奪うと期した
――彼の話。
僕にはなんとなく仕組みがわかっていた。
どこがどうなれば、あれがああなるのか。ここがこうなれば、それがそうなるのか。いつだってガッカリさせられてきた。現実はいつも予測を裏切らないし、失望しか突きつけられなかった。それが、悪いことばかりではないことは知っている。予定調和というのは安定をもたらすし、定型化されていることによって僕も災厄を読むことができる。それでも崇高なものであってほしかった。気高くて、美しいものでいてほしかった。
嘆いたところで何も変わらない。利己的で浅はか、自分勝手で即物的。無関心で無節操、欲望は際限がない。そういうものならば、そういうものとして認めてしまうしかない。だって、仕方のないことなのだから。
学校というのは、まさしく縮図だった。檻の中に築き上げられた国だ。サルたちが民主主義を謳いながら、弱者たちは徒党を組んで、更なる弱者を平然と嬲る。立場が悪くなれば傍観者のふりをしてやり過ごす。なんでも他者のせいにして保身を図る。
そう。こういうものなのだ。――人間なんて。
吐き気がする。でも、これは、容易く扱えた。単純で単調、傾向さえ掴めればあとはどうとでもなる。
それが通用しないのが、良くも悪くも亜子なんだ。亜子だけが、思い通りにならない。何度も何度も、修正しながら僕のところへくるように仕向けているのに、亜子は絶対に望んだ方向に行ってはくれない。だから好きなのかもしれない。でも、それが恐ろしくもある。
一人にしてしまえば、その時そばに居る俺を頼るだろうと考えた。シンプルだけど、真理だ。
でも、亜子はそれでも強がった。僕の手に落ちることもなく、たった一人でも折れることもない。僕が好きになった人は、美しくて強い人だった。ますます焦がれて、だからもっと追い込むしかない。僕のところに来てくれるように、手段なんて選んでいられない。所詮は僕も自分勝手な人間なんだ。亜子のためにだったらなんだってする。もう後戻りはできない。
阿川友代、というクラスメートがいる。
人種は葉山佐紀と似通ったようなものだ。利己的で薄鈍。保身のためには義にも反する。あらゆる意味で凡俗で凡庸。それでも亜子の友人役に収まっているのだから不思議だ。人づてに聞けば、亜子との付き合いは小学校からあるらしく、それからずっと一緒にいるらしい。
そもそも、亜子が葉山佐紀に目をつけられたのは、阿川友代を庇ったからだという。それから亜子は孤独に傷付き、その間阿川友代は亜子へ近付こうとしなかった。典型的な現象だ。
それならばそれで良かった。亜子が頼れるのは僕一人になるのだから、都合が良い。でも、阿川友代はほとぼりが冷めるとすぐに亜子へすり寄った。どういうつもりなのかは知らないが、平気な顔で亜子に友達面をする。でも亜子は阿川友代を受け入れた。以来、亜子は僕と阿川友代の仲を取り持とうとしている。そう、阿川友代が亜子へ再び近付いた目的は明らかだ。なんて卑しいんだ。愕然とする。こんなもののために亜子は苦しんでいたというのか。なのに亜子はどうして平気にしていられるのだろう。
ますます亜子をこのままにしておけなくなった。
亜子を守るのは僕だ。
こんな醜い世界で、亜子を一人にしておくなんてできない。僕なら亜子を絶対に裏切らない。僕なら亜子を悲しませない。僕なら亜子を幸せにできるのに。
だから、今日僕は亜子にこの気持ちを告げようと思う。
全ての準備は整ったはずだった。僕はずっと亜子の友人であり続けたし、ずっとそばにいた。
あとは葉山佐紀を使って僕のところへ逃げてくるように仕向けるだけ。少し怖い思いをさせてしまうかもしれないけれど、僕が愛で包んであげるんだ。亜子はびっくりしてしまうかもしれない。でも、きっと頷いてくれる。そうすればハッピーエンドだ。
葉山佐紀は、放課後に亜子と阿川友代を三階の隅にある女子トイレに呼び出した。
『入野さんの友情お試しゲーム!』
ヘラヘラした声が入ってくる。
事前に場所を聞いていたので、女子トイレに盗聴器をしかけておいた。亜子を助けに入るのに、タイミングを読まなくてはならない。あまり金がかかっているような機械でもないので、だいぶノイズが入っているし聞き取りづらいが、これでも無いよりかはマシだろう。手洗いの近くにある理科室の隅で、拾った音をイヤホンで聞いていた。
『何でそんなの付き合わなくちゃいけないの?』
亜子の声が聞こえる。どうやらいつになく葉山佐紀へ抵抗しているらしい。
何を言っているか、ほとんどニュアンスでしかわからないが、葉山佐紀は阿川友代を引き合いに出して亜子に危害を加えようとしているようだ。
亜子も阿川友代など見捨ててしまえばいいのに、律儀にも庇いたてている。でも、事態は葉山佐紀たちが考えていた通りには進んでいないようで、どこかまごついていた。
『ほら?痛そうでしょう?入野さんは面の皮が厚いからこれで済んでるけどさ~』
「!」
かろうじて聞き取れた言葉から察するに、予想しなかったところで、亜子がぶたれてしまったようだ。脅すところまでは必要悪だとは思っていたけれど、僕の亜子に暴力を振るとは使えないやつらだ。葉山佐紀曰く、遊び方は何通りか考えているらしいので、今日はこれだけでは終わらないはず。早い段階で出て行くべきかと考え直した。
すると、亜子はこの場を去ろうとしているらしいと気付いた。今日の亜子は、どこか昨日までと違う。今まではされるがままのところがあったのに、急に抵抗的になった。
葉山佐紀たちの声に、水音が混じり始めた。トイレに呼び出したのは、水を使うつもりだったらしい。亜子は水をかぶったようだった。そんなこと気にすることなく、まるで水遊びみたいに葉山佐紀たちははしゃいでる。
突然の、アラーム音。
一瞬、何がなんだかわからなかった。僕が用意したものではない。葉山佐紀たちがわざわざこんなものはしかけない。だとすれば、――亜子か。
僕はすぐに理科室から出た。アラームが亜子のやったことならば、あそこから逃げるきっかけであるのは間違いない。
しばらくも経たないうちに、読み通り亜子と阿川友代がトイレから飛び出してきた。
「こっち!」
思っていたのとは違うがしょうがない。僕は亜子を誘導してどこか二人きりになれる場所へ行こうと考えた。それには、阿川友代は邪魔だ。
「友代!?」
どうしたものかと考えていると、亜子の声で阿川友代が立ち止まっていることに気付いた。なんのために立ち止まったのかは知らないが、好都合だ。立ち止まりかけた亜子の腕を無理矢理取った。
「早く行こう!」
亜子はまだ阿川友代が気になっているようだったが、僕が促せばまた走り出した。このままどこへ行こうかと思ったが、あの教材資料室がいいかもしれない。同じ階だし、あそこも人通りがない。
「あの、今屋君……」
「奥に隠れてよう。また葉山さんたちでしょ?」
資料室に入り、促されるまま亜子はドアから死角になるような場所に立つ。
「ひどいね、服濡れてる」
「うん、ちょっと寒い、かな」
思っていたよりもずっと亜子はびしょ濡れだった。白いシャツが透けていて、しかも亜子はそれに気付いていないのか、隠す素振りもない。
「むこう向いてるから、シャツ脱いだ方がいいよ」
「え?」
「短時間じゃ乾かないとは思うけど、そのままでいるよりは……ね?」
ブレザーを脱いで亜子へ放り、背を向けた。思ったより僕自身が平常を保てていない。薄暗い中二人きりで、理性がぐらつくのも男なら仕方ないだろう。シャツを脱いだ方がいいと提案したのは下心からではないつもりだったが、本当にそうだったかと断言しきれない程度には、背後の衣擦れの音に聞き耳を立てている。
「ありがとう、今屋君。もういいよ」
振り返ると僕のブレザーを羽織って肌を隠している亜子がいた。なんなんだろう、可愛い。自分のブレザーの下の亜子の肌を想像すると、欲情をしてしまう。
「なんか……今屋君にセクハラしてるような気分になる」
「……入野さんが今興奮してるってこと?」
「違います!見たくもないもの見せてるような気分。ごめんなさい」
それって亜子の肌のことを言ってるんだろうか。見たくもないもの?亜子の謙遜は時に無防備で、こちらを試しているかのようだ。
「そんなことないよ、今ドキドキしてるし」
なるべくこちらに余裕があるように、でもストレートに好意を表す。
「あ、あれ?そう……」
僕の返答は予想してなかったものなのか、亜子はうつむいてこちらを見ない。僕は亜子の横に座って、しばらく二人は沈黙した。
「友代、大丈夫かな」
ぽつり、と独り言のつもりなのか亜子がつぶやく。
あんなもの、どうだっていいじゃないかと言いたいが、こらえた。これは亜子の望む答えじゃない。
「たぶん大丈夫」
あいつのこと自体はどうでもよかったが、素知らぬ顔をして亜子を励ました。
「……ありがとう、今屋君。また助けてもらった」
亜子は改めて僕に頭を下げた。胸元を隠す手の影につい視線が行く。
「どういたしまして。入野さんの役に立てたなら」
これくらいのこと、なんでもない。本当はもっとヒーローみたいに亜子を助けてあげたかったけれど、思ったよりずっと亜子は頭が良くて、一人で動ける人だった。
「今屋君は……どうしてこんなに優しいの?」
「え……?」
亜子と目が合う。
「みんな私を避けていた時、今屋君はむしろ私に良くしてくれて……変なウワサ、聞いてたよね?」
唐突な質問だったが、そういえば今まで亜子のそばにいるようになった理由など聞かれたこともなかったし、話したこともなかった。だとすれば、これはちょうどいい。
「……確かに、みんな入野さんのこと、ひどく言ってた」
クラスメートのことは悪い方へ肯定しておく。だって、亜子の味方は僕だけで充分だから。
「でも、僕は信じてなかったし、本当かどうかわからないもので人を決め付けたくなかった」
「あんまり話したこともなかったのに、信じてくれたの?」
僕を見る亜子の目に、心が痺れそうだ。
「……ずっと、入野さんのこと見てたから。入野さんが純粋で誠実な人って知ってたよ」
もう、頃合いだろう。胸が潰れそうなくらい、苦しくて切なくて、亜子が好きなんだ。この気持ちを告げてしまおう。
「と、友代が!」
急に、亜子が大きな声で話し始めた。
「えーと……友代が、今屋君のこと褒めてたよ。優しくて、かっこいいし、それでいて気取らないって……」
「………………」
何を、突然言い出すのだろう。どうして阿川友代の話がここで出る?
「だから、友代を心配してあげてほしい。私は丈夫だから大体のことは平気だし、友代みたいな子こそ今屋君が味方だと心強いと思う」
まるで阿川友代のために身を引くような言い方。まるで僕なんて要らないみたいな言い方。
「なに、それ」
亜子の笑顔が凍りついているけれど、僕にはもうそんなこと気にする余裕もなかった。
「どうしてアレを庇うの?」
アレが理由で亜子が僕のものにならないなんて、納得がいかない。
「どうして……って、友代は私の友達で」
「あれが友達って言うの?利己的で卑怯なあれを?」
ずっと言いたかったことを言った。でも、すぐに亜子は僕を睨む。
「友代を悪く言わないで」
どうして、こんな時ばかり話が通じないのだろう。こんなに亜子が好きなのに、こんなに亜子を心配しているのに、どうして亜子は僕を睨むの?
「ずっと思ってたんだけど、入野さんは鈍感だよね」
亜子の羽織っているブレザーの衿を掴んで、僕は亜子の顔を覗き込んだ。思ったより冷たい声になった。
「どうしてかなあ?どうして入野さんには伝わらないのかな?どうして思い通りにいかないんだろう?」
もう、考えていたやり方をするのはやめようと思った。ブレザーの隙間から見える亜子の肌。もっと、わかりやすくこの気持ちを訴えよう。
「よりによってあれに阻まれるなんて納得がいかないよ。僕がやり方を間違えてたのかな?」
「あの、今屋、君?」
亜子は僕から距離を取ろうとしている。きっと僕がオスの顔をしているからだろう。
「じゃあ、仕方ないね。もっとわかりやすく伝えないと」
亜子の右手首を取って、引っ張った。隠されていた胸元がはだけて、白くて綺麗な肌が僕を更に煽った。
「もう……クラクラする」
何も考えられない。ただただ思いのままに亜子を貪りたい。引き寄せた亜子の右手首にキスをする。ずっと好きだった亜子を、ようやく僕のものにできる。
「今屋君、なにを……」
「は、入野さん……優しくするからね」
亜子は僕の正気を疑ってるみたいだった。多少苛立っていたし興奮気味で性急過ぎたかもしれないが、僕の本心に違いはない。いずれ僕たちは結ばれるんだ。だからここで繋がっても早いか遅いかだけでしかない。
でも、独り善がりじゃなくて、亜子だって気持ちよくさせてあげないと。いっぱい可愛がってあげるために、ブレザーの衿を引っ張って、亜子を床に寝転がすとその上に馬乗りになった。
「嘘、だよね?」
「嘘、だと思う?これ、入野さんのせいだよ」
このじれったさすら甘ったるい。それを伝えたかっただけなのに、亜子は怯えた。ヒッ、と小さく悲鳴を上げて身をよじる。
「どうして怖がるの?こんなに君を愛してるのは僕しかいないよ。だから、ね?」
亜子はどうしても動こうとするから、仕方なく押さえつける。細くてか弱い亜子の身体は、少し力を加えただけで身動きが取れなくなる。
「たまらないよ、なにもかんがえられない」
欲しかったものが目の前にある。そんな状況にあれば、誰だって気が逸るはずだ。この激情に身を任せてしまおうと思った。頭の中が真っ白になりながら、亜子の胸元に顔を埋めて、キスをする。
「今屋君……待っ、て」
可愛い亜子の声。
「きっと気持ちよくするから」
初めてだと不安かもしれない。痛くしてしまうかもしれないけれど、それを取り払うくらい愛してあげる。
「……っ!」
僕が胸元から首筋にかけて舌を這わせると、亜子の身体がびくりと動く。その反応が嬉しくて、鎖骨にキスをする。
「僕の名前、呼んで?」
亜子は暴れたりしない。僕を制止しようと試みているが、抵抗する力は弱い。つまり、亜子も僕が欲しいんだ。
「は、あ……入野さん……こっちを見て……」
亜子の顔を頬を撫でて、うっとりと見つめる。亜子も僕を見る。
「あ、ああ……」
愛してる。そのくちびるが、僕を惑わせる。亜子のことしか考えられない。キスをしよう。口付けて、このもどかしくて切なくて苦しい気持ちを、全部注ぎ込んでしまおう。
『亜子?亜子?どうしたの?』
場違いな声が鳴り響いた。
一瞬何だかわからなかったが、電話だ。亜子が床に転がってるスマホに手をかけている。液晶には阿川友代とあった。手を伸ばすが、亜子はスマホを床にスライドさせて遠く手の届かない机の下に放った。
「と、友代!しっ資料室!!来て!!」
『資料室!?亜子、どうしたの!?』
正直、事態が読み込めない。
亜子は助けを求めてるのか?誰に?誰から?僕から?こんなに亜子を愛してる僕から?助けを呼んでるのは、阿川?アレに?
「僕を……拒絶するの?」
僕には一度だって助けを求めたことなんてなかったのに、僕から亜子は逃げようとする。そしてアレなんかに助けを求める。そんなの、おかしい。おかしい。おかしい!
「これから、友代が来るから……だから、無かったことにしよう」
所々咳き込む亜子の提案は、更に僕の予想を越えたものだった。
「無かったことって……何?」
「誰にも何も言わないから……だからもう、こんなことは」
頭を殴られたかのような気分だ。亜子は僕を拒絶する。しかも、今のことを無かったことにしようなんて、亜子にとって忘れてしまえる程度のことだったのか。僕のこの気持ちを、忘れてしまおうなんて。
『亜子!亜子!大丈夫!?』
腕の長さくらいじゃ届かないほど遠いところにあるのに、あの電話はうるさい。今はそれどころじゃないのに。
「友代!待ってるから、だから、資料室に早く!」
『わかった、今行くね!待ってて!』
目の前の僕じゃなくて、電話先の阿川友代へ亜子は呼びかける。
「……ねえ、よりによって、あれ、なの?」
許せなかった。亜子は何もわかって無さ過ぎる。
「どうして?こんなに君を愛してるのに、僕よりあんなものを選ぶなんてどうかしてる。無茶苦茶だ」
理屈も理論もあったものじゃない。だって、あれは亜子のことを利用してるだけなのに。僕は純粋に亜子のことが好きなのに。天秤にかければ、選ばれるべきなのは僕の方だ。
『ねえ、亜子!もしかしてさ……今、今屋君がそばにいるの?』
「え?」
立ち上がって、手を伸ばして電話を切った。ブレザーの襟を握ったままであれば、亜子もそれを振りほどいてまで逃げようとはしなかった。
「うるさかったね」
とりあえず、場違いな邪魔者の声は消えた。亜子の顔を見れば、蒼白で口をつぐんでいる。
「私、帰る。友代がもうここに来るから、一緒に帰る」
さすがに頭も冷えて、さっきの続きをしようとは僕も思わない。でも、亜子に誤解させたままでは駄目だ。あれは、信頼に足るような人間じゃない。美しい亜子の友人であってはいけない。
「あれがどんな奴か、知ってて言ってるの?」
亜子を引き寄せて、息がかかるくらい近くで忠告をする。すると、亜子はまた僕を睨んだ。
「どうして、今屋君が友代のことを悪く言うの?」
ほっといてほしいと言わないばかりに、亜子は不機嫌だった。睨まれたりしても、僕は引き下がれない。
「どうして?どうしてって……自分に都合が良い時にだけすり寄って、都合が悪くなったら知らんぷり。君が一番辛かった時、あれは何をしてくれたって言うの?君はただ一人で耐えてただけだ。それでまだあれを庇えるの?」
あんなものを野放しにしては、また亜子が苦しむ。全部亜子のためだ。まだあれを友達と信じたい亜子には酷なことかもしれないけれど、あれの本性の醜さを暴いてやる。
「最近になって君に近付いて来たのも、僕との仲を取り持たせるためだったんだよ?それって、友達って呼べる?」
「それの何が悪いの?」
鋭い声で、亜子が反論した。
「……!」
自分を利用してる人間を、悪いことだと思わない。そんなことって、あるんだろうか。どうして汚い身勝手を許して、受け入れてしまうのだろうか。
「私は友代のことが好きだよ。友達だと思ってる。今までのことは気にしてないし、これからだって友代のためになることだったら私は協力する。
今屋君にとやかく言われることじゃない!」
ああ、亜子が怒ってる。誰を恨むことも言わなかった亜子が、他でもない僕を睨んでいる。
「……ねえ、やめてよ。そんな目で見ないで」
怖い。突き放すような亜子の目が、怖い。
「僕は君を愛しているんだ。なのに、どうして?どうして伝わらないの?」
何を間違っていたと言うんだろう。全身全霊をかけて、僕は亜子を好きになった。亜子のためを思った。亜子を幸せにしてあげたいと思った。なのに、どうして。
「亜子ッッ!!!」
大きな音をたてて、扉が開いた。
「亜子っ!?」
入ってきたのは阿川友代だ。
亜子は逃げるように僕が掴んだままのブレザーから袖を抜いて、阿川友代へ駆け寄る。
「その格好……っ!」
「友代っ!」
僕の手には、もぬけの殻になったブレザーが一つ。
「ごめんね、遅れて……」
下着姿の亜子に、阿川友代は自分が着ていたカーディガンを脱いで羽織らせた。
「何があったの?今屋君は、亜子に何をしたの……?」
「……何でもないよ。だから、もう帰ろう」
しきりに事情を聞こうとする阿川友代に、亜子は力なく首を横に振った。
「ひどいことされたの?今屋君に?」
「………………」
阿川友代は僕を警戒してこちらを気にしている。何度問われても亜子は今起きたことを言うつもりは無いらしく、僕に何をされたか、説明するようなことはしなかった。
「誤解されたくないな。僕は入野さんを傷付けるつもりはなかった」
阿川友代に割り込まれたけれど、でも、僕の気持ちだけは告げなくては。言い訳を聞き届けてもらわなくては。どうせ阿川友代は僕に惚れているのだから、体面上繕えれば阿川友代のことは気にしなくていいし、あとは亜子の気持ちに届くかどうかだ。
「傷付けるつもりはなかった、なんて、どうして言えるの?」
しかし、反論したのは阿川友代だった。
「友代……?」
「葉山さんたちに聞いたよ、全部」
不思議そうにしている亜子にも構わず、阿川友代が僕に噛み付いてくる。
「ふうん?大事な時に役に立たないなんて、使えないな」
葉山佐紀も、阿川友代も、どうして今日、与えた役目を演じ切れないのだろうか。愚鈍で浅はかなサルなりに、僕の用意した通りに動いていればいいのに。それが、よりによって今日勝手なことばかりする。
「え……?何の話……?」
「葉山さんたち、言ってた。彼女たちが亜子にしたこと、全部今屋君に仕向けられたものだって」
亜子はまだ阿川友代が何を言い出しているのかわかってない様子だった。僕も、このまま阿川友代に言わせたままではいられない。
「それは言いがかりだよ。彼女たちが都合が良いように作り上げた妄言だ」
薄暗いこの資料室では、全開の扉から差し込む廊下からの光さえ少々眩しい。それが逆光となり、亜子の表情が読み取りづらかった。
「亜子にしたことを今屋君に報告すると、感想メールが貰えるって。それで時々次にどうしたらいいか教えてくれる、って」
「だからそれも嘘だ。困るな、そんなこと信じられたら」
苛立ってきたけれど、それを隠す。不本意だけれど、ここで阿川友代すらも丸め込むように立ち回らなければ亜子は絶対に僕を信じてくれない。それは駄目だ。
「……入野さんなら、信じてくれるよね?急に降って湧いたような話で、僕たちが過ごした日々が無かったことになんかならないよね?」
優しい声で、亜子へ語りかける。そう、亜子ならわかってくれるはずだ。亜子なら、惑わされたりせずに僕を見てくれる。
「なん、で……今屋君は、さっき、理科室から出てきたの?」
でも、亜子は僕へ質問を突きつけた。
「どうして、図書室にいるはずだった今屋君が、私たちがあのトイレから出てくるって、知ってたみたいに」
亜子が、僕を疑っている。なんで、どうして、そんな些細な事を気にする必要があるっていうんだ。
「……そんなこと、気にしてるの?それって、そんなに大事なこと?」
亜子が自分で葉山佐紀たちを振り切ってきたから、事前に用意していた理由も使えないし、これといった言い訳が立たない。焦って頭の回転が鈍くなっているのかもしれない。だから、なんとかはぐらかすように答えるのが精一杯だった。
「私は、今屋君のことがわからない」
亜子の、声が、目が、暗くて冷たい。
「僕は、入野さんの味方のつもりだったよ、ずっと。全部全部、入野さんのためだった。何もかも、何もかも!」
嫌だ、亜子を失うなんて考えられない。僕には亜子がいないと駄目なんだ。引き止めないと。僕のところに戻ってくるように、すがりつかないと。
それを遮ったのは、阿川友代だった。
「……もう、答えは出たよね?亜子」
亜子と僕の間に立ちはだかった阿川友代は、僕を一瞥してから亜子を促した。またこいつかと思うと逆上しかねなかった。でも、それどころではない。亜子に、亜子に、なんとか伝えないと。僕には亜子しかないって。亜子がいなければ、僕には地獄しかない。
「………………っ」
目と目が合った。でも、亜子はまるで人間ではないものを見るように僕を見据えてた。
「ねえ、だから、そんな目で見ないで」
懇願しても、亜子は何も答えない。昨日は、笑い合ってたのに。こんなのってない。僕には何も残らないの?僕がいけないの?好きなのに、好きで好きで仕方なくて、やっと生きる理由ができたっていうのに。
「どうして?どうして……どうしてっ!!行かないでよ、お願いだから、わかって……僕は、ただ、君を」
「今屋君」
亜子が僕の言葉を遮った。
「残念だけど、貴方のことが大嫌い」
――何も、考えられない。
「さようなら」
亜子はあの目で、僕を切り捨てた。