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前略

挿絵(By みてみん)


―-彼女のその後の話。








 私と悠人君は、八年前の今日、結婚した。

 中学の頃から考えれば、私たちは普通とは呼べない順序を辿り、今に至る。私は二十の時ついに悠人君の熱意に押し切られる形で婚約をし、悠人君が大学を卒業してすぐに結婚した。私にはまだ一年大学が残っていたけれど、途中身重のお腹を抱えながらもなんとか卒業した。

 ずっと、中学生の頃からずっと、私は悠人君のことが苦手だったんだと思う。自分でも気付かずにいたけれど、思い返せばやっとそのような結論が出た。悠人君はかっこよくて頭も良くて要領も良い。普段は隠しているけれど、悪く言えば選民思想的な、人と人を区別する冷静な目も持つ。悠人君は私を特別だと扱うけれど、本当の私は欠陥だらけで悠人君と比べれば見劣りをする。自分のことしか考えられないし、身勝手で利己的な凡人だ。悠人君の理想に見会わないのに、その間合いに入るのは怖かった。潜在的な劣等感と、自己愛にも近い臆病さで、私は優しくしてくれる悠人君を避けがちだった。

 でも、悠人君の私への執着は狂気とも呼べるものだった。逃げれば逃げるほど、悠人君は手段も犠牲もいとわず私を追い詰める。そして私は、とうとう捕まることを決意した。


 いつか飽きるだろうというのもあったし、目移りだってするだろうと私は考えていた。だって、一人の人間に執着して一生を過ごすなんて無理だろうから。だから、私はいずれこの人に捨てられると思ってた。自分勝手な私を見破られて、きっと私よりきれいな人に心変わりする。そんなのは、嫌だった。私だって、ずっと大切にしてほしい。でも、それも仕方のないことだと割り切るしかないと自分を納得させた。

 私は上手く悠人君の望むパートナーを演じられているだろうか。悠人君の激情に流されるようにここまできたけど、これが正しい道だったのかは答えはでない。


 子供たちは、とても可愛かった。真白は好奇心旺盛で、諒牙は思慮深く、陽咲は元気いっぱい。賑やかすぎて育てるには手を焼くけれど、みんな優しい子だ。立ち返れば後悔や反省ばかりの道程であったけど、この子達に会えただけでもきっと、私の今までのことには意味があったんだと思う。

 結婚して家族ができても、私は悠人君のことをどう思えばいいのかわからなかった。逃げ道のないところから始まったこの生活は、ぬるま湯のように穏やかで静かだ。子供たちが大きくなってきても、悠人君は良き夫であり良きパパでもあった。それは幸福なのか、不幸なのか。八年経っても答えは出ない。


 でも、少しずつ、わかってきたことはある。悠人君は、見た目よりずっと不器用で不安定な人だった。体面を繕うのが上手いけれど、ちゃんと苦手なことや不得意なことがある。それに、悲しい家庭環境で育ってきたことを、結婚してしばらくたってから話に聞いた。

 知ることが解決になるわけではない。でも、悠人君の抱えていたものを私も少しだけでも持ってあげられることができるんじゃないかなと思った。

 それは愛ではないかもしれない。ただの同情かもしれない。それでも、何年もかかってようやく私は悠人君という人を考えるようになった。



「本当にありがとう」


 助手席の窓から、私は手を合わせてお礼をした。


「たくさん楽しんできてね」


 マリちゃんが笑顔で答えてくれる。子供たちは、わりとけろりとした顔で車の外から私たちに手を振っていた。


「おみやげかってきてねー!」

「けーきだよー!」


 小学一年生になったばかりの真白と年中さんの良雅は、元気ざかりで声も大きい。誰に似たのか、おみやげを要求するとはなかなかしっかりしてる。まだ一才半の長女の陽咲は親指をくわえてきょとんとしていた。


「子供たちはきっちり預かるからな」


 冬馬君はそう言って真白と一太を片手ずつで抱っこした。高い視線に息子たちはキャッキャとはしゃいでる。遊んでもらえるからけろっとしてるのかもしれない。


「何かあったらすぐ連絡していいから」

「そんな無粋なことできないな」


 運転席から声をかける悠人君に、冬馬君は頼もしいことを言ってくれる。

 今日は私たちの結婚記念日で、子供たちを冬馬君夫妻に預けて、私たち夫婦二人でデートに行くことになっている。去年は陽咲がまだ小さかったので見送ったが、その前も冬馬君とマリちゃんは協力してくれた。二人は、大学を卒業した後付き合いだして、今年結婚した。人生とはわからないものである。


 私たちは冬馬君夫妻と子供たちに別れを告げて、車を出した。普段は子供たちがいるため、特別なにかを喋らなくても賑やかだけれど、二人で入れば車中は静かだ。


「……今日はどこ行くの?」


 旅行やお出かけの時ははいつも悠人君が行くところを考えてくれる。今日も、悠人君に任せていた。


「まずはドライブをして、遠回りしながらディナーへ向かうよ。どこでディナーかはまだ内緒」


 左折をしながら、悠人君は私に目配せした。結婚して八年、子供も三人いてなお、悠人君は昔と変わらず私を扱ってくれる。もういい加減長いし、お互いおじさんおばさんになったけれど、これからも私たちはこうやって年を取るのだろうか。


「真白たちは大丈夫かな」


 私は自然と子供たちのことを口にしていた。マリちゃんも冬馬君もわりと頻繁に遊びに来てくれるし、子供たちもなついているから大丈夫だとは思うけど、まだ陽咲も小さいから少し心配になる。だから時間も夕食前後の時間だけにした。


「ああ、そういえば帰りケーキ買ってかなきゃ」

「言ってたね。マリちゃんたちにもおみやげ買っていかないと」


 悠人君に私も頷いた。これからどこへ行くかは知らないけれど、ケーキ屋さんなら駅前にもあるから見つからなかったらそこで買うしかなさそうだ。

 悠人君は高速道路に乗った。どうやら近場ではないようだ。免許も持ってないし道もわからないので、この道路がどこへ続くのかもいまいち疎い。現状車の運転ができなくても困らないけれど、旅行の時とか悠人君に任せきりなのが少し悪い気がする。




 レインボーブリッジを通過して、お台場の海浜公園で悠人君は車を止めた。


「あ、亜子、そのまま」

「?」


 エンジンを切った悠人君が、先に車から出ていく。何かと思えば、悠人君はわざわざ私の助手席のドアを開けてくれた。


「さあ、どうぞ」

「いいのに、そんな」


 更に手を差し出されて、私は苦笑した。


「いつもは子供たちがいるけれど、今日は、ね」


 手を取られ、引っ張ってもらって立ち上がる。そしてそのまま腕を組むように差し出された。


「ええ、本当に?」


 私はうろたえた。独身の頃さえこんなことしなかった。今さら、という気持ちと、純粋な恥ずかしさで、結構照れてしまう。でも、悠人君は涼しい顔をしていた。


「もちろん。レディーをエスコートする紳士役だから」

「私もうレディーっていう年でもないよ?」


 子供三人も産んじゃえばただのおばさんだ。体型だって昔通りとは言えないし白髪もちらほら見えたりして、世にはもっと可愛い女の子はたくさんいる。


「俺の好きな人はたった一人で、それが奥さんだから」

「………………」


 この人は、平然とこういうことを言ってのけてしまう。昔からそうだし、私だって一応照れるという感覚がある。最近は生活に追われて忙しいし、昔ほどあからさまなことは言われなくなってきたけれど、たまにこうやって不意打ちのように口説かれるから侮れない。釣った魚に餌は要らないんじゃないかと、私の立場では何だが、そう思ってしまう。


 夕暮れ前の海は、風がとても気持ち良かった。私たちのように海を見に来ている人は少なくなくて、人工的な砂浜に点々と人影が見える。


「映画かあ、そうだね。しばらく映画館で観てないな」


 私たちは何気なく映画の話をしていた。真白がお腹にいたくらいまではよく二人で映画館に行ったけど、最近はめっきり行ってない。


「まだ陽咲が小さいから、家族みんなだと難しいね。でも、真白と良雅連れて観に行ってきたら?二人は喜ぶと思うけど」

「うーん……」


 私が提案しても、悠人君は良い顔をしなかった。


「みんなで行けないなら家で観るよ。そのためにホームシアター買ったんだし」

「そう?」


 確かに、うちには立派なホームシアターがある。悠人君はとても頑張ってくれていて、裕福と言って差し支えのないお金を家に入れてくれている。だから今度お庭のある一軒家の購入を考えているし、自家用車もあるし、年に二回家族で旅行にも行ってる。ホームシアターなんて過ぎた贅沢品だと思っていたけれど、子供を抱えて外出が大変な今は結構活用してたりする。


「……ふふ」

「?どうしたの」


 急に笑い出した悠人君を覗きこむ。


「いや、結局子供たちの話に戻るんだなあ、って思って」


 確かに最初は普通に映画の話だったのに、いつの間にか子供たちのことを話してる。


「それが嬉しくて幸せで、それからちょっとだけ寂しいな」


 手をギュッと握られた。


「今から一分だけ、俺のことだけ考えて」

「え……」


 悠人君の右手が、私の顎をとらえる。これは、もしかして、と、嫌な予感がする。


「キスしよ。子供たちの前ではできないやつ」

「!!」


 予感は当たった。昔から悠人君はすぐにキスをしたがったし、私はそれに折れて、行ってきますのキスも、ただいまのキスも、ありがとうやごめんなさいのキスも、受け入れてきた。それはだいたい悠人君からで、ほっぺやおでこにちゅっとするだけ。最初はかなり抵抗があったけど、今は家族の中でしか見せないあいさつのようなものだ。

 悠人君は子供たちにも同様におはようとおやすみの時も含めてキスをするし、子供たちも悠人君に同じようにキスをする。まるで欧米だ。でも、悠人君はなぜか子供たちから私へのキスは禁止していて、その理由は『ママはパパのものだから』らしい。はっきり言ってずるいと思うけど、『早くお前たちもパパにとってのママみたいな一番好きな人を見つけなさい』という教育でもあるようだし、子供たちはパパの目を盗んでキスしてくれるから、私はそれはそれでいいのだけど。

 そんなキスばかりしてる夫婦でも、さすがにくちびるに、あからさまなキスは子供たちの前ではしてない。


「あの、人目もあるし……」


 もともと、スキンシップを人前でするのが私には抵抗がある。


「関係ないよ、ね?」


 崩れることのない悠人君の笑みに、私は観念することにした。






「え?船?」


 ディナーのレストランと言われ連れられたのは、波止場だった。そこには、大きくてキラキラした船が停泊している。


「そう、船。クルージングディナー」


 手を取られ、エスコートされて乗船した。まるで映画の中の豪華客船のようだった。アンティークの装飾に、揺らめく灯り、楽隊の演奏する管弦楽。よくもまあこんな娯楽があると悠人君は知っているなと感心した。今日私が着る服も悠人君がプレゼントしてくれたもので、デートとしてもドレッシー過ぎないかと思っていたけれど、これならわかる。


「こちらでございます」


 専属のボーイさんが案内してくれたのは、眺めの良い窓際の席だった。


「すごく良さそうなところだね」


 ボーイさんが去った後の半個室状態のテーブルで、私は斜め向かいの席に着いた悠人君に言う。こうやって確かめずにいられないところも、つい小声になるところも、我ながら貧乏くさいと思う。


「もちろん、特別な日だから」


 具体的に高いと言わないところが我が夫ながら上品だ。


「ここの下にジャズ演奏してるバーがあるから、後で行こう」

「うん」


 まるで魔法にでもかかったみたいな気持ちになる。夕方まで洗濯物の多さと片付かないおもちゃに頭を悩ませていたと言うのに。


「ベッドのある個室まであれば完璧だったけどね」

「眠いの?」

「いや?」

「…………、………はっ!下ネタ……!」

「気付くの遅いよ」


 クスクスと笑われてしまった。

 さすがに料理はとても美味しかった。フレンチのコース料理で、こういうマナーとは無縁だった私も、悠人君に高級なものを食べさせてもらうことは過去多々あったため、最低限は身に付いている。


「今、とても幸せだけど」


 ワイン代わりのミネラルウォーターを、悠人君は揺らした。


「数年後も何十年後も、きっと幸せだよ。子供たちは可愛くて、亜子がそばにいてくれる。猫も家にいる。まるで夢か幻みたいだ。こうやって年を取れるのが、少し怖いくらい」


 悠人君は笑った。これまでも短くない時間を生きてきたし、これからはもっと長い時間をこの人と共に過ごすのだろう。




 バーは薄暗くて、とても静かだった。せっかくだからと甲板に出る。開け放した窓から、ジャズバンドの演奏が漏れ聞こえた。車もあるし、悠人君も私もお酒が飲めないから、ノンアルコールのカクテルだけ作ってもらうことにした。カウンターからの悠人君の戻りを待つ。

 遠目から見ても、悠人君はかっこよかった。すらりと細身の長身で、かつて明るい色にしていた髪は黒髪に戻して無造作に流している。実年齢より若く見られることはしょっちゅうで、一人で町中を歩くと女の子に声をかけられるらしい。かっこよくてよく遊んでくれる悠人君は、子供たちから見れば自慢のパパだろう。


「……どうしたの」


 両手にカクテルを持った悠人君は、私の視線に気付いていたらしく、ニコニコと微笑んでいる。


「いや、悠人君かっこいいなと思って」


 考えていたことを隠さずに伝えると、悠人君の動きが止まった。


「?」


 何も言わないからなにかと思って見上げると、悠人君が首まで真っ赤にしてた。お酒で酔っていてもあんなに赤くならない。


「え、どうしたの、悠人君」

「いや、だって亜子が……そんなこと言うから」


 さっきまであれだけ恥ずかしいことを私に言っていたくせに、なんで私のあんなたった一言で照れるんだろう。変なこと言ったような気がして、私もつられて照れてしまう。


「亜子、もう一回言ってもらえないかな」

「言わない。しばらく言わない」


 悠人君のおねだりを、私は頑なに拒んだ。でも、私のたった一言で、こんなにも心を動かしてくれることにはきっと感謝をしないといけないんだろう。それに、たまにはいいかもしれない。私が悠人君を口説いたって。私たちは、夫婦なのだから。






「さてと、じゃあ遠回りで帰ろう。ケーキのためにね」


 車に乗り込んだ悠人君には、お土産の心当たりがあるらしい。


「マリちゃんたちから連絡、本当に無かったね」

「本当に大人しくしてくれてたらいいけどね」


 あの子供たちの騒がしさを知ってる私たちは、一抹の不安を覚える。時計を見れば時間は20時過ぎ。帰る時間は21時過ぎるかもしれない。そんなことを考えていても、エンジンが一向にかからない。何かと思って悠人君を見ると、悠人君は私を見つめていた。


「あの?」

「亜子は、綺麗になったね」


 私が一度つけたシートベルトを悠人君が外す。


「……えっと、さっきのお返し?」


 かっこいいと藪から棒に言ったことがお気に召したのか召さなかったのか、悠人君の言葉は唐突だった。


「ううん。本当のことを言っただけ。亜子、俺たちがママとパパに戻る前に……」


 悠人君は助手席に座る私の方へ身を乗り出した。


「キスしよう」


 今日何度目かのくちびるを重ねた。






 毎日は賑やかで穏やかで楽しいから、時々忘れそうになってしまう。

 忘れてしまってもいいことなのかもしれない。とても大切にしてくれるし、かわいい子供たちはみんな元気に過ごしているのだから、これ以上何を望むと言うのだろう。

 それでもあえて問い直す。私はこの人を愛しているのだろうかと。


 ――答えは未だ出ない。

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