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死を待つばかりの僕にやがて朝をもたらす

ぬるくエロ描写あり

挿絵(By みてみん)


――昔の彼の話。








本籍 東京都足立区綾瀬

氏名 沢館悠人

平成三拾五年四月五日出生届出受理

父親 不明

母親 渡瀬千里

長男


 僕が小学生三年生の時に取り寄せた戸籍の内容だ。不明。まるでぽっかりあいた黒い穴だ。不明。

 世界はわからないことだらけだった。どうして僕にはお父さんがいないのだろう。どうして暖かいご飯がうちにはないんだろう。どうして僕は知らない男のひとに殴られなくちゃいけないのだろう。答えは誰も教えてくれない。ただ、ひとりでに夜はやってくる。




 お母さんが変な声を出している。お絵描きをしていたら、見たままを描きなさい、とお母さんは服を脱いだ。


「ユウ……ユウッ……!」


 苦しそうにしながら、僕の名前を読んでる。お母さんは息を荒くしながら、裸の男のひとにすがりつく。


「はっ……とんだ変態だなっ……ガキにセックス見せると興奮すんのか?」


 僕にはわからない。

 画用紙には、黒いクレヨンをぐちゃぐちゃに擦り付けた。




 お母さんはよく僕のご飯を忘れる。お腹が減ったと言っても、あとでね、とそれきりの時が多かった。今思えば、育児放棄というより、本気で忘れてしまう人だったんだろう。お腹が減るのは、なんとも言えず惨めだ。満たされないものを、新聞紙を詰め込んでやり過ごそうとしたことすらある。読み書きより、僕は食べ物の買い方を先に覚えた。

 うちには知らない人間がよく出入りした。それもほぼ男の人だった。お母さんの恋人と言うべきか、取引相手と言うべきか、今でもわからない。男の人はいつも同じ人ではなかった。重複していたこともある。彼らはお母さんと裸で抱き合って、テレビを見て、タバコを吸って、そして帰っていく。僕のことを気に留める人はそんなにいなかった。

 だけど、たまに僕に話しかけてくる人がいる。ニコニコしながら、何歳かとか、なんの食べ物が好きとか、そんな話をしてくる。僕はどうしゃべったらいいかわからなくて、上手く答えられない。そうすると、すごい力で殴ってくる。蹴られて動けないこともある。一発で済む人もいた。それだけで済まない人もいた。お母さんは、僕への暴力だけは許さなかった。男の人が僕を痛めつけると激怒した。僕を庇ったお母さんが男の人へ凄むと、男の人は大体引き下がった。それでもお母さんから隠れて僕を殴るやつもいた。「チクったらあいつも殺す」と言われれば、僕は黙って殴られるしかなかった。お母さんが殺されないように、痛くて怖くておそろしいその時間を、じっと耐えるしかなかった。


 暗がりで神様に問う。

 どうして毎日ひもじい思いをしなくてはならないのでしょうか。どうして毎日こわい思いをしなくてはならないのでしょうか。どうしてこんな思いをしなければならないのでしょうか?

 ある日、神様が答えた。

『それはね……仕方の無いことなんだよ。そう決まっているものなんだ。不運であるなら、不運であることをあきらめるしかないんだよ』

 自然と湧き上がったその答えは、幼い僕が心の整理をつけるために作りだしたものだった。けれども、まるで黙示のように僕の心に縫いとめられた。

 僕は単に不運だったんだ。お父さんがいないのも、いつもお腹が空いているのも、知らない人に殴られるのも、運が無かっただけ。ただそれだけ。だとすれば、どうしようもない。僕は幸運な人を羨みながら、空腹と痛みに耐えるしかない。不公平だ、ずるい、そんなの許されるはずがない。何を恨めばいいんだ、不幸な人間はどうやって生きていけばいいんだ!


 ほどなくして、隠れて僕を殴ってたやつは消えた。お母さんに僕への暴力が見つかり、そののちに姿を見せなくなった。殴られていた僕を泣いて庇ってくれたお母さんを、初めて見た。けれど、そんなことはもうどうでもよかった。僕はもう悟っていた。僕は恵まれない人間で、不幸で、不運である。仕方のないことなんだ。


 大きくなるにつれて、僕は学んだ。頭は悪くなかったし、器量も良かった。人に気に入られることは、僕には容易いことだった。どうやら僕は、家の外では幸運な人だったらしい。段々と、僕は空腹や痛みを回避できるようになった。それでも、今日もテレビで不運を受け入れるしかなかった人が嘆いてる。虐げられて、傷付き、死んでしまう人々。彼らの不幸は周知されているというのに、世界は平気な顔をして巡っていく。

 次第に僕は、こういうものなんだとわかるようになった。人間は、自分に関係ないことは見ないふりや聞こえないふりをしてやりすごし、あるいは遠巻きに同情を寄せるだけ。そこには、善も悪もない。僕は、全てを受け入れた。不運な者は淘汰され、幸運な者だけが残る、シンプルなシステム。醜くて歪んだクソみたいな世界。


 中学に上がるくらいになると、僕は毎日にうんざりしていた。何の希望も持てない毎日を、本を読んだり音楽を聴いてやり過ごすしかなかった。端的に言えば、僕は死にたかった。システムに淘汰されかかっていた。

 そして、入野亜子を見つける。

 クラスの中でも亜子は地味で目立たない存在だった。見た目は華美でも派手でもない。制服を着崩すこともなく、スカートを膝丈に着て、シャツのボタンは上まで止まってる。運動が苦手で、勉強が特別できるわけでもない。秀でたものを持っているわけでもなく、大人しくて声も小さい。ただ、とても心優しい子だった。

 最初は、違和感くらいだった。彼女は、クラスメイトと一緒に他人を笑ったりしない。そればかりか、まるで自分が傷付いたかのように悲しんでいる。それから、僕は入野亜子から目を離せなくなった。彼女が何を見て何を思うのか、僕は知りたくなってしまった。そして知るたびに、僕の心は動かされる。入野亜子は、僕の知らない存在だった。こんなに清らかで、温かくて、可愛らしい存在は、僕の世界にはなかったものだ。


 恋をしている。

 不思議な感覚だ。笑ってしまうほど浮かれてる。歪んだ視界が、拓けていくようだった。日差しのまばゆさとか、風の匂いとか、ヘッドフォンからのポール・マッカートニーの声とか、鮮明に僕まで届く。亜子と、全てを共有したかった。それが、僕の生きる意味だと確信した。


 自室のドアが叩かれる。いつも母さんはノックなんてせずに呼び掛けてくるのに、僕は迂闊にも鍵を開けた。

 腕が伸びてきて、手首を掴まれる。


「ほー、こりゃかわいい顔だ。似てるぜ!」


 知らない男だ。現在人が来ていたなんて知らなかった。こんな風に関わられるのは今まで無かったことで、どうしたらいいかわからない。そもそも、僕に何の用があると言うのか。


「当たり前でしょ!私の息子よ!ほらあ、早くう!」


 母さんの声だ。呂律がまわっていない。僕は為す術もなくリビングに連れていかれた。


「何の用?」


 母さんに尋ねてみる。幼い頃から度々セックスを見せ付けられることはあった。今も昔も、最悪な気分になる。誰が好き好んであんなおぞましいものを見なければならないのか。


「ね、ゆう、しようよ。あんた、もう勃つでしょ?」


 ぺたり、と胸板に触れられる。目の前のこの女の言っている意味が、よく飲み込めなかった。


「んふ……かわいい!」


 体は、動かなかった。動けないようにされていた。

 胃液が逆流するような感覚を抑え、僕はされるがままになった。早く終わればいい。汚らわしく、屈辱的で、最低な行為。けれど、誰かが囁く。仕方がないことなんだよ、と。恨むなら不幸を恨め、と。そいつを殺してやりたかった。視界も、記憶も、感覚も、バラバラになってちぎれて、ぽっかりあいた暗い穴。闇。暗転。




 母さんのことを、改めてどうと思ったことはない。嫌いではなかった。生かされてるとは感じていた。

 事実上の母子家庭であった。母親が婚姻関係を結んだ男は多くいたらしいが、入れ替わり立ち替わりのあの中のどれが義理の父親だったかは知らない。名字が変わった事実すら母親から知らされたことは無く、小学校や中学校の入学のタイミングで自分の名字が違うことに気付くほどだった。

 母子家庭であるにも関わらず、経済力は低くなかった。住まいは決まってセキュリティの良いマンションだった。どこから金が入ってくるのかは知らされることはなかったが、母親は娼婦だったのではないかと思う。それも、高給の。母さんの付き合いがある人間は皆、一般人ではなかった。金の巡りも、生活態度も、性格も。世間には知らされないコミュニティや蛇の道がある。僕は、深く立ち入ることはしなかった。

 暮らしは、知らない男の出入りのことを除けば、さほど通常の母子家庭とはかけ離れてはいないと思う。母親の手料理などは食べた覚えがなかったが、母親らしいことをしてこなかった訳ではない。一緒に風呂に入ったことや、ランドセルを買った日のこと、変な顔をして笑わせられたこと。よく鼻歌を歌い、その歌声が耳に残った。やさしくも切なく、甘いメロディ。

 一度だけ聞いたことがある。海辺の町で生まれたけれど何もない故郷に嫌気が差したのよ、と。故郷がどんなところだったのか、どうやって今の生活に身を落としたのか、僕の出生とか。それ以上は何も語らなかった。ましてや、今彼女が幸福であるかなど、僕を愛しているかなど、聞けるはずがなかった。だけど、彼女は川を見れば、海はあっちね、と確かめる。川はきらきらと光って、ゆっくりと行ってしまうのだ。拓けた海を目指して。


 僕はもう、川を見つめる母さんの横顔も思い出せない。鼻唄を歌う母さんも。笑ってしまう変な顔も、僕を泣いて庇う母さんも。

 黒。塗り潰された黒。僕に、母親なんか、いなかった。




 朝早く、家を出た。いつにも増して寒い朝で、鼻の先が冷えてツンとする。散歩をして時間を潰した。いつも猫を見かける通りに行ってみたけど、朝にはいないようだった。マンションの近くを流れる、用水路のような小さな川の畔に腰かけた。あっという間に登校の時間になった。

 玄関の前で、入野亜子を見かけた。この時間に登校してるとは知らなかった。半ばねぼけてるのか、意識が覚醒していないようだった。

 不思議だ。彼女を前にすると、凍った体がほどかれていく。彼女を中心として、世界が揺らぐ。僕のような汚らしい生き物は、許されていいはずがない。でも、でも、手を伸ばしたかった。彼女の世界に触れてみたかった。


「……おはよう」


 下駄箱の前、並んだタイミングで声を振り絞る。一年近く一緒のクラスだというのに、あいさつですら初めてだった。


「!……」


 亜子は僕を見て、少しだけ動きを止める。内向的な彼女のことだから、よく知りもしないクラスメイトに声を掛けられれば驚くだろう。立ち去られてしまうかもしれない。きっと僕は、ひどい顔をしていただろうから。

 一瞬が、長く感じられた。審判を待つような気持ちだ。


「……おはよう、今屋君」


 おずおずと、亜子はあいさつを返してくれた。彼女が呼んだ僕の名前は、悪夢ごと止まった時間を溶かしてしまった。




 それから、僕の亜子への執着は加速した。もう亜子を手に入れるつもりしかなかった。

 慎重に間合いを計っていれば、気が付けば彼女はクラスから乖離した存在となっていた。詳しくは知らない。しかし、話を聞けば彼女は友人とする者を庇った故だと言う。どうしてか、僕にはわからない。なぜわざわざ亜子は他人のために不運を選んだのだろう。

 でも、これは好機だと思った。少しずつ少しずつ、亜子へとにじり寄った。傷付き弱った亜子を、優しく慰めてあげればいい。守ってあげるよと囁けば、きっと彼女は僕を選ぶだろう。そうすればハッピーエンドだ。

 しかし、亜子は僕が思っていたよりもずっと強かった。折れることなく、一人で耐えている。すぐそばにいる僕にも弱みを見せてはくれなかった。毅然と、凛と、彼女は不運と戦っていた。




 放課後の非常階段。余計な人目も無く、僕らは並んで座っていた。


「……わかってなくて、よかったんだよ。これからも、わかってなくていい」


 うずくまった亜子が、ぼろぼろのはずの亜子が、まだ強がっている。僕が差し出した手を払いのけて、まだ一人で立ち上がろうとする。


「どうして、そんなことを言えるの?」


 僕は何度だって亜子を不幸にした。傷付けて傷付けて、こんな下らない世界で亜子の味方は僕だけだって、何度も知らしめた。神様は言った。『不運であるなら、不運であることをあきらめるしかないんだよ』。だから、不条理も不平等も受け入れて、聞きたくないことには耳を塞いで、見たくないものには目を瞑ろう。手をつないで、寄り添って、二人でこのままやり過ごそう。


「でも、あきらめたくない。

こわくても、みじめでも、私が立ち向かわなくちゃ」


 何度だって絶望したし、何度だって嘆いた。味のしない無機質を噛んで空腹を誤魔化すたびに、床に踏みつけられて肉が裂けるかと思うたびに、醜悪な痴態を演じられるたびに、鈍感で幸運な隣人を見せ付けられるたびに。どうして、どうして、どうしてって。

 全部全部、仕方がないことだ。誰も助けてはくれないし、そこには善も悪も無い。こわいならば怯えて、みじめなら震えているしかない。だってそうだろう?不運も、不幸も、どうしようもない。あきらめるしかないんだよ。


 僕は、暗がりで問い直す。

 どうしてこんな思いをしなければならないのでしょうか?


 仕方がないことなんて、ない。あきらめることもない。恐れながら、挫けながら、何度だって戦うんだ。

 だって、僕たちが立ち向かわなくては。


 僕はきっと、この人に会うために、あのひどい過去を生き抜いたんだ。戦うことを知るために、僕たちは出会った。神様の言葉は、書き換えられた。

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