僕を許して
――彼の話。
今度は二人で出掛けたいな、と亜子へメールすると、意外な答えが帰ってきた。東大の図書館に行ってみたいと言う。じゃあ試験が本格的になる前に、と俺は亜子を誘い出した。
「すいません、ワガママ言って」
「デートの約束はワガママのうちに入らないよ」
土曜日の構内は平日に比べ静かだ。それでも土曜の授業や自習に来ている学生は少なくない。かくいう俺も、土曜日はたまたま授業を取っていて、今日も授業終わりで亜子と校門前で待ち合わせしていた。亜子とこうやって会えるなんて、浮かれないはずがない。
学食で昼食にして、講義室やキャンパスを案内する。特別珍しいものでもないけれど、亜子は楽しそうについてきてくれた。俺はただ、亜子をこうやって連れて歩くことができて幸せだった。最後に目的地であった図書館に着くと、俺は席を取って亜子は本を探しに行った。最高学府と呼ばれるだけあって、膨大な蔵書数を誇る。亜子はわくわくした顔で、本棚を眺めていた。
一般の人も入館できるのもあり、土曜日でも図書館は人の数はそう変わらないようだ。席はそこそこ埋まっていて、勉強に没頭する者、本を広げながらノートに書き取る者、本を読み込んでいる者、様々だ。うるさくする者はいないが、囁きや紙をめくる音や足音がそこかしこからする。
ぼーっとして待ってると、亜子が戻ってきた。
「本、見つかった?」
亜子が抱えているのは、大きな本が数冊。
「どれも重そうだね。荷物持ちしたのに」
「ありがとうございます」
亜子から本を取り上げると、やっぱりずしりて重い。物々しい箔押しの装丁。音を立てないように机の上にそっと置く。
「図鑑?図鑑かあ」
本をめくってみると、そこには緻密に描かれた蝶々の絵。水彩の鮮やかな翅の色に目を奪われる。もう一冊は淡水魚の図鑑のようだった。描き込まれた鱗が今にも泳ぎ出しそうだ。まさか図鑑を選ぶとは思わなかった。どこから探したのか、英語とフランス語で書かれていて、専門家でもない限り読むには適さなさそうだ。ただ、その絵には惹き付けられる。
「いい本選ぶね」
亜子ははにかんで、俺の隣に座った。それから二人で図鑑を眺めた。何を喋るでもなく、ただ静かにページをめくった。
素敵な一時だった。静謐とすら言える。愛してる人とこうして本を眺めていられるなんて、まるで夢の中のようだ。恋人候補を自称して数ヵ月が経ち、亜子は少しずつ俺に親しんできた。他人から始まり、距離を測っていた亜子はやっと俺へ歩み寄る用意が出来たようだ。俺ができる限りのことをしてきたことは無駄ではなかった。映画、本、テレビに音楽、亜子と共感できることを広めようと努力した。今ではCDや本の貸し借りまでするほどだ。恋人になれるまで、あともうちょっと。あと少しのところだ。そうすれば、可愛い亜子が俺のことを見てくれる。
「そろそろ閉館だね」
時計を見れば、もう充分夕方だった。そろそろ帰り支度をしなくてはならない。サニーマートの今日のシフトでは、亜子は佑利子さんと夕飯を食べるだろうから、ご飯は無理でもせめてお茶くらいはしてから帰りたい。
「図鑑、片付けて来ますね」
「俺が持つよ」
二人で図鑑を元の本棚に戻し、そのまま大学を後にして駅前のスタバに寄ることになった。
「今日はありがとうございました」
亜子はチャイラテの入ったカップに両手を添えながら微笑む。
「どういたしまして。楽しんでもらえたならいいんだけど。」
俺もつられて、ニッコリと笑ってミルクも砂糖も入れないストレートを啜った。普段あまり表情を変えない亜子だから、喜んでもらえてるとわかるとすごく嬉しい。
「私は楽しかったです。でも、間宮さんはいつも通ってる大学だから……私みたいな部外者連れて、多くの人に会っちゃいましたね」
確かに数人知り合いとすれ違ったが、その人目を亜子は気にしているらしい。別に見られてまずいことなど一つもないのに。
「ん?ああ、デートだって後で説明しとく」
「えっ?あの……いや、違わなくはないですけど……」
亜子は照れているようで、声を小さくする。かわいい。
「亜子ちゃんとこうしてデートしてるなんて、まるで嘘みたいだよ。長い長い片想いだったから、幸せすぎた」
ニヤけるのが止まらなさそうなので、あらかじめ弁明しておく。すると、亜子はきょとんとしてから、視線を逸らす。これも照れてる合図。
「……会ってそう長く時間経ってませんよ……」
そう言えばそうだった。間宮では、会ってせいぜい9ヶ月くらい。本当は6年越しなんだけど。
「フフフフ」
「……?」
とにかくバカみたいに笑いが漏れる。亜子はそんな俺を少し不思議そうに見ていた。
「またデート行こうね」
「……、はい」
デート、という単語に亜子は引っ掛かっているようだけど、拒絶することなく頷いてくれた。
「……でも、デート、って、どういうところに行くんですか?」
「え……」
亜子から意外な質問をされて、答えに詰まる。彼女は期待を込めている訳でも、行きたいところを催促してる訳でも無さそうだ。純粋にデートというものを知りたそうだったが、考えてみたら俺も真面目にデートした経験はない。暇潰しで付き合っていた女とは一緒に下校するか、女の部屋に直行するか、くらいしかない。今度瀬下に聞いてみようか。
「うーん、どうだろうね?亜子ちゃんと行きたいところはたくさんあるよ」
「私と?」
これは嘘じゃない。遠出もしたいし、近場で食べ歩きなんかしてもきっと楽しい。亜子とやりたいことは数えきれないほどある。
「うん。俺は亜子ちゃんと一緒に居れればどこだって幸せだけど」
「!」
亜子は持っていたカップを机に置いて、俺を真っ直ぐ見る。
「前々から思ってたんですが……それ、禁止にしませんか」
「それ、って?」
俺が聞き返すと、亜子はとても言いづらそうに口を開いた。
「その、『好き』……とか言う類いのことです」
…………。なんなんだ、これは。可愛すぎる。
「可愛い」
「いや、ですから、そういうことをあまり言わないで欲しいのですが……」
うっかり本音が口をついてしまったが、すかさず亜子からストップがかかる。
「え?それはかなり難しいな……でも、なんで?」
「は、恥ずかしいからですよ!どんな顔したらいいかわからないし」
亜子の頬がうっすら赤いことに気付いて、俺まで赤くなりそうだ。これはご褒美ですか。
「亜子ちゃんがそう言うなら、気を付ける。でも、ごめんね。亜子ちゃんのこと好きなのも可愛いと思うのも本当のことだから、つい言っちゃいそう」
「!……、……!
も、もういいです、わかりました、お願いします」
目を伏せて、亜子はチャイラテを飲む。ああ、可愛いな。以前だったらどんなに言ってもかわされるか受け流されてただろうに、今はちゃんと俺の気持ちが伝わってる。
スタバを出ると、地元に戻った。明日の予報は雪だ。ずいぶん冷える。
「……手、冷たくない?」
ふと亜子の手を見れば、手袋もせず寒そうだ。
「……繋ご」
返事を待たず、亜子の手を取る。亜子の指先は氷かのように冷たかった。それから、思ったよりもずっと小さくて細かった。守ってあげるように右手で包み込む。亜子はなにも言わず、かといって振りほどくこともなく、そして力なく握り返して、そのまま二人で帰った。
「デートって、どこへ行けばいいの?」
いつもの店のいつもの席に着くなり、俺はずっと聞こうと思っていたことを切り出した。
「どこって……色々あるだろ、選択肢」
面食らった瀬下は、飲み物とつまみの注文を終えてから腕組みをして考え出した。
「……海、とかテッパンじゃないか?ベタだけど」
「まだ寒そうだけど」
「夏の混んでる海行ってもロマンチックじゃねーだろ」
デートにロマンチックさを求める瀬下がなんだか意外で、こう言ってはなんだが少し気色悪い。
「……今失礼なこと考えただろ、お前」
「なんでわかったの?たまにエスパーだよね」
「認めるなよ否定しろ敬え」
飲み物とお通しがやってくると、とりあえず手をつける。
「デートって例の子?」
「そう」
「順調か」
「割りとね」
そう答えると、緩んでいた瀬下の表情が固くなる。
「……なんか、イケメンのノロケほどヘドが出るものもないな」
「びっくりするほど急に手のひら返すね」
今まで逐一の報告まで求めて亜子との話を聞いてきたのに、上手くいってるとなると豹変するのは何なんだろう。
「いや~どうせ上手くいくだろうな、って思ってたら本当に上手くいきそうだからさ~嫉妬?」
瀬下はあっさりそのどす黒い腹のうちをぶちまけてきた。
「別に、まだ付き合ってる訳じゃないし」
まだ上手く行くとは決まっていない。亜子は昔の俺にまだ囚われて、人を信じることを躊躇ってる。不思議な話だが、俺が俺を阻み、またそれも甘美な手応えがする。ただ、他人に掠め取られないようにだけしておかなくては。
「でも、デートだろ?」
「デートだね」
「……なんかムカついた」
理不尽に切れられた。瀬下はプリプリ怒りながら、注文で届いたばかりのほっけの開きに箸を入れる。いつも通り他愛のない話を瀬下が一方的に話し続けて時間は経つ。今日は地底人の存在の証明の話を延々としていた。よくわからないが、瀬下が恋愛に縁遠いのはこういうところのせいだと思う。反面教師にしよう。亜子の前では地底人の話はしない。
「お前今失礼なこと考えただろ」
そしてやっぱりエスパーだった。
今日はバレンタインデーだ。亜子からチョコレートを貰わなければ意味のない日。春期休暇に入るし、亜子のことだからチョコレートを渡すために俺に会いに来てくれるようなことはないということくらいは知っている。ちょうどサークルのある日だったので、サークルが始まる前に亜子には時間を取って貰い、大学で待ち合わせることになった。
「亜子ちゃん」
約束の共有スペースに行くと、まだ少し早い時間なのに勉強道具を広げている亜子がいた。それだけで嬉しい。
「これ、チョコです」
俺を見つけるなり、亜子は小さな紙袋を取り出して差し出す。もっと素っ気ないものかと思ったが、ラッピングまでしてある。さすがにストレートにチョコが欲しいとまでは言わなかったが、チョコが食べたいとアピールしただけはある。
「ありがとう」
意識しなくてもつい顔が綻んでしまう。お礼を言いながら、早速紙袋から包みを取り出した。
派手すぎない包装で、リボンやマスキングテープの揃えた色がアクセントになってるようだ。雰囲気からして、店で買ってきたような包装ではない。亜子の私物のセンスを思わせる。俺はすごく好きだ。可愛らしい。
「もったいなくて食べれないかもしれないな」
手作りだったらどうしよう。このラッピングは記念として丁寧に取っておくとしても、チョコレートは食べなきゃいけないし、でも食べてしまえば無くなってしまう。思えば亜子からこうやって物をプレゼントされるというのは初めてじゃないか。クラフト紙を開けると、白い紙の緩衝材に包まれた板チョコが入っていた。……板チョコ?
「………………」
期待値が高すぎて、当然の現実に目が点になる。亜子を見て、チョコを見て、亜子を見る。
「食べてください、溶けますから」
あ、やっぱり誰かのと取り違えたとかじゃないんだ……。もう少し『トクベツ』を期待したけれど、仕方がない。
「……なんか、亜子ちゃんらしいかも……」
板チョコというのは亜子らしいと言えば亜子らしいかもしれない。
「かわいいチョコが欲しいなら、相応しい女の子が他にいますよ」
さすがにちょっとガッカリしてたのが見て取れてしまったのか、亜子は苦笑した。
「亜子ちゃん以外にもらっても意味がないからな。チョコ、今食べちゃお」
言いながら、板チョコの包みをあけて、ぱきっと割った。そう、このチョコ以外は意味がない。
「はい、亜子ちゃん」
割ったチョコレートを差し出すと、亜子はきょとんとした。
「……いいんですか?」
「こうやって食べる方がおいしい」
一人で食べても良かったけど、亜子ごと独り占めした方がきっと美味しい。チョコは甘くてじんわり口の中で溶けていく。
「あと、借りていたCD返します」
亜子は鞄の中から包みを取り出した。チョコレートと同じように、クラフト紙にレースや差し色のリボンにくるまれている。
「あ、こっちもラッピングしてるんだ」
「ラッピングあまったので」
確か亜子に貸していたのは、マイルス・デイビスやヘレン・メリル。こんなに可愛くなって返ってくるなんて。
「どうだった?」
「すごくよかったです。自分でCD買おうかと思って」
元々俺がよく聴く音楽を亜子も興味があったみたいで、聴きやすいものを選んで貸していた。こうやって共有できるものが増えるのは幸せだ。もっと俺の好きなものを亜子にも知ってほしい。
「よかった。じゃあ、ジャンゴ・ラインハルトとかエラ・フィッツジェラルドとかも気に入るよきっと」
「ジャンゴ・ラインハルト、と、エラ……えーと?」
ジャズギタリストとジャズボーカリストの名前を挙げると、亜子は慌ててノートの隅にメモしようとするが、シャーペンの持つ手が止まる。覚えていてくれようとするその素直さに胸が痺れてしまいそうになるくらい嬉しい。
「あとでメールするけど」
目の前にあった亜子の筆箱からシャープペンシルを借りる。これは……紫色の、例のシャーペンだ。中学生の頃からずっと持っているんだ。つい感慨に耽りたくなったが、そうではなくて亜子のノートの隅のメモの続きを書く。カタカナ読みと、一応綴りも。メールで送った方が、後で思い出しやすいだろうけれど。
「あ……」
亜子が小さく呻く。何事かと思うと、亜子は絶句して立ち上がる。
「あ……あ……」
俺の書いたメモから視線を外して、亜子は窺うように俺をじっと見た。
「今、屋……くん……?」
「!!!」
かつての名前を呼ばれて、言葉にならないくらい驚いた。どうして、今?顔を見ても声を聞いても亜子は俺だと気付かなかったのに。
文字。そうか、文字か。
『今屋くんが書いた字って、すぐにわかるよ』
亜子が言っていたことは本当だったんだ。自分でも綺麗だとは言えない字なのは知っている。でも、まさか文字で気付かれてしまうなんて。
「ふふ、ふはは、ははははは」
笑いが込み上げてくる。こんなに愉快なことはない。
「顔は忘れてたのに、文字は覚えてくれてたんだ」
ここは『間宮』としてシラを切るのが良いのかもしれない。でも、自分の心には嘘はつけなかった。嬉しい。
俺が俺だと亜子が見つけてくれた。覚えていてくれた。ずっとずっとこの時を待っていたかのように、心が満たされる。興奮して頭がおかしくなりそうだ。
「……!!!」
認めてしまった俺に、亜子は机の上のものをバッグに詰め込んで、何も言わずにその場から走り去った。逃げたつもりだったんだろうか?気が付けば、俺の手にはあの紫色のシャープペンシルが残ってる。これ、返さなくちゃ。
「さて、どうしようかな」
一人言をあえて呟く。亜子に俺が今屋だとバレてしまった。それはいいとして、亜子が俺から離れていかないようにしなくては。そうだ、憎まれてもなんでもいいから、亜子と俺は側にいなくちゃいけない。走っていってしまった亜子だけど、あの鞄には発信器がついている。確か今日五限に補講があるって言ってたから、帰ったりはしてないはずだけど。
「やっぱり、いた」
携帯電話で亜子の位置を確かめる。どこに向かおうとしてるのか、めちゃくちゃに走ってる。ここから離れた裏庭を目指しているようだったので、近道をすればそう遅れずに亜子のところへ着けそうだ。
「可愛い亜子」
顔を青くした亜子もたまらない。いけない亜子だ。欲情しちゃう。俺はお姫様を迎えに席を立った。
亜子は、裏庭から入る研究棟の喫煙所のベンチにいた。切らした息を整えているようだ。深刻そうにうつむいてる。
「亜子ちゃん」
「!!!」
声をかけると、それだけで飛び跳ねるかのように身動いだ。俺の姿を認めると、亜子はきゅっと口を結んで立ち上がる。
「どうしたの、急に出ていっちゃって」
一歩一歩近付いて行くと、距離を取るように亜子は間合いを図っている。
「あ……の、今日は……帰ります……」
やっとそう言葉を絞り出すと、亜子は俺に近付かないように壁づたいに歩く。さっきまであんなに素直な亜子だったのに、こんな風に警戒されてしまうんだ。傷付くなあ。
「忘れ物だよ」
俺の横を通り抜けようとする亜子の前で壁に手をついて行き先を阻んだ。ビクッと体を強ばらせる亜子に、さっき借りたシャープペンシルを差し出した。
「あ、ありがとう、ございます……」
おずおずと亜子はシャープペンシルに手を出すが、俺はすんなり渡さない。逃がしたりなんかもしない。
「あの……」
どうしたらいいかわからない亜子の肩はかすかに震えてる。今の今で亜子もだいぶ混乱しているようだ。俺が誰だか確信まではしていないんじゃないだろうか。だって、普通に考えたらあり得ないことが起こっているのだから。でも、亜子から確かめるような素振りは見せない。ただ、怯えてる。
「亜子ちゃんは物持ちがいいんだね。あの時と変わらないシャーペンだ」
だから、俺は自分から事情を話すことにした。こうなってしまったからには、亜子に愛してもらおうなんて思わない。嫌われても憎まれても構わない。でも、逃がさない。
「私、帰ります……帰して下さい……」
やっぱり、亜子は俺と対峙することを避けようとする。
「帰るの?補講があるって言ってたよね」
する、とシャープペンシルを持つ手を緩めると、亜子はあの紫色のシャープペンシルを取り返してギュッと握りしめる。
「……俺に聞きたいこと、あるはずだよね?“入野さん”?」
かつての呼び方を再現しながら、亜子の目を覗きこんだ。綺麗な瞳だ。その目で俺を見ていて欲しいのに、亜子は逸らそうとするから、そんなこと許さない。亜子から問い質して欲しいんだ。
「どう……して……」
亜子はその一言だけでこぼした。質問に答えるには充分な問い。
「一度は、諦めた。君に拒絶されたことで、身を引いた。でも、君のいない世界は虚しくて、生きていく価値もないように思えた。君が、君だけが、俺を生かしていた希望だった。
だから、やっぱり入野さんにまた会いたいと思った。今屋悠人ではもう会ってくれないかもしれないから、別人として。ちょうどうちの母親が再婚してね。名字が変わった。それだけじゃ不安だったから、髪の色や雰囲気も中学から変えたよ。あと、ちょっと鼻いじったし、体も鍛えてみた。あれから成長もしたし、ぱっと見はわからないくらいにはなった」
俺が淡々と今までのことを語る間も、亜子はシャープペンシルを握るしかなかった。
「亜子ちゃんのことは調べさせてもらったよ。だから今の俺のアパートやサークルなんかは作為的に選んだ。でも、あの日電車であんな再会をするとは俺も思ってなかったな。
入野さんは、俺のことを忘れようとしてたのかな?間宮が今屋だと感付かれなかったのは幸いだった。おかげで亜子ちゃんと仲良くなれたからね。ずっともどかしかったよ。こんなに好きなことが……亜子ちゃんしか見えてないことが伝わらないから」
自分でも不思議なくらい、今屋と間宮が入り交じる。
『入野さん』と呼ぶのは今屋。『亜子ちゃん』と呼ぶのは間宮。人格が複数あるわけでもなく、ただ演じ分けていただけだったけど、不思議な感覚だ。
「ようやく、亜子ちゃんに近付けたと思ってた。このまま亜子ちゃんが手に入ると思ったのに……まさか、今さらになってバレちゃうなんて。
でも、嬉しかった。嬉しすぎた。君の片隅にまだ俺がいた。あの時言ってたことは本当だったんだね。本当に、文字で俺がわかってしまった」
一気にそこまで話し尽くしたが、亜子の不信の目は変わらない。それはそうだ。俺のやってることは、客観的に言えば許されることじゃない。そこまでわかっていても、俺が亜子を求めることはやめられない。
「私……今屋君に、なにか、した?」
亜子にとってはこの愛も凶器なのだろうか。まるで罰を受けてるような口振り。
「……君は、俺を肯定してくれた。理不尽しかないこの世界を、それでも生きる意味を教えてくれた。俺には……君しかいない」
もう、この生き方以外知らない。亜子にすがって生きていくしか出来ないんだ。
「愛してる、亜子」
まだ、あともう少し、側に寄らせて。間宮では許されなかった間合いも、今なら押しきれる気がした。後ずさろうとする亜子の腰を捉える。
「うそだよ、そんなの……だって、なら、どうしてあんなこと……」
俺の告白も、亜子にはやっぱり届かない。でも伝えなければ。俺の愛を知ってほしい。そして俺を憎んで怒って恨んでよ。
「今思えば、幼稚で傲慢だった。どうすれば亜子が俺のものになるかとばかり考えていた。そして、あの時俺はああすることが最善だと考えた。」
「最善って……なに?」
亜子の声は冷たかった。明らかに不機嫌である。
「あの教室は、人間の皮を被ったサルが閉じ込められた檻だった。だから、亜子が俺を見付けやすいようにした。俺だけが亜子のことを守ってあげられるから」
「……!」
目を見開いた亜子は、後ろにまわった俺の手をはねのける。
「そのために、私はあんな気持ちを味わなければならなかったの?」
あの日の亜子の目だ。鋭く嫌悪する敵意の目。
「友代だって巻き込まれた。ひどい、ひどすぎる」
「……まだ、亜子は阿川さんを庇うんだね」
また阿川の名前が出るのかと辟易しながら、亜子の右手を掴んだ。あの日を亜子が思い出せるように、無理矢理引っ張って手首に口付けをする。
「!!」
俺を振り解こうと亜子は身をよじった。
「……私は、今屋くんのことが大嫌い。許せない、もう顔も見たくない」
いつも目を逸らしてばかりの亜子が、俺を睨んだ。それがなんだか照れくさくも感じた。
「悪いことをしたとは思ってる。亜子が俺を嫌うのも当然だ。……でも、亜子がいなければ俺は生きてる意味がない」
亜子を掴む力を緩めて、まるで被害者かのように微笑む。俺から右手を取り返した亜子の目が、一瞬ぐらつく。
「……だから、俺の恋人になってよ」
ずっと考えていたことを、提案した。亜子は俺が何を言い出したかよく理解できないようだった。
「意味が、わからない……」
あの映画館の帰り道、俺は亜子に囁いた。ずっと間宮でいられないのなら、今屋で亜子を縛りつけるしかない。
「俺の恋人になって……毒を飲ませて」
動かなくなった亜子を抱き寄せても逃げ出さない。それより俺の言葉に惑っているようだ。
「毒、って……」
見上げる亜子の奥底から、色んな感情が窺えた。
「俺のことが憎いなら、それでいい。嫌ってもいい。いくらでも傷付けて構わない。君にはその権利がある。でもその代わり、俺と恋人になるんだ」
亜子はあの時の決着をつけなければいけない。それは彼女自身もわかっているはずだ。だから、亜子はきっと俺への断罪を望む。
「恋人と言っても、召し使いがわりにでも使えばいい。亜子が欲しいものはなんでも貢ぐし、亜子が望むことは聞き入れる。適当に俺で遊んで、ぐちゃぐちゃに傷付けて、ポイ捨てしてよ」
亜子へ囁いたことは、全て本心からの言葉だった。どんな仕打ちでも耐えられる自信がある。
「復讐、したくない?」
沈黙は一瞬。あらゆることを思い出した亜子は、すぐに決心をした。
「わかった」
重々しく亜子は頷く。
「ありがとう。亜子の手で、俺を罰して」
いびつで歪んではいるけれど、やっとここまでこれた。やっと亜子を捕まえることができたんだ。
ルールが先に亜子から提示された。
『亜子の身体に触れないこと』
異論はなかった。それはやっぱり亜子を目の前にすれば欲望がもたげるが、今はその時ではないと理性でリビドーを押さえつけるくらい造作でもない。
「その代わり、俺を名前で呼んで。『今屋』でも『間宮』でもなく、『悠人』って」
懇願する俺を、亜子は虚ろな瞳で見る。感情は窺えない。
「もう俺は『今屋』でも『間宮』でもない。君の恋人で君の彼氏、君のしもべ、君の男だ」
亜子が頷くことはなかったけれど、首を横に振ることもなかった。だから俺はそれを肯定だと捉えた。
「愛してるよ、亜子」
ずっと意識して『亜子』とは呼ばなかった。俺たちにはずっと隔たりがあったから。でも、もう亜子は俺の女だし、俺は亜子の男だ。本当は抱き寄せて口付けたい。全部触って確かめたい。こらえて拳を握る。亜子と恋人になれた。この事実ほど俺にとって幸せなことはないのだから。




