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かなしみはあなたとともに

挿絵(By みてみん)


――彼女の話。








 それでも日々は過ぎていく。毎日は変わらず、なにかがあるわけでもない。大学とバイトの日常が、月日を追い抜いていく。

 ずっと眠らせていた中学生の頃の記憶を、私はまた忘れしまいたかった。だって、あんな絶望の中で生きていくなんてこと、今の私にはもうできないかもしれない。だけど、悪い夢は、私の喉元で留まり続けている。


「本、見つかった?」


 小声で、間宮さんが私に尋ねる。

 ここは東大の図書館で、間宮さんに案内をしてもらった。東大に足を踏み入れるのも初めてで、よく見る写真そのままの建物に不思議な感覚になる。公私立大の学生は、時間内に手続きをすればここの図書館を利用することができる。蔵書数は群を抜いてるし、行ってみたいという好奇心もあった。話してみれば間宮さんは進んで案内を買って出てくれて、こうして私を連れ出してくれた。

 二人で講義室やキャンパスをまわり、食堂では学食も食べた。間宮さんはとても顔が広い人みたいで、土曜日で人も少ないのに間宮さんに声をかける人が何人かいたくらいだ。それでもなにか最高学府に間宮さんの出で立ちはどこかそぐわない気がして、ちょっと微笑ましかった。

 最後に図書館に立ち寄って、気になっていた蔵書を何冊か手に取る。私は図鑑の類いが好きで、分野には拘りはないけど図鑑にある絵とかを眺めるのが好きだ。専門書が膨大な量並ぶ棚から、古めかしくて絵の多い蝶の図鑑を選んできた。それと魚の図鑑。粘菌の図鑑。


「どれも重そうだね。荷物持ちしたのに」


 苦笑しながら間宮さんは私の手から図鑑たちを取り上げた。


「ありがとうございます」

「図鑑?図鑑かあ」


 机の上に置いた一冊を、間宮さんが何気なくめくる。そこには鱗粉さえ記してしまうような筆致で描かれた蝶が翅を広げていた。


「いい本選ぶね」


 私は間宮さんの隣に座って、二人で図鑑を眺める。図書館は静かだった。紙がめくられる音が、小気味良い。

 あれからも、私たちは何も変わらない。間宮さんは立ち入ったことを聞かないし、私も蒸し返すようなことはしなかった。夜遅くまでのシフトはやめたので必然的に会う回数は減ったけど、メールや電話は相変わらずだった。私たちは、思ったよりも共有できるものが多かった。例えば映画だったり、購読してる雑誌とか、好きな作家や、聴いてる音楽だとか。話をするのに事欠かなくて、本やCDの貸し借りもするようになった。こうやって並んで本を広げていると、まるで恋人でいるような錯覚をしてしまう。私は少しずつ間宮さんに心を許しつつあるんだと思う。

 図書館の閉館時間はあっという間にやってきてしまった。欲張って棚から出した図鑑たちは全部は見切れなかった。

 日が遠くなった夕暮れは、とても風が冷たい。そういえば、明日は雪だって予報が出てる。私たちは帰りがけにスタバに寄って少しおしゃべりしてからいつものように地元へ帰った。


「……手、冷たくない?」


 手袋もしない私の手を間宮さんが取る。間宮さんの手は温かかった。


「……繋ご」


 返事を確認することなく、間宮さんは私の手を引いた。カチコチになった私の手が溶けていくようで、私はなにも言わずに握り返して、そのまま帰った。




「亜子ちゃん」


 約束より少し早い時間に、間宮さんがやってきた。サークルに行く前にどうしても会いたいと言われて、春期休暇で授業は無かったが、共有スペースで勉強をしながら待っていた。間宮さんの言葉の意図を、私もさすがに察していた。チョコが食べたい、とまで言っていた。今日は2月14日。バレンタインデーだ。


「これ、チョコです。」


 私はさっそく隣に腰を下ろした間宮さんに紙袋を手渡した。

「ありがとう」


 にっこり笑って間宮さんは包みをあける。ラッピングは百均で選んで買ったクラフト紙やリボンやマスキングテープだ。センスとかないので、色合いとかはもう知らない。

「もったいなくて食べれないかもしれないな」


 間宮さんは梱包を破ったりしないように、丁寧にほどいていた。どうやら期待をさせてしまってるようだ、申し訳ない。クラフト紙に包まれた白い紙のクッションから更に出てきたのは、麻紐のリボンのついた板チョコだった。


「………………」


 さすがに間宮さんは黙る。私を見て、チョコを見て、私を見る。


「食べてください、溶けますから」


 お母さんと、マリちゃんや冬馬君たちと、バイト先にも同様のチョコを用意している。女子高だったのでバレンタインデーはそれはもう凄まじいカカオの応酬だったのだけど、私は手作りとかできない子だったので板チョコをラッピングで誤魔化す技を編み出した。


「……なんか、亜子ちゃんらしいかも……」


 ガッカリしてるのは隠せない様子だったけど、間宮さんは苦笑していた。


「かわいいチョコが欲しいなら、相応しい女の子が他にいますよ」

「亜子ちゃん以外にもらっても意味がないからな。チョコ、今食べちゃお」


 間宮さんは板チョコを開けて、ぱきっと割る。


「はい、亜子ちゃん」

「……いいんですか?」

「こうやって食べる方がおいしい」


 ありがたくひとかけ受け取った。マリちゃん手作りのトリュフとか有名なブランドとかとは違うけど、一番安心する味。


「あと、借りていたCD返します」

「あ、こっちもラッピングしてるんだ」

「ラッピングあまったので」


 クラフト紙にレースと金のリボンはやや過剰包装気味だったけど、おかげで具材を使いきることができた。


「どうだった?」

「すごくよかったです。自分でCD買おうかと思って」


 ずっと気になってたけど何から聞けばいいのかわからなかったジャズとかブルースとか、間宮さんが手持ちのCDを貸してくれた。


「よかった。じゃあ、ジャンゴ・ラインハルトとかエラ・フィッツジェラルドとかも気に入るよきっと」

「ジャンゴ・ラインハルト、と、エラ……えーと?」


 聞き慣れない名前で、一回じゃ覚えきれない。メモしておこうと、ノートの端をメモがわりにする。


「あとでメールするけど」


 そう言いながら、間宮さんは私の筆箱から紫色のシャープペンシルを取り出した。私のメモに続けてカタカナと綴りを書き記す。払いが大きくていびつな形。角張ったアルファベット。


「あ……」


 見覚えがある。この字を書く人を私は知っている。


「あ……あ……」


 いてもたってもいられず、椅子から立ち上がって、間宮さんを見た。


「今、屋……くん……?」


 何を言ってるんだと自分で思った。筆跡なんてたまたま似たような文字を書く人もいるだろう。間宮さんだってなんの話かわからないはずだ。

 でも、間宮さんは……笑った。


「ふふ、ふはは、ははははは」


 こんなに大きな声で笑う間宮さんを初めて見た。


「顔は忘れてたのに、文字は覚えてくれてたんだ」

「……!!!」


 ゾクッとした。私は机の上のものをぐちゃぐちゃにバッグに詰め込んでその場から走り去った。

 全力で走った。無我夢中で、頭の中が息切れで苦しいことしか考えられないくらい。不安が私を駆り立てた。確信ではなく、そうであったらおそろしいという不安。そして恐怖。訳はわかっていなかった。だって、どうして二人が同一人物だと言うんだ。名前も違うし雰囲気も違う。でも、本人は肯定していた。間宮さんが……いや、今屋君?

 私はだいぶ遠回りをしながらキャンパスの裏庭に辿り着いた。息を整えながら、日陰になってる研究棟のベンチに落ち着いた。研究棟の人たちの喫煙所だが、ここはあまり人も来ない。しばらく休ませてもらおう。

 ふう、と息をついて、組んだ両手を見下ろした。あまり考えたくない。でも、間宮さんにはもう会わない方がいい気がする。でもその前にもう一度だけ確かめた方がいいんだろうか。もし本当に今屋君だったら……。


『毒を飲ませてやれればいいのに』


 …………間宮さんがそう言ってた。飲ませて、苦しめてやれれば……。


「亜子ちゃん」

「!!!」


 呼び掛けられて、私は反射的に立ち上がった。そこには、笑顔の間宮さんが立っていた。いつもと同じはずの笑顔が、凍りつくほど冷ややかに見えた。


「どうしたの、急に出ていっちゃって」


 なんで私がここにいるってわかったんだろう。間宮さんは息を切らしている様子はない。


「あ……の、今日は……帰ります……」


 もうここにもいられない。壁際を歩き、間宮さんの横を通り抜けようとする。でも、間宮さんは壁に手をついて私の進路を阻んだ。


「忘れ物だよ」


 差し出されたのは、さっき間宮さんが使っていた紫色のシャープペンシルだった。


「あ、ありがとう、ございます……」


 受け取ってすぐこの場から離れるつもりだった。でも、間宮さんは壁についた手をどけることもなく、シャープペンシルを持つ手も離さなかった。


「あの……」

「亜子ちゃんは物持ちがいいんだね。あの時と変わらないシャーペンだ」

「…………!」


 今聞いたことを無かったことにしたい。だってもうたくさんだ。これは中学の時から使ってるものだけど、そんなこと誰も知らないはずだ。こわい。お腹のそこからざわざわとせりあがる。


「私、帰ります……帰して下さい……」

「帰るの?今日は六限がある日だよね」


 講義なんて、今はどうでもよかった。間宮さんはシャープペンシルを持つ手は離してくれた。でも、まだ通してくれなさそうだった。


「……俺に聞きたいこと、あるはずだよね?“入野さん”?」


 間宮さんが私の顔を覗きこむ。近い。目を逸らすことを禁じるように、瞳孔を視線で射ぬかれる。


「どう……して……」


 それしか言葉にならない。


「一度は、諦めたんだ。君は俺との連絡を断ってしまったし、なにより君に憎まれてしまったことが悲しくて辛かった。でも、君のいない世界は虚しくて、クズばかりで、ひどいものだ。生きてる意味すらないと思うくらいに」


 間宮さんは楽しそうに話し出した。


「だから、やっぱり入野さんにまた会いたいと思った。今屋悠人ではもう会ってくれないかもしれないから、別人として。ちょうどうちの母親が再婚してね。名字が変わった。それだけじゃ不安だったから、髪の色や雰囲気も中学から変えたよ。あと、ちょっと鼻いじったし、体も鍛えてみた。あれから成長もしたし、ぱっと見はわからないくらいにはなった」


 間宮さんは淡々としているけれど、すごいことを言ってる。


「あのアパートから引っ越していないことや、通ってる大学は調べさせてもらったよ。だから今の俺のアパートやサークルなんかは作為的に選んだ。でも、あの日電車であんな再会をするとは俺も思ってなかったな。

  亜子ちゃんに、間宮として受け入れてもらえたのは本当に嬉しかった。どうかこのまま、と思ってたんだけどね……まさか文字でバレちゃうとは。でも、あまりに嬉しすぎて頭がおかしくなりそうだった。本当は悔しがるところなんだろうけど、あの時言っていたことは本当だったんだね」


 間宮さんはいつになく饒舌だった。すごく嬉しそうに言う。でも、こんなのはおかしい。そこまでして私に拘るのかわからない。


「私……今屋君に、なにか、した?」


 どうしてこんなことをされなくてはならないのだろう。


「……君は、俺を認めてくれた。肯定してくれた、唯一の人だ。俺には君しかいない」


 前も、そのようなことを言っていたけど、私には身に覚えがない。それが例え今屋君であってもだ。


「愛してる、亜子」


 今屋君が近付いてくる。目の前にいた間宮さんは、確かに今屋君と同じ顔をしている。彼から逃げようとするが、後ろにも腕が添えられていた。


「うそだよ、そんなの……だって、なら、どうしてあんなこと……」


 私は今屋君を信じることができなかった。好きなんていうなら、大切にするはずだ。あの時、私がどんな思いをして耐えていたか、今屋君なら知ってるはずだ。


「あの時は俺も幼かった。ただ君が可愛くて可愛くて、追い詰めることが最善だと考えた」

「最善って……なに?」


 今屋君はまるで私に好意を寄せているかのように言う。でも、私には実感はわかないし、信じられない。得体のしれないものを期待されてるような気がして、不気味だ。


「君を俺のものにするには、ああするのが一番だと思った」


 カッとなった。この人は身勝手だ。妄想のために、人にあんな思いを味わせるのか。


「……私、あなたが許せない。今屋君のこと、わかりたくもないし顔も見たくない」


 私は今屋君を睨んだ。この怒りは何年経っても消えそうにないし、彼と仲直りなどしたくもない。ありったけの敵意を込めて、私は今屋君を非難した。

 すると、今屋君の目は私から逸らされ、息を漏らすように力なく笑った。


「許せない、か。やはり亜子は俺を受け入れてはくれないんだね……残念だ」


 まるで傷付いたような、儚い笑顔。でも、罪悪感などは抱いちゃいけない。もう、本当にこれで最後だ。互いにわかりあえないなら、もう会わないしかない。


「……じゃあ、俺の恋人になってよ」


 でも、今屋君の提案は私の理解できるものではなかった。また今屋君の瞳がこちらへ向く。


「意味が、わからない……」

「俺の恋人になって……毒を飲ませて」


 頭の中がチカチカした。後ろからの腕に押されて、私は今屋君の胸に入り込んでしまった。


「毒、って……」


 足が震えそうだ。目の前のこの人が何を考えているのか全然わからない。


「俺のことが憎いなら、それでいい。嫌ってもいい。いくらでも傷付けて構わない。その代わり、俺と恋人になるんだ」


 そんな条件、飲むわけない。でたらめだ。嫌いなんだから会わない。会いたくない。


「恋人と言っても、召し使いがわりにでも使えばいい。亜子が欲しいものはなんでも貢ぐし、亜子が望むことは聞き入れる。適当に

俺で遊んで、ぐちゃぐちゃに傷付けて、ポイ捨てしてよ」


 嘘や冗談の類いではなさそうだった。なぜ、そんなことを言えるのだろう。


「復讐、したくない?」


 今屋君は、どこか狂ってる。


「……………………」


 ぐちゃぐちゃに傷付けるって言ったって、どうすればいいのかわからない。でも、私にはそうする権利があるのではないか。私と同じように今屋君に毒を飲ませても当然ではないだろうか。

あの翳った教室の、ざわめきが聞こえる。


「わかった」


 私は、自分で思っていたより悪人だ。恨み深く、愚かで、醜い人間だ。


「ありがとう。亜子の手で、俺を罰して」


 今屋君が、私の耳元で囁いた。




 恋人なんて言っても、形だけだ。いや、形ですらないかも知れない。

 私は今屋君から触れられることを拒絶した。あの日の感触が蘇るから、今後一切触れるなと念を押す。こんな恋人なんて、あるはずがない。でも、今屋君はそれを了承した。そればかりか、恋人になったと、とても嬉しそうにする。


「その代わり、俺を名前で呼んで。『今屋』でも『間宮』でもなく、『悠人』って。もう俺は『今屋』でも『間宮』でもない。君の恋人で君の彼氏、君のしもべ、君の男だ」


 私は、頷かなかった。だってこれは、初めから不公平な契約だ。私が今屋君を一方的に傷付けて良いという、独裁的な契約。こんなことして何になるかはわからない。今屋君が傷付いた姿を見れば、私の気は済むのだろうか。懐疑的ではあったが、それでも迷いは無かった。最後は、簡単に捨ててしまえばいいんだ。そうすれば、私が引き摺っていた卒業し損ねた中学校が終わる。


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