傷付けるつもりはなかった」
ずっと何も言わなかった今屋君が、口を開く。カーテンの締め切った薄暗い部屋の奥に居る彼の顔はよく見えない。どういうつもりでそんなことを言ったのかはわからない。でも、私は今屋君の弁解にもケチをつける気力は湧かなかった。
「傷付けるつもりはなかった、なんて、どうして言えるの?」
しかし、予想外のところで友代が言い返した。
「友代……?」
「葉山さんたちに聞いたよ、全部」
友代が何を言っているのか、私にはわからない。そういえば、さっきも友代は何か今屋君のことを葉山さんと話していた。昨日の電話も、何かを知っているかのようだった。
「ふうん?大事な時に役に立たないなんて、使えないな」
とてつもなく、冷淡な声。これがあの今屋君の声だなんて、昨日までの私だったら信じていない。
「え……?何の話……?」
文脈から察するに私にも関係がありそうな話なのに、私一人話についていけていない。
「葉山さんたち、言ってた。彼女たちが亜子にしたこと、全部今屋君に仕向けられたものだって」
言ってる意味が、よくわからない。
「それは言いがかりだよ。彼女たちが都合が良いように作り上げた妄言だ」
「亜子にしたことを今屋君に報告すると、感想メールが貰えるって。それで時々次にどうしたらいいか教えてくれる、って」
「だからそれも嘘だ。困るな、そんなこと信じられたら」
まだ、今屋君の顔はよく見えない。でも、声は飄々としてる。冷静そのものだ。
なんでそんなに落ち着いてられるのか、私にはその方が嫌だった。違う、誤解だ、と慌てて欲しい。だって、本当に嘘であってほしいから。
「……入野さんなら、信じてくれるよね?急に降って湧いたような話で、僕たちが過ごした日々が無かったことになんかならないよね?」
今屋君の声は、とても優しいあの声に戻っていた。でも、寒気が止まらない。頭の整理も、心の整理も、ついていない。だって、さっきまでのアレはなんだったんだ。無かったことにしようとは思っていても、刻み付けられた感触と嫌悪感は拭えない。でも、ずっと今屋君は優しかった。いや、友代が嘘なんて言うはずない。ああ、ぐちゃぐちゃだ。
「なん、で……今屋君は、さっき、理科室から出てきたの?」
何の整理もつかないまま、私は口走った。
「どうして、図書室にいるはずだった今屋君が、私たちがあのトイレから出てくるって、知ってたみたいに」
途切れ途切れに、なんとか言葉にする。聞いてはいけないとも思った。でも、疑問をこのままにはしておけない。
「……そんなこと、気にしてるの?それって、そんなに大事なこと?」
今屋君は明確な説明を避けた。言葉尻に、今まで見えなかった苛立ちが見え隠れする。
なんで疑問に答えてくれないんだろう。まるで暗に肯定してるみたいじゃないか。いやだ、そんなこと。今屋君に上手に否定してほしい。だって、本当に今屋君は優しかった。こんな私に、毎日、なんでもなく話しかけてくれた。裏切られたなんて思いたくない。ひどいことする人と決め付けたくもない。
「私は、今屋君のことがわからない」
わかりたくもない、と言った方が正しいかもしれない。もう、疲れたんだ。じっと耐えるのも、自分を責めるのも、死にたくなるのも。
「僕は、入野さんの味方のつもりだったよ、ずっと。全部全部、入野さんのためだった。何もかも、何もかも!」
暗がりから一歩こちらへにじり寄ってきた彼の表情は、強張っていた。いつも余裕そうにしていたのに、急に焦りの色が見え始める。
そんな今屋君を威嚇するように、友代が私の前に進み出た。
「……もう、答えは出たよね?亜子」
友代の、言う通りだ。もう、私には今屋君を信じようとする気力も残っていない。
「ねえ、だから、そんな目で見ないで」
半ば怯えたように、今屋君が言う。そんなにひどい目をしていたという自覚は無かったが、安心したらいい。もう、私は今屋君と会うこともないから、目と目が合うこともない。
「どうして?どうして……どうしてっ!!行かないでよ、お願いだから、わかって……僕は、ただ、君を」
「今屋君」
掠れた声の今屋君を遮る。
わからないことだらけだったけど、確信がある。
「残念だけど、貴方のことが大嫌い」
もう、自分ですらこの憎しみを覆せない。彼のことが許せない。ドロドロと、焼け付くような気持ちが、私の心を支配する。
「さようなら」
一生分の別れを告げて、私は資料室を後にした。
次の日から、私は学校に行かなくなった。もう行く必要は無かった。
一度だけ、音声レコーダーの録音データを担任の先生に提出するために行ったけど、それきり卒業式にも出なかった。
私は、いじめられていたことを訴えたかったわけじゃない。ただ、葉山さんたちの標的が友代や別の子に移らないかをきちんと見てほしかっただけだった。
証拠が出てきたことで先生は葉山さんたちに罰を与えたがってたけど、そんなの何の意味がある?それを言うなら、気付いていたはずなのに助けてくれなかったクラスの子たちや、感付いていたのに見て見ぬふりをしていた教師たちにも罰を与えるべきだ。
私は先生の自己満足のための道徳の授業の教材になるつもりはなかったし、見世物にもなりたくなかった。
学校に行けなくなってしまったことをお母さんに言うのが一番緊張した。そしてやっぱり泣いてしまった。普通に学校へ行くことくらいできないことが申し訳なくて、恥ずかしくて。
勉強はうちでしっかりやることと、家事も全部私がやることを条件に、何も聞かずに登校拒否を許してほしいと頭を下げた。先生からも、学校側からも家庭での話し合いの結果を尊重する旨を伝えてもらった。
黙って話を聞いていたお母さんは、しばらく考えて、それから、家事はお母さんに任せなさい、と笑ってくれた。
もしかしたら、お母さんは全部知ってたのかもしれない。でも、私には何も言わなかった。何も言わないでほしかった私を、見守ってくれてたのかもしれない。
今から考えると、どうしてあの学校へ行くことへ固執していたのだろうかと呆気なくも思った。
あの地獄のような毎日で本当に失いたくなかったものは、信じられる何か、だったように思う。みじめさに打ち克てるプライドとか、他愛のない会話もできる友達とか、その先にあるはずだった未来とか。全て私が夢見ていたもので、本当は在りもしないものだったかもしれない。でも、あの時の私は、戦いたかったんだ。例えそれが徒労であっても、あの頃の自分を褒めてやっても良かったんではないだろうか。
でも、もうあんなことは思い出したくもなかった。
全て使い切って、疲れ切った私は、戦う気力ももう尽きたからこそ、中学校へ行くのも辞めた。会いたくなかった。あんな事をする人を、募る憎しみごと、私は葬り去りたかった。
忘れたくて、私は中学校のことにきつく蓋をして、封じることにした。消化したとも、昇華したとも、言えないかもしれない。でも、いつか記憶ごと無くなるだろう。
私はその時きっと、本当の意味で、解放される。