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悪夢が覚める

 家の片付けは順調だった。長く住んだこの家は古い家を改装しており、趣がありつつもあちこちが軋んでいる。老いた祖母を一人暮らしさせないために真白は妻と子供を伴って古巣のこの家で同居することにしたが、また多くの人数で暮らすにも、家を長持ちさせるためにも、一度補修をすることにした。そのために、この家に思い入れのある兄弟は久し振りに集まり、荷物の整理をしていた。

 まだ元気でしゃっきりとしている祖母は、一人で住むには広いこの家も綺麗に保っていた。それでもやはり普段立ち入らない部屋は目が届きにくく、押入れに入りっぱなしの荷物はこの際に処分することになった。




「ねえねえ懐かしいものが出てきた」


 そう言って、陽咲は隣の部屋に居た真白をたずねた。


「なに?ああ、体操着入れ?」

「そう、お母さん手作りの」


 懐かしむように陽咲は体操着入れをまじまじと見た。二十年も昔のものだしさすがに古びれているけれど、兄弟たちにとって一人一つ作ってもらったこれは、思い出深いものだった。真白も良賀も、色違いのものを持っていて、小学生の頃は三人並べばその体操着入れで兄弟だとすぐにわかったものだ。


「こういうのを捨てなきゃいけない、ってことだよね……」

「そうだな」


 寂しく思う陽咲の気持ちも、真白はわからなくなかった。もう使わないとわかりきっているものでも、幸せだった子供時代の匂いが存分にするから、手が止まってしまうのだ。


「真白兄はあとどれくらいで終わりそう?」

「んー、ほとんど終わった。あとは本どうしようかな」

「えっ、終わるの?」


 他愛なく話す二人に、呼び掛けがかかった。


「なあなあ!こっち、ばあちゃんが面白いもの見つけてたよ」


 次男の良雅が、兄弟を呼んだ。




 三人兄弟は昔から仲が良かった。子供の頃から三人一緒で、兄二人に男勝りな妹がくっついてまわっていた。それもきっと、この家独特の日向のような空気がそう兄弟たちを育てたのだろう。とはいえ家を離れればそれぞれの人生がある。真白は3年前に結婚して家庭があるし、良雅は大学の頃からの放浪ぐせがあり今も一年のほとんどを海外で過ごし、陽咲も都内で看護婦の仕事をしていたが今年静岡の方へ嫁入りする。

 毎日一緒にいたのに、あんなに仲が良かったのに、会うことすら難しくなる日がくるなんて不思議なことだと真白は思う。



「ずっとこの鍵はなんだろうと思っていたんだけど。お部屋にこんなものがあったなんて」


 祖母は床に正座しながら、その棚を眺めていた。

 長く暮らしていたというのに、知らなかったことがありすぎる。父親が自室のクローゼットに鍵つきの棚を作っていたことを、子供たちも知らなかった。祖母の言う通り、父親がいつも身に付けていた手帳についていた鍵がどこの鍵なのか、長年の家族の謎だった。まさか、こんなところにこんなものを作っていたなんて。棚はクローゼットの上部を占めていて、決して狭くない。そこには、さらに箱が山積みになっている。


「なにこれ?何をそんなに大切に取ってたの父さん」


 陽咲が身を乗り出そうとすると、そこには写真たてがたくさんあった。全部、母だった。若いときから晩年までの母が十枚以上飾られていた。


「お母さんの……写真?」

「引き出しにも写真入ってるし、後は全部母さんとの思い出の品っぽいな」


 祖母と一緒にこの棚を見つけた諒雅が、適当な箱を取って開けて見せる。そこには丁寧に畳まれたラッピングの袋や、紫色のシャーペンなんかが入っていた。


「……父さん、母さんのことを愛していたからね」

「ああ。子供から見ても、ちょっと異常に映るくらいな」


 はたから見ればおしどり夫婦で、家でも常に二人は仲が良かった。いや、というより、どちらかと言えば父の方が母へ入れ込んでいた。毎日まっすぐ帰り、あいさつのキスをする。


「私は、お父さんとお母さんみたいな夫婦に憧れるけど」


 陽咲は、美しく写った母親の写真をまじまじと見た。二人は、晩年まで変わらなかった。手を繋いだり、キスをしたり、そんな姿を最後まで見ていたのは末っ子の陽咲だけ。


「そうか?母さんのことになると途端に怖くなるんだよ、父さんは。反抗期、俺も悪かったけど『亜子を悲しませるとしたら、息子であっても許さない』って、すごい冷たい声でさ」


 思春期に家から遠ざかってた後ろめたさのある良賀は、思い出しただけで青くなる体験があるらしい。


「ああ、良雅はね。ひどかったから、中二病」

「うるせー」

「でも、俺もたまたま母さんと二人で出掛けたらすごい剣幕で怒られたよ。浮気か、って。高校生と母親で浮気はないよね、浮気は」


 上の男たちは特に、父親の底しれなさを知っていた。末っ子で唯一の娘である陽咲は、かっこいい父親は自慢だったし、怖いと思ったことは一度も無いらしい。それでも、父親から母親への惜しみ無い愛は感じ取っていた。


「……お母さんが亡くなった時、お父さん死んじゃうんじゃないかと思うくらい落ち込んでたね」


 五年前、母親が他界した。三年に及ぶ闘病の末、乳癌に倒れた。発病から父親は仕事を休職してまで母親を支えていた。母親の最期を看取ると、みるみる痩せ衰えてそのまま二年後に亡くなった。


「二人して、私を置いてっちゃうなんてね」


 アルバムを一人めくっていた祖母は、ため息をついた。母親の母親である祖母は父親との血の繋がりはなかったが、彼が亡くなるまで二人でこの家で暮らしていた。仲は良好で、本当の親子のように過ごしていたことは子供たちは知っている。父親は母亡き後、祖母の面倒を最期まで見ようと考えていたようだ。しかし、それも叶わず彼は亡くなった。


「……いや、本当に早かったよ。うちの両親は」


 良雅は呟いた。両親は老後も仲睦まじく過ごすものだと思っていたし、本人たちもそのつもりだった。それが、あっという間にいなくなってしまった。結局、父親は伴侶の死から立ち直ることはなかった。部屋にこんなものを作って、毎日妻を想っていたのだろうか。


「これ、なんだ?」


 真白は写真たての横の少し特別そうな箱を取った。開けてみると、手紙が二つ。


「『入野亜子様へ』……こっちは、『悠人君へ』か」


 片方の白い封筒はだいぶ古いもののようだ。『悠人君へ』と書かれている方は、便箋が折り畳まれている裏に宛名が書かれているだけのシンプルな手紙だった。


「母さん宛の手紙?なんで父さんが持ってんだ?」


 真白から手紙を取って、良雅は差出人を確かめる。


「それ、ユウ君からの手紙よ」


 封筒の裏を見なくても、祖母はその手紙がなんであるか知っているようだった。


「ユウ君って……つまりパパ?」

「そうよ。結婚式の前日に亜子が貰ったラブレター」


 陽咲に頷いて、祖母は遠くを見ていた。


「どこにやったのかと思えば、ユウ君が持っていたのね」


 良雅は、手元の手紙をまじまじと見た。言われれば、筆跡は父親のものかも知れない。お世辞にも上手いとは言えない、独特の尖った字。


「ねえ、読んで」

「……これを?」


 無遠慮な妹に、良雅は怪訝な顔をした。父親と母親のものだとは言え、ラブレターを勝手に読むのは……、と気が引ける。


「いいでしょ。取っておきたかったからパパはこの手紙をずっと持っていたのよ。家族なら、たぶんきっと許される」


 妹の言い分は多少強引ではあったが、中身が気になるのも事実。良雅はそっと封筒から手紙を出した。

 思ったより短い文面だった。便箋一枚に収まるラブレター。


「読んで」


 音読せよとの妹の催促に、息をついてからそれに従った。


「前略――」


挿絵(By みてみん)


 読み終わっても、その余韻はしばらく残った。その場にいた誰もが、父が、間宮悠人が、全てを懸けて書いた手紙だというのが、痛いほどわかった。


「なんて痛切な手紙でしょうね。昔、亜子に見せてもらったわ。ロマンチックで、深い愛を感じる」


 祖母はにこにこと微笑んでいた。


「な、なにこれ……」

「え、泣いてんのかよ、陽咲」


 ボロボロと涙をこぼしている妹に、次兄はぎょっとした。


「だって……だって……お父さん、本当にお母さんを愛してて、それ死ぬまで変わらなくて、そう考えると……お母さんが亡くなった時の寂しさとか……そういうのが、考えただけでもたまらなくなって……」


 涙を拭いながら、陽咲は晩年の父親に思い出す。あの遠くを眺める時の背中は、妻が待つ死を馳せていたのだろうか。


「……その手紙には、お返事があるのよ」


 泣き続ける陽咲の背中をさすって、祖母は真白の持つ便箋を見た。


「あ……これ?」

「ええ。亜子が亡くなる一ヶ月前に書いたものよ」


 真白はその便箋をじっと見た。


「……ラブレターの返事に、30年かかったわけか」


 良雅がぽつりとつぶやく。結婚してすぐというわけでなく、記念日にというわけでなく、亡くなる直前の最後の最期というところが、あの母親らしいかもしれない。


「読んで」

「……ったく、お前な」


 目を真っ赤にした妹に良雅は何か言いたげだったが、長男は素直に手紙を開いた。カサカサと音がする。一度水分を取って乾いた時の独特の紙の質感。


「ずいぶん……短いよ」


 簡潔な文章。文字は所々滲んでる。それが手紙を受け取った父親のせいだろうと類推するのは難しくはない。真白は、静かな声で読んだ。


『静かな夜があなたにとって優しくありますように』


「……これってつまりさ、どういう意味かな」


 手紙を読んだ真白が、口を開いた。


「結局、母さんは父さんのことを……」

「言わなくてもわかるよね、って意味だよ」


 明確な愛情を書かない文面に、真白は母親の底のしれなさを感じた。けれど、真っ向に反対したのは未だに泣き続ける妹だった。


「だって、最期、お母さん、手を伸ばしたのよ、お父さんに」


 家族全員で看取ることができたあの日。夏のジリジリとした暑さが窓の向こうで揺らめいていたあの日。みんな、初めて父親が泣くのを見た。妻の手を取って、行かないでと懇願する夫。二人は、キスをして別れた。


「きっとね、二人はまた会えたのよ。死の向こう側で。そうでなければ……寂しいじゃない」


 祖母は立ち上がって、飾ってあった二人の結婚式の写真を撫でた。子供たちも、同じ気持ちだ。幽霊も天国も生まれ変わりも信じてないけれど、死後あとかたもなくなってしまうなんてあんまりだ。せめて、静かな安らぎが二人にあるようにと願うばかりだ。




 ……クローゼットの奥底深く、妻の死後読み耽った彼女の日記と、密やかに残していた三十年間近くの家の中の記録が眠っていることを、この家の者が気付くかは誰も知れない。

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