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ちいさな光

挿絵(By みてみん)


――彼女の話。








 心から、今屋君はすごいな、と思う。昨日の私の暴言は、決して許されるものじゃないと思う。だから、謝らないままではいけないと思って、改めてメールをすると今屋君は全く気にしてないようだった。本当に気にしてないのか、それとも私への気遣いかはわからないけど、むしろ私の方が動揺しているみたいだ。昨日まで努めて冷たくしていた人に、急に普通になるというのもなんだか変で、どんな顔をしていればわからない。

 でも、今屋君だから、という理由で避けたりするのは止めようとは決めていた。前みたいに普通に過ごしていれば今屋君は普通なんだから。そこから私が今屋君のことが好きになるイメージは湧かなかったけど、これからのことはこれからの私に任せよう。今何を考えていても何も変わらないから。


 大学が始まったので以前のようにサークルのついでで今屋君と会うようになった。取っている授業が変わったので、去年と同じとはいかなかった。週二回だったのが週一回。大学の校門前から家に帰るまで。唯一時間の合うこの火曜の五限終わりも、後期になれば五限がなくなる。それを惜しむように今屋君は欠かさず会いに来てくれた。私たちは以前と変わらないまでになって、それ以上でもそれ以下でもなかった。今屋君は学校だけじゃなくて他の日も会おうと言ってくれるから、来月のバイトのシフトを少しだけ減らすことにした。半年間の期限を設けて場合によれば私のことを諦めるとまで条件に出した今屋君に、会わないという選択肢は気が引けた。

 そうやって五月の約束が増えていく四月の終わり、今屋君の提案でマリちゃんと冬馬君を交えてごはんに行くことになった。この面々が揃うのは不思議な気もするけれど、マリちゃんは私達をずっと応援してくれていたらしいし、今屋君と冬馬君は意外と仲が良いらしいから、この二人を共通の友人と言っても間違えでは無さそうだった。

 お店は例のもんじゃ焼き。いつもより広めのテーブルを案内してもらって、私と今屋君で並び、マリちゃんと冬馬君で並んで座る。


「私お酒飲む!」


 メニューを開くなりマリちゃんが宣言した。


「え、飲むの?」

「先週誕生日だったから、未成年じゃないよ」


 意外そうな冬馬君に、マリちゃんはピースして答える。私は誕生日を知っていたし、もう何度かお酒も飲んでるという話をちょうど今日したばかりだ。


「俺も飲もっかな」


 そこに便乗したのは今屋君だった。


「えっ悠人さんも?」

「たまにはね」


 冬馬君も今屋君を下の名前で呼ぶんだ、とも思ったが、今屋君はこの前の誕生日で21才になってるんだからお酒を飲んでもおかしくない。むしろよく飲んでそうだ。おばちゃんが注文を取りにくると、口々にドリンクを頼む。


「私はカシオレお願いします!」

「俺は烏龍茶で」

「あ、じゃあ」

「ビール2つで」


 冬馬君の烏龍茶に続こうかと思ったが、今屋君の声にかき消されてしまった。


「……えっ?」

「亜子も飲もうよ」


 ドリンクに続いて冬馬君のおすすめのお好み焼きを注文しているのをよそにして、私は今屋君を見た。それは確かに私も今屋君と同い年だし、お母さんに勧められて家でお酒を飲んだこともあるけど、どうして今屋君は私にお酒を飲ませたいんだろう。


「……飲みたくないわけではないけど、でも」

「じゃ、飲もう?亜子の分まで頼んじゃったし」


 渋々お酒への興味を認めると、今屋君はにっこりと微笑んだ。美味しいかどうかは正直わからないけど、酔うとふわふわして楽しくなるから嫌いじゃない。


「でも、いつの間に間宮さんと冬馬は仲良くなったんですか?ビックリしました」


 注文が終わって話を切り出したのはマリちゃんだった。


「それは紘也から声がかかってね、あの映画の時に」


 それは私も初めて聞いた。映画の時は二人ともちょっと険悪というかよそよそしかったのに、男の人同士では打ち解けるのもそんなに時間はいらないのだろうか。


「どしてまた急に?」

「それは紘也と俺が」

「わー!!」


 マリちゃんの質問に答えようとする今屋君の声をかき消すように冬馬君は大きな声を出した。


「あの、悠人さん、それは、その」


 焦りながら冬馬君は身振り手振り今屋君へ何かを伝えようとしてる。その間チラリと私を見るものだから、なんとなくわかってしまった。


「ははーん」


 マリちゃんも察しがついたようだけで、私に目配せをする。冬馬君は、私には何も言わないつもりらしい。それでいいと思うし、なんだか冬馬君には申し訳ないような気もしてくるけど、とりあえず今は何も知らないふりをしておくのが正解な気がする。


「大丈夫大丈夫、何も言わない」

「ほ、本当に、お願いします!」


 今屋君が苦笑しながら頷くと、冬馬君は念押しした。


「でも、本当……二人が付き合ってたって聞いて、ビックリしました。入野、そんな素振り見せなかったから」


 冬馬君が話し始めた頃、注文していた海鮮ミックス玉とスペシャル豚玉がテーブルにやってきた。冬馬君と私でそれぞれ手分けして焼く準備に取りかかる。


「いや、ごめん……」


 冬馬君の気持ちを知っていたら黙っているべきではなかったとは反省しているけれど、でもやっぱりあの状況では付き合ってるという説明は適切でなかった気がする。


「ケンカして俺のとこ来るなんて、結構悪どいぞ」

「うっ……ごめん」


 冬馬君の言葉がグッサリ胸に刺さる。


「おかげさまで仲直りしたけどね」


 あの時あんなに怒っていたのに、今の今屋君はもう特別気にしてなさそうだった。


「何々?何の話?」


 カシスオレンジを片手に、マリちゃんが会話に割り込んでくる。そう言えば後日あの日のことを聞かれても曖昧にしか答えていないから、冬馬君とこのお店に来た時のことまでマリちゃんに話していない。


「えーとそれは……今屋君の誕生日の日、色々あって……」


 どう説明したものか悩む。今屋君は冬馬君になんて言ったのだろう。


「………………?」

「……、…………今屋君、て?」


 話の途中で、マリちゃんと冬馬君がキョトンとする。


「あ、」


 そして気付いた。そうか、つい呼び方が『今屋君』に戻ってしまっていたけど、『間宮さん』なんだった。


「俺のことだよ」

「???」


 今屋君が手を上げる。するとますます二人は訳がわからなくなったようだ。


「うちの母親が再婚する前は『今屋』っていう名字でね。亜子とは実は中学の頃の同級生で、旧知の仲だったというわけ」


 要点をかいつまんで今屋君がほとんど説明してくれた。


「あ、そうか。亜子と間宮さんは同学年になるもんね。でもなんで急に昔の名字を呼び出したの?いや……そもそも痴漢撃退で初めて会ったんだよね!?」


 私が一年浪人していたことを知ってるマリちゃんは合点がいったようだが、突然の変化について私を尋ねる。それには色々深い訳があるけれど、話がこんがらがらないよう説明するのは難しそうだ。


「えっと……間宮さんが今屋君だって気付いたのが最近で」

「?一目見てわからないもんか?」


 案の定、冬馬君に突っ込まれた。それは無意識のうちに私が今屋君の顔を忘れようとしていたことも理由の一つでもあるけど、それをまた突っ込まれてもややこしいことになる。


「中学生の頃とは雰囲気が変わってて……」

「会わなかった四年間でイメチェンしたからね、俺」


 なんて言ったらいいものか言葉を探していると、今屋君が捕捉してくれる。


「でも、間宮さんは入野を見て入野って気付いたんですよね?」

「ああ、それはもちろん」


 更なる冬馬君の質問に、今屋君は笑顔で答えた。


「ずっとずっと好きだった子だから……すぐに亜子だってわかったよ」


 何の照れも無く今屋君は言ってのける。私はスルーすることにして、目の前のお好み焼きの焼き加減を見ることにした。


「え、じゃあ何で間宮先輩は亜子に言わなかったんですか?元同級生だって」

「言わなかった。これは俺のエゴでね」


 私抜きでも会話は進むし、話の仕方はもう今屋君に任せる気でいる。


「中学生の頃、亜子にはフラれてるんだ。嫌われてすらいた」

「嫌われてる……って、間宮さんが亜子に?」

「そう。中学生の頃の俺は傲慢で思慮に欠けてた。その為に傷付けた人もいるし、それは亜子にも及んだ」


 お好み焼きが焼けるのを待つ間、私は慣れないビールを飲む。今屋君がお酒として私の分まで頼んでくれたものだけど、もうちょっとマリちゃんみたいに甘いものにしてもらえばよかった。ビールは苦い。


「あの頃の俺は救いようが無くバカで、それに気付いたのは亜子のおかげだった。でも、もう遅かった。亜子は決して俺には振り向いてくれない。でも好きだった、ずっとずっと」


 冬馬君が見ていた方のお好み焼きがほったらかしのままだ。私は二枚とも裏返す準備をする。


「だから、亜子に偶然再会した時、運命だと思った。でも、『今屋』では過去を繰り返すだけ……それなら、『間宮』としてなら受け入れて貰えるんじゃないかと考えた。とても浅はかな考え方ではあったけど……亜子は俺の事を『間宮さん』と呼ぶようになった」


 マリちゃんも冬馬君も、まるで物語でも聞いているかのように集中していた。いや、もはや物語だ。私がその話の登場人物だとは思えないくらい、よくできた話。


「それで……間宮さんがその『今屋君』だって亜子が気付いて……どうなったんですか?」


 話の続きを催促するようにマリちゃんが質問すると、今屋君はにっこりと笑った。


「付き合うようになったよ」


 ふと今屋君のビールを見てみると、私よりずっと減っている。全然量は飲めてないけど、私はすでにちょっとフワフワしてるくらい

だ。


「でも、これからだと思ってる。一生をかけて亜子を大切にすることで、今までのことを償う」

「………………」


 今屋君は私の方を見てそう言った。今屋君はウソはついてない。たぶん、私達以外に今までのことを話すには、最も適切な説明だったと思う。でも、私は逃げ道を断たれているような気になった。


「……完敗です」


 私が何も言い出せないうちに、冬馬君が大きく息を吐く。


「そんなの聞いたら、応援せざるえないじゃないですか」

「そう?意外だな」

「……元々敵わないな、とは思ってたんスけど、でもそれ認めるの悔しくて」


 アルコールのせいか、目の前で何の話をしているかわかってるはずなのに私には遠くに聞こえる。


「あーこ!」

「!」


 隣に座っていたマリちゃんにタックルされて、私は今屋君と冬馬君の会話から意識が離れた。


「私ね、誰よりも亜子たちの幸せを願ってるよ」


 酔っているのか、マリちゃんの顔がほんのり赤い。


「私が思うよりたぶん色々あったんだと思うけど……でも、間宮さんは亜子を幸せにしてくれるよ。だって、ずっと亜子の話ばかりするんだよ、間宮さん。本当に亜子のこと好きなんだなあって、私の方が嬉しくなっちゃうくらい」

「うん……」


 マリちゃんは心からそう言ってくれているようだったけど、私はどう答えたらいいんだろう。私の中で、まだ今屋君をどう思ったらいいか答えは出てない。今の話のように、今までのことを改心してくれているのだろうか。これから今屋君の言うことを信用して裏切られることは無いのだろうか。その答えはまだ出そうにない。


「やっぱり、呼び方変えないとね、亜子」


 名前を呼ばれて、今屋君の方を見た。頬杖をついた今屋君が私を見つめている。


「『今屋君』じゃ説明が長くなるし」

「そっか……」


 つい『今屋君』と呼ぶ癖がついてしまっていたけど、確かに会う人全員に今の話は出来ない。


「だから『悠人』でいいよ」

「えっ」


 下の名前を呼ぶことを促されても、私はすぐには頷けなかった。一番始めに付き合うという話になったときも今屋君は名前で呼ぶことを言っていたけど、どうしても習慣づかなかった。


「いや、やっぱり『間宮さん』の方がまだ……」

「じゃ、今は試しにでもいいから呼んで貰えないかな?『悠人』って」


 やんわり断ったつもりだけど、今屋君は引き下がらない。でもまあ一回だけなら頑なに拒むことも無いか。


「…………悠人、さん」


 そう呼んだだけで、今屋君はとても嬉しそうに笑った。


「なんか知らないけど見せつけられた気分……」

「そう?私は萌えたわ」


 マリちゃんと冬馬君が何を話していたのか、私には聞こえなかった。




 情けないことに、あまり多くは覚えてなかった。もんじゃ焼き屋さんでお好み焼きを食べてもんじゃも食べて、お酒は何杯か飲んだ。そんなに無茶苦茶に飲ん覚えは無いのに、気が付けば今だ。

 ふとんの中、見知らぬ天井が目の前にある。びっくりして起き上がった。

 何度見回しても知らない部屋だった。四畳半の和室で、ワンルームのアパートの部屋。家具はほとんど無くて、部屋の済に小さなテーブル。押し入れの引き戸が外されて飾り棚になっている。壁や天井に年季を感じるけれど、全体的に綺麗でインテリアにもセンスを感じる。

 ここがどこなのかわからなくて取り乱しかけた時、充電器に繋がっている私の携帯電話の下に小さなメモがあることに気付いた。


『おはよう、目が覚めたら連絡下さい 悠人』


 例の今屋君の字だ。それを読んで思わず「えっ」と声が出て、自分の服を確かめた。昨日の服と変わらない。このメモを見るに、私は泥酔して今屋君のアパートに上がり込んでしまったようだ。この部屋に来るまでのいきさつも部屋に来てからのことも覚えてない。もう一回自分の服を確かめた。


「……とにかく電話しよう」


 考え込んでいても何も解決しない。私は携帯電話を取った。時間は朝の八時。今日は土曜日で学校もないからその点は大丈夫だけど、お母さんには何も言わず外泊してることになる。


『おはよう、早かったね』


 2コール目で電話を取った今屋君の声は眠さや気だるさも無く、後ろに人の話し声なんかも聞こえる。


「えーと、おはよう……あの、私……」


 この状況はなんて尋ねたらいいんだろう。


『もう大丈夫そう?』

「え、なにが?」


 体調を心配されたことにドキッとする。少なくとも今思い当たる体の不調はない。


『気持ちとか悪くない?二日酔いとかも無いかな』


 なんだか昨日はずいぶん今屋君にご迷惑をおかけしてしまったようだ。言われてみれば少し頭が重い気がするが、取り立てて言うほどでもない。


「……うん、平気」

『そう、よかった。今駅前のマックにいるから、20分位でそっちに着くよ』


 さっきから電話から聞こえていたざわめきは駅前のものだったらしい。


『冷蔵庫の中身とか適当に飲んでていいから。あ、食べたいものある?買ってくけど』


 電話口の今屋君の声はとても優しい。それがなんだか申し訳ない気がしてきた。


「……ううん、大丈夫」

『そう。じゃあちょっと待っててね』


 通話が切れると、部屋が急に静まり返った。道路を走る車のエンジン音とか、近所のなにかしらの工事の音とかが聞こえた。ここが今屋君の部屋だとしたら、なんで一人暮らしをしているんだろう。中学の頃もこの近所に住んでいたのだからわざわざ一人暮らしする必要は無さそうなのに。もしかしてお母さんの再婚で一人暮らしを余儀なくされているのだろうか。一人暮らしなんてお金がかかりそうなのに。

 ぼーっととりとめの無いことを考えていたけど、布団を敷きっぱなしでは申し訳ない。取り敢えず畳んで部屋の隅に置いた。

 ぐるっと見回して、改めて物が無いなと思う。本当に今屋君はこの部屋で暮らせているんだろうか?と余計なことが頭を掠めて、ちらりと押し入れを覗いてみた。きちんと掃除用具とかが見えないところに収納されてて安心した。それに比べてうちでは物がごちゃごちゃありすぎる。散らかしているつもりはないけれど、狭い部屋に棚という棚があってどこも満杯だ。お母さんも私も、なんでも取っておいちゃう癖があるのが問題なのかもしれない。

 ふと、私の携帯電話が借りてる充電器も今屋君のものだと気付いて、電源を抜いて充電器は机の上に返した。さっきは慌ててよく見てなかったけど、メールが2通届いてる。

 一つはマリちゃん。


『Title:大丈夫?

 亜子ママには上手く言っておいたからね!無事家に着いたら連絡ちょうだい!』


 お母さんにはマリちゃんが話をしてくれているらしく、安心したけど同時に申し訳なさすぎて落ち込む。お酒で失敗するというのはこういうことを言うのだろう。もう外ではお酒飲むのは控えなくては。

 あともう一通のメールは冬馬君だった。


『Title:安心した

悠人さんは入野を大切にしてくれるよ。安心した。だから、入野も安心しなよ』


 届いたのは真夜中みたいで、冬馬君はどんな気持ちでこのメールを改めて私に送ったんだろう。冬馬君もマリちゃんも、今屋君のことを信用してる。でも私は……まだ、わからない。

 電話が鳴った。今屋君からだ。考え事をしていたから、びっくりしてしまった。


「もしもし?」

『うん、今アパートついたとこ。これから部屋戻るから』


 カンカン、と階段を上る音が電話からも外からも聞こえてきた。短いノックの後に鍵がまわされ、ドアが開く。


「ただいま」


 携帯電話を片手にビニール袋を提げた今屋君が入ってきた。


「よく眠れたかな」


 そう言いながら冷蔵庫を開け買ってきたものを入れる動作が、完全に家主のものだ。


「うん……お世話になったみたいですみません」

「いいえ、飲ませたのは俺だしね」


 キッチンから立ち上がって、今屋君は私に小さな栄養ドリンクみたいなものを差し出した。


「飲んだ後にも効くから」

「……ありがとう」


 ラベルには大きく『ウコン』と書いてある。至れり尽くせりで恐縮してしまう。


「布団たたんでくれたの?」

「え、あ、うん……」


 今屋君はまたすぐキッチンに戻ってヤカンに火をかけた。それを見ながら、私はもらったドリンクを開けて飲む。思ったよりも飲みやすい。


「あの、ここ、今屋君の家……だよね?」

「そうだよ」


 戸棚から何かを出しながら、今屋君は答えた。


「……あれ、もしかして、昨日のこと覚えてない?」


 動きを止めて少し考えてからこちらを向く今屋君の問いに、私は嘘をつくわけにもいかず、こくん、と頷いた。


「ここに来るまでのことも?」

「はい……」


 いたたまれなくて正座に座り直す。私は一体どれだけお酒を飲んだと言うのだろう。記憶を手繰れる範囲ではたかだか3杯くらい……弱すぎるにも程がある。


「そっか。じゃあどこから説明しようかな」


 ヤカンのお湯が沸騰するのを待っているらしく、今屋君はこちらの部屋には戻らず、キッチンの壁にもたれかかって腕を組んでいた。


「今屋君がここまで連れてきてくれたの?」


 とりあえず私の方から順序立てて聞いていくことにした。


「うん。本当は亜子の家に送り届けられればよかったんだけど、タクシー乗ってる途中で具合悪そうだったから、取り敢えずうちに、と思ったんだけどね」


 今屋君の答えぶりでは、私はだいぶ迷惑とご面倒をおかけしてしまったようだ。


「な、なんかすいません……」

「そのまま亜子が寝ちゃったから、帰せなくなっちゃって……あ!でも、誓って亜子には手を出してないから!理性が飛ばないうちに、と思って駅前の漫喫に出たし」


 心のどこかで何かあったんじゃないかと心配してたので、今屋君の話にほっとするやら申し訳なくなるやら。


「亜子の家族にはマリちゃんから連絡してもらったよ。本当に何も無かったのに俺から連絡しちゃうと無駄に心配をかけてしまうからね」

「うん、マリちゃんからメールがきてた。お礼言わないと……」


 空になった栄養ドリンクの缶を握りしめる。お湯がわいたらしく、今屋君は一度台所に戻った。


「そっか、誰かがうちに来ること想定してなかったからな」


 カップを二つ持って出てきた今屋君は、室内を見回した後、ベランダのように乗り出せる出窓を開けて、その桟にカップを置いた。ちょうど桟をテーブル代わりにして窓の外を見れる高さだ。


「コーヒー。飲まない?」

「うん」

「ブラックのままで良かった?」

「うん」


 今屋君の用意してくれたコーヒーの側へ寄る。渋くて深い薫りがした。


「……今屋君にはなんてお礼を言ったらいいか」


 やけどしないようにおそるおそるコーヒーを啜る。


「彼氏なんだからこれぐらい普通だよ」


 私達は窓からのやわらかい風を受けながら向かい合って座っている。日差しは暖かくて、今日は晴れそうだ。


「……私、酔って変なこと言わなかった?」

「いいや。全然酔ってるなんて気付かないくらい言動はしっかりしてたよ。あ、でも……」


 一瞬、今屋君はニヤッと笑った。


「『悠人』って呼ぶこと、了承してくれたよ」

「えっ……一回きりの話じゃなくて?」


 まだ残ってる記憶で一度だけ呼んだことは覚えているけど、それ以外のことは覚えていない。


「ずっとの話だよ」

「…………」


 だとしたらそれは酔ってたなと反省する。


「えーと……」

「お礼をくれるというなら、昨日の話を本当にしてほしいな」


 なんて撤回しようと考えていると、今屋君から駄目押しされた。


「昔から……子供の頃から名字はすぐ変わって、自分の名前だと馴染みのあるのは下の名前だけなんだ。だから……亜子には『悠人』と呼んでほしい」

「…………」


 駄目だ、もう断れない。私は観念した。ここまで言われて拒否するなんて鬼でもなければできない。


「うん、わかった……そうする」


 今屋君は……いや、悠人君は、私が思ってたよりずっと苦労してきたのかもしれない。


「もう、お酒飲まないようにしよう」


 これに懲りて反省した。外で酔っ払うといろんな人に迷惑をかけてしまうし、想定しないことが起きてたりする。


「そうだね。酔ってる亜子可愛かったから、他の男の前だと心配だ」

「泥酔に可愛いもなにもないと思うけど……」


 今屋……ではなくて悠人君は『可愛い』なんて言うけれど、泥酔してる人間なんて迷惑なだけだと思う。


「いや、俺の前でも酔わない方がいいな」


 まるで独り言のようにつぶやいて、悠人君は悪戯っぽく笑う。


「また理性が保てるかわからないから」


 思わずコーヒーを吹き出しそうになるが、なんとかこらえた。


「もう亜子に嫌われたくなくて結構頑張ったよ?」

「えーと……私も以後気を付けます」


 今屋君がなんのことを言ってるのかさすがにわかる。中学生の頃、一度悠人君に押し倒されたことはいまだに怖い記憶として残ってる。


「……大丈夫、もうひどいことなんてしないよ。俺は亜子を大切にしたいから」


 気まずくなってる私に、悠人君はカップを窓辺に置いて、少しだけこちらへ距離を詰めてきた。


「……どうすれば伝わるんだろうね。ずっとずっと、俺は亜子が好きなのに。まだ伝わらないみたいだ」


 痛々しくせつなげに悠人君は私を覗きこむ。


「……前よりは、わかってきたよ」


 何の慰めにもならないかもしれないけれど、私は思ったままを口にした。


「でも、まだわからないことがある。今屋君……悠人君には、もっとたくさんの可能性があると思う。綺麗な人や可愛い人、私よりも悠人君を大切にして優しくしてくれる人がいる、きっと。なのに……どうしてこんなに、って」


 ずっとずっと、疑問だった。中学生の頃からずっと、クラスで一人ぼっちだった私に今屋君が優しくしてくれてた時からずっと。どうして私なんだろう?私なんてありふれた人間を、今屋君はどうやって見つけ出したんだろう。


「亜子はもっとうぬぼれていいのに」


 悠人君の足と私の足がぶつかるほど近くで私達は向かい合っている。


「俺にもし価値があるとしたら、それは亜子が見つけ出してくれたものだよ」


 そんなことはない。私はなにもしてないし、初めて私が今屋君を見かけた時から今屋君は人気者だった。たくさんの人に好かれてた。そう言おうとするけど、悠人君は人差し指を立てて静寂を呼んだ。アパートの外から、鳥の声やトラックの排気音が聞こえてきた。


「……亜子には、この世界は住みやすいかな?」


 静かに、悠人君が話し出す。


「俺にとっては住みにくかった。地獄だった。毎日神様を呪ってた。だって、綺麗なものなんて一つも無かったんだ。澱んでて、濁ってて……そんな暗闇の底から助けてくれる人なんて、俺には誰もいなかった。だから、いつか死ぬまでの時間をただ待つだけだった。人はそんな俺を器用に生きてるように見ていたみたいだけどね。でも、俺にとってはずっと地獄だったんだ」


 全部が、抽象的な表現だった。何があって悠人君を追い詰めたのか、全然わからない。でも、嘘を言っているような感じじゃなかった。


「でもある日、亜子を見つけた。俺にはすぐにわかったよ、美しくて温かくて強くて優しくて、この世界で俺が見つけた、唯一のキラキラしたもの。

 これが恋だって自覚したら、世界は一変した。生きていく理由ができた、生きていく意味も。だから、俺は君を失いたくない。もう、地獄に戻りたくないんだ」


 やっぱり、私が今の話の登場人物だとは思えなかった。悠人君の話す私はどこか神格化されていて、実物とはかけ離れてる。本当の私は俗物で、間抜けで、卑怯で、惨めだ。


「……私はそんなんじゃないよ。私は汚なくて弱くて、冷たいところもある。優しく見えたのは、私に意気地が無くて強気じゃいられないから。本当の私を知ったら、今屋君……悠人君は、私を嫌いになる」

「やっぱり否定するね」


 あぐらから膝を抱え直した悠人君は小さく笑いを漏らす。


「嫌いになんてならないよ。俺は、君がどんなに頑張って生きているか知ってる。俺が君に惹かれたのは……亜子が亜子であろうとしているから」


 悠人君が、どれだけ私のことを特別に思っていてくれてるのかはわかった。もう悠人君の本心を疑うのはやめよう。だけど、恋ってこんなに全身全霊でするものなのかな。私には身に余るような気がするし、いい加減な気持ちで応えたら悠人君に失礼な気もする。これからのことはまだわからない。答えもまだ出ない。猶予はまだ半年もある。


「ありがとう」


 悠人君の好意に対して、お礼を言うのが私の精一杯の誠意だった。

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