草々
――彼のその後の話
亜子と俺は、俺が大学を卒業して就職をしたところで結婚をした。亜子にはもう一年大学があったが、妊娠をしながらも無事大学は卒業した。
あれから俺たちに色々なことがあったとも言えるし、何も無かったとも言えた。
俺は、亜子へ尽くした。そうしたかったし、捨てられたくないという思いもどこかにあったんだろう。でも、尽くすことは苦ではなかったし、むしろ喜びでさえあった。亜子への想いは冷めることはなかった。いや、日々増していくくらいだ。亜子といれば、悪意も疲れも全部ほどかれてしまう。これを愛と呼ばずに、なんと言えばいいのだろう。
亜子は、どこかぎこちなかった。でも、もう俺から逃げることもなかった。普通に連絡を取り合い、普通に会話を交わし、普通に生活をして、普通にセックスをする。彼女はどこか諦めていたのかもしれない。ケンカも無く、いさかいも無い。毎日はとても静かなものだったけれど、亜子はこの暮らしについてのことを口にしたことがない。穏やかな笑顔の奥底に何を思っているのか、尋ねても答えてくれることはなかった。ただ一言、幸せだと、そう言ってほしかった。でも、亜子はいつだってはぐらかした。――それはきっと、俺への罰なのだろう。
子供を授かるのが早かった俺たちは、若くして親になった。亜子は色々と苦労をしたかもしれない。亜子だって、大学から出たら教師になるつもりだった。それを諦めざるえなくなってしまったのだ。
でも、子供は僕たちを幸せにしてくれた。今さら、何が起きても何も変わらないと思っていたのに、家族ができる、というのは神秘的で不思議なことだ。女の人というのは、こんなにもあっさりとその神秘的で不思議なことを日常に落とし込んでしまう。そして男は、遅れてやっと実感する。子供というのは喜びそのものだ。
佑利子さんは、本当に良くしてくれた。亜子の母親であり、俺の義理の母でもある佑利子さんは、きちんと家族だった。
結婚した時、佑利子さんと同居するつもりだったが、佑利子さんに『若い二人に悪いから』と辞退されてしまったが、それでもやはり佑利子さんと近い距離でいた方がいいだろうと、住み慣れた町に2DKのマンションを借りた。たびたび一緒に食事をしたし、亜子が妊娠してからは様子を見に来てくれて、子供が産まれてからもよく面倒を見てくれる。
間違いなく、幸せだった。俺は恵まれてる。温かい家庭を持つことが俺に許される日がくるなんて、子供の頃は考えたこともなかった。
しかし、それはある日突然起きた。
「おかえり、ユウ」
家に帰ると、場違いな女がいた。
「………………」
ここにいるべきではない女だ。心が冷えて、固まっていく。
「お義母さん、声をかけてきてくれて。式でもお会いできなかったから、まさかお会いできるなんて。良かった会えて」
夕飯の支度をしている亜子が成り行きを説明をする。
「夕食、ご一緒して頂こうと思って。真白の面倒も見て下さってるの」
言われて、やっと気付いた。あの女の膝に、息子がいる。
「やぁだわ、いつの間にかおばあちゃんになってて!でも、さすがに可愛いわね。小さい頃のユウにそっくり」
言い様の無い感情が身体中を逆流し始める。怒りや憎しみ、嫌悪や苛立ち、どれも違う。わかっていたのは、一つ。この女は、要らない。
「……亜子、この人にはお帰り頂こう。あまり長く引き留めてもいけないから」
怒鳴り散らすことだけは避けた。そんなことをすれば亜子と真白が怯えてしまうから。
「え?でも、お義母さんとは久しぶりでしょう?」
亜子には、俺の家庭環境など話したこともない。聞かせられるような、まともなものではなかったから。あんなおぞましいもの、亜子に知られてはいけない。だから、母親と疎遠なのは再婚してからだと、亜子が解釈した通りにしておいた。亜子は、俺が母親と会いたくないと考えてるとは思ってもいないんだろう。結婚式の時も、真白が産まれた時も、亜子は俺の母親を気にかけていた。
「ずいぶんなこと言うわねえ、ユウ。私はあなたの母親よ?それとも……かつての恋人扱いでもしてくれるのかしら?奥さんの前では私はお邪魔?」
「黙れ」
何を言うつもりか察すると冷静ではいられなかった。こいつは、もう、今やただのゴミだ。
俺はすぐに真白を取り返し、亜子に預けた。亜子はあっけに取られていたようだが、成り行きに口を挟むようなことはなかった。
「今すぐ帰ってもらおうか。話なら後日聞く。家族のいないところで」
俺はダイニングから玄関を指し示した。
「家族のいないところ、って、私は家族じゃあないわけ?」
「……こんな話すら、亜子と真白には聞かせたくない」
椅子から立ち上がらない女へ、俺は苛立ちながら吐き捨てる。
「私は話をお嫁さんに聞いて欲しいわあ」
何を切り出すつもりかは分からないが、ろくでもないことは確かだ。この生活に、この女は邪魔でしかない。
「……下まで送るよ。さあ、帰って」
女の言葉には聞く耳を持たず頑なに帰るよう促すと、女は折れた。
「わーかったわ。今日はここがわかったのが収穫だから。また遊びにくるわよ、ね、お嫁ちゃん、シロちゃん」
不穏なことを口にするが、俺はとにかくこの女を排除したかった。玄関を出ると、女は軽口を叩き始めた。
「ねえ、あのお嫁ちゃんさあ、どこで見つけてきたの?まあ、キレイな部類よね、ちょっと地味だけど。やっぱりアレ?具合はいいの?」
この下卑た女は、これが冗談でコミュニケーションのうちだと考えているのだろう。バカで愚かで、どうしようもない。答える義務はない。勝手に言わせておけばいい
「でも、ちょっと酷いんじゃない?黙って家を出るくらいならまだいいけど、そのまま結婚して子供まで産まれるとか、連絡くらいしたら?」
「……必要だった?俺は家を出たところでもう他人のつもりだったよ」
エレベーターに乗り込み、1を押す。すると、女の手がこちらに伸びてきた。
「あんたって、そんな冷たいこと言うような子だった?母親じゃない、私」
「………………」
俺は言葉もなく、その手を振りほどいた。
「不幸だったよ、お陰さまでね。空腹のためにダンボールをしゃぶって、知らない男に殴られ、頻繁に母親の痴態を見せられ、あげくのはてに犯された。俺の心のうちがどんなものか、お前は考えようともしなかったはずだ」
こんなこと、言ったことがない。だって、抗議しても仕方がないことだったから。全部諦めるように飲み込んでいたのだ。でも、今は違う。今は守るべき暮らしがある。
「昔と同じだとは思わない方がいい。あんたは老いたし、俺も子供のままじゃない。消えてくれないなら、消すよ」
ちょうど、エレベーターが止まった。女の顔はひどく歪んでいる。
「たしかに、たしかに私は足りない母親だったとは思う。でも、でも、あんたを愛してなかったわけじゃないのよ!?」
戯れ言だと、俺は聞き流すことにした。変な顔をして笑わされた日のことも、一緒に風呂に入った日のことも、ランドセルを買ってもらった日のことも、泣きながら庇ってもらった日のことだって、もう思い出す必要はない。
「やり直せないかしら、ねえ、ユウ。私たち、そんなに悪い親子じゃなかったわ。これからは並んでお食事したり、 そういうことができる。だから、また顔を見せてよ。寂しいの、たった一人の息子で、家族じゃない。ね?」
「………………」
俺は黙って女を突き飛ばした。
「あっ!?」
転びそうになりながらも、女はエレベーターの外へ飛び出る。
何がやり直す、だ。金か、匿われる先か、老後の心配か。この女が何を望んですり寄ってくるのか知れないが、俺は応じるつもりは無い。
「……ならば、これが息子としての最後の忠告だ」
エレベーターの戻る自分の階を押してから、女を一瞥した。
「母さん、もう二度と来ないでくれるかな。さもなければ、やるだけのことはやるよ。……どういう意味か、わかるよね?」
閉のボタンを押すと、エレベーターの扉は素早く閉まった。
「亜子、先にお風呂入ってくるよ」
家に戻ると、俺はネクタイを緩めてスーツのジャケットを脱ぐ。
「……お義母さん、本当によかったの?」ジャケットを受け取った亜子は、心配そうに俺をうかがう。
「いいんだ、これで。これが一番いい」
亜子とのこと幸せな暮らしを邪魔されたくない。俺は亜子のおでこにキスをした。それから、くちびるにもキスをする。
「真白も、一緒にお風呂入れるよ。夕飯、作ってて」
くちびるを離して微笑んでも、亜子はまだ心配そうな表情をしている。もしかしたら、あの女に何か吹き込まれてる可能性もある。後で聞き出して、説明しておかなければ。
「ほら、真白ー!風呂はいろうか?」
俺は明るい声を出して、いつものように真白と風呂へ入る準備を始めた。
俺はいつも通りのつもりだったけれど、亜子の方が始終暗い顔をしていた。どうしようかと迷う。あの女について余計なことは聞かせたくないし、でもうやむやのままでは亜子がずっと心配したままになる。亜子のように生きていたら、母親というのは大切にするべき存在だろう。でも、あの女は佑利子さんとは違う。
「……もう、あの人は家に入れないように気を付けて」
真白を寝かし付けてから風呂から上がった亜子に、俺は話を切り出した。
「……………………」
亜子は何も答えないまま、俺の向かいに座る。
「お義母さんは、悠人君に会いたがっていたよ」
静かな抗議だった。俺も亜子にこういった言い付けなんてしたことがないけれど、亜子が俺の言うことに逆らうこともほとんど無い。
「あの人に、何を言われたの?」
「何を、って……」
俺があの女を邪険にしてることに、亜子は悲しそうにしていた。
「悠人君に会いたい、って言ってたよ。悠人君が高校を卒業してから一度も会ってない、って」
「……確かに、会ってないね。会う必要が無かったから」
事実は事実でも、もっともらしく被害者ぶって言ったのだろう。そうでなければここまで亜子があの女に肩入れするはずがない。
そもそも、あの女はどうやって俺の居場所と亜子の存在を割り出したのだろう。あいつ一人では到底出来ないだろうから、協力者がいるとしか考えられない。そして、どうやってあの女は自分を俺の母親だと認識させたと言うのだろう。俺は亜子にあの女の写真も見せたことがない。婚姻届で名前くらいは知ってたかもしれないが、それだけでは家に上げるほど信用出来ないだろう。とりあえず、今後の対処の為にも、そこはつきとめておかないといけない。
「亜子、今日はどうやって声をかけられた?」
「……スーパーで、いきなり、名前を聞かれて」
あまり言いたくなさそうだったが、亜子は答えてくれた。
「戸惑ってたら、悠人君のお母さんだって言うから。それで、写真見せてくれて」
「写真?」
「うん……」
亜子は立ち上がって、充電していた携帯電話を取りに行った。
「これ」
画面をいじって俺に差し出したところに写っていたのは、ランドセルを背負った小学校入学式の俺だった。隣には、在りし日の派手なあの人が笑ってる。
「お義母さんにデータをいただいたの。お義母さんはね、紙焼きの古い写真を持ってた」
「……………………」
覚えてる。この写真を撮ったのは誰かとか、いつどこでとか、遅い桜が校庭に散っていく眺めとか、そんなこと、思い出す機会も無かったのに、今さら。
「だから、今までご挨拶できなかったことをお詫びして、夕飯をご一緒に、って。私がお誘いしたの」
写真を一度見て、微笑んでから亜子は携帯電話をもとの位置に戻した。
「お義母さん、色々話して下さったよ。悠人君の小さな頃の話とか。もちろん、真白のことは喜んでくれた。孫の可愛さはひとしおだって」
そういう方法で、亜子を引き留めたのか。亜子ほど素直なら、それはやはり真に受けるだろう。でも、俺は忘れていない。空腹のみじめさや、気持ちの悪いあえぎ声を。
「亜子」
立ち上がっていた亜子を呼ぶ。手招きされるがまま亜子は俺のところへやってきて、俺は椅子に座ったまま亜子に抱きついた。
「でも、もうあの人をここに入れてはダメだよ。声をかけられても、気にしないでまっすぐ帰ってくるんだ」
見上げながらうっすら微笑んで、諭すように言う。亜子はますます悲しそうな顔をした。
「……悠人君がそう言わざる得ない深い事情が、あるんだとは思う。でもね、悠人君のお母さんだって言うことは、私のお義母さんでもある。私には、何かできないかな?」
亜子は、わかっていない。わかりあえない元家族だって、世の中にはいる。あいつは、俺の幸せを阻む存在でしかない。現に、あいつのせいで俺たち夫婦の意見が食い違ってる。
「お義母さん、寂しいよ。悠人君が、たった一人の家族だって言ってた」
「ダメなんだ、亜子」
まだあいつを擁護しようとする亜子を制するように首を横に振った。愛しい亜子があんなおぞましいものを庇って俺を悪く見るなんて、耐えられない。
「……亜子は、ご飯が食べられなくて泣いたことがある?」
言うつもりは無かったのに、話し始めてしまった。
「知らない男に殴り付けられたことは?セックスするところを見せられたことは?……押さえつけられて母親にレイプされた時の気持ち悪さは、死にたくなるくらいおぞましいものだよ」
ああ、言ってしまった。汚いことを、聞かせてしまった。
「……………………」
亜子は、絶句していた。何も言わず、ギュッと俺の肩を掴んだ。
「俺は、生きていくことが許されない子供なんだと思った。だって、辛かった。あんな母親じゃなければ、もっと違っただろうね。でも、もう過ぎたことを言っても仕方ない。子供の時ですらそう思ってた。俺がこうなのは、仕方がないことなんだ、って」
結局、俺は何が言いたかったんだろう。被害者であることを主張したかったんだろうか。自分で自分が情けなくなってくる。
「悠人君……」
亜子が、俺の頭を抱き締めた。気付くと、亜子が泣いている。
「……俺のために、泣いてくれるんだ?」
「私は、まだ、悠人君のことをわかってあげられてなかったね」
亜子の頬に伝う涙が、すごくすごく尊く思えた。
「こんなおぞましいこと、亜子に言うつもりなかったのにな」
腕を伸ばして、亜子の涙を拭った。
「亜子、俺はね。中学の頃、君の一言に救われた。一生君に恋しようと誓ったんだ」
「……中学?」
現在もなお、あの頃のことはあまり話さないけれど、これだけは今言っておきたい。
「全部、仕方ないことだと思ってたんだ。子供の頃、そう答えを出した。どうしてこんなに苦しまなくちゃいけないのか。
でも、亜子は言ったんだ。あきらめたくないから。あきらめたくないから、こわくてもみじめでも、立ち向かわなくちゃ、って」
放課後の校舎の静けさと、遠くに聞こえる運動部の声や吹奏楽部の練習の音が、今でも思い出される。
「……俺が、ずっと一人でうずくまっていたのは、無駄じゃなかったんだなって、気付いた。あの時、あきらめてい なかったから、今がある。俺自身見捨てていた昔の俺を、亜子は見つけてくれた」
おそろしい孤独、圧倒的な絶望。息ができなくてもがいていたところを、亜子は救ってくれた。
「……そっか」
亜子の手が、優しく俺の頭を撫でた。
「じゃあ、あの時のことも、無駄ではなかったね」
「……ごめんね」
俺が亜子を追い詰めたから、あの時亜子は苦しんでいた。それが、亜子には申し訳ないとは思ってる。でも、点と点が結ばれて線になる。過ぎたことは、肯定していかなくては進めない。
「俺には、あの時から君だけだ。亜子だけが、俺の生きる意味だ」
君との全てを肯定する。それは、今が幸せだから。
「だから、あの人は要らないんだ。今さら、親子なんてなれない。ろくでもない生き方をしてれば、その報いがこなければ、不公平じゃあないか」
「…………うん、でも」
亜子は、俺の頭を抱き締めた。
「私は、お義母さんを、無理して拒絶しなくてもいいんじゃないか、って、思う」
「無理して?」
そんなつもりは、全然ない。だって、嫌うのも憎むのも当然だ。
「……思い出せば、憎みきれないこともあるでしょう?」
「……………………」
亜子の優しい手は、俺を慈しむように抱き締める。亜子は、俺も知らない俺を、こうやってまた見つけ出してくれる。そうだ、俺は見て見ぬふりをしてた。醜くて仕方のない記憶もあれば、奥底にしまいこんでいた何でもない一日の記憶もある。清濁を合わせて、人なのだろう。
「今は、お義母さんのこと、考えなくていいよ。私が、全部やる。だから、何十年後か、お義母さんを思い出した時、また取り返しがつくようにしよう」
この人が、妻で良かった。優しくて、賢い人。俺のことを慈しんでくれる、美しい人。もっと深いところで、家族になれた気がした。
「ん?お前、何調べてんだ?」
「ちょっとね」
紙ばかりが詰め込まれている前時代的な資料庫で、偶然瀬下に見つかった。
「そういえば、当時の担当瀬下だったね。聞かせてよ、情報」
以前の仕事で集めた情報は、流失できないものほどこうやってわかりづらく紙に残してる。データベースからは出てこなかったからここにあるのかと思ったが、探しづらくてしょうがない。
「は?何が聞きたいんだよ」
訝しげに瀬下は眉根を寄せる。
「当時で言えば、今屋千里。今は谷中千里。俺の母親について、知ってることを教えて」
いつものように帰宅をして、亜子に出迎えてもらってただいまのキスをする。脱いだジャケットを預け、ネクタイを緩めて、赤ん坊用のベッドではいはいを始める真白を抱っこした。
「ただいま、真白」
高く持ち上げると、真白はきゃっきゃとはしゃいだ。
「ご機嫌だね」
「お昼寝からさっき起きたところで」
ジャケットを片付けてくれた亜子が微笑みながら答えた。
「お風呂、入る?」
「うん、そうする」
「じゃあ、真白連れていくから」
いつものやり取りのあと、亜子は真白を俺の腕から受け取る。いつもだいたい俺が真白を風呂に入れて、真白を脱がしたりお風呂からあげたりするのは亜子の役目だ。
「ああ、そういえば」
風呂場へ向かう足を止めて、俺は亜子を振り返った。
「あの人、捕まったよ」
「……あの人?」
亜子は誰のことを言っているのかわからなかったみたいで、真剣に考えていた。
「あの人、母さんだよ」
「……え?つかまったって、何に?」
まあ、普通はそこまでは思い付かないかもしれない。
「警察だよ、クスリやってたみたい」
亜子の表情が険しくなった。
「クスリ……って?なに、それ……お義母さんが?」
「覚醒剤とかの類いだね。MDEっていうものらしいけど。……ごめんね、亜子。こんな話、嫌だよね」
あいつは亜子にとってはただの他人のはずなのにどうしてこんな暗い顔をするのか、俺には半分もわからなかった。でも、もう捕まってしまったものはしょうがない。しょうがないのだ。
「つらいのは、悠人君の方でしょう?」
「……そうだね」
目を瞑る。そこには、母親の姿なんか浮かばない。消してしまったんだ、亜子には悪いけれど、俺は割り切れる。
ああ、こんなに亜子が同情をしてくれるなら、もっと早くに言えばよかった。
「俺には、君しかいないから」
これで静かな生活に戻るだろう。




