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どんな言葉を連ねれば

挿絵(By みてみん)


――彼女の話。








 最近、変だ。

 異変は携帯電話から始まった。非通知の電話番号から電話がかかってくるようになった。不気味だったけど用事があるのかも知れないしと思って電話を取ると、無言。それが二回三回となったところで非通知を着信拒否することにした。ところが知らない電話番号からの無言電話に切り替わり、数日に一回の頻度が徐々に一日一回になっていく。数回目かの電話で着信拒否をするけれど、また違う番号からの電話になってキリがなかった。最初は業者か何かの仕業だと思っていたけれど、途中からこれは私を狙っているものじゃないかと感じ始めた。だってワンギリでもなく、何度も何度もしつこいしそれが一ヶ月くらい続いて止む気配がしない。

 無言電話は、こちらが何を言っても答えないし、物音も立てない。一回だけ根気よく話しかけてみたり、返事を待ち続けてみたりしたことがあったけど、20分以上何も言わず、通話を切られることもなかった。電話をかけてくる人もずいぶん我慢強い人のようだ。 それ以来面倒なので無言電話だと思ったらすぐ切るようにしている。電話がかかってくるのは比較的夜が多いけれど、たまに昼間にもかかってくることがあった。一日一回がほとんど、たまに数回かかってくることもある。いずれにしても眠ってるような時間にはかかってこないから、電話を取った後にちょっと嫌な気持ちになるくらいで済んでいる。

 特に困ってるというつもりも無かったので誰にも相談はしてなかったけれど、マリちゃんに少し話すとそれはすぐ悠人君に筒抜けた。隠すつもりは無かったし、取り立てて話す必要が無かったので話題を出すのを忘れていただけだった。悠人君は大袈裟なくらいとても心配してくれたし、すぐに対処法を教えてくれた。登録外着信拒否という機能を使えば、電話帳に登録していない番号からの着信は履歴に残るだけになる。もう無言電話を取らなくていいというのは、結構解放された気分になった。


「ありがとう!すごく助かった」


 私は悠人君が教えてくれたことの効果の絶大さを率直に伝える。ここは湖の近くのレストラン。デート、として、悠人君が連れてきてくれたお店だ。あまり郊外に出たことの無い私は、電車に一時間乗るだけでこんな山の中に来れるとは思ってなかったし、見慣れない湖が綺麗で嬉しくなってしまった。こうやって連れられてみるものだ。


「良かった。でも、電話は止まないんだね?」


 頬杖をついた悠人君は、水の入ったコップを片手に私を見る。


「電話をまったく取らなくなったからか、回数は増えてるみたい。履歴は知らない電話番号からばかりだね」

「それもあんまりよくないな。電話番号変えると結構大事になるし……」

「取り敢えず平気。困ってないし」


 そう言って机に置いてあった携帯電話をカバンにしまった。


「でも、怖いね。どこか変なところに番号が流出したのかなって思ってたけど、亜子に執着してるみたい。ストーカーじゃないかな」

「…………」


 私は悠人君の言葉に相槌が打てなかった。


「……いや、わかるよ。お前が言うなって思ったんだよね?」

「……えーと……」


 さすが言わなくても察してくれる。でも肯定しづらくて、悠人君から視線を泳がせる。


「俺が亜子のそばに居られるのは今は公認なんだし、それもあと五ヶ月で終わるから」


 終わる、という言葉に、私はどきりとする。それは私が拒絶するか受け入れるか……そう、どちらにせよこの不可解な関係性は終わる。


「俺のことはストーカーじゃなくて……しもべとでも思ってて」

「そんな風にはとても……」


 さすがにそこまでないがしろには思えない。これからの期間は、悠人君のことを見つめ直すためにあるんだと思ってる。だから、あまり悪いままに考えてはいけないと、自分でもわかっていた。


「防衛策は考えなきゃ」

「え?」

「もし本当に亜子を狙ってたら大変だから」


 話がいつの間にか迷惑電話の方に戻ってた。


「でも、まさか。私、狙われるような理由ないし」


 たかが迷惑電話。そんな大層に考えてもらえるほど危険なんか感じない。


「その気も無いのに男をたぶらかしてるところあるよ、亜子は」

「いや、なんで」


 悠人君のことは全然意味がわからないけど、たぶらかす、なんて、もっと美人で色っぽい女の人に似合う言葉だ。少なくともこんな地味な女には使わない。


「本当に心配だから、何かあったら真っ先に言ってね?亜子は絶対に守るから」


 悠人君は何も照れることもなく、そんなことを言ってしまうんだ。




 毎日の送り迎えなんかも悠人君は提案してくれたけど、私は遠慮した。やっぱりそこまでしてもらうわけには申し訳ないと思ったから。その代わり夜遅くまでバイトを入れないようにきつく約束させられてしまった。

 五月は悠人君との約束を優先的にしていて、毎週末色んな所へ案内してもらった。新しくできた映画館で映画をはしごしたり、落語の寄席とか、横浜に薔薇を見に行ったり。どれもすごく楽しくて、新鮮な経験だった。それが悠人君を好きになる気持ちに繋がるのかはまだわからなかったけど、このままずっと過ごせたらきっと幸せなんだろうな、とさえ考えた。悠人君は本当に優しかったし、一緒に居れば退屈もしない。大切に扱ってくれることをイヤに思う女の子なんてきっといないし、私も例外じゃなかった。


 だけど、私はどこかで無言電話と悠人君を重ねて考えてしまう。悠人君は心配してくれたし的確な助言をくれた。だから根拠も証拠も無いのにこんな風に疑うなんて、ひどいと思う。でも、どうしても不信感が拭えない。あの人は、私を騙すことができる人だ。こんなことをしても、具体的に悠人君が得をするとは思えない。私が悠人君を頼りにしたとしてもそれが結果に繋がるとは限らないし、過去のことがある分、疑われてしまうリスクの方が高い。私の中でも疑問が残るから、決めつけられなかった。少し後ろめたい思いをしながら、私はただ経過を観察するしかなかった。




 六月に差し掛かったあたりで、レポートが重なりバイトも怠けていられないので、悠人君と会う頻度がまた減った。

 日常は気が付けば過ぎていく。それを惜しむかのように悠人君はメールをくれる。間宮さんの時のように気を使うことは無かったけれど、それでも返事はするようにした。ほとんど生存報告のようなもので、特に悠人君は無言電話のことを気にしていた。

 登録外着信拒否の設定をしてから無言電話を取ることは無かった。でも、変だと思うようなことはある。

 開けられた水道代の請求書がポストに入っていたことがあったり、さっき出した燃えるゴミがうちの分だけ忽然と消えてたり。

そんなことあり得るのかと疑問だし、もしかしたら何か間違いがあっただけかもしれない。悠人君の言う通りのストーカーを疑うのはまだ早い気がした。だから誰にも報告も相談もしなかった。

 けれど、六月の半ばも過ぎた頃、郵便受けに私宛の手紙が入ってた。真っ白な長3の封筒。差出人の名前も無ければ消印も無い。


『入野亜子サマ』


 無機質なワープロ文字。


『あまり無理をなさらぬよう、ご自愛下さいませ。消灯はせめて零時までに。』


 たった二行。でも、端的に自分の存在感を示してる。つまり、この人は私を見てる。夜、窓の灯りを確認してる。この手紙からはじめて私は自分がつけ狙われていると感じた。

 そうなると、私はどうしたらいいかわからなかった。お母さんに相談するべきかとは考えたけれど、無駄に心配差せてしまうよな気がする。すごく気味の悪い手紙だったけど、たった一通のことで他の人に言うのも気が引ける。だから結局私は誰にも言わなかった。

 二通目は比較的すぐに来た。一通目と同じ封筒に同じ宛名。


『お一人での寄り道は感心致しません。帰りが遅くなれば母上が心配します』


 また、短い文面。でも昨日私がバイト帰りにコーヒーショップに寄ってレポート書いていたことが見られてる。

 もうこれは間違いなくて、私は監視されている。視線なんか感じたことは無かっさたし、後を付けられてると思ったこともなかったけど、これは間違いない。たぶん、この手紙の差出人と、無言電話を掛けてきた人は同一人物だ。消印が無い手紙が郵便受けに入ってるということは、この人が直接手紙をここに投函していることになる。住所を知られてしまっているというのは怖かった。家の前で待ち伏せされたりしたら怖いし、お母さんを巻き込むことになるんじゃないかと思うともっと怖い。

 気を付けるといっても、もうこうなってくるとどうしようもない。一人で人気の無い道を歩くのは嫌だからなるべく大通りを選んで帰ったりとか、それくらいだった。

 手紙は定期的に投函されるようになった。郵便受けを気にするようになってから気付いたけれど、さっきまで入っていなかった手紙が30分後に郵便受けにあったことがある。すごく近いところで見張られているような気がして、ただ怖い。


『おはようございます、いつも朝が早いですね。今日一日が貴女に素晴らしいものになりますよう。』

『昨日はカレーでしたか?貴女のカレーをぜひ一度賞味したいものです。』

『貴女の家に、もう一つ防犯性の高い鍵をつけることを強くお薦めします。』

『たまに一緒にいる男は誰ですか?頭の悪そうな男で、貴女には相応しくありません。』


 手紙には、私の生活を知り尽くしてるかのようなことばかり書かれていた。ここまで来て、やっとストーカーだということを認め始めていた。何通目かの手紙が届いた時、私は耐えきれなくなって警察に相談することにした。もう一人じゃきっと解決できないから、大人に守って貰おうと思った。

 だけど、手紙の差出人を特定できなければ警察は動けないらしい。無言電話の話もしたけれど、掛かってくる頻度が減ってきているようなら様子を見ましょう、と言われてしまった。念のためパトロールは増やすようにするとは約束してくれたが、ほとんど頼ることが出来ないんだなと思い知らされた。

 お母さんには、なんとなく相談しづらかった。悠長かもしれないけれど、お母さんには困った顔や悲しい顔をさせたくない。

 自分一人で悩んで出した答えは、冬馬君に頼ることだった。


「なんだ、これ」


 冬馬君は、手紙を見た途端に顔を青くした。


「完全にストーカーじゃん」

「そう思う?やっぱり」

「むしろこれがストーカーじゃなきゃなんなんだよ」


 大学の共有スペースの人はまばらで、私たちはスペースの隅のテーブルに着いていた。


「こわ……警察には行ったのか?」

「犯人が特定できないと何もできないって言われた」


 机の上には、最初と二通目の手紙が開かれている。冬馬君にはこの二通しか見せていない。


「はあ?役に立たないな警察……じゃあ、悠人さんには?」


 怪訝な冬馬君に、私は首を縦に振った。


「言ったよ。なるべく家の周りを見てくれるって」


 嘘だ。

 手紙のことは言ってない。視線を手元の紙パックのお茶に落として、私はでたらめを続ける。


「それで冬馬君に頼みがあって……私の後をつけてほしいの」

「後を?」

「今日二人で帰るから、その後を、怪しい人がいないか」


 すごく図々しいことをお願いしてる自覚はある。冬馬君はうちとは違う方向に住んでるから尚更迷惑だろう。でも、こんなことを頼めるのは冬馬君しかいない。


「……別に構わないけど、入野が家に帰るまでを見届ければいいのか?」


 冬馬君は、さして迷惑そうにもせずに承諾してくれた。本当に助かる。


「ううん……悠人君が、帰るまで」


 つい二日前に届いた手紙には、悠人君の存在を認めている内容が書かれていた。もしこの手紙の差出人が私の周辺を見張っているのなら、悠人君のことを敵対視している。つまり、悠人君にまで危険は及んでる。だから、冬馬君に悠人君が帰るまでを見てもらった方が安心だし……万が一、悠人君があの手紙の差出人なら。もしそうなら、手紙が投函されてるのは深夜から朝にかけてが多い。その現場を、冬馬君がおさえることになる。


「ま、そっか。ストーカーなら、悠人さんに逆恨みしててもおかしくないしな」


 冬馬君は何の疑問もなく頷いてくれる。私の打算だらけの考えがすごく恥ずかしい気がしてくるし、悠人君にはすごく申し訳ないことをしている。私が悠人君のことを疑っていることを知ったら、悠人君はどう思うだろう。仮に今一緒にいる仲だけど、これから信頼関係を築けるものなのだろうか。

 とにかく、悠人君以外の人が捕まればいいだけ。そうなったらすべて話して謝って、わだかまりが少しは溶けていくだろう。


「……今日のこと、悠人君には言ってない」


 次の授業へ行くために席を立ったところで、私は冬馬君に忠告した。


「え?なんで?」

「尾行されてる、って気を張らない方が自然に見えるから」


 全部、嘘だ。悠人君には何も言ってないし、冬馬君を騙すようにして私は尾行をさせようとしてる。


「もし、悠人君に見つかったら……私に電話してもらって。私が全部考えてしたことだって言って」


 冬馬君が悪く思われるようなことだけは無いように予防線を張っておいても、その返事はさして気にしてなさそうだった。

なんてことだろう。人を疑うということが、こんなに惨めなものだと、私は今はじめて知った。




 その日、私と悠人君は大学から私の家まで、いつも通りに一緒に帰った。


「……どうしたの?」

「え?」


 いきなり尋ねられて、私は間抜けな声を出してしまった。


「今日はなんだか、元気無い?」


 地元の駅に着いたところで、私の様子に気付かれてしまった。冬馬君はこの駅で私たちを待ち伏せて、尾行を始めているはずだ。


「ごめん、そんなことはないけど……」


 なるべく平静でいようとはするけど、私は隠し事とかが本当にできない性質のようだ。


「そう?体調悪いなら言ってね」


 悠人君は、優しすぎるほど優しい。ひどいことはいくつもされたけど、それは全部私の周りを取り囲む包囲網。彼の包囲網に入ってしまえば、とびきり大切にしてもらえる。これは、喜ぶべきことなのだろうか。わからない。ただ、私はこの人のことを信じることができていないし、今騙している。


「……私は、いやな人間だ」


 良心がたまらなくなってきて、懺悔するようにぽつりとつぶやいた。


「いやな人間?」

「うん、悠人君に嫌われるくらい、ダメな人」


 駅を出て、雑踏に紛れる。この時間、商店街はごった返している。冬馬君が私たちを見失わなければいいけれど。


「ありえないな」


 悠人君はきっぱりと言い切った。


「亜子なら、意地悪をされてもワガママを言っても、何も構わない。そんなところごと、愛せるよ」


 どうして、この人はこんなことを言えてしまうんだろう。いつまで経っても慣れなくて、どんな顔をしたらいいのかわからない。とりあえず、なんでもないような表情を装った。




 家までは、駅から十五分ほど歩いたところにある。バスだと中途半端だし、自転車を使わなくても歩ける距離なので、私はずっと歩くようにしている。商店街を通り抜け、国道を横切って十分弱。国道を過ぎた辺りで人通りはずっと減って、道も暗くなる。

 かと言っても、まわりは住宅地で、この時間なら私たち以外の人が歩いてるのもちらほら見かける。だから後ろを歩く人がいても普通だし、人影が少し見えたくらいじゃ不自然でもない。

 尾行されても気付きにくいので、第三者の視点で不審な動きをしている人がいないか見てもらうのが一番だと思った。私自身は怪しい人に追われていた自覚は無かったけれど、でもあの手紙を見る限りは私を見張っている人が絶対にいるはずだ。


「…………」


 会話が途切れた瞬間、ちらり、と悠人君は後ろを振り返った。その動作に、私はドキッとする。まさか、冬馬君を見つけたんじゃないかって。


「……どうしたの?」

「いや……なんでも」


 確かめずにはいられなかった私の問いに、悠人君は首を横に振った。

 私の家まではさほど時間はかからなかった。七月を少し過ぎた頃で、日が長いからまだ空は夕方の名残を残している。


「じゃあ、ここで」


 いつもの、アパートの階段下で私たちは分かれた。手を振る悠人君に、余計なことは何も言わなかった。




 家には、お母さんが先に帰っていた。今日の夕飯は青椒肉絲と、煮物と、お味噌汁。もうすでに料理を終えて私の帰りを待っていたお母さんは、さっそくお椀やお皿に料理をよそっていく。

 悠人君と並んで帰ってきた時より、家にいる今の方がよっぽど動揺してる。もし、電話がかかってきたら、と思うと、いてもたってもいられなくなる。なるべく落ち着くように、いつものようにお母さんを手伝う。テーブルの上を片付けて布巾で拭いて、お箸とコップを置く。ご飯を食べている間も、私はお母さんに生返事しかしてなかったと思う。テーブルの隅に置いた携帯電話に時折目をやり、ご飯を飲み込む。

 私が家に帰ってきて、どれくらい時間が経った頃だろう。短くないけれど、でもまだご飯も食べ終わらないうちだった。電話が震えた。


「………………」


 おそるおそる携帯電話を手に取る。間宮、と、ディスプレイには出ていた。冬馬君の尾行が見つかったとは限らない。だって、だとすれば時間が遅すぎる。でも、何の用も無いのなら、電話するには今さっき分かれたばかりだ。


「電話、出てくる」


 私はまだご飯を残したまま、席を立ち玄関から家を出た。あの部屋じゃ、どこで電話しててもお母さんに筒抜けてしまう。



「はい」


 電話を取るときの声を作る。今、私が動揺してることは悟られたくない。


『電話、出たね』


 悠人君の声は、どこか冷え冷えとしている。そう感じてしまうのは、私の後ろめたさのせいだろうか。


「……悠人君は、家に着いた?」


 なんて話をすればいいのかわからなくて、変な話を切り出してしまった。でも、悠人君はいぶかしむこともなく、受け答える。


『いや……尾行されてたみたいでね。撒いてきた』


 淡々と言う。まるで、私がそれを聞いても驚かないことを知ってるように。だとしたら、その通りだ。私は演技もできないし、白々しく驚いたふりもできない。


「尾行……?」

『男に追われてた。亜子には何も無かったかな、って心配になった』


 私が精一杯知らないふりをしてるのも構わず悠人君は話を続ける。


「私は、大丈夫だよ」

『本当?』

「……うん」


 心配そうに尋ね返す悠人君に、私は頷く。

 もし、この電話が、冬馬君のことを見つけた上でのものだとしたら、どうしてもっと簡単に本題に入らないのだろう。もしかしたら、悠人君は冬馬君に会っていないのだろうか。


『実は、心配してまた亜子の家の前に来ちゃった。顔、見れないかな?』

「え?」


 私は二階の廊下から身を乗り出したけど、アパート前は暗くてあまりよく見えない。


「下、降りるよ」


 階段を下ると、木の下に悠人君がいた。呼び掛けようとする前に、遮られた。気付けば悠人君の腕の中にいた。


「あ、あの……」

「ごめん、でも、心配し過ぎて……安心したいから、もう少し確かめさせて」


 悠人君の腕に更に力がこもった。恋人なら抱き締め返すのだろうけど、私はどうするのが正しいんだろう。それに、よくわからなくなってきた。本当に、私を心配して来てくれたのだろうか。そもそも、悠人君を疑った私が浅い考えだったのだろうか。


「……悠人君こそ、何も無くて良かった」


 私に似合わない、殊勝な台詞。それを聞いて、悠人君は私を放す。


「そんなこと言ってもらえるなんて、うれしい」


 私の顔を覗きこんで、悠人君がはにかむ。ああ、私は本当にいやな人間だ。悠人君が、真っ直ぐ見れない。


「……………………」


 でも、私から折れてはいけないことはわかっていた。どんなに後ろめたくて懺悔したくても、私から今日のことを言ってはいけない。うやむやのまま悠人君に謝ってしまえば、私の疑いを拭いさることは不可能になる。せめて、悠人君を信じ抜くための根拠が無くては。


「……紘也に、会ったよ」

「……!」


 沈黙の後に溢された決定的な悠人君の言葉に、体が跳ねた。けれど、悠人君の腕の力は緩まない。


「まずは、亜子にはお礼を言うよ。俺のことまで心配してくれたんだね?」


 やっぱり、冬馬君を見つけたか来たんだ。それに、悠人君は気付いてる。私の、疑いの目に。だって、私の頬に触れる手がこわい。


「…………悠人君は、怒ってるでしょう」


 私は、決意した。許しを乞うなんてしない。言いたいことは、言う。頬に触れている悠人君の手を払った。


「……怒ってるよ、結構ね」


 すぐに手首を掴み返された。


「だって、俺より先に紘也を頼るのって、裏切られた気分だ。手紙の話、知ってるふりしながら紘也から聞いた」


 掴まれた左手首に悠人君の指が食い込む。


「それが」


 痛い。痣になるかもしれないな、と思いながら、会話を途切ることはしなかった。


「それが、答えになるんじゃないかな」

「っ!!」


 言った、と思うと、背中が打ち付けられた。反動で後頭部もぶつける。一瞬のことでよくわからなかったけど、今はジリジリ背中が痛くて、息苦しい。


「答え、って、なに」


 気が付くと、悠人君がものすごい顔で私を見ている。いつもの冷静さは無く、歪んだ唇は青ざめている。でも、言わなくちゃいけない。


「信頼し合えない恋人なんて、破綻するだけでしょう」


 一瞬、目の前が真っ暗になる。


「!」


 くちびるが塞がれてると気付いて、私は抵抗した。それは敵わず、悠人君は更に強い力で押さえつけられる。こんなの、いやだ。叫ぼうとした口に蠢く何かが差し込まれる。舌だ。悠人君の舌が私の中をかき混ぜる。


「んんっ……」


 もう、よくわからない。舌が舌に絡め取られて、口の中が唾だらけだ。息の仕方も忘れてしまって視界が潤んでぼやけた頃に、やっと離してもらった。


「……な、なに……を……」


そう声を出すのが私のやっとだった。


「聞きたくなかったから、ふさいだ」


 息を乱した悠人君は、思い詰めた顔をしている。


「キスはしない、って……」


 最初、そう約束したはず。でも、私の言葉は悠人君には伝わらなかった。


「だって、亜子に捨てられたくなかった」


 そんな表情でそんな事を言われてしまえは、私も強く言えなくなってしまう。


「まだ二ヶ月残ってる。まだ、待ってよ」


 私を真っ直ぐ見る悠人君の瞳から、涙がこぼれた。私のたった一言で、そんなに傷付くとは思ってなかった。私の方がうろたえてしまう。


「わかってる。これは、俺のしたことの罰だ。でも、どうしても償えないの?俺には死刑しか残されてないのかな?」

「死刑なんて……」


 私は悠人君に死ねと言ったつもりはない。それに、今の答えだって簡単に出したものじゃないから、そう簡単には覆らない。


「答えを、待ってくれないかな。半年の期限いっぱいまで……亜子の気に入らないところは全部直すよ。顔だって亜子の好みに整形してもいい。だから、お願い」


 すがりつくように言われてしまった。悠人君の涙にうろたえてる私は、拒絶を示すことができない。


「私は……悠人君のことが嫌いなわけじゃない」


 中学生の時のあの怒りは今や風化しつつある。滅茶苦茶なことをする悠人君の中にも、弱さを見つけてしまったからかもしれない。多少なりとも情が湧いた。でも、それだけじゃ解決はしない。


「ただ、こわいの。悠人君が何を考えてるかわからないから……」


 包み隠さず、本音を伝えた。すると、悠人君は寂しそうに微笑んだ。


「俺は、亜子のことしか考えてないよ。亜子と恋人になりたい、亜子に触れたい、亜子にキスしたい」


 悠人君は私を抱き締めて、私の首筋に顔を埋めた。この人は今私を口説いているというのに、子供のようなことをする。


「気持ち悪いって思われちゃうかも知れないけれど……でも、本当にそれだけ。亜子が俺に笑いかけてくれれば、全部報われる」

「…………………………」


 嘘をついているとは、思っていない。たぶん、悠人君の本当の気持ちを言ってくれているんだろう。でも、喜べないのも事実だ。きっと、どんな言葉を並べて貰っても、私は言葉の裏にある意図を探そうとしてしまう。この人を、一生好きになんてなれないんだ。残酷な答えだ。でも、もう私にだってどうにもならない。


「うん、わかった。九月まで、答えは待つよ」


 残酷な答えだと決まっているけれど、それでも二ヶ月必要だと言うならば従おう。


「ありがとう、亜子……愛してる」


 その優しい声にも、私は顔を上げられなかった。




「フードを被った不審な男を見たのは本当なんだ。紘也じゃなくてね。手紙のことも、今度もっとゆっくり聞くよ。亜子に何かあったら大変だ」


 そう言って、悠人君はその日帰っていった。

 こわかった。掴まれた左手首がまだ痛い。二ヶ月後に不安を覚えた。本当の答えが出たとき、彼はどうなるんだろうか。

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