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いつか果てにも

挿絵(By みてみん)


――彼女の話。








 盗聴機の事があってから、悠人君の私への心配は更に強くなった。バイトを減らすことにしたと言って、ずっと忙しそうにしていた方のバイトからお休みをもらってしまったらしい。週に三日だけ入れてあったサニーマートのシフト以外は私に充てることができると言って、私の送り迎えもバイト先から家までになった。

 確かに盗聴機のことは怖かったけれど、悠人君がここまでするほど差し迫ってるとは私には実感がなかった。むしろ、姿の見えないストーカーよりも悠人君に監視されているような気がして居心地が悪かった。


 気が付けば、もう九月はもうすぐだった。約束の半年まで、あと残り少し。悠人君を気に入ってるお母さんには悪いけど、やっぱり答えを変える気は私にはなかった。これで私は自由になれる。

 その日は、どうしても抜けられない仕事があると、悠人君はバイトへ向かった。サニーマートではない方のバイトで、私は詳しくは知らない。私も11時からフルタイムシフトを入れていたから、悠人君が仕事でもあまり関係がなかった。行きは送ってくれたけど、帰りは迎えに来るのが難しそうだと告げられ、私はなんの問題もなく一人で帰路に着いた。


 今まで数えきれないくらい何度も一人で通った道だけど、久しぶりに一人で帰ると感覚が狂う。街灯の明るさ一つ取ってもこんなものだったかと比較できない。そういえば、あまり一人で歩かないようにと言われていたことを思い出す。できることなら私自身が誰かの後に続くようにして人気の無い道を行くようにと言われてた。万が一何かあったとき、前に行く人に助けを求められるように。そう上手く同じ方向に帰る人を見つけられないから、今日はもう仕方ないだろう。そうそう危ないことなんかないし、万が一の時も悠人君に買ってもらった防犯ブザーがある。


 道は暗い。不気味だと思ってしまうと怖くなる。なんでもないと気にしてないふりをしながら、曲がり角を左にまわった。

人がいた。薄暗くて見えにくいけれど、暗い色のジャージを纏った、男の人だ。うつむきながらも足早にこちらへツカツカ歩いてくる。少し警戒してしまったけれど、人とすれ違うことなんてよくあることだ。

でも、こちらへ向かうその人が走り出したところで、私の不安は的はずれでもなさそうだと思い直した。

まだ気のせいかも知れなくて、普通に私を通りすぎていくかもしれない。そんな気もしたけれど、やっぱり私は引き返すことにした。曲がるはずの角を、真っ直ぐ進み直してみる。


「!」


 後ろから、さっきの男がついてきている。足早に、私は道を進んでいく。どうか私の気のせいであってほしい。そう考えながら、走り出していった。理論的なことではなく、感覚で体が動く。すると、男はもっと俊敏に走り出してきた。

 やだ、こわい。

 得体の知れない人に追いかけられる恐怖を、初めて知った。追い付かれたらどうなるかわからないから、とにかく走るしかない。


「ッチ」

「!!」


 後ろから舌打ちが聞こえた。ますます減速するわけにはいかなくなって、全速力で走り出した。でも、私には追っ手を振り切るだけの脚力もなければ、走り続けるだけの体力も無い。判断しなければ。無様な背中を晒して一秒でも長く逃げ続けるか、使い物になるかわからない護身術に賭けるか。


「……!」


 決めた。どうせなら、迎え撃つ。できるかわからない。はっきり言って運だ。でも、このまま追い付かれるよりはましだ。

 足を止めて、振り返る。男は真っ直ぐこちらへ走っていた。差はほとんど無い。

 私はすぐに今手にあるものを確認する。バッグだけ、傘みたいなリーチのあるものは持ってない。防犯ブザーだ、後はどうにか一矢報いれば時間を稼げる。その“どうにか”が問題なんだけれど。


「亜子!!」


 呼ばれた。後ろからだ。でも、振り返ってる余裕はない。追いかけてきた男は、拳を握ってもうすぐそこまで迫っていた。身がすくんで、思い通りには動けなかった。手足が鉛のようで、意識だけが鮮明に研ぎ澄まされてる。男がどう動いて、私がどう避ければいいのかわかっているのに、体がついてこない。男が詰め寄ってくる。鞄を構えて、拳を弾いたら走って逃げる。そこまで頭にあるのに、動かない指先で防犯ブザーを押すのが精一杯だった。でも、防犯ブザーはすぐには鳴らない。


「……くっ」


 何も思い通りにならないまま、足がもつれて男からの突進を避けられた。そこでやっと、防犯ブザーがけたたましく鳴り響いた。


「チッ」


 男は舌打ちをしながらも、私に向き直る。でも、私は体勢を自力では戻せなかった。


「亜子!」


 呼び掛けられて、何かに引っ張られ、私は尻餅をついた。気付けば、目の前に立ち塞がる人がいる。ブザーはずっと鳴り続けている。

 さっきまで鮮明だった意識が曇って、何もわからないうちに目の前のことは終わった。

ナイフを持っていた男は捻り上げられ地面に伏し、人影が押さえ込むようにその上に乗る。悠人君だと、今気付いた。肩を上下させて息をしている。


「怪我は、ない……?」

「え?あ、う、うん……」


 私は何を聞かれているのかも一瞬わからなかったくらい混乱してた。悠人君に助けてもらったということみたいだ。


「そう、よかった……」


 息が荒くて、額に玉のような汗を滲ませている。その息遣いは、疲労というより苦しそうだ。


「!!もしかして……」


 悠人君は黒い長袖を着ていて、こんな暗い中じゃよく見えないけれど、わずかに腹部が濡れてる気がする。それが血じゃないかと思い至って、初めて慌てた。


「ったく、おい!無茶すんな!」


 立ち上がるにも力が入らない私が駆け寄るよりも先に、知らない男の人がどこからともなく現れた。


「警察、すぐ来るでしょ?」

「呼んではいるが……こんなことまでしろとは言ってないぞ、俺は」


 悠人君の知り合いらしい。なにやら事情を知ってるみたいだ。悠人君に捩じ伏せられてた男が力任せに逃れようとするも、関節を固められてるためにそれも敵わない。だけど、悠人君はつらそうだ。


「ちょっと……それより、代わってくれないかな?わりと痛くて……」


 後から来た男の人は「ちょっと勘弁な」と断りを入れてから、男に容赦のない蹴りを叩き込んだ。男がぐったりしたところをその人は捻り上げた。


「怪我してんのか?深いか?」


 男のことは構わず、その人は悠人君のことを心配していた。だって、それはそうだ。悠人君はお腹を刺されて血がいっぱい出てる。このままでは死んでしまう。


「……あの、病院行っていいかな」

「当たり前だろ!ここはもう任せとけよ」


 その人の答えを聞いて力が抜けたのか、悠人君は地面にへたりこんだ。


「亜子……ごめん。救急車呼んでもらえる……?俺、ちょっとヤバそう……」


 私は呼び掛けられて、ハッとした。そうだ、病院。あんな傷で大丈夫なはずがない。私はおたおたしながら携帯電話を取り出した。




 私は私の責任を感じていた。だって、悠人君は私の身代わりになって刺された。

 あの男は、現行犯として警察に逮捕されたようだった。詳しい話を聞いた訳でもなかったけれど、ストーカーの件はあの男の仕業なんだろう。つまり、今の今まで、私は悠人君に濡れ衣を着せてたことになる。その上に、私を庇って刺されてしまうなんて。

 救急車で搬送された後、悠人君は手術を受けることになった。搬送時からそばにいたために、準備や手続きは私がすべて行った。保険証の為に勝手に荷物を漁ってしまったし、家族代わりに付き添いもした。携帯電話を見て悠人君のご家族にも連絡をしないととは思ったけれど、厳重なロックがかかっててそれはできなかった。

 傷口の縫合は無事終わり、傷は浅くて命にも別状はなく、後遺症が残るようなことも無いらしい。すごくほっとした。とりあえず帰っても良さそうになったのは深夜をまわった時間だった。麻酔のために悠人君の意識は朝まで戻らないらしく、病室に泊まり込むわけにもいかないので寝にだけ帰ろうと思った。翌朝早いうちにまた来ればいい。悠人君が心配なのもあるし、悠人君の家族に謝った上で現状を説明しないといけない。

 着替えとか取りに行った方がいいかとか、色々考えながら人気の無く薄暗い病院のロビーを横切った。


「あ、亜子ちゃん?」

「!」


 私は固まった。こんなところで下の名前を呼ばれるはずがない。緊張してると、暗いところから、さっきの悠人君の知り合いらしい男の人が出てきた。


「あー、ごめん。悪いやつじゃないから」


 私の緊張を見て取った男の人は、自分でそう言いながら両手を上に上げた。


「あ、さっきの」


 確かに悪い人じゃなさそうで、肩を下げた。男の人が旅行鞄みたいなバッグを提げているのがなんとなく印象づいた。


「俺、悠人の兄貴的な存在の、瀬下アトム。君の話はよく悠人から聞いてるよ」

「あ、そうでしたか……すみません」


 普通“兄貴的存在”と自称するかな?とは思ったけれど、露骨な態度を見せてしまったことを詫びておく。アトム、なんて、変わった名前だ。見たところ30代くらいの人で、軽くて不遜な感じがするが、特別嫌な印象もない。


「ありがとうね、悠人に付き添ってくれて」

「いえ……私のせいでもありますし。悠人君にもご家族にもなんて言ったらいいか……」


 悠人君の身内のような言い方をするから、きっと私よりも悠人君のそばにいた人なんだろう。さっきも悠人君が刺されてしまった直後、この人はものすごく心配していた。


「……君の、せい?」

「あ、あの……」


 そうか、あの混乱の中じゃ悠人君が私の代わりに刺されてしまったことなんてわからないだろう。きちんと説明しようとすると、瀬下さんが制止する。


「あー、いい!大丈夫!亜子ちゃんのせいじゃないし」


 気を使ってもらってるのか、なんだか申し訳ないけれど、聞きたくなさそうな人にここで無理矢理説明をすることもないかもしれない。


「私、今日は一回帰らせてもらおうと思ってるんですが、あの、瀬下さんは悠人君のご家族の連絡先をご存知ですか?」


 悠人君の身内だと言うなら、家族のことを知ってるかもしれない。離れて暮らしているかもしれないけれど、大切な家族が大怪我をしてしまったことを知らないままであっていいはずがない。


「あー、ああ、家族?いや、たぶんいいんだよ。悠人も望まないだろうし」


 瀬下さんは歯切れ悪く答えた。その口ぶりだとやっぱり連絡先を知ってるようだけど、“いい”とはどういう意味だろうか。


「明日さ、また悠人に会いにきてね。俺も様子見にくるけど、誰か看病してやらなきゃだし」

「それは勿論」


 家族のことはうかがいきれなかったけど、看病のことに関してはやるつもりでいた。私が悠人君にできることなんて、これくらいしかない。


「ありがとう。ごめんね、引き留めちゃって」

「いえ、こちらこそ」


 人懐っこそうに瀬下さんは手を振る。


「じゃあまた明日」


 結局この人が悠人君にとってどんな人なのかわからないままだったけど、とりあえずそれは明日聞ければ良さそうだ。




 家に帰ってシャワーを浴びて少しだけ眠ると、翌朝なるべく早いうちに病院へ向かった。

 バイトは休むことにして、お母さんにも今までの経緯と昨日のことは説明しておいた。お母さんも悠人君を心配して、お昼からお休みもらってお見舞いにいくと言っていた。

 悠人君に具合はどうだろう。お腹に傷なんか出来て、ご飯とかちゃんと食べれるのだろうか。いつ退院できるのか、もう夏休みも残り少ないのに学業には影響がないか、医療費なども相談しなくちゃいけない。やらなければならないことをぐるぐる考えながら歩いていると、ふと思い出した。そういえばもう九月。例の約束の期限はもうすぐだ。


(保留だろうな)


 正常ではないこの状態では答えは出せない。仕切り直してまた半年後か一年後かになるだろう。

 ストーカーの件は全部私の誤解だったし、結果的に悠人君に迷惑もかけたし助けてもらった。罪悪感もある。でも、私の中には悠人君を信じられなかったという事実だけが残った。それは無視できないほど大きくて、易々と消すこともできない。


「………………」


 目を閉じて、何も考えないようにした。それより先に考えなければいけないことがたくさんあるのだから。




 病院でお見舞いに来たと受付に告げると、病室が変わったと言われた。聞いた病室へ向かうと、なんと個室になっていた。そんなに経過が良くないのかと不安になりながらノックをすると、「どうぞ」と声がする。


「おや、おはよう」


 ドアが勝手に開いてしまった。そこには、背の高い瀬下さんがいた。


「……おはようございます」


 まさかこの人がいるとは思わなかった。昨日もあんなに遅かったのに、私より早い。いや、もしかしたらここに泊まったのかもしれない。昨日と同じ服のような気もする。


「亜子?」


 瀬下さんが遮って姿の見えない悠人君の声がする。


「おはよう、目が覚めてるんだね」


 ひょっこり顔を覗かせてみると、病室の真ん中に置かれているベッドに上半身を起こした病院着の悠人君がいた。


「おお、悪い。入って、亜子ちゃん」


 瀬下さんはドアを開けて招き入れてくれる。物々しいくらいの音を立てて、空調が動いている。病室は、一人に対して充分な広さだった。ベッド脇にはいくつかイスがあって、壁際には革貼りのソファーまである。やっぱり瀬下さんはここに泊まってたらしく、ソファーには毛布が掛かってた。


「亜子、色々ありがとう。気を失ってる間にお世話になったみたいで」

「そんな、なにもしてないよ」


 お礼を言われるようなことは本当に何もしてない。慌てて首を横に振った。


「まあまあ。亜子ちゃん座ったら?ほら」


 立ったままの私に、瀬下さんがベッド脇のイスを引いて進めてくれる。


「あ、すみません。ありがとうございます」

「……なんか腹立つよね」


 悠人君は瀬下さんを一瞥して口を尖らせている。


「顔付きがいやらしい」

「この男前つかまえて何言いやがる」

「亜子にあまり近付かないでよ、猥褻だから」

「お前俺の両親に謝れよ!」


 イスに座らせてもらい、二人のやり取りを眺める。こんな子供みたいなこと言う悠人君は初めて見るし、それに言い返す瀬下さんもなかなかだ。


「全く、失礼だな。色々やったってのに」

「その点では感謝してるよ、でも亜子には近付かないでくれる」


 仲が悪いというわけではなく、ケンカするほど、ということのようだ。でも、家族というわけでもなさそうだし、友人と言うには瀬下さんは年上に見えるし、よくわからない。


「えーと、あの。二人はどういう……?」


 私が二人に尋ねてみると、示しあわせたかのように二人は顔を見合わせた。


「俺がお前の恩人、というのが適切な表現か?」

「逆じゃない」


 瀬下さんは不遜に言うけれど、悠人君だってそれに負けてない。


「気にしなくていいよ、亜子。その人は顔のうるさい通行人だと思ってもらえれば。強いて言うなら、昔からの知り合い、かな」


 知り合い、か。これ以上のことを聞き出そうとするのは無粋なようなので、もう深く聞くことはやめることにしよう。


「さて……亜子ちゃんも来たことだし、残りの後始末に行ってくるかな」


 瀬下さんはソファーの上の毛布をたたみはじめた。あくびをして、たたんだ毛布はソファーの肘掛けにかけられた。


「よろしく」

「おうおう、貸し一つにしてやるよ。じゃあね、亜子ちゃん」


 悠人君の呼び掛けに答えた瀬下さんは、私にだけ挨拶をして出ていってしまった。


「優しい人?みたいだね」

「あれで一応ね」


 病室は一気に静かになってしまった。空調の轟音と、扉の向こうの廊下での物音が聞こえる。


「傷はどう?痛む?」


 話さなくてはならないことがたくさんあることを思い出して、私から悠人君に話しかけた。


「今朝、麻酔が切れて目が覚めたよ」

「そうなの?ずっと痛む?」


 苦笑しながら言う悠人君にドキッとする


「動くとわりとね。でも、傷は浅いって聞いたよ。筋肉までしか傷付いてないから、一週間入院して抜糸したら退院だって」


 そこまで深刻な傷ではないと昨日お医者さんから聞いたけど、入院も長引かないみたいで本当に良かった。


「あの……本当にごめんなさい。私を庇ってこんな傷を……」


 私は改めて深々と頭を下げた。どんなに謝っても、報いることはできないかもしれないけれど。


「どうして謝るの?俺は良かったよ、間に合って。亜子がケガしてたら、それがもし大きな傷だったら……そう考えた方がずっと怖い」


 悠人君は私の頭を撫でて笑う。


「でも、私少しでもお礼がしたくて……迷惑でなければ、身の回りのことをするけれど」

「えっ本当?」


 私が申し出ると、悠人君は手を止めて目を丸くした後に、すごく嬉しそうに笑う。


「なんだ、じゃあ逆にラッキーだな。刺されてラッキー」

「そんなわけないよ」


 悠人君の感覚は時々ものすごくおかしい。


「今日ね、お母さんがお見舞いに来るって。仕事半休もらうって言ってたから、夕方前にはここに来ると思うけど」

「佑利子さんが?なんか悪いなあ」

「お母さんが来るとちょっと騒がしいかもしれないけど」


 お母さんの話から、そう言えば悠人君の家族のことを思い出す。昨日瀬下さんはああ言っていたけれど、家族がいないのはかなり心細いはずだ。


「あの、そう言えば悠人君のご家族は?」

「?家族?」


 聞いてみると、悠人君はきょとんとする。


「お母さんとか、息子が急に入院してたらびっくりするでしょう。私もお詫びとお礼をしなきゃ」

「あ、ああ。家族」


 やっと話が通じたらしい。悠人君は意外そうだけど、普通は家族に一番に連絡がいくはずだ。


「いいよ、気にしなくて。というか、俺も連絡先知らないし、連絡の取りようがないから」

「連絡先を知らない、のか……」


 お母さんの再婚以来親子関係は上手くいってないのだろうか。それでも母親なら息子のケガを心配したいと思うのだけれど、連絡がとれないと言うのなら仕方がないし、事情があるなら私は口を出さない方がいいかもしれない。


「じゃあ、また今度にも、お詫びにうかがわせて」

「……何もそんなに亜子が気を使うことないのに。刺したのは別のヤツなんだから」

「それはそうかもしれないけど」


 悠人君は苦笑するけれど、このままだと悠人君のお母さんに悪い気がして落ち着かない。


「それより、亜子は毎日来てくれるの?」

「うん。一週間はバイト休ませてもらったから。出来ることがあれば手伝うよ」


 少し期待されてるように見られてしまうとちょっと照れる。役に立つかはちょっと不安だけど、いないよりはいた方がいい、たぶん、きっと。


「私、入院とかしたことなくて気が付かないかもしれないけど、困ったことあったら言ってね。着替えとか洗濯とか、あとは……ちょっと思い付かないけど……本当、何でもするから」

「……………………」


 一生懸命主張してみたのに悠人君は薄く笑みを浮かべながらこちらを見てるだけで返事が反ってこない。


「……あの、悠人君?」

「あ、ああ、ごめん。ちょっといけないお手伝いを想像した」

「えー!?」


 こっちは真剣なのに、あらぬことを考えられていた。


「いや、でも、それは置いといたとしても……お願いするよ。困ったら亜子に甘えることにする」

「うん」


 よかった、と思いながら頷いた。少しでも罪滅ぼしがしたいというのは私の勝手だけど、頑張ろう。頑張って役に立とう。


「じゃあ、何しようか。着替えとかはある?アパートに取りに行こうか」

「ううん。それは瀬下が持ってきたから」


 昨日の瀬下さんの持ってた荷物は悠人君の着替えだったらしい。


「誰か、連絡取らなきゃいけない人はいるかな。サニーマートの方はお母さんにお願いしてるけど、もう一つのバイトの方には報告しなくていい?」

「ううん。瀬下がそっちのバイト先の人間だから。任せておけばいいよ」


 それも瀬下さんがやってくれるんだ。……というか、瀬下さんはバイト関係の人なんだ。


「えーと、そうだな。そう言えば、昨日のことは事件になるだろうし、書類上のこととかあったら手伝うよ。保険とか、慰謝料とか、必要があれば調べるし」

「いいよ。そういう面倒なことは全部瀬下に任せるから。亜子も警察からの聴取は無いから、安心してて」


 全部、瀬下さんに阻まれてしまった。私は思った以上に役に立たない。


「じゃ、じゃあ、食べたいものがあったりしたら言ってくれればコンビニに走って行くよ」

「何も走らなくても。でも、ありがとう。亜子の気持ちがうれしい」


 これはつまり、今は何も欲しいものは無いということだろう。こういうことは、あわてても仕方ないのかもしれない。反省しているところに、悠人君から声がかかった。


「……ねえ、一つ、お願いがあるのだけど」

「え?なにかな」


 悠人君に、手を差し出された。


「手、繋いでて」


 何でもするとは言ったけれど、これは悠人君の役に立つことなのだろうか。


「いいけど……暑くない?」

「だったら冷房下げる」

「そこまでしなくても……」


 まだ夏の暑さを引きずって湿気もあるし、と思っただけで断るつもりは無かったけれど、悠人君は結構強情だった。冷房なんか下げちゃったら風邪引いちゃうかもしれないし、私は悠人君の手を取ることにした。悠人君の右手に、私も右手を重ねる。悠人君の手は冷たかった。冷房で冷えてしまっていたようだ。あれ以上冷房下げたら体調崩すところだったんじゃないだろうか。


「しばらく眠ったら?必要な時は起こすよ」


 ギュッと握ると、悠人君は優しく握り返した。


「亜子がいるのに、寝るなんてもったいない」


 まるで子供みたいに言うから、笑ってしまう。だから、私も子供を諭すような言い方にした。


「私は逃げないから、横になってて」

「うーん……」


 半ば不服そうだけど、悠人君はずるずると布団の中に入っていった。二人が黙ると、時間が止まったかのように、病室は静まり返る。空調の音、廊下の足音、誰かの声。まるでこの部屋が切り取られて、外の世界から隔絶されているかのようだ。


「……………………」

「…………」

「…………………………」


 悠人君が、じっとこっちを見ている。気まずいので目を合わさないようにするけれど、私の顔なんか見ても面白くないと思う。


「…………寝ないの?」


 気にしたら負けだとはわかっていたのに、目を逸らしてほしくて声をかけてしまった。


「うーん………………うん」


 悠人君からは気の無い返事しか返ってこない。私は私の手を握る悠人君の手を見つめる。整ってて、形の良い手だと思う。母親すら呼ばない病室で、私がこうして隣にいて、手を握っているのはなんでだろう。この人は、どうやって生きてきたんだろう。

 気が付くと悠人君は目を閉じていた。まだ眠ってるかはわからなかったけど、声をひそめて囁いた。


「おやすみなさい」


 それに応えるかのように、繋いだ手に少しだけ力が込められた。




 寝息を立てている悠人君に安心して、私は自分の鞄から本を取り出した。読みかけの本を、空いた左手で広げる。もう眠っているから手を離してしまってもよかったかもしれないけれど、必要に迫られるまではこうしていようと思った。

 本を数ページ読んだくらいで、扉がノックされた。


「間宮さん、経過はいかがですかー」


 看護婦さんが入ってくる。私は立ち上がろうとしたけど繋いだ手が自由にならなくて、そのままぺこりと頭を下げた。


「間宮さん眠っているのね。ご家族ですか……いや、彼女かしら」

「えーと、はい……」


 すぐに状況を察した看護婦さんは声を小さくして、そして私たちの繋いだ手を見てる。かなり恥ずかしかったけど、手まで繋いでおいてただの友達ですと自称するのも憚られたので、気まずく頷いておいた。


「そういえば、昨日間宮さんが運ばれた時に付き添っていた女の子が色々手続きしたって聞いたけど、あなたね?あなたもお疲れ様。どこにもケガはなかった?」


 看護婦さんにそんな話まで広がってしまってるのかとも思ったけど、事件で救急で運ばれてくるなんてなかなか無いだろうし、こうやって聞いてきてくれるのも悪意がない証拠なんだろう。


「私は大丈夫でした。あの、彼の傷、手術後心配することないってお医者さんからうかがったんですが」

「ええ、一週間後には抜糸できて、それからはおうちで様子を見てくれて大丈夫。傷が完全にくっつくのは二週間から三週間ってところかしら」


 さっき悠人君本人が言っていた通りの話だった。とりあえずそこまで長引かないみたいでよかった。


「しばらく安静にしないと傷開いちゃうから、彼女さん、色々お世話焼いてあげてね」


 看護婦さんはそう言って出ていってしまった。何か用があったんじゃないかとも思ったけど、まあいいか。またしばらく病室は静かになった。




 悠人君は静かに寝息を立てていて、瀬下さんも帰ってこないし、私は自分の鞄から本を取り出して読み始めた。悠人君には悪いけれど、繋いだ手は力が緩んだのを見計らってほどいてお手洗いに行かせてもらった。ずっと起きるまで繋いでた方がドラマっぽいけれど、現実はそうはいかなかったりする。

 本を読みながら、私は声に出てるか出てないかくらい小さく歌を唄った。頭の中に流れてる音楽を一人になったら鼻唄で歌っちゃうのは癖だ。まだ悠人君はよく眠っているから、私は深く考えずに唄っていた。本が佳境に入って面白かったのもある。だから、全然気付かなかった。


「亜子って、歌いながら本読むんだね」


 びっくりした。


「!お、おはよう……」


 まさか聞かれてるとは思わなかった。これは誤魔化せない。とりあえず、悠人君はよく眠っていて今の時間が気になるかもしれない。腕時計で時間を確かめて教えようと思った。


「今はお昼過ぎてて、時間は……」

「亜子、答えを下さい」


 唐突だった。


「俺が要るか、要らないか」


 悠人君が、残酷なことを言ってるかのように響く。


「………………」


 半年の約束のことを言っているのだろう。さっきは何も話に出なかったけど、今日から9月。4月から数えて半年になる。


「……色々あった後だし、先に延ばさない?」


 考えていた通りのことを提案した。なんの解決にもならないけれど、でも今答えを出すのも適切ではない気がした。


「俺はそのつもりはないよ」


 悠人君は、そう言って私の手を取った。引っ張られて気が付くと、私は悠人君のベッドに倒れていた。


「ゆ、悠人くん!?」


 私の上にいる悠人君は、うずくまるようにしている。髪の毛が表情を読み取るのを邪魔するけれど、悠人君は動かない。


「痛いの……?」


 看護婦さんに言われたことを思い出す。無理をしてしまうと傷が開く。何も今こんなことをしなくても。


「……今、答えをちょうだい。そうでないともう待てないんだ」


 顔を寄せてきた悠人君は、苦悶している。きっと、傷が痛むんだ。


「もう、これ以上報われないとも知れないまま君を好きで居続けるのはつらい」


 下手に動いてしまうと悠人君の傷口に響いてしまうかもしれない。そう思うと私は動けなかった。

 でも、ここで答えろと言われても。私はきっと、悠人君の望む答えを出してあげられない。


「……断ってくれていいんだよ?」


 私の心を読むように、悠人君が言う。


「俺は何をしたって亜子が欲しいし、正直亜子がそばにいてくれるならそれが愛とかじゃなくて、同情や罪悪感とかでも構わないんだ。でも、亜子はそれでいいの?」


 ずっと、私にはわからない。どうして悠人君は私に執着するのか。私が悠人君に何をしたと言うのだろう。私が悠人君に何をしてあげられると言うのだろう。きっと悠人君の気の迷いなんじゃないかって思ってた。だって、私は何一つ持ってない。

 悠人君が、私の首にキスをする。くすぐったくて身を縮めると、悠人君が庇う傷口から血が滲んでるのを見てしまった。


「……!悠人君、傷、もう、動いちゃ」

「いいよ、傷が開いたって」


 痛そうなのに、悠人君はどうでも良さそうに言う。そして、私の頬に手を添えた。強い目で見詰められる。


「亜子が俺を要らないなら、俺も俺が要らない」


 それがどういう意味か、一瞬わからなかった。


「なに、言って……」


 悠人君の瞳の奥は、とてもとても暗い。


「死ねばいいんだよ。亜子、君に選ばれない俺なんて、死ねばいい」


 そんな言葉、聞きたくない。


「死んだ方が簡単だ、亜子がいないままなんて俺は生きていけない。それに、いなくなればもう亜子につきまとうこともない。そうだろ?」


 私は、本当にこの人のことをわかっていなかった。こんな暗がりで、私を手招いていたなんて。想像する。そんなことを言えてしまう人の絶望を。たった一人にしかすがれない人の寂しさを。


「……なんで、君が泣くの?」


 泣いてるつもりなんて、なかった。だって、私には泣く理由も資格もない。涙が止まらない私を、悠人君が悲しそうに覗く。


「もうつきまとわない、って、そういう意味だったの……?」


 半年前の、あの言葉の意味を今更ながらに知る。


「そうだよ、あの時から、ダメだったら死ぬつもりだった」


 悠人君の声は、いつもみたいに優しかった。


「でもね、俺は狡いんだ。俺が死ねば、亜子はきっと一生俺を忘れられなくなる。それでもいいか、なんて思う」


 優しい声のまま、残酷なことを言う。私が断れば、悠人君は死ぬ。そんなことを、選べるはずがない。ひどい話だ。最初から答えが仕組まれていたなんて。


「ねえ、亜子。俺は幸福だ、俺は不幸だ。こうなってしまったのは亜子のせいだし、こうなることができたのは亜子のおかげだ。

なるべくしてなったと思う。君のことが愛しくて、俺は生きてきたんだ。

 ねえ、亜子。俺は狂ってる。みじめで愚かだ。美しいものを何一つ持たない俺でも、亜子のためなら何にでもなれる。何でも与えてあげる。望むもの全て差し出すよ。何に変えてでも、何に引き換えても。

 ねえ、亜子。だから、どうか、俺を――」


 その後に続く言葉はなかった。

 つい、手を伸ばした。悠人君が、泣いていたから。


「………………」


 私はこの人がわからなくてこわくて憎らしくて、それから、かわいそうに思う。


「亜子……愛してる」


 鼻先が触れ合う。


「受け入れてくれるなら、キス、しよう」


 悠人君が、くちびるを寄せる。私は動かずに、キスを待った。

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