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言い訳

挿絵(By みてみん)


――彼女の話。








 ある日突然、状況は悪化した。

 何が原因だったのか、何がきっかけだったのか、私にはわからない。


 ずっと一人でいることが多かったけれど、最近はやたらと絡まれる。今まで仲が良かったわけでもない葉山さんたちが、ことあるごとに私を取り囲み騒ぎ出す。

 最初は葉山さんたちが私に何の用があるのかと思ったけれど、すぐに葉山さんたちが私を囃し立て弄び嗤われているのだと気付いた。

 葉山さんたちは私に『地味』で『ガリ勉』で『ブサイク』で『淫乱』というキャラ付けをし、そこから私をなじってネタにする。それはそれは、とても面白そうに。葉山さんたちは声が大きくて、彼女たちが楽しんでるだけじゃなく、クラス中も私を『地味』で『ガリ勉』で『ブサイク』で『淫乱』だと思っているだろう。

 目の前で人から蔑まされることがこんなに辛く苦しいものだとは知らなかった。今まで人の見ていないところで耐えていればよかったものを、無理矢理公衆の面前に引き回されているようだった。

 何度も、この状況に慣れてしまおうと考えた。

 葉山さんたちに同調して自虐して笑い飛ばしてしまえば楽になるだろうというのも知っていた。

 でも、どうしてもできなかった。作り笑いすら顔が強張ってできない。押し付けられたキャラクターを認められなくて、屈辱的で、心がバラバラになってしまいそうだ。もしかしたら、器用な性格であれば順応することができたかも知れない。明るい女の子だったらそもそもいじめられなかったかも知れない。

 何がいけなかったんだろう、って思う。

 私は何もしてないつもりだった。どうしてこんなにつらくて悲しい思いをしなければならないんだろう。みんなと同じようにはできてなかったのだろうか。私には足りないところがあったのだろうか。わからない。何度問いかけたって答えは出ない。

 どうしたらいいのかもわからなかった。毎日何も見えなくて、不確かだ。目隠しで足元が見えなくて、こわくてこわくてたまらない。

 でも、あきらめたくなかった。

 まだ、しがみついていたい。前みたいに戻れるって、その希望にすがりついていたい。一度逃げ出してしまえば、全部おしまいだ。もう、元通りにはならない。

 どうしてもあきらめたくないから、私はまだ目隠しのまま毎日を繰り返した。




「調子にのってんじゃねーよ、ブス!」


 ある日の放課後、葉山さんたちに付き合わされて、授業で使った地図帳を持って資料室に入ると、今までに無いほど葉山さんは声を荒げた。あんなに華奢な小柄な体から、こんなに鋭い声が出るものなのかと驚いてしまう。

 気が付けば、密室で三対一だ。この状況で怒鳴られてるってことは、いよいよいじめられてるみたいだ。まるでドラマみたいなシチュエーション。


「調子って、なに?」


 自分でもあっけらかんとした受け答えだと感じた。毎日葉山さんたちに絡まれていたことで、少しずつ面と向かって何かを言われることに耐性がついてきている。

 何も感じないふりをすればいい。

 ナイフで刺されているのはポリウレタンで出来た私の人形で、それをただ眺めていればいい。自衛本能とは立派なもので、誰に教わるでもなくそう考えられるようにまでなった。だから、葉山さんたちに冷やかされているのもどこか他人事のように聞こえてくる。

 本当に何も感じないようになるのは無理だけど、でもこれで耐えられる。平気な顔して、普通に立ってられる。こわくない、きっとこわくない。


「はあ?とぼけてんじゃねーよ」


 貝沼さんが私を睨む。いや、私の形をしたポリウレタンにむかって凄んでいる。まるで不良を演じてる役者みたい。


「何ブスのくせに今屋君に色目使ってるわけ?勘違いも程々にしてくんない?」


 どうやら掃除の時間の今屋君とのやり取りのことを言っているらしい。

 今屋君は相変わらず優しいし、受験勉強の強い味方だ。この後も数学の過去問を一緒に見ようと約束している。それが彼女たちには気に入らないらしい。やっぱり今屋君はかっこいいしみんなの人気者だから、葉山さんたちも今屋君の前では表立って私で遊んだりしない。だけど、全くの誤解だ。私と今屋君が恋仲なんて、そんなことおこがましいと思えるぐらいの分別はある。


「……そんなこと、考えてるわけない」

「口答えしてくるところが調子乗ってるっつってんだよ!!」


 地図帳を投げつけられた。当たりはしなかったけれど、びっくりはした。


「あんたさあ、なんで学校来てんの?」


 私の一番痛い傷口を探るように、悪意を剥き出して噛みつかれる。


「普通さあ、教科書全部ぐっちゃぐちゃにされたら心折れるっしょ。友達もいねーし、みーんなあんたのこと知らんぷりしてんのにさあー」


 私はまた人形を用意する。理解できないふりをしてやり過ごす。

 だけど制服のリボンごと引っ張られて、現実に引き戻された。無理矢理体を動かされるというのは、とても不快なことだ。


「ブスでぼっちになると図太くなるもんなんですかねー」


 息が苦しくなって、鼻がツンとした。いけない、泣きそうだ。罵倒と、否定と、嘲笑。でも、泣きたくない。どうしても泣きたくない。ギュッと拳を握り締める。爪が掌に食い込むくらい。皮が破れて、血が出るくらいギュッと。痛みで何も考えられなくなるくらい。


「なに?『目障りだからもう学校に来ないで下さい』って丁寧に言わなきゃわからない?」


 そうか、そんな方法もあったな。学校に来なければ、こんなに苦しい思いをしなくて済むかもしれない。でも、お母さんがどう思うかな。きっと悲しむ。いじめられるような私が娘で、お母さんがかわいそう。


「このあと、今屋君に会うんでしょ?

 聞いてみなよ、『私ってどう?』って!みじめ?不細工?かわいそう?ってさあ!

 今屋君優しいから教えてくれるよ!『もう学校来るな』ってさ!」


 それだけ言い残し、嗤いながら葉山さんたちは地図帳をひっくり返してから資料室から出ていった。

 嵐みたいだった。カビ臭くて薄暗い室内に、静けさが戻る。地図帳は元の本棚に戻さなきゃいけない。落ちていた地図帳を拾いながら、私は言われたことを一つずつ反芻していく。

 さっきは我慢できた涙がこぼれてきた。もうそこに、悲しいとか辛いとかの感情はない。体が勝手に涙を流したといった方がしっくりくる。息が苦しくなってきたけど、しゃがみこんで大きく息を吐ききれば次の息が吸える。まだ大丈夫。呼吸が元に戻る。

 地図帳を元に戻して資料室を出ると、携帯電話にメールが届いていた。サイレントにしていたから気付かなかった。友代だ。


『教室で待ってる』


 短い文面だったけど、いつもの友代らしくなくて少し不安になった。でも、今屋君が図書室で待ってくれている。少し悩んだが、今屋君に遅れてしまうから適当に切り上げて下さいとメールした。待たせておいて申し訳なかったが、友代の様子が心配だった。

 教室に向かうと、適当な窓際の机に友代が座っていた。


「ごめん、遅れた」


 資料室の鍵を職員室に返してなるべく急いで戻ったけど、こんな風に誰もいない教室で友代が一人で待ってるとは思わなかった。


「亜子、座りなよ」


 別に友代の席でもなかったけど、促されるままに友代の前の席に座った。


「なにか、重要な話?」

「うん、いや、うーん」


 早速本題を切り出すと、友代の返事は歯切れが悪い。


「……なんて言えばわからなくて、ずっと迷ってたんだけど」


 友代は少し緊張してるみたいだった。何のことかわからなくて、私は友代の話を待つしかなかった。


「亜子はさ、みんなの知らないところで遊んでたりしないよね?不良とつるんだり……そういうこと」

「はあ?」


 何を言い出すのかと思えば、誰に何を聞いてるんだろう。地味な私に不良なんて人脈があると本気で思っているんだろうか。


「あっ、やっぱり!やっぱりそうだよね!」


 私のリアクションを見て「安心したあー!」と友代は喜んでいる。


「なんでそんなこと聞くの」

「噂になってるんだよ、亜子。ちょっと前から」


 そんな自分の噂話なんて聞いたことない。否定すらできないところで、勝手にそんな話が流されてるのかと思うと悲しいし腹立たしい。


「みんなにまわってきた、このメール。ほら、これ」


 友代は自分の携帯電話を取り出して、私に画面を見せてきた。そこにはうちの制服を着た女の子のふとももが見えた。


「これ、援交サイトにあった写真みたいでさ……ほら、このローファー亜子のと一緒じゃん」


 確かにローファーは私のものと一緒で、この写真に写っている人物が私でもおかしくない。でも、私のローファーは何の変哲もないものだし、ローファーが靴箱から無くなったことだって何度かあるから、私以外の人物っていう可能性も充分ある。


「これが、私だって?」

「……うん、クラス中の噂になってて」


 友代は眉を八の字にして頷いた。


「そんなわけないよ」


 急にみんなに遠巻きにされたと思えば、そんな噂のせいだったのか。当然私には何の心当たりもない。


「だよね!でも、葉山さんたちが、これ亜子だって間違いないって……高校生くらいの人たちと亜子が連れ立ってるのも見たって言ってたし」


 葉山さんの名前が出て、なんとなくわかった。あんなに私のことが嫌いなら、根も葉もない噂くらい流すだろう。

 葉山さんはちょっと派手だけど可愛いしおしゃれだし明るくて交友関係が広いだけじゃなくて男の子にも人気があるから、きっとみんな疑ったりしない。地味で何を考えてるかわからない私が悪いことしてるって話は、確かめようもないし奇異で面白くて、誰も否定もせず波紋が広がってしまうんだろう。


「……葉山さんたちの勘違いだと思う」


 全部葉山さんたちのせいだ、とは言えなかった。そう言い切る自信も確信もなかったし、誰かを悪いと言うことは何かを背負ってしまう気がして、私には重たいものだ。


「……最近、亜子、葉山さんたちと仲良いよね」


 友代は椅子に座り直して私に向き合う。


「そう見える?」


 少し、愕然とする。

 私が毎日嫌な思いをしてること、誰も気付いてすらいないのか。それは何をされても黙って耐えていた私の喜ぶべき結果なのかもしれない。でも、私は本当にこれを望んでいたのだろうか。


「……違うの?」


 なんて答えるべきか、わからなかった。友代をなじれば私の気は済むかもしれないと頭をよぎった。どれだけ辛くて苦しかったか、気付いて助けてくれたらどれだけ良かったか。噂を否定してくれたら、すぐ私に確かめてくれれば、葉山さんに逆らってくれれば。

 のどが潰されるかのような感覚。私を押し上げようとしているのは怒りだ。どうして誰も私のことを守ってくれなかったの、という自分勝手な怒り。


「違うよ」


 私は、やっぱり泣き出せなかった。思うままを吐き出すことが私にはできないみたいだ。そんな自分にガッカリする。私は一生自己主張が下手なままで、ずっと我慢して耐えるだけしかできないのかも知れない。


「そっか。じゃあまた亜子に絡んでもいいよねっ」


 友代はニカッと笑った。


「………………」


 力が抜ける。私が怒鳴ってたら見れなかったであろう笑顔。

 怒り出さなかった私の選択が正解だったのか間違いだったのかわからない。でも、私が友代を恨む気持ちなんてもう霧散した。そう、過ぎたことなんてどうだっていい。


「最近、今屋君と仲良いよね、亜子」


 早速、友代から今屋君の話が出る。そんな予感はした。 友代はずっとずっと今屋君のことかっこいいって言ってたし、実のところ今屋君のことを見るたび友代のことを思い出していたから。


「うん。よくわからないけど、今屋君がとても良くしてくれるから」

「うらやましーっ!なにがきっかけ?」

「さあ……?なんでだろう。なんとなく、かなあ」


 最初は孤立してる私を心配してくれてるからだろうと思っていたけど、よくよく考えてみれば変な噂が持ち上がるような地味なクラスメートにここまで良くしてくれるものだろうか。今まで深く考えたことなかった。思い返してみれば不思議な話だ。


「普段なに話してるの?」

「授業とか受験勉強とか、そんな感じのことばっかだけどあ」


 思い出して携帯を取り出す。メール送信したあと、返信を確かめてなかった。思った通りメールが来ている。


「悪いことしたな……」


 まだ今屋君は待ってくれていそうだ。これ以上遅れるのは申し訳ない。


「友代も来る?」

「え?」

「今屋君と、数学の過去問見る約束してるの」


 ずっと友代を誘いたかったから、友代は喜んでくれるに違いないと思ってた。だけど「いいっ!いかない!」と友代は顔を真っ赤にして首を横に振る。


「だって緊張するし……いきなり行ったらバカみたいだし」


 友代の言い分には納得できた。確かに私も最初の頃は今屋君と何を話せばいいかわからなかったし、あまりしゃべったことのない人に勉強を教えてもらうなんて恥ずかしい。

 ……じゃあ、つまり、私が今屋君に友代のことを少しずつ紹介しなきゃいけないんだ。友代がどれだけ今屋君のことを好きか、私は知っている。恋愛には疎いし少女漫画すらあまり読まないけれど、友代と今屋君が両想いになったらそれはとても良いことだ。そのために協力は惜しまないつもりでいる。


「うん、わかった。じゃあまた誘うね」

「また今度ねっ、また今度!!」


 友代に大きく手を振って、私は図書室へ急いだ。




「社会科、大変だった?」

「うん、資料室の後片付けもしたから……」


 今屋君はやっぱり私を待っていてくれた。葉山さんたちのこともあったけど、先約の今屋君より友代を優先してしまったことが心痛い。


「入野さんって、社会科の係だっけ?」

「違うけど……頼まれて」

「葉山さんたちに?最近仲がいいの?」


 この質問、今日で二回目だ。


「……どうかな」


 友代でさえ気が付いていなかったんだから、今屋君もきっと知らない。あんな可愛い葉山さんがあんな怖い声出すことなんか、想像もしないだろう。でも、それでいい気がした。今屋君には関係ない話だ。

 気を取り直して広げてあったコピーを手に取る。まだ今屋君も問題を解いてないようだった。図形問題を睨んで、思い当たる公式に当てはめてみる。中間テストの答案で今屋君に解説してもらったのと同じ原理の問題だ。これなら解けそうな気がする。計算式を出して順調に解いていくと、それらしい答えが出た。

 嬉しくて今屋君に報告しようとすると、今屋君は黙ったまま難しそうな表情を浮かべていた。


「……今屋君?」


 もしかしたら怒っているのかもしれない。遅れておいて、私には誠意が足りなかったかも。


「え……あ、どうしたの?」

「ごめんなさい、長く待たせて」


 いつもよりしおらしく謝った。今屋君には迷惑や面倒をたくさんかけてしまっている。優しい今屋君には心から感謝をしている。せめて不快な思いはさせたくない。


「いや、僕が勝手に待ってただけだし」


 そう笑う今屋君だけど、やっぱりいつもと何か違う。でも食い下がって謝るのもしつこいだろうし、他にどうしたらいいかもわからない。

 問題の続きを解きながら、友代の話も出したりした。今屋君の反応は素っ気ないものだったけど、私は使命感を覚えてまた今度友代の話をしようと思った。




 これ以上はないと思っていたのに、まだ悪化した。悪夢のように、私は魘される。

 葉山さんたちは、私をなじるのに友代を巻き込んだ。まるで友代が私に悪口を言っているように仕向けて、嗤う。そして私のついでに、友代も貶める。 どうして、葉山さんたちは友代まで巻き込むの?まるで私の触れられたくないところを知っているみたい。私のせいで友代までひどい目に遭うなんて、そんなの拷問だ。

 あんなに元気で、いつも笑っているような友代の表情が日に日に曇り、翳っていく。辛くないわけない。だって、どうして嘲笑されて平気でいられる?毎日人格を否定されてそれでも元気でいろなんて、無理に決まってる。

 友代がどれだけ辛いか、私はわかる。毎日泣いて泣いて、でも友代は私に謝ってた。

 責めてくれても、よかった。むしろ、私のせいでこんな目に遭ってるって言ってくれた方が楽だったかもしれない。

 だってどう考えても、葉山さんたちが友代を巻き込んだのは、私へのあてつけだった。友代は悪くない。全部全部、私が悪いんだ。私が友代を傷付けてる。

 目の前に友代がいれば、私は知らないふりができなくなる。ポリウレタンの人形を盾にすることはできない。バカのふりして聞き流すこともできない。

 いよいよ、どうしたらいいかわからなかった。

 もう、一人で耐えてればいいというわけにもいかなくなった。このままにしておけば、辛い思いをするのは私だけではなく友代も同じだ。でも、やっぱりこわかった。どうにかしなければいけないと焦れば焦るほど、身動きが取れなくなった。決断をするのは、私にとってとても勇気の要ることだった。

 ある日、例によって教科係の手伝いで呼び出された友代と私だったが、様子がいつもと違った。


「最近さあ、阿川さん調子に乗ってるよねえ~入野さん?今日なんて入野さんに言いすぎだったし」


 今度はそんな手法かと気付き、身が竦む。


「そんな、私は葉山さんたちの言う通りにしてるだけで……」

「へえ~私たちのせいにしていいんですかあ?阿川さあーん?入野さんの悪口、平気で言えてたじゃーん」


 友代は何も間違ったことを言ってないのに、葉山さんたちはびっくりするような手際で友代を悪役に仕立てあげた。


「入野さん、知ってる?阿川さんさあ、入野さんがいないところで『亜子には迷惑してる』って言ってたんだよー」


 そう言われてもしょうがない。いや、友代には私を責める権利がある。視線を友代に向けると、彼女は弁明するように「ちがう」とか「誤解だ」と訴えていた。

 でも、こんなの、本当に全部私のせいなの?ずっと辛い思いをしてるのは、私じゃなかった?

 そんな風に頭によぎると、それは払拭できない染みのようにどす黒く広がる。

 私が悪い。私は悪くない。私が悪い。私は悪くない。


「ねー、ほら、ムカつくっしょ?入野さん!」

「ほら、やっちゃいなよ。髪の毛引っこ抜いちゃうとか、ほら~仕返してやりなよ!」


 背中を押され、今にも泣き出しそうな友代の前に立つ。


「亜子、亜子……許して、許してよ……!ちがうの、私、そんなつもりじゃなかったの、仕方なかったの」


 許す、って何?友代はこんなに怯えて弁明するほどのことを私にしたのだろうか。

 目の前がチカチカする。私は友代を裁く権利でもあるのだろうか。葉山さんたちの言う通り、暴力を振れば私の気は済むのだろうか。私が救われるなら友代を泣かせるのも仕方ないのだろうか。


「いやだ」


 それが結論だった。

 でも、どうしよう。こわい。葉山さんたちに反論するのがこわい。でも駄目だ。振り返らなくちゃ。


「こんなこと、やらない」


 声が震える。誰かに反抗するのって、こんなにこわいことなんて知らなかった。


「はあ?いい子ぶっちゃってんの?」


 何を言われても泣かない。折れたくない。あきらめたくない。


「言われた通りにしなよ。じゃなきゃ、あんたの番にするよ。阿川さんはきっと喜んであんたを殴ると思うけど」


 じゃあそれでもいい。痛いのはいやだ。でも、友代を代わりにするくらいなら私が殴られた方がいい。友代は今、何を考えているんだろう。友代は、私を殴るのは仕方ないと心に整理をつけているのだろうか。

 思考があちこちに行き、前後左右もわからないくらい混乱してて、葉山さんに返事も出来ず黙るしかなかった。


「こんなところでどうしたの?」


 思いがけない声が割り込んできた。

 顔を上げると、今屋君がいる。その場にいた誰もが何も言えなかった。私も同様で、なんで今屋君がここに?としか考えられなかった。

 すると急に、今屋君が私の右腕を掴んだ。


「!?」

「行こう、入野さん」


 もうなにがなんだかわからなくなった。

 引っ張られるがままに資料室を出るけど、制止する人もいなかった。今屋君の力は強くて、男の子の手が大きいことを知った。

 資料室から出た廊下には西日が差して、とても明るい。ふと、このまま今屋君と行ってはいけないことを思い出した。


「だめ、だめだよ、友代がまだあそこにいる」


 あんなところに一人にしてきてしまった。機嫌の悪い葉山さんたちに友代が何をされるかわからない。引き返さなきゃ。

 今屋君の手から腕を振りほどこうとしたが、今屋君は私を離そうとはしなかった。


「先生呼んであるから、大丈夫」


 それなら葉山さんたちもきっと友代にひどいことをしない。先生を前にして、何事も無く解散するだろう。


「……そっか」


 安堵して、行き先を今屋君の手に委ねた。資料室でない場所ならもうどこでもいい。何も考えたくなかった。


 今屋君は非常階段へ出てやっと私の腕を離した。

 どちらともなく二人並んで階段に腰を下ろすと、私は大きく息を吐く。疲れてしまった。でも、まだ泣けない。理由もなく喉が締め付けられるのを私はやり過ごす。

 今屋君は何も言わなかった。それがありがたくて私もしばらく黙る。沈黙。でも、今屋君にはなにか説明をしなくては。


「変なところ、見られちゃったね」


 恐る恐る話を切り出す。


「最近、変だなとは思ってた。僕は鈍感だから、全然わかってなかった、ごめん」


 今屋君は何を謝ってるんだろう。私には謝られる理由なんかない。


「……わかってなくて、よかったんだよ。これからも、わかってなくていい」


 本当に、こんなに苦しくて辛かったのを誰にも言わなかったのは私自身だから。私が決めて耐えていたことだったから。


「どうして、そんなことを言えるの?」


 問われて、私もわからなかった。主体性も無く地味な私が、よくここまでがんばったなって思う。知らなかった。自分がこんな風に意地っ張りだとは。

 ぼんやり浮かぶ、カーテンのかかった薄暗い部屋。ハンガーにかかった制服を憂鬱に見つめる朝。


「……朝起きたら、今日は学校じゃないところに行っちゃおうかな、って毎日思ってる。苦しくて苦しくて、こんなことから逃げ出したくて。」


 仕方なくて、制服に袖を通す。お母さんに見られないようにボロボロの教科書をこっそりカバンに入れる。そしたら、お母さんの作った朝ごはんの匂い。甘くてふわふわの卵焼き。


「でも、お母さんに、いってらっしゃい、って言われると、私はやっぱり学校に行くしかないんだ」


 何も知らないお母さんは、いつも変わらず見送ってくれる。本当は、この玄関から出たくない。ここを出てしまうと、もう私には味方なんていないから。

 古い木目の化粧板のドアをガチャリと開けると、外は嘘みたいに眩しい。

 道路のコンクリートの窪みにできた水溜りや、スズメが並ぶ電線に、30mおきの標識。通学路の風景は、いつも心が重くなる。きっと今日もろくでもないと考えながら見ている風景だから。


「なんの取り柄もないし、頭も良くないし、運動音痴でなにも出来ない私だけど、でも、私、あきらめたくなくて。

 あきらめないことが私のできる、唯一のことで」


 そもそも学校へ行き続けることが――お母さんに何も言わず耐え続けることが、あきらめないことになるかはわからない。必死で今まで毎日にしがみついていたけど、本当にこれで良かったのかも答えは出ないし、もっと別の要領のいい方法があったかも知れない。

 でも、今やっとわかったことがある。


「こわくても、みじめでも、私が立ち向かわなくちゃ」


 涙が、出た。

 人前で泣いちゃいけないと思っていたのに、カーディガンの裾で拭った。今屋君を盗み見て、咳払いを一つする。


「……ごめんなさい、困らせるよね」


 ちょっとすっきりしてしまった。今屋君にはいい迷惑だっただろう。急に恥ずかしくなってくる。何を語ってるんだ私は。立ち上がってスカートを払う。


「むしろ困りたいよ、入野さんになら困らせられたい」

「なに、それ」


 今屋君は卑怯だ。そんなこと言われたら照れてしまうに決まってる。


「カバン、僕が取ってくるよ」

「え?」

「帰るよね、だから入野さんのカバンも持ってくる。ここにいて」


 そういえばそうだ。カバンがない。今屋君にそんなことさせるわけにはいかなかったけど、軽い足取りでいってしまったから結局お願いしてしまった。


 手すりにもたれて外を眺める。非常階段なんて始めて出た。遠くで運動部のかけ声が聞こえて、吹奏楽部の個人練習の音も流れてくる。風が、吹いた、

 泣いてしまったところを見られたのに、私はあんまり落ち込んでなかった。誰にも言えなかったことまで独白してしまったけれど、心がどこか軽くなった。今屋君が何も言わずに聞いてくれてくれたからかも知れない。すごく救われる。

 何が正解で何が間違ってたかなんてわからないけれど、あの時今屋君に手を取ってもらえて、私は良かったと思う。どうして今屋君があんな人通りもない資料室の前にいたかはわからないけれど、運が良かった。


「おまたせ」


 カバンを取ってきてくれた今屋君は、心配だからと私を家まで送ると言ってくれたが、断ろうとすると結構強引に押し切られてしまった。そこまでお世話になるわけには、と思っていたが、今屋君が笑顔でニコニコしてるからやはり甘えてしまった。


 帰り道は他愛のない話ばかりだった。今屋君が意図して先程のことに触れないでくれているみたいだった。申し訳ないけど、それがありがたい。


「……あ」


 そうだ、友代に大丈夫だったか聞くのを忘れていた。今屋君が先生を呼んでくれてはいたみたいだけど、私が友代を置き去りにしたことには変わりがない。謝罪もしなければ。


「友代にメールしてもいいかな」


 今屋君は表情を変えず「どうぞ」と言ってくれる。なんとなくだけど、今屋君は友代の話題を避けがちな気がする。何度か友代の名前を出したけど、いずれも反応は素っ気ないものだった。

 許可をもらったので、私はスマホを取り出して友代にメールする。何もなかったか、先生がちゃんと来たかどうか。それからあのまま資料室を出てっていってしまったことを詫びた。


「……友代とは小学生の頃から友達で、よくうちに遊びに来てた。友代、うちのお母さんとメールするくらいで」


 聞かれてもないのに私は友代のことを話し始めた。


「阿川さんは、入野さんの親友?」

「……肯定するにはちょっと照れるね」


 面と向かって確かめ合ったこともないし、親友、なんて言葉はちょっとくすぐったい。


「友代は、すごくいい子だよ」


 抽象的にしか言えないけれど、この話題が今屋君に飽きられないうちに友代のこと褒めておかないと。ちらり、と隣の今屋君を盗み見ると目がかち合った。


「入野さんだっていい子だ」


 ふんわり笑う今屋君に、私はあわてて目を逸らす。もう少しで家に着く。落ち着こう。


「今屋君が騙せてるならそれはよかった」

「だって入野さんを疑う必要ある?」


 そう言って、今屋君は私にイイコイイコする。

 なんだこれ。

 そんなことされてしまうとは思わなかった。照れる。恥ずかしい。顔が熱くなってしまう。今屋君は女の子にはみんなこんなことしてるのだろうか。


「も、も、帰る!」

「え、着いたの?」


 半ば拗ねた子供のように黙ってうちのアパートを指差した。


「そう。明日は放課後図書館行こう」

「……うん。今屋君、気を付けて帰ってね」


 アパートの前まで来ると、いつもの表情に戻って今屋君に手を振り、アパートの階段を上る。

 二階建ての2DKの古いアパートで、むき出しの屋根のない階段。私が203号室の前に立ち止まると、後ろから呼びかけられた。


「入野さん!僕はいい子かな?」


 思いがけない質問だったけど、答えは決まってる。あんなけしからんことを平気でしちゃうようなことは私は認めない。


「悪い子です!」


 二人で笑って、また手を振って別れた。




 鍵を開けて玄関に入り、薄暗いダイニングにカバンを無造作に置くと手を洗ってうがいをして、冷蔵庫にある麦茶をコップに注いでから携帯を取り出す。

 友代からのメールの返信が来ていた。少し逸りながら受信メールを開く。


『大丈夫、あのあとすぐ解散したから!先生が来たかはわからないけど。亜子は大丈夫?今屋君まるで王子様が助けにきたみたいだったね』


 王子様、か。

 私は今屋君のことをどう思ったらいいか、もうわからない。確かにかっこいい。優しいし、頭も良くて頼れる。ずいぶん仲良くなったから、もうただのクラスメートと称するにはいささか淡白だ。

 友達?でも、私は誰にも言えなかったことを今屋君に打ち明けてしまった。


「それって……」


 まさか恋なんて、認めちゃいけない。だって友代からすればこれは横恋慕で、大変な裏切りになる。


「ちがうちがう」


 誰もいないのに、私は声に出して自分の想いを否定した。

 一連のことは彼が親切だからのことで、私はうぬぼれちゃいけない。大体、あんな綺麗な顔立ち、気後れしちゃって仕方がない。私は友代を応援するくらいで充分だ。

 友代には、今日今屋君に送ってもらった帰り道、友代の話をしたことを報告した。それから、今日のことは本当にごめん、と。

 メールのsendingの文字を見つめながら、これからのことを考えなきゃいけないことを思い出す。

 もう、今日みたいなことはいやだ。また都合よく今屋君に助けてもらえるはずもないし、そうじゃなくて私が立ち向かわなきゃいけない。


「わっ!?」


 握っていた携帯が震えてびっくりしたけど、友代からの着信だった。気を取り直して電話に出る。


「どうしたの?友代」

『うん、葉山さんのことで……』


 さっきのメールが嘘みたいに友代の声は沈んでいた。


「やっぱりあのあと……」

『ううん、ちがうの。そうじゃなくて、あの、あのね』

「?」

 友代が何を言おうとしてるのかわからなくて、私は聞き逃さないように耳を欹てる。


『……っ、前、亜子の噂あったでしょ』

「うん」


 援助交際のサイトにあった写真が私だと決め付けられていたあの噂のことを言っているようだ。


『あの写真、本当に亜子じゃないんだよね?』

「え?だって……」

『いや、うん!わかってる、でもさ、そういうつもりで撮ってなくて勝手に投稿されちゃってるってこともあり得るでしょ?』


 友代の言う通りだ。あの写真自体は特別なものじゃない。短いスカートからふとももが見えるだけ。でも、あんな写真撮った覚えもないし、私じゃないことは間違いない。


「うん、違うよ」

『そっか。……じゃあ、どういうことなのかな』


 私がきっぱり否定すると、電話の向こうで友代が考え込んだ。友代が何を潜考しているのかはわからない。


『ね、亜子……あのさ、今屋君のことだけど……』

「うん」


 さっきのメールのことかな、と友代の言葉の続きを待ったけど、友代は話を切り上げてしまった。


『いや、やっぱりなんでもない』

「え?なんで?」

『いや、いいの。忘れて!じゃ、電話切るね!』


 通話が切れてしまった。友代が何を言いかけたのかわからなくて首を傾げるしかなかった。

 アパートの部屋は静かだ。仰向けに寝転んだ。電気つけておかないと、「暗いじゃない」ってまたお母さんに怒られる。いや、でもお母さん今日早番だったっけ。


「………………」


 思考が停止した。何も考えないでぼーっと電灯を眺めていると、仏壇を思い出す。

 起き上がって寝室にしてる隣の和室へ入る。お父さんの写真は笑ってる。マッチでろうそくに火をつけて、線香を一本立てた。ろうそくの火を消して、線香の煙を眺めた。一筋の煙が畝ってよじれて消えていく。


「………………」


 前触れもなく、私は思い立つ。

 もう、やめよう。

 怯えるのも、耐えるのも。みじめな自分を認めてしまおう。それはとてもこわいことだったけど、私の決断を受け入れてくれる人がきっといる。この世界にそんな人もきっといる。


 急いで制服を着替えて、駅前に出る準備をする。アパートの階段を降りながら、友代に電話をかける。三コール目で友代が出ると、私は少し早口に言った。


「私やめようと思う。このままでいることを、やめることにした」


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