美しい人
――彼女の話。
付き合った前と後で、いくつか変わったことがある。私が物事の絶対的な決定権を握るようになった。それを私は今屋君の拒絶に使った。メールや電話は無視をした。うちの大学で会えないかとあったら、会いに来ないでと断った。
当然のことをしてると思ってた。でも、返信や折り返しを待っているのではないかと考えると、悪いことをしているような気になる。しかし、こんなことは当然なんだ。彼が私に何をしてきたことを考えれば、些末なことだ。
私が拒絶しているうちに、一ヶ月が経った。その間、顔を見たのは一回きり。短期講座に通った時、サークル中の今屋君と顔を合わせた。私は無視するようにすぐに顔を逸らし、それ以上もそれ以下も無かった。付き合ってるとは到底言えなかったが、恋人、なんて形式上の話で実態なんか有りはしない。
『3月14日にホワイトデーのお返ししたいから、デートに誘わせていただけませんか』
ある日、今屋君からメールがきた。それも無視しようかと思ったけれど、私は一言返した。
『いいよ』
スケジュール帳を見なくても、その日一日バイトが入ってるのはわかっていた。わかって、そう返信した。しばらくすると、嬉しそうなメールが今屋君から返ってくる。時間と場所の指定と、食べたいものはなにか。時間は何時まで大丈夫か。私はもうメールを見るのはやめた。行くつもりなんかないから。
ひどいことをしてる。ひどいことをするために付き合ってるんだから、間違ってない。携帯電話を見かけるのも億劫になって、私は携帯電話をクッションの下に隠した。
私のバイトは11時から17時まで。今屋君は11時に駅の改札前を待ち合わせにしていたから、今日は会うこともないはずだ。いくら待っても私が来ないことに、たくさん連絡が入るはずだ。だから、携帯電話をわざと家に置いてきた。全く返信もなにも無いことに、今屋君は察して早々に切り上げるかも知れない。
「休憩室のクッキー持って帰れよー」
面倒見のいい先輩が、私の上がり際にそう声をかけてくれた。そうだ、今日はホワイトデーだ。
胸の奥がザワッとする。今屋君はさすがに怒ってるだろう。事前に何かを用意していたかもしれない。でも、それを私が踏みにじってやった。
いつものように電車に乗り、家路に着く。スーパーに寄ろうか、と考えながら定期を用意する。
「亜子」
呼び掛けられた。
男の人の声。そんなはずはない。そう思いながら顔を上げると、今屋君が、いた。
「な……」
声にならなかった。何で今こんなタイミングで待ち合わせだったここで会うことになるんだろう。まるで彼がここでずっと待っていたみたいだ。
「何の連絡も無かったから心配したよ」
「……っ」
改札口を出た私は、歩み寄ってくる今屋君を直視できず、そのままツカツカと家路を急ぐ。
「携帯電話家に置いてたの」
「そう。亜子が無事ならそれでいいんだけど」
今屋君は私の後をついて同じ方向に歩く。
「……ずっと、待ってた訳じゃないんでしょ?」
誰に話しかけているかもわからないような声だったが、今屋君はそれを聞き逃さなかった。
「待ち合わせの場所と時間は知っててくれたんだ」
責める訳でもなく、どこか安心したような様子。
「待ってたよ。連絡もないし、すれ違いになったら嫌だし」
今屋君は世間話のように話す。だって、春先とはいえ大分冷えるし、六時間なんて人を待てる時間じゃない。
「今屋君て、バカなんだね」
「はは、バカか……バカかもね。どうしても亜子に会いたくて」
どんな気持ちで六時間も待っていたのか、考えたくもない。早く見切りをつけてしまえばよかったのに、私が連絡の返信をしなかった時点で気付けばいいのに。
「デートが無理なら、ホワイトデーのお返しは受け取ってよ」
「……いらない」
後ろも見ずに拒んだ。
「どうして?質に入れてもいいよ」
今屋君は私の肩を掴んで呼び止める。私は思わず今屋君を睨んだ。
「触らないで」
「……ごめん」
社会科の資料室のことがある。私は自意識過剰なんじゃないかと思うくらい過敏に反応した。今屋君は、素直に謝り、私の肩を離した。
今屋君を傷付けた。手応えがあった。でも、触れるのは許しちゃいけない。
別れ際、今屋君はまたの話をしていた。今日、すっぽかして六時間も待たせていた人に。今屋君はバカだ。救いようのないくらいに。
受け取るなら只だからと、小さな紙袋を置いていった。その中を覗いてみると、小包が入っていた。開けることも私にはできなかった。
私はただただ、自分の小ささに震えていた。
「なんで言ってくれなかったの!?」
四月の新年度の初日、マリちゃんの第一声はとても大きな声量だった。
「……なんの、話?」
「間宮さんの話だよ!!この前はじめて間宮さんから聞いた!!」
その話ではないかと薄々気付いていた。
「どうして付き合ってるって言ってくれなかったの!?」
そんなこと、決まってる。付き合ってるなんて言えない関係だったからだ。復讐のために恋人を自称してるなんて、友人に言えるはずがない。
「いや、まあ……」
私は言葉を濁すしかなかった。外から見れば間宮さんは過不足なく自慢の彼氏だろう。かっこよくて、優しくて、包容力があって、頭が良くてスポーツもできる。そんな彼の過去をほじくり返して被害者面なんて、社会的信用を失う。
「ずっとずっと、二人が付き合っちゃえばなーって思ってたんだよ!だって間宮さん、あからさまに亜子狙いなんだもん」
間宮さんがそんな風にずっと私を見てたなんて、はじめて聞いた。でも、今更驚きはしない。出会った時から、事は作為的に始まっていたのだから。
「まあ、冬馬には悪いなーって思ったけどね」
「……なんで冬馬君の名前が出るの?」
唐突な名前に、マリちゃんへ聞いてみる。
「え?あ、あ~、あのね……うーん、私が言っていいのかな?いいよね?もう過去の話になるんだし」
マリちゃんは一人でうんうん言いながら、決心をしたようだった。
「冬馬も、ずっと亜子のこと好きだったんだよ」
「……は?」
全く寝耳に水すぎて、意味がわからなかった。
「いや、亜子は気付いてないとは思ったけど、冬馬はあからさまって言うか、分かりやすすぎだからね。私たちでは周知の事実っていうか」
「……え?」
色々思い出してみても、私には冬馬君にそんな素振りは見えなかった。普通に優しかったし、普通に話をしてた。ていうか、冬馬君はマリちゃんが好きだったんじゃないのか。
「でも、亜子は間宮さんと付き合うことになったんだから、失恋ってことになるよね、冬馬は。もー、だから亜子にはとっととコクれって言ってたのに」
「………………」
そうだ、私は今、間宮悠人の恋人なのだから、冬馬君の好意なんて関係がない。順番が逆だったら、なんて意味のないことを考えてしまう。もし先に冬馬君の気持ちを知ることができていたら、今こんな状況ではなかったかもしれない。
「まあ、亜子は普通に間宮さんとラブラブしてればいいのよ。こうなったら冬馬もあんたへの恋心は墓場まで持ってくでしょう」
「……うん」
私は相槌だけ打って、これからのことを考えた。私が間宮さんに酷いことをして一方的に別れを告げたとなれば、友情すら決裂しそうだ。今屋君は、間宮さんは、誰にもその素顔を見せないから。
「あれ、どうしたんですか」
「こんにちは」
その日の帰り、マリちゃんとお茶をして帰ろうとしてたら、校門前に今屋君がいた。
「今日、サークルないですよね?」
「彼女を待ち伏せしてみようと思って」
私はとても嫌そうな顔をしていたと思う。今日会いに来るとは連絡受けていないし、受けてたとしても了承しない。
「え、もしかして今私見せつけられてます!?」
「うん。ノロケ入った」
マリちゃんと今屋君は楽しそうに話しているけど、私にはまるで空虚だ。
「あー、じゃあ私はお邪魔かな?」
「いいよ、マリちゃん。気にすることないから」
今屋君と二人きりなんてなりたくない。私はマリちゃんを引き留めると、今屋君もそう頷いた。
「そうそう。二人も久し振りに会ったんでしょ?でも、半月ぶりの亜子だし、俺も末席に着きたいなーって」
「もちろん!あ、あそこ入りましょうよ」
私の拒否権は発動できなかった。あっという間にコーヒーショップに入り、三人でテーブルを囲った。
「半月ぶりって、もしかしてホワイトデーですか?」
マリちゃんはなんの屈託もなく尋ねてくる。私はあの日の寒さを思い出して、震える。
「そう。バレンタインデーで付き合ったこら、一ヶ月の記念でもあるね」
今屋君も笑顔で答える。6時間待ったことを、ここで糾弾してもいいのに。
「ねえ、亜子!間宮さんから何貰ったの!?イケメンはホワイトデーに何くれるものなの!?」
「え……?」
そんなこと言われても、あの小包はまだ中も開けずに押入れにしまってしまった。
「ネックレスだよ」
助け船は、今屋君本人から出された。
「亜子に似合う、可愛いやつ」
他人を前にしてようと、今屋君は臆面もなくそんなことを言えてしまう。
「えー!?見たい!亜子つけてる?」
「えっいや、今日は……」
私の首もとをマリちゃんがさがすけど、当然身に付けてなんか来ない。
「あー、なくしちゃったりするの、確かにこわいもんね」
何故かマリちゃんに共感された。
「なくしたら新しいの買えばいいんだよ。あげた方は、身に付けてもらった方が喜ぶと思うなあ」
「……だって。優しい彼氏でうらやましいね」
「うん……」
今屋君とは二人きりになりたくなかったけど、マリちゃんと一緒にいると間宮さんの株が上がるだけのような気もする。
「今日、実は俺の誕生日」
ぼそっと、タイミングを見計らって、今屋君が呟いた。
「えっうそっ!?」
マリちゃんが私を振り返るが、そんなの私も初耳だ。
「サプライズ」
「それってサプライズって言います!?もっと早く言って下さいよ!!私、本当、邪魔しなかったのに」
マリちゃんは大層慌てて、コップの中のコーヒーを飲み始める。
「慌てなくていいのに。俺、亜子に会えさえすればそれで」
「そんなばかな!二人でいちゃいちゃするべきです!じゃ、私これで!亜子、また話聞かせてね!」
今屋君の制止も聞かず、マリちゃんはあっという間に去ってしまった。私たち残された私たち二人は、しばらく無言になる。
「……本当に、誕生日なんですか?」
最初に口を開いたのは私だった。
「うん。免許証見る?」
「……いいです。じゃあ、おめでとうございました。私行きますので」
抑揚も無く、コップにまだたくさんコーヒーが残っても気にせず席を立った。
「亜子」
すがり付くように、今屋君は私の手を取った。
「今日、駄目かな?もちろんプレゼントねだろうなんて思わない。そばにいてほしい」
「………………」
殊勝なことを言っても、所詮彼は今屋君なんだ。私が傷付いてるのを見てほくそえんでたような人なのだ。
「せっかくの誕生日を、嫌な思い出にしたいんですか?」
私は絶対にこの人を傷付ける。喜ばせようなんて思わない。ここで帰ろうとするのは、最後の勧告だ。
「亜子のそばがいいんだ。亜子と一緒に居たい」
なんでそんな結論に至るのか、私にはわからない。ホワイトデーなんて最悪だっただろうに。結局、私は今屋君と行くことにした。そんなに毒が欲しいなら、くれてやる。
「海、見に行こう。車借りて」
「車?」
「レンタカー。地元の駅に乗り捨てすればいいし」
そう言えば、さっき免許証を持ってるみたいなことを行っていた。
「……あ、大丈夫。山の中に乗り入れてやましいことしよう、なんて気はないから」
思案してるのが不安になってるように見えたらしい。というか、今屋君が言っていたことなんて全然可能性として考慮してなかった。危機管理能力が低いかもしれない。
「………………」
「もしかして、余計なこと言ったかな?」
今屋君の言う通り、彼はとても紳士的だった。よくわからないけど、運転も上手だと思う。音楽は、まだ間宮さんが今屋君だとは知らなかった頃に進めて貰ってたジャズアーティスト。高速道路を乗り継いで、横浜のその先、由比ヶ浜を目指していた。助手席に座った私は始終仏頂面で、今屋君の話にも相槌は打たない。それに気にした様子もなく、今屋君は以前のように話を続けていた。
途中休憩を挟みながらも、日が沈む前には海岸に着いた。海は凪いでいて、私たちの他にも散歩している人達がいる。海なんて、滅多に見れないから本当は嬉しかった。柄にもなくはしゃぎたくなるくらい。でも、今一緒にいるのは今屋君であり、そんな素振りは見せたくない。こんなに海も空もきれいなのに、私は今屋君をどんな風に傷つけられるかを考えている。
「二人で色んなところに行きたいね」
「…………」
「今度は山もいいね。出かけるところはたくさんある。きりがなくなるから計画的に行かなくちゃ」
「………………」
私はなんの返事もできず、ただ海を眺めるしかない。私はどこにも行きたくない。
「今屋君」
「なに?」
いつもと同じはずの朗らかな笑顔に、泣きそうになる。
「私と一緒に居て、楽しいの?」
元々私はおしゃべりは下手だけど、それにしたって今は不機嫌そうに黙るだけ。
「……もっと亜子が笑ったら、確かに幸せだな。でも、わかりづらくはあるけど、亜子が何を考えているかは、少しだけわかる」
「じゃあ、今、私は何を考えてると思う?」
意地悪な質問をした。意地悪な顔をしてると思う。
「……俺のことが大嫌い、って」
自嘲気味に笑う今屋君。そうだ、その通りだ。
「よくわかったね。今屋君が大嫌い」
なんでこんなひどいことが言えるんだろう。舌から滲み出るように悪い言葉が口を滑る。
「こんなことで満足するなんて可哀想、って思ってた。一緒に居るだけで憂鬱で気分が悪くなる。それでもあなたを傷付けて悲しませるためにここに来たの。あなたが産まれてきたことを祝うつもりなんてこれっぽっちもない」
今屋君はずっと黙って聞いていた。それから、悲しそうに笑う。心を、抉った。ひどい手応え。手に残る余韻が気持ち悪い。
泣きそうだ。なんで悪口を言う方が泣くんだ。意味がわからない。
「……私、ここから一人で帰る」
今屋君から視線を逸らし、海に背を向けて道路にタクシーが無いか探す。ここから電車を乗り継いで帰れるくらいの手持ちはある。
「送ってくよ」
かけられた声は優しくてあたたかくて、それがまた頭の中を掻きむしるようだ。
「今屋君は意味がわからないね」
「俺が亜子を好きなことさえ伝わればいい」
よくそんなこと言えるものだ。自分が私に何をしたかわかっていれば、そんなこと言えないはずだ。
「受け入れられない思いなんて、何の足しにもならない」
そんなもの、捨ててしまえ。クズ以下だ。
「そうかもね。でも何かを変えるかもしれない」
何かとは、何?お断りだ、何も変えられてたまるか。
「一人で帰るから、ついてこないで」
「でも……」
「そばにいたくないの。話もしたくない。ついてきたら許さない」
歩くのを早めて、私は土手の階段をかけあがり今屋君から距離を取った。今屋君は立ち止まり、私を見ていたが何も言わなかった。それはそうだろう。あれだけひどいことを言われれば、誰だって目を覚ます。
最悪な気分で土手の上の歩道を歩いた。自己嫌悪と、後悔と、罪悪感。涙が、こぼれた。




