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正気

挿絵(By みてみん)


――彼の話。








 大学が夏休みに入ると、亜子と会う機会はほとんど無かった。亜子はほとんどをバイトに費やしているらしく、たまの休みの日は、大学や高校の友人とご飯に行っているらしい。

 こういう時がもどかしい。俺の今の立ち位置では、亜子を誘い出すのは難しい。

 亜子からしたら、今の俺は一体なんと呼ぶべきか。俺は俺の想いを隠すことなくぶつけているつもりだが、亜子はそうは受け止めてなさそうだ。現に、はぐらかされることも多々ある。

 かといって偶然を連発するのも感付かれてしまうかもしれない。そうなると指を加えて時が来るのを待つしかない。せめて、もう少し距離を縮められたら違うのに。


 夏休み中、亜子の発信器が三日ほど途切れた日がある。佑利子さんのお土産を頼りに尋ねてみると、どうやら亜子の祖父母の家に遊びに行ったらしい。亡くなっている亜子の父親の実家だと言う。つくづく思う。亜子は、俺の持っていないものを持っている。

 会えない代わりにメールは引き続き送ったが、少し頻度を減らしてみる。

 押してばかりではなく『カケヒキ』が肝要だ、という瀬下の助言に従ってみたが、どれだけ効果があったのかはわからない。


 そして気付けば、季節は秋に差し掛かっていた。亜子と再会してから半年近く経ったことになる。

 黒河は頼まなくても亜子の話をしてくれるのでありがたい。黒河曰く、亜子と俺が恋人になれば面白そう、らしい。

 しかし、同じ友人グループの中にも亜子に片想いしている男がいて、『そいつも悪いやつではないけど、私は間宮さん派ですから!』と味方宣言をされた。黒河の言う片想いの男は、十中八九あの時亜子の隣にいたあの男だろう。

 亜子がどこに転ぶかは予測できない。俺の手をすり抜けてしまうくらいだから、簡単には他の男のものにもならない気がする。でも、あっさり他の男を見初めてしまう気もする。この不安は、俺が亜子に恋をしているからだろうか。

 俺は、もう少し欲しくなった。もう一歩、近付ければいい。亜子を思い返して慰めるだけではもう足りない。亜子を俺のものにしなければ、何も意味がないんだ。思い立てばすぐに行動に移した。




「こんにちは」


 オープンスペースで一人でレポートをしていた亜子に声を掛けた。二週間と三日ぶりの亜子だ。かわいい。


「こんにちは。これからサークルですか?」


 亜子にはあまり久しぶりという感じはないようだ。昨日もメールしていたからかもしれない。


「いや、違うよ」

「……?違うのにうちの大学に?」


 不思議そうに亜子は首を傾げた。


「亜子ちゃんに会いに」

「……え?」


 亜子は顔を赤くすることなく真剣な表情になる。


「メール見落としてたかな」


 やっぱりそういう風に取るか……。


「あ、違うよ。亜子ちゃんに連絡はしてない」


 どうもなかなか想いは伝わりづらいようだ。それならば、なおさらストレートに行くしかない。


「亜子ちゃんに会いたいな、と思ってただけ」

 高校の頃、遊びで女を引っかけるには充分な文句のはずだった。それでも、亜子はやはり表情を緩めない。


「お金でも借りてましたっけ……」


 どうしても素直な好意と受け取って貰えないようだ。あともう一押しか。


「違う違う。理由ないと亜子ちゃんに会いたくなっちゃ駄目かな?」

「……そんなことないですけど」


 こちらの好意がやっと伝わったようだが、亜子はどちらかといえば不審そうに俺を見ていた。意味がわからない、とでも言うように。

 でも、俺は引かない。亜子の向かいに座って、頬杖をついた。


「会いたい、なんてメールしたらさすがに引かれちゃいそうだし、駅とかで待ち伏せしてたらストーカーだし。だから、もし会えたらなって思いながらここに来てみたんだけど」


 一息でそこまで言う。亜子を見つめているけれど、亜子はまだ普通の会話の延長だと思っているようだ。


「同じ駅使ってても同じキャンパス通ってても、なかなか会わないものだね」

「そうですね」


 ノートに視線を落とす亜子。こちらを向いてほしい。俺を見てほしい。


「それで考えてみたんだけど」


 頬杖をやめて、俺は亜子に向き直った。亜子も俺を見た。


「亜子ちゃんの彼氏になればもっとたくさん会えるよねって」


 やっと言えたと思えば、亜子は固まっていた。


「彼氏なら会いたいのメールも普通だし、駅で待ち伏せても待ち合わせになる。ね?」


 俺が何を言っても、亜子は表情を崩さず動かない。


「えっと」


 あまり見かけではわからないけれど、亜子は動揺しているらしい。表情からは読み取りづらいだけで。そう感じて、安心した。亜子の心に届いてないわけではないんだ。


「……亜子ちゃんの、彼氏になりたいな」


 念を押す。


「ごめんなさい」


 すぐに答えが返ってきた。


「……即答」


 つい言葉を漏らした。

 もちろん上手くいくつもりで告白したわけではない。断られることも想定していた。それでも、あわよくば、という気持ちはどこかにあった。誰にもうらやまれるような条件は満たしているはずだし、亜子には誰より優しくしている。せめて悩む素振りは見たかった。


「ふられちゃったか~」


 でも、まあ、想定内だ。言うほどのショックはない。亜子は気まずそうにして俺を見てくれないけれど、大事なのはここからだ。


「俺、亜子ちゃんの良い彼氏になれる自信あったのに。もしかして、既に彼氏がいるとか?」

「いえ」

「じゃあ、嫌われるようなことしたかな?」

「まさか」


 まずは断られた理由を探る。亜子に男がいるわけでも、『間宮』がお気に召さないわけでもなさそうだ。まあ、それは黒河からも聞いていることだったけれど。


「今、私、恋愛とかする気が無くて」


 言いづらそうにする亜子が、ちらりと俺を見る。まあ、なんとなくそんな気はしていた。亜子は自分に向けられている好意に鈍感で、自分の持っている好意にも鈍感なんだ。俺も、亜子と会う前はそうだった。


「そ。いいこと聞いたな。じゃあまだ俺には望みが残されてるってことだね」

「へ……」


 最初から、こんな風に食い下がるつもりだった。そうでもしなければ、俺は亜子の特別にはなれない。


「心の準備ができたら、その時俺を選んでよ」

「!?」


 亜子は信じられないような顔をしていたけど、ここでこの気持ちを疑われてしまうのは本意ではない。


「いや、そんな、いつになるかもわからないし」

「いいよ、何年でも待つ」


 そう答えるのに何の迷いもない。亜子がいなければ、それこそ俺はただの土くれなんだから。


「私、待ってもらう程の価値なんてないです」


 亜子の謙遜は美徳かもしれないが、亜子を貶めるようなことは駄目だ。


「価値、ってなに?」


 だって、俺には君しかいないんだ。


「俺にとって、君という存在はあまりに尊くて、代償がきかないんだ。君が俺を認めてくれたんだよ」


 俺が生きる意味は、君しかないんだ。


「…………」


 亜子は黙ったままでいた。でも、俺の気持ちは届いているはずだ。だから、亜子は何も言えないんだろう。


「勝手に待つよ、亜子ちゃんが迷惑でも」

 時間はいくらでもかかっていいんだ。亜子が、俺のものになりさえすれば。


「……間宮さんにとって、いいことになりません」

「大丈夫。亜子ちゃん、きっと俺に惚れるから」


 結論は決まってる。俺の用意した結論しか亜子には選ばせない。時間はいくらでもかかっていいけど……できればやっぱり、早い方が嬉しいな。だって、結論は一緒なのだから。


「だからさ、俺が亜子ちゃんに会いたくなっても許してね」


 穏やかな声で語りかけると、亜子はおずおずと頷いた。




 その日から、『間宮』は亜子にとって特別な位置を占める存在となった。

 クラスメートでも知り合いでもなく、恋人候補、だ。悪くない。ああ、悪くない。


 恋人候補に名乗りをあげたことで、俺から亜子へ連絡を入れることは自然となった。前からもメールはよくしていたが、電話をしたり会う約束を取り付ける機会も増やした。

 以前はバイトや授業で阻まれて終わりだったものが、亜子も時間を合わせようとしてくれるようになった。それは亜子のうちでは無意識の変化だったかもしれないが、亜子にとって『間宮』が受け入れるに足る人物だと判断したからだろう。


「ごめんなさい、待ちました?」


 校門前で立っていると、亜子が足早にやって来た。


「いや、そんなことないよ」


 にこやかに手を振る。亜子は五時限目の終わり、俺はサークル終わりでバイト前。木曜日のスケジュール通りだ。

 本当なら一緒にご飯でも食べに行きたいところだが、亜子がこの後母親のために夕飯を作らなくてはならないというのは、サニーマートのシフト表を見れば明らかだ。


「寒くなってきましたね」

「そうだね。毎年冬が来るたびに、去年こんなに寒かったっけ、って思うね」

「わかります。夏も毎年猛暑って聞くような」


 他愛のない会話。亜子にはそれ以上でもそれ以下でもないかもしれないけど、俺には特別な時間だ。


「……手、冷えない?繋ぐ?」


 11月も半ばで、コートを着込み始める季節。亜子に手を差し出して提案してみるが、亜子は少し動きを止めた後に、プルプルと首を振った。


「い、いいです……」


 視線を外してそう言う亜子は、どうやら照れているようだ。赤面したり慌てたり、そんなリアクションは無いけれど、最近は亜子が何を考えているか少しずつわかってきた。


「そっかあ、残念」


 繋いで貰えなかった自分の右手を見る。いつ亜子と手を繋げるようになるんだろう。


「あの……そういえば、十二月は木曜日もバイト入れることになりました」

「え?でも、五限終わってからでしょ?何時から何時までってこと?」


 毎週木曜日のこの時間は、亜子の授業とサークルのタイミングが揃う、貴重な時間。五限が終わった後では時間が遅くなりすぎるからと亜子はバイトを入れていなかった。


「19時から23時までです。遅い時間なんですけど」

「23時?遅いよ!」


 本人も言っている通り、帰りの時間が遅すぎる。あの再会の日以来、遅い時間は入れていないようだったのに。


「忘年会シーズンで閉店前に混み合うらしくって」


 亜子は何の心配も無さそうに言うけれど、帰り道を考えるとつい渋い表情になる。亜子のアパートの方は、駅前から離れるとすぐに暗くなる。


「それって、もうシフト決まっちゃったの?」

「ええ、まあ。だから、十二月は木曜日はもう待ち合わせはできなさそうで」


 亜子と一緒にいられる時間が減るのは困るけど、この際問題はそこではない。


「うん、じゃあその代わり帰り送るよ」

「え?」

「バイト終わり。駅で待ってるから、家まで送る」

「えっ?い、いや、いいですよ、ちゃんと定時に上がれるかもわからないし、遅い時間ですし」


 亜子は笑いながら遠慮しているが、俺は引く気はなかった。


「遅い時間だからだよ。夜道は何があるかわからないし」

「……何もないですよ」

「木曜日以外にも遅いバイトの日あるの?他の日も送るよ」


 強引に話を進めようとすると、亜子も俺が本気だと言うことを悟ったみたいだ。


「ありますけど……でも、間宮さんに悪いです。バイト入れたのは私の勝手なのに」


 こんな風に気を使うのが亜子らしい。


「亜子ちゃんの心配してるのは俺の勝手。万が一があってからじゃ遅すぎるし。それに、まあ、デート代わりにもなるから」


 笑いながらここまで言えば亜子も折れることを俺は知っている。思っていた通り、亜子は「いいんでしょうか……」と遠慮を収めようとしている。強情だけど、律儀なまでに素直なところが亜子らしい。


「……亜子ちゃんって、可愛いね」

「!?」


 亜子の横顔を眺めながら、つい本音が漏れる。すると亜子は驚いて振り向くが、目が合うとすぐにまた逸らす。


「好きだな、と思って」

「……う、うそです」


 もう一押しすると、亜子はそっぽを向いてそうつぶやくのが精一杯みたいだ。かわいい。その日は十二月のバイト帰りの約束をして別れた。

 毎日、些細な時間を少しずつを積み重ねるしかないが、それはそれで心地よかった。映画のジャンルに好き嫌いがないこととか、好きな本を薦め合ったりとか、購読している雑誌が同じとか、よく聴く音楽のジャンルが似ているとか。一つ一つ確かめ合うように、俺たちは打ち解けあっていく。――音声記録をチェックをしておいたのは正解だったみたいだ。

 共有するものが多いと確認できても、特別に進展することはなかった。「好き」とか「可愛い」と何度伝えても、亜子をくすぐるばかりで心境の変化はないようだった。

 やはり亜子の胸の底には俺に対する遠慮と言うか、踏み込めない何かがあるらしい。それは、一体なんだろう。他の女ならば、頼まれていなくても自分から俺のところへ飛び込んで来ようとするのに。

 それでも、12月26日のオールナイトの上映会を一緒に行く約束ができた。深夜から朝までのイベントなので二人きりでの約束ではないけれど、デートと言っていいはずだ。

 俺はずいぶん浮き足立っていた。デート一つでこんなに受かれるものなのかと自分でも不思議だが、これはきっと、亜子へ恋に落ちた時から抗えない衝動なんだろう。




「で、彼女とは?」


 いつもの店で、いつもの話題。少し違うのは、瀬下の手にはビールではなくホッピーであることぐらいか。


「告白した」

「えっマジ?」

「フラれた」

「えっマジ?」

「で、今度デートする」

「はっ?マジか?」


 何を言っても「マジ」しか言わないが、瀬下は心底「マジ」かと思っているらしい。


「えーと、まず、告白してフラれたっていうのは本当のことなんだな?」


 訳がわからなさすぎたらしく、瀬下は順に確かめ始めた。瀬下の問いに俺は頷いた。


「即効フラれた」

「お、おう……ドンマイ……」


 不憫に思ってくれたらしく、慰められた。「で、なんでデートに発展したんだ?」そして質問を続ける。


「フラれたって言っても亜子に嫌がられた訳じゃないから食い下がった。デートは努力の賜物」

「嫌がられたわけじゃない、ってのは、なんか彼女の都合でフラれた、ってことか?」


 少し考えた後、瀬下は首を傾げる。好きなら付き合う、嫌いならフる、一般的には単純な形式だろうが、亜子は違う。彼女自身、感情を恋愛に昇華することに手をあぐねているように思える。


「まだ彼女は、言うなれば子供なんだよ。恋の仕方も知らないような」

「えっ、ロリコンなの?お前……」

「怒るよ?」


 ドン引きの瀬下を睨み付けると向こうから「すいませんでした」と素直に謝ってきた。


「お前、意外に一途だな」

「意外ってなに?」


 こちらこそ心外な評価だ。


「俺は、亜子しか愛さない。そう決まってる」

「……子供の意地のように見えて、それを成し遂げそうなのがお前だよ」

「なにそれ、褒められてる?」

「褒めてる褒めてる」


 そうは思えなかったが、拗ねるほどでもない。亜子への愛を亜子以外の人間に納得させるなど滑稽だ。


「……成し遂げるさ」


 もし成し遂げることができなければ……それが俺の死に時なんだろう。


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