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それでもあなたに

挿絵(By みてみん)


――彼の話。








 俺の中での計画は決まっていた。四月と五月は、もう少し親密になるための期間。なるべく亜子と会える時間を作るようにした。

 四月から取ってる講義の時間が変わったことで、サークルのついでに会えるのは週一回に減ってしまった。仕方ないこととはいえ、惜しいことだ。その代わりとして、亜子はかなり俺と会う約束を飲んでくれた。バイトを優先しがちな亜子にしては、とても譲歩してくれた方だ。それだけ、俺の出した『半年後に結果が出れば、つきまとわない』という条件が亜子に響いたんだろう。俺の決死の賭けも捨てたものではなさそうだ。

 四月は急な予定の調整は難しいために、さほど会う時間は確保できなかったが、一日紘也と黒河を交えて夜会える日が作れた

共通の友人というのは、貴重なものだ。俺にとっても二人は悪い存在ではないし、見たところ亜子に害を為すようでもない。ならば親交は深めておくべきだ。


 その日は例のもんじゃ焼き屋に集まった。確かに、大衆的な雰囲気だけど、味は悪くない。亜子は結構この店を気に入っているようだった。


「俺も飲もっかな」


 先に酒の話題を出した黒河に続く。今日はそのつもりで来た。黒河も酒が飲めるとは思って無かったが都合がいい。これで亜子にかなり飲ませやすくなる。


「あ、じゃあ……」

「ビール2つで」


 紘也の烏龍茶に続こうとした亜子を遮って注文をする。


「……えっ?」

「亜子も飲もうよ」


 びっくりして振り返った亜子に、にっこりと微笑んだ。亜子も、酒が飲めない訳ではない。亜子の母親である由利子さんはかなり酒好きらしく、成人してから亜子はたまに晩酌に付き合ってるようだ。ただ、あまり強い方でもなく、飲むときも量を摂らないようにしているらしい。

 全て、盗聴によって得た情報だ。有用な情報は、活用していかなくては。


「……飲みたくないわけではないけど、でも」

「じゃ、飲もう?亜子の分まで頼んじゃったし」


 酒を嫌ってるわけではないことを知ってる俺は、強引に亜子へ飲ませることにした。勿論下心は否定できないが、これも大事な順序だ。

 会話の話題は亜子と俺とのことに集中した。亜子は居心地が悪そうだったが、二人には俺たちがどんなに深い繋がりかを知っておいてもらわなくてはならない。

 俺は嘘は使わず、詳細なところはぼかして過去のことを二人に語った。自分を美化してるところは無いとは思うが、過去の非も隠すことはしなかった。それでも亜子からすれば異議のある物言いだったかも知れないが、亜子は何も訂正することはしなかった。

話に聞き入っていた紘也と黒河は、狙った通りに、どれだけ俺が亜子を愛しているか知ることになった。二人からすれば、俺の亜子への想いは純粋で一途で、文句のつけようもないだろう。そう思わせることが目的の一つだった。


 四人での食事は二時間ほどだった。他愛の無い話をし続けて、最後に亜子が酔い潰れて俺が引き取るところまで、考えていた通りになった。亜子のビールには、酒と服用することによって効果を増す睡眠薬を混ぜていた。亜子は少しずつビールを飲んでいたため、思ったよりも時間がかかってしまったが、眠気に耐える姿は可愛らしかったし、より酔っているように見えたので、結果的には良かっただろう。

 亜子から返事が無くなったのを見計らい、介抱して送り届けると二人に告げ、亜子と俺でタクシーに乗り込んだ。

まんまとここまで事を運んで、タクシーの窓から見る夜の街の姿や座席シートの匂い、内装のレースの模様まで、少し特別に見えてきた。ほとんど意識の無い亜子を抱き寄せて、見つめる。可愛い……いや、亜子は綺麗になったな。伏せられた長いまつげに、形のよい鼻梁。少し尖った唇に、また口付けたい。


「……いいねえ、仲良くて」


 不意に、タクシーの運転手に声をかけられる。


「恋人かい?大事にしなよ」


 人の良さそうな中年の人で、それだけ言ってラジオの音量を調整している。もちろん、亜子を守るのは俺しかいない。


「あの、そこの信号を右折してください」


 俺の部屋までの道のりを行く。亜子を家に帰す気なんて、最初から無かった。

「はいよ」


 タクシーの運転手は軽く返事をして、ウィンカーを出した。




 亜子を抱えてタクシーを降り、二階に上がる。支払いの時、運転手も手伝うと申し出てくれたが、丁重にお断りした。人一人、しかも意識の無い状態だと軽いとは言えなかったが、亜子と一緒の密室に入るというのは、なんとも胸が高鳴る。

 狭い部屋に布団を敷いて、亜子を横たわらせた。不思議な気分だ。毎日亜子に恋い焦がれ煩悶しているこの部屋に、亜子がいる。布団の脇に座って、無邪気に眠る亜子を眺める。寝顔は、子供のような幼さもかいまみえた。そういえば、人の寝顔なんて初めてみるかも知れない。手を伸ばして、亜子の額に触れる。


「愛してるよ」


 伝わらなくても、伝えたい。だって、愛してるんだ。どうしても、亜子が欲しい。こんな風に想っているのは、間違っているのだろうか。俺は、亜子を愛してはいけなかったのだろうか。

 そんなこと、ない。亜子にそう言って欲しい。肯定してほしい。俺の中にある、ただ一つの確かなもの。この想いを正しいものにしたいから、俺は何でもする。何を捨ててでも、どんな汚いことをしても、亜子を、君を、手に入れる。


「ん……」


 小さく声を漏らした亜子は、寝返りを打って向こうを向いてしまった。無意識でも亜子は俺を避けようとするんだ、と苦笑する。

亜子の鞄から携帯電話を取り出し、まずは充電の残りを確認する。45パーセントか……思ったよりもある。入ってるアプリを物色して、電池をより食いそうなものを起動した。あっさりこんなに弄れてしまうなんて、何のロックもかけてないところが無防備で亜子らしい。

 次に、黒河の番号を探した。彼女には頼まなくてはならないことがある。


「もしもし、マリちゃん?」


 俺の第一声で、電話に出た相手は驚いた。それはそうだ、亜子の携帯電話からかけているのだから。


「それがね、途中で亜子の具合が悪くなっちゃって。うちに寄ってちょっと休んだら、帰れなくなっちゃってさ」


 自分でも、嘘が得意という自覚はあった。平然と、それも無理なく、言いたい事を言える。まわりを見てみれば、これは稀有な才覚らしい。


「いや、違うよ。亜子置いて俺は部屋出る。本当に。うん、そう。大切にしたいからね」


 襲っちゃわないで下さいよ、と笑う黒河に、俺は笑い返しながらもきちんと答えた。本当に襲いたいところだが、それは今出来ないし、周囲にそう思われても不都合だ。


「それで……あ、そうそう。亜子のお母さんにね、俺から電話したらびっくりさせるからさ」


 この電話の意図を察した黒河は、快く引き受けてくれた。


「今、亜子?ダウンしてるよ、お母さんのことだけ心配だったみたいでさ」


 聞かれたことには適当に答えておく。翌朝には亜子の記憶は酒で消えたことになるのだから、それらしいことを言っておいて問題ない。


「うん、じゃあ、亜子のお母さんの番号はメールしとく。亜子の携帯、充電ヤバくてさ、鳴らないかもって言っておいて」


 電話はそこで切れた。話した通りに、由利子さんの電話番号をメールしておいた。これで、亜子が外泊しても一応の体裁は保てる。ここまですれば、大体のことが終わった。俺は雑事を済ませ、台所の壁にもたれかかって静かに眠っている亜子を眺めた。不思議な気分だ。興奮と昂揚、多幸感と優越感。まだ何をしたわけでもないのに、亜子がそこにいるというだけで、毎夜俺を苛む渇望が満たされる。

 しばらくして亜子の携帯電話を確認すると、電池が切れて電源も落ちていた。これで、俺以外の人間が明日の朝まで亜子に接触はできない。電源が落ちたまま、俺の充電器に亜子の携帯電話を挿しておく。

 何も、眠っているのを見るために亜子をここにつれてきたわけじゃない。明日の朝、亜子が目覚めたら驚くはずだ。酒のせいで何も記憶がないと思い込む亜子に、色々吹き込むことができる。甲斐甲斐しく世話を焼いたと言えば亜子は俺に対して借りを感じるだろうし、そんな難しくない事ならば酔った亜子が俺と約束をしたと言えば叶えてくれるかもしれない。それに、亜子には俺の前以外では酒を飲んでほしくない。今回のことで酒で失敗したと悔いてくれたら、亜子は他の男の前で酔うような愚行はしない。それを釘差ししておきたかった。

 メモを一枚取り出して、亜子に書き置きをしておいた。目覚めたら俺に電話かけるようにと。

さっき黒河に告げたように、俺は本当にこの部屋を出ていくつもりだった。亜子を目の前にして、ずっと悶々となんかしてられない。それに、きちんとアリバイも作っておかなくてはならない。駅前に出たら、もう一度黒河に電話するつもりだ。雑踏の中に居ることが伝われば、本当に俺が亜子に手を出したとは疑わないだろう。

 そのためには、ここを出るのが遅くなりすぎてはいけない。名残惜しいが、亜子を置いてもう行かなくては。


「おやすみ、亜子」


 ちゅ、と亜子の額にキスをした。これは……手を出した内に入るのだろうか。




 概ね、全て順調だった。

 五月は亜子が予定を空けてくれて、毎週末出掛けることができた。二人共通の趣味である映画を観たり、寄席を見に行ってみたり、あの湖畔のレストランにも行けることになった。どれも素晴らしいデートだった。いつかみたいに亜子が俺を邪険にすることもなく、ただ素直に楽しんでくれていた。他愛なく話して、隣を歩いて。それだけで俺は浮かれて、舞い上がって、どうしようもない。でも、亜子だって笑ってた。嘘なんかじゃない本当の笑顔だ。だから、勘違いするのも無理も無い話だ。だって、俺は亜子の事を愛しているのだから、亜子からの好意を期待して何が悪い。

 あの一夜のあと、分かりやすく俺は役得を手にした。亜子が、俺を下の名前で読んでくれるようになった。何度お願いしても聞き届けてくれなかったけど、約束したと言えばやっと折れてくれた。亜子から名前を呼ばれると、すごく特別な気分になる。


 心配な事は一つある。亜子に無言電話がかかって来るらしいと黒河から聞いた。そんなこと、亜子から一言も聞かされていない。黒河自身も亜子から相談を受けたわけではなく、たまたま一緒にいる時に着信した携帯電話に渋い表情していたのが発端だったという。つまり、黒河が気付かなければ亜子は誰にも言うつもりはなかったようだ。何でも一人で抱え込んでしまう亜子らしい。

 黒河から聞かされて、俺はすぐに亜子へ連絡を取った。イタズラ電話への対処法と、他にも身の回りで変なことが起きてないか気を付けること、何かあったら俺にすぐ言うことを伝えた。仕事柄、こう言うトラブルに対しては強い。それに、亜子は機械やシステムなんてものにあまり明るくないらしい。登録外着信拒否の設定だけで無言電話は無害化し、亜子にはずいぶん感謝された。


 それはそうだろう。だって、俺が無言電話をかけていたのだから。

 登録外着信拒否ですぐに無効化することは知っててやっていた。あまりこう言う陰険な方法はどうかとは自分でも思うのだが、無言電話は思いの外楽しかった。聞きたい時に亜子の声が聞けるし、無言電話とわかった後の亜子の緊張感とかたまらない。マイクをオフにしてることをいいことに、俺は亜子に話しかけ放題だ。勿論返事はないけれど、卑猥なことを言ったりするのも下卑た快感に浸れる。一度だけ、亜子がずっと忍耐強くこちらに話しかけてきたり、それが無駄だと悟ったら数十分も通話を切らず放置されたことがある。わりとご褒美だった。

 思った通り、無言電話が恒常化しても亜子は一言も俺には漏らさなかった。二週間くらい猶予はあったはずなのに、相変わらず強情な人だ。いや……亜子は俺を少し疑っていたのかもしれない。逆に言えば確信が無かったから俺にも確かめられなかったのだろう。だから黒河に気付かれるような時間帯も無言電話をかけ、黒河から話を聞くように仕向けて、俺が無言電話を解決した。

 これで完全に疑いが晴れるとは思っていない。無言電話が始まった期間が、亜子からすれば不自然で引っ掛かる所だろう。それをたった一回の助言で退けてしまうというのも、考えようによっては都合が良すぎる。

 でも、これは計画の一貫だ。半年間に及ぶ、俺の全てを賭けた計画の、ほんの始まりに過ぎない。




 俺は、今までにないくらい忙しくしていた。瀬下の仕事を週五日入れて、それに加えて授業とサニーマートのバイト。勿論、亜子のためにも時間を割いた。

 瀬下の……と言うか、既に俺は公安庁に内定を決めて、直属の上司は瀬下の更に上の役職にあるイーサン・マクスウェルとなった。別に望んで公安庁に入る訳じゃない。亜子を失うか、ここで仕事を決めてしまうか、天秤にかけたらこうなっただけのこと。短くない期間瀬下のもとで働いていただけあって、勝手は知ってるし仕事さえこなせば瀬下もイーサンも、わりと俺を自由にした。

五月から六月にかけては、俺は徹底的に下ごしらえに従事した。ここを外せば、全て狂う。綿密に、慎重に、でも臨機応変に、俺は一人計画を実行した。使えるものは全て使った。それが内定だったし、俺の将来だ。

 一方、亜子への布石も忘れていない。筋書き通りに、ストーカーの影に怯えてもらった。盗聴機と発信器で亜子の生活パターンは大体分かっていた。本当ならこの機会にずっと亜子に張り付いていたいところだったが、俺も身体は一つ。それは叶わなかった。だからこそ、亜子がもっとストーカーとの距離を近く感じられるように、連絡手段は直接投函する手紙にした。手書きでは亜子に分かってしまうから、よく売られているゴム印を使った。

 計画は、概ね順調だった。四通目の手紙を亜子に届けた頃には、計画は既に俺の手の離れた所で走り出していた。あとはその動きを注視しながら微調整を繰り返し、迎えるべき結末への道程に空いたリスクを埋め立てるだけ。


 しかし、問題点はすぐに発生した。それも、かなり大きく無視ができないものだ。

 ――亜子。亜子こそ、俺の計画を阻む最大の要因でもあった。

 亜子に疑われていることに気付いてた俺は、亜子からの不信感を捩じ伏せるくらいのつもりでいた。でも、亜子の行動は俺の予想以上に早くて的確だった。正直亜子を侮っていたし、亜子からそこまで信用が無かったことにショックが無いと言えば嘘になる。


 最初に疑問に思ったのは、亜子の様子がいつもと違ったからだった。大学から帰る毎週の習慣である帰り道、亜子はなかなか俺と目を合わせようとしなかったし、視線がかち合ってもすぐに逸らされる。これは、何か後ろめたいことがある時の特徴だ。素直で嘘の着けない亜子らしい。


「……どうしたの?」


 何を隠しているが知らないが、とりあえず尋ねてみる。聞いて正直に言うとは思わないが、反応が判断材料になる。


「え?」

「今日はなんだか、元気無い?」


 亜子声はやや上ずっていた。たぶん、自分の癖に気付いてないんだろう。可愛い癖だから、俺は教えてあげる気はない。


「ごめん、そんなことはないけど……」


 そう言うそばから亜子は俺を見てくれなかった。


「そう?体調悪いなら言ってね」


 隠し事くらいならまだ構わない。本当に体調が悪かった方が大事だし、何か考えがあるのならやるだけやっておいた方が良い。わだかまりが残ったままの方が後々残る。


「……私は、いやな人間だ」


 電車に乗って駅に降りた頃、雑踏に消えてしまうかのようなか細い声で、亜子はぽつりと漏らした。


「いやな人間?」

「うん、悠人君に嫌われるくらい、ダメな人」


 そう言う亜子の横顔が、いじらしくて可愛くて美しい。隠すことができないだけじゃなく、こんな風に懺悔してしまうなんて、亜子は素直すぎる。


「ありえないな」


 こんな子を、嫌うはずなんて無い。


「亜子なら、意地悪をされてもワガママを言っても、何も構わない。そんなところごと、愛せるよ」


 何を飾るでもない、ありのままの本心だ。亜子をちらりと見ると、また亜子は目を逸らした。でもそれは後ろめたいだからではなく、もしかしたら……照れてるのかもしれない。

 商店街を抜けて国道を横切ると、道はずいぶん寂しくなる。住宅地に入るともっと暗くなるものだから、亜子には常々気を付けるように言ってある。


「…………」


 さっきから、気にかかる人影が俺たちの後ろをついてくる。背丈は高く、細身。男だ。暗い色のジャージに、目深に被った帽子。 ジャージで帰宅なんて高校生かとも思ったが、だとすれば帽子は不自然だ。通りすがりの人間の格好にケチをつけるわけではないが、少し気になる男が後ろにいることだけ心に留めておく。


「……どうしたの?」

「いや……なんでも」


 俺が後ろを確認したことに、亜子はつられて後ろを見た。さして面白い事でもないので、俺ははぐらかした。


「じゃあ、ここで」


 アパートの階段下まで来ると、亜子はいつものように足早に階段をかけあがり、二階の手すりからも手を振った。




 亜子を見送り、俺も帰路に着く。

 今日は手紙を出す日だ。準備はもうできていて、アパートの部屋には何通りかの手紙が用意されてる。投函は、いつも深夜から明け方にかけて家から直接亜子のアパートへ行き、どこにも寄らずに自分の部屋に戻ることにしている。この辺りは3時を過ぎた辺りから人通りが極端に少なくなり、それは4時を越える頃まで続く。俺のアパートから亜子のアパートまで片道5分弱だが、その間誰にも会わないことなんてざらにある。勿論亜子を見送ったこのタイミング等で投函できてしまえば楽だけど、近所の人達に見られたり、迂闊に持ち運んだ手紙を何かの拍子で亜子に見られてしまえば厄介だ。どんなに手はかかっても、リスクは摘み取っていかなくてはならない。

 この時間から明け方までも暇な訳ではない。家に帰っても持ち帰りの仕事がある。七月の半ばから各授業のレポートの提出もあるし、やらなければならないことは山積みだ。ここ三ヶ月くらいは平均睡眠時間は三時間ほど。人間わりと丈夫だ。

 帰る前に夕飯でも買うかと、この先へ行ったコンビニへ寄ることを思い付く。亜子は佑利子さんが作った料理を前にして食卓を囲むのだろう。俺もその中に入りたい。

 道を左に曲がろうとした時、後ろに人影が見えた。例の男だ。帰りが同じ方向なのだろうか。でも、俺には違和感が残った。

考えすぎであることは自覚していたが、念のため確認しておかなくてはならない。後を付けられるということに見に覚えが無い訳ではない。公安庁の内定が決まって身辺調査が入ってもおかしくはないし、今回のことの標的もプロの諜報員だ。ただ、気取らせる程度の尾行なら、忠告くらいはしておいた方がいいだろう。

 携帯電話を手にして足を止める。ゲームか何かに熱中して足を止めるというのは無理な設定ではないだろう。これで俺を追い抜けばまだ様子見、後ろの奴も足を止めているようだったら間違いない。……結果は、黒だった。

 警戒心の強いプロなら、標的が尾行に気付いてる素振りを見せた時点で止める。深追いした方が危険だからだ。後ろの奴は、まだ大丈夫だと踏んでいるのだろう。俺は少し遠回りしてコンビニに寄ることにした。そして入り組んだ住宅地の路地に入り、男の背後にまわった。近い距離から見ると、男の背格好に見覚えがある。


「紘也?」

「!?」


 呼び掛けてみると、男は大袈裟なくらいぐるりと振り返った。


「あ、あれ?追いかけてたのに……なんで後ろにいるんすか」


 もう変装は必要ないと悟ったのか、帽子をずるりと外しながら紘也は目を丸くしていた。


「追いかけてたって?」


 聞いておきながらも、俺には心当たりがあった。今日の亜子の様子を考えれば、予測できる。つまり、紘也は亜子に頼まれてやっていた。


「いや、ちょっと……護衛も兼ねて」

「…………」


 話が見えない。亜子はなんと言って紘也に尾行をさせていたのだろう。


「悠人さんも入野から聞いてると思いますけど、あの、手紙の件」

「…………うん」


 俺が手紙の差出人なので、手紙の存在は知っている。でも俺はまだ、亜子から手紙のことを相談されたことはない。

 めまいがしそうだ。亜子は、俺より先に紘也に相談したと言うのか。それは、どういうつもりで?いや、俺が疑わしかったということに立ち返ることはわかっている。俺がやったことの罰と言うなら甘んじて受けよう。でも、嫉妬は制御できない。


「ストーカーされてるみたいだから、俺が二人の後をつけて怪しいやつがいないかって」


 こいつは、涼しい顔で続ける。今俺がどれだけお前を張り倒したいか、わかってないだろう。

 亜子も、なかなかやる。俺に何も言わず紘也に尾行させたのは、その疑いの根の深さを感じさせるし、亜子の中の不信感が俺を深く抉るものだと自覚しているからこそだろう。亜子は、俺を疑うと同時に人を疑うことに罪悪感を覚えている。だから、さっき耐えきれなくなった。つまり、亜子だって本当は俺のことを疑いたくない。

 あのまま紘也に気付かず尾行されていた方が亜子の心を軽くしたかもしれないが、過ぎたことは仕方がない。亜子に、杞憂だとわかってもらわなければならない。俺がやっていることを君に悟らせるようなヘマはもうしない。


「……紘也は、気付いた?俺たちの後ろをつけてた男」

「えっ……?」

「最初、二人組が尾行してきてるって思ったんだけど」


 単なる口からの出任せだ。しかしそれっぽく言えば、本当のように聞こえてくるはず。


「いや、違いますよ?俺一人で……」

「じゃあ、フード被った奴は?」


 俺の深刻そうな質問に、紘也も黙る。勿論、俺はフードを被った人物など見ていない。ここでもう一人登場人物を作ることで、注意はその人物へ向く。


「……すいません、俺、気付けなくて」

「いや、いいよ。でも、心配だな。今そいつが俺をつけていないとなると、亜子のところにいないか……」


 今日、亜子に話をしておかなければならない。また会う口実を適当に作り上げる。


「あ、じゃあ、俺も行きます!一人より二人の方が、本当にストーカーが居た時を考えると……」


 他意は無いだろうが、これ以上亜子と俺の間に入り込まれては困る。俺は即座に紘也の申し出を辞退した。


「いや、大丈夫。今日のこと聞いてない、って亜子にも言いたいしね」


 これは本当にそうだ。俺より先に紘也を頼ったことは反省してもらわなければならない。


「……わかりました」

「ここから一人で帰れる?途中まで送ろうか」


 聞き分けよく頷く紘也に、人好きのする笑みを浮かべて歩き出した。亜子がこいつを頼っていると言うことを考えると内心複雑ではあるが、それを差し引いたとしてもここで悪印象を持たれるわけにはいかない。


「あの……すみませんでした。黙って尾行なんかして」


 道の途中、紘也が頭を下げる。こちらがあっけなく思うくらい、紘也は毒気がないから気が抜ける。


「いや、別に怒ってはないよ?むしろ悪かったね、付き合わせて」

「俺で役立てるならいくらでも。手紙、ほっておけないくらい不気味だし」


 この口振りだと、手紙の内容まで見せられているようだ。手紙の話を振ろうとするが、寸前で止めた。紘也に対して今俺は知ってるように振る舞ってるが、亜子にとっては俺は手紙の存在を知らないことになっている。当然、亜子の中の事実と俺の言動が一致しなければ、そこからまた綻びが生まれてしまう。


「……手紙、読んだんだ」


 当たり障りの無い相槌で、話を促す。


「今日入野に見せられて。あんな手紙が二通続けて届いたんじゃ、心配で入野一人で帰せないですよね」

「二通」


 亜子にはもうすでに七通ほど手紙は渡している。亜子は二通届いたと言って紘也に見せたのだろうか。もしかして、それはわざと?いましがた俺が口を滑らせそうになったように、情報を制限することでボロが出るのを待ったと言うことだろうか。まさか亜子がそんな情報戦の手法を使ってくるとは考えたこともなかったが、つくづく亜子は侮れない。


「あ、そういえば」


 このまま真っ直ぐ進めば商店街に戻る、という分かれ道のところで、紘也が俺を呼び止める。


「入野が、もし悠人さんに見つかったら入野に電話するように伝えて、って。今から会いに行くなら関係ないかも知れないけど」

「…………そうだね」


 頷いて紘也と分かれ、亜子のアパートに向かう道に入った。

 亜子が自分に電話させようとしたのは、紘也が悪意を持って俺を尾行していた訳じゃないと証明させるためだろう。亜子が他人を庇うのが、俺には息苦しくなるほど切ない。

 程なくして亜子のアパートの下に着いた。さっき分かれてから一時間も経っていない。亜子はもう夕食を食べてしまっただろうか。

紘也に伝言を受けた通り、亜子に電話をかける。俺からの着信を見て、亜子は慌てるだろう。亜子はなかなか電話に出なかった。それでも俺は電話を切らなかった。出るまで電話をかけ続けるし、それでも出なければこのまま亜子の家に押し掛けてもいい。

携帯電話を片手のまま待っていると、アパートの二階の玄関扉があいた。亜子だ。


『はい』


 十何回目かのコールでやっと亜子が着信に出た。


「電話、出たね」


 心なしか少し亜子を責めるような口振りになってしまった。だって、俺が怒っているのは変わらない。どうして俺より紘也を頼ったのか、嫉妬に刈られているのだから。


『……悠人君は、家に着いた?』


 思ったより冷静な受け答えだった。俺からの電話に動揺して今日のことを自分から謝り出すかと思ったのに、さっきの帰り道の続きのように振る舞っている。


「いや……尾行されてたみたいでね。撒いてきた」


 亜子がそのつもりなら構わない。その代わり、俺も俺の方法で君を絡めとるから。


『尾行……?』

「男に追われてた。亜子には何も無かったかな、って心配になった」


 紘也にも言った“フードの男”を持ち出す。俺の今の言い方じゃ、紘也を怪しい人物だと思い込んでいるように亜子は捉えるだろうが、それもまあ伏線だ。


『私は、大丈夫だよ』


 階段の下から、アパートの二階を見上げる。手すりに寄りかかって携帯電話を耳に当てる亜子の姿がぼんやりわかる。


「実は、心配してまた亜子の家の前に来ちゃった。顔、見れないかな?」

『え?』


 亜子の影が身を乗り出した。ここから二階も見えづらいから、亜子の位置からもこちらはよく見えないだろう。


『下、降りるよ』


 電話の向こうからそう声が聞こえたと思えば、二階から階段を降りる音が聞こえてきた。こちらに向かってくる亜子の姿がいとおしくて、俺も亜子へと駆け寄り、思いのままに亜子を抱き締めた。


「あ、あの……」

「ごめん、でも、心配し過ぎて……安心したいから、もう少し確かめさせて」


 心配、という言葉を免罪符にして、亜子に触れる。柔らかくて温かくて、いい匂いがする。ぎゅ、と力を加えると、亜子の手が所在なげに宙に浮いてるのがわかる。いつか、亜子にもぎゅってしてもらえたら幸せなのにな。


「……悠人君こそ、何も無くて良かった」


 急に、亜子がそんな可愛いことを言うものだから、俺はびっくりして亜子の顔を覗き込む。暗いけど、これだけ近ければどんな顔をしてるかくらいわかる。亜子は少しばつの悪そうな顔をして、真っ直ぐ俺のことは見てくれない。でも、うれしい。


「そんなこと言ってもらえるなんて、うれしい」


 今は亜子の本心なんか二の次でも構わない。亜子の声が、俺の渇きを潤してくれれば、それでいい。


「……………………」


 亜子は、何も言わない。キスしたいところだったけど、やめといた。じっと結んだ口元から察するに、紘也のことを確かめたそうではあるが、亜子から今日のことを明かすようなことはするつもりは無いらしい。賢明な判断だと言える。ここで自爆するのは弱味を晒すのと同義だ。


「……紘也に、会ったよ」

「……!」


 俺の言葉に亜子は反射的に身を引いた。けれど、俺は亜子を離す気はなかった。


「まずは、亜子にはお礼を言うよ。俺のことまで心配してくれたんだね?」


 そう言いながら、亜子の頬に触れる。


「…………悠人君は、怒ってるでしょう」


 しばらくの沈黙のあと、亜子が口を開いた。頬に置いた俺の手を、はね除けるようなしぐさをする。


「……怒ってるよ、結構ね」


 払われた手で、亜子の手首を掴んだ。


「だって、俺より先に紘也を頼るのって、裏切られた気分だ。手紙の話、知ってるふりしながら紘也から聞いた」


 つい、手に力が入る。握り締めた手首が、ミシ、と軋むようだ。


「それが」


 顔を歪めながらも、亜子は手首のことは何も言わない。


「それが、答えになるんじゃないかな」

「っ!!」


 一瞬、自分でも訳がわからなくなった。気がつけば、ブロック塀に亜子を押し付けてた。


「答え、って、なに」


 聞きたくない。聞きたくない。聞きたくない。でも、俺は話を促さずにはいられない。否定の言葉がほしいから。


「信頼し合えない恋人なんて、破綻するだけでしょう」


 もうそれ以上言わせないために、くちびるで亜子の口をふさいだ。


「!」


 亜子は抵抗した。首を振ろうとしたり、腕を動かそうとしたり。でも、それを全て俺が力ずくで制した。何かを言おうとした亜子の開きかけた口に、舌を入れた。


「んんっ……」


 夢中でキスをした。息を止めてた亜子が苦しそうに息を吸おうとすれば、さらに深く口付ける。舌を絡ませ、唾液を交ぜる。


「……な、なに……を……」


 やっと顔を引くと、亜子は涙目になりながら、肩で荒く息をしている。


「聞きたくなかったから、ふさいだ」

「キスはしない、って……」

「だって、亜子に捨てられたくなかった」


 答えになってない答えで返す。情けなくても女々しくても、俺は亜子を繋ぎ止めておかなくてはならない。


「まだ二ヶ月残ってる。まだ、待ってよ」


 自然と涙が出た。それに亜子はぎょっとして、抵抗する力を弱めた。


「わかってる。これは、俺のしたことの罰だ。でも、どうしても償えないの?俺には死刑しか残されてないのかな?」

「死刑なんて……」


 そこまで言っているつもりは無いと言いたいのだろう。亜子はわかってない。俺が亜子を失うのは、死も同然だ。


「答えを、待ってくれないかな。半年の期限いっぱいまで……亜子の気に入らないところは全部直すよ。顔だって亜子の好みに整形してもいい。だから、お願い」


 涙は、止まらない。泣き落としは亜子には有効のようで、亜子は首を横に振ることはなかった。


「私は……悠人君のことが嫌いなわけじゃない」


 ぽつり、と亜子が言う。


「ただ、こわいの。悠人君が何を考えてるかわからないから……」


 どうしてだろう。こんな好きな女の子に、この気持ちが伝わらないなんて。


「俺は、亜子のことしか考えてないよ。亜子と恋人になりたい、亜子に触れたい、亜子にキスしたい」


 亜子の首筋に顔を埋める。こうすると、すごく安心する。俺の中が亜子で満たされるから。


「気持ち悪いって思われちゃうかも知れないけれど……でも、本当にそれだけ。亜子が俺に笑いかけてくれれば、全部報われる」


 このくだらない人生そのものが、報われる。


「………………うん、わかった。九月まで、答えは待つよ」


 亜子はおそるおそる頷いた。たぶんきっと、答えは覆らないと亜子は考えている。


「ありがとう、亜子……愛してる」


 でも、亜子は俺を見くびっているよ。二ヶ月。あと二ヶ月さえあれば、俺は全てのことをやりきれる。その時に、ほんとうの答えが出るだろう。


 その日は、フードの男の話を出して、改めて気を付けるようにと伝え、それから今度また手紙のことを詳しく聞くと約束した。亜子の中ではまだ俺が疑わしいかもしれないが、それはとりあえず置いといてもらうしかない。全てが整うまでには、まだ時間がかかる。

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