嘆きの底
――彼女の話。
テストが終わり夏休みに入ると、私は可能な限りバイトを入れて、お盆にはお母さんと二人でお父さんの実家に行った。
お父さんは北海道生まれなので、たまにしかおじいちゃんとおばあちゃんに会いに行けない。お母さんは義理の父母とも仲が良くて、お母さんも嬉しそうにするから北海道は大好きだった。
ほとんどバイトに明け暮れた私の夏休みはあっという間に終わってしまった。あまり友達と約束して遊ぶ、というのが下手なために、マリちゃんや冬馬君たちとはほとんど会えなかった。高校の頃の友達や旧知の友代とも会ったことを考えれば、私にしてはずいぶん動きまわった夏休みだったと思う。
間宮さんからはやっぱりいつものメールがよく届いたけど、前に比べたら頻度は下がってきたと思う。フットサルの試合を観に行かなかったのは少し心残りではある。
そして気付けばもう10月になっていた。
学祭の準備が始まっていたけど、有志のサークルなどが気合いを入れている分、私みたいな授業だけ真面目にやっている学生にはあまり関係がなかった。
「こんにちは」
オープンスペースでレポートをまとめていると、声をかけられた。顔を上げると、思った通りの間宮さんの笑顔がある。
「こんにちは。これからサークルですか?」
今日何曜日だったっけ、と考えるが、水曜日。マリちゃんから聞いた活動日だと、今日はサークルが無い曜日だった。
「いや、違うよ」
「……?違うのにうちの大学に?」
サークル以外でうちの大学に用なんかあるものだろうかと考えてしまう。
「亜子ちゃんに会いに」
「……え?」
なんか連絡もらってたっけと焦る。私は間宮さんと会うつもりはなかった。
「メール見落としてたかな」
「あ、違うよ。亜子ちゃんに連絡はしてない」
携帯電話を確かめようとする私を、間宮さんは朗らか制止した。だとすれば、もっと事態がわからなくなってくる。
「亜子ちゃんに会いたいな、と思ってただけ」
「お金でも借りてましたっけ……」
不義理をしでかしてしまったんじゃないかと自分の胸に手を当てて考えてみるも、やっぱり思い当たらない。
「違う違う。理由ないと亜子ちゃんに会いたくなっちゃ駄目かな?」
「……そんなことないですけど」
この人は何百人たらしこめるかの挑戦でもしているのだろうか。
「会いたい、なんてメールしたらさすがに引かれちゃいそうだし、駅とかで待ち伏せしてたらストーカーだし。だから、もし会えたらなって思いながらここに来てみたんだけど」
間宮さんは私の向かいの席に座った。頬杖をついた間宮さんが私を見ている。
「同じ駅使ってても同じキャンパス通ってても、なかなか会わないものだね」
「そうですね」
生活範囲は似通ったようなものなのに、本当にここ数ヵ月は数えるほどしかあってない。
「それで考えてみたんだけど」
頬杖をやめて、間宮さんは私に向き直った。
「亜子ちゃんの彼氏になればもっとたくさん会えるよねって」
は……。私は言葉もなく固まった。
「彼氏なら会いたいのメールも普通だし、駅で待ち伏せても待ち合わせになる。ね?」
理屈はそうかもしれない。でも、それで彼氏になるとか早計ではないか。いや、それとも今の言葉には真意が隠されていて、私は試されているのかもしれない。
「えっと」
無表情を装うのは得意だけど、私は明らかに内心テンパっていた。告白なんかされたことないし、しかもそれが間宮さんのような人なんて。
「……亜子ちゃんの、彼氏になりたいな」
テンパっているうちにとどめを刺された。思考停止しているうちに、私は深々と頭を下げていた。
「ごめんなさい」
そう、お断りするにはこうするのが正しい。無意識でも私は対応を間違えなかった。
「……即答」
間宮さんは少しびっくりしているようだったけど、私は頭を下げてから視線を間宮さんに合わせられない。とても気まずかった。
「ふられちゃったか~」
そうか、状況を考えてみれば、今私が間宮さんを振ったことになるのか。ちょっと入野亜子のくせに生意気だったかと思わなくもない。
「俺、亜子ちゃんの良い彼氏になれる自信あったのに」
モテるという自覚があるのか無いのか、間宮さんはどこか余裕に見えた。やはりからかわれたのかな、と頭をよぎる。
「もしかして、既に彼氏がいるとか?」
「いえ」
「じゃあ、嫌われるようなことしたかな?」
「まさか」
私が間宮さんとお付き合いできないのは全部私の問題であって、間宮さんは悪くない。こんな私でも、間宮さんが彼氏だったら自慢になるんだろうな、とかくらいは考える。でも二人が釣り合うかどうかは別問題だ。
「今、私、恋愛とかする気が無くて」
ちらり、と間宮さんの顔を見てみる。間宮さんは穏やかな笑顔のままだった。
私はきっと内面が未成熟なんだと思う。友達に対しても心の深いところを打ち明けたりできない。それが他人への不信感になって、自分を孤立させる。そんな私に恋愛なんてできない。気持ちが通じあわない恋愛なんて、恋人になった人を不幸にしてしまうから。
「そ。いいこと聞いたな。じゃあまだ俺には望みが残されてるってことだね」
「へ……」
思わぬ方向に間宮さんが会話の行方を持っていってしまう。
「心の準備ができたら、その時俺を選んでよ」
「!?」
なんでそんなことまで言われてしまうんだろう。片手間であろうとも、そこまで言って貰えるような女の子じゃないと断言できる。
「いや、そんな、いつになるかもわからないし」
「いいよ、何年でも待つ」
この人はあっさりとこんなことを言ってのけてしまうのか。いや、びっくりして言葉を失っている場合ではない。
「私、待ってもらう程の価値なんてないです」
可愛いわけでもないし特技があるわけでもない。どこにでもいるネガティブな地味な大学生だというだけ。一方間宮さんはきっと引く手あまたで、それこそ私たちには格差がある。
「価値、ってなに?」
間宮さんは真剣な顔になった。
「俺にとって、君という存在はあまりに尊くて、代償がきかないんだ。君が俺を認めてくれたんだよ」
うそ、を言ってるようには見えない。でも、私が間宮さんを認めた、というのはなんのことだろう。覚えがないし、私より間宮さんのことを知っていてなおかつ間宮さんのことが好きな人はきっとたくさんいる。
「…………」
どうしよう、困った。こんなに私のことを肯定してくれるなんてうれしい。でも戸惑う。間宮さんの気持ちをここで拒絶するのはあまりにもひどいし、このままこんな私を待たせてしまうのも誠意がない。
「勝手に待つよ、亜子ちゃんが迷惑でも」
私の心のうちを読み取るように、間宮さんが笑った。
「……間宮さんにとって、きっといいことになりません」
私はずるい。こんな言い方しかできない。
「大丈夫。亜子ちゃん、きっと俺に惚れるから」
ずいぶん自信家なようだったが、私はもうこれ以上何も言えなかった。
「だからさ、俺が亜子ちゃんに会いたくなっても許してね」
間宮さんの声はびっくりするくらい優しくて、私はこくんと頷くしかなかった。
今日は色々なことがあったけど、大学の帰りに約束があった。冬馬君が私をごはんに連れていってくれるらしくて、おごりとまで言うから半月前からバイトのシフトをオフにしてもらっていた。
大学の最寄りの駅で待ち合わせして、連れていってくれたのはこじゃれたカフェ風の路面店だった。冬馬君のイメージにないお店だったので、どうしたのだろうと心配になる。
「いつもここのとなりのもんじゃ焼きに来てるんだけど、こういうところ女子って好きだろ?入野はどうかなって」
なんだかわからないが気を使わせているらしい。
「え?もんじゃにしようよ。あ、あそこの二階?」
こじゃれた隣に電飾の看板がある。二階に続く壁一面のポスターたちが覗く階段がいい味を出してる。冬馬君がいつもこのお店に行ってるというなら、もんじゃの方がいい。
「えっ?いいの?」
「冬馬君はあっちのお店の方が良かった?」
「い、いや……」
「じゃ、もんじゃ」
有無言わさず私が勝手に決めた。
入ったもんじゃ屋さんは、年期の入った木造で、水着のキャンペーンガールのビールのポスターや、黄ばんだ手書きのメニューやらが壁中に貼ってある。人当たりの良さそうなおばちゃんに注文を頼むと、おしぼりで手を拭きながら在りし日のハイレグを眺めた。
「みんなとよくここに来るの?」
「あー、たまに。小腹減ったときとか。サークル帰りが多いかな」
お店の様相も、男子大学生たちやおじさんたちをターゲットにしてるような雰囲気だ。チェーン店とかにはないこういう個人経営っぽい雰囲気はすごく好きだ。
最初は腹ごしらえのためにお好み焼きを頼んだので、おばさんがくれた豚玉を焼き始めた。
「入野焼くの上手そう」
「そう言われると絶対にひっくり返すとき失敗する呪いにかかってるから」
「えっ」
中学生の頃や高校生の頃もそうだった。私はプレッシャーに弱いらしい。
私たちはお好み焼きを焼きながら、とりとめもなく後期の講義とか誰かのバイト遍歴とかの話をした。お好み焼きをひっくり返すのは冬馬君にバトンタッチした。冬馬君はやや失敗した。そんなのも含めてお好み焼きである。
「今日マリちゃんとかはバイトだったの?」
ソースやマヨネーズや青のりのかかったお好み焼きを切り分け食べ始めた時、おばちゃんにもんじゃの注文をした冬馬君に聞いてみた。
「あー、いや、用事があったみたいで」
他の子たちの連絡は冬馬君に任せていた。用事があったなら仕方ない。
「……それに、入野に話もあったし」
冬馬君はぽつりと呟く。
「私に?」
お金でも貸してほしいのかと身構える。いくら友達でもお金だけのやり取りだけはお母さんに禁止されている。
「あー、いや!なんでも……」
「言いかけておいてやめないでよ」
途中でやめられてしまうとすごく気になる。もやもやしたくないので冬馬君を追及するけど、もんじゃのボールをかき混ぜる冬馬君はすごく言いにくそうだった。
「そうだ、間宮さんだっけ。間宮さんとは今もメールとかしてんの?」
「え?間宮さん?」
よりによって今日その話題になるのかと頭が痛くなってくる。昼間の間宮さんの言葉が思い出されてきて、とても気まずくなってきた。
「あ、ああ……たまにしか顔見ないけどね」
私にはこう答えるのが精一杯だった。突然告白されたことなんて冬馬君には話せないし、冬馬君にとっても知ったこっちゃないだろう。
「近くに住んでたりしてもそんなもんなんだな」
「う、うん」
もんじゃ担当は冬馬君で、汁に浸ったキャベツが鉄板に乗った。私は気の利くようなお手伝いはできず、その手際を見詰めることしかできない。
「俺もそういえばあれから間宮さん見掛けたことないや。マリからはよく間宮さんの話を聞くけど」
「『今日の間宮さん』でしょ」
たまにマリちゃんから間宮さん情報をもらうことがある。間宮さんは猫派だとか、そういった類のものだ。
それを聞いたところで私には活用できなかったのだけど、冬馬君にまで言ってたとは知らなかった。……間宮さんの話を聞いてる冬馬君を想像したら、なんかおかしかった。
「え、あ、ああ……そうそう」
私は最初、冬馬君はマリちゃんのことが好きなんだと思ってた。
二人はどこか似てるし仲が良いし、私の知らないところでごはんにも行っているらしい。でもマリちゃんには高校の頃から付き合っている彼氏がいて、二人が付き合うようなことはない。勝手ながら少し残念でもある。
実はさっき冬馬君が言いかけたのはマリちゃんのことかとも思ったけど、略奪愛を相談されても困ることしかできないから、思いとどまってくれて良かったかもしれない。
「よし、土手つくるぞー」
「はーい」
キャベツをドーナツ状に盛って、円の中に汁を垂らす。私たちは優秀で、土手が決壊することはなかった。
「……なあ、入野は彼氏つくらないの?」
もんじゃ焼きを攻めているとき、急に冬馬君から変なことを聞かれた。
「……なんで?」
「いや、まあ、なんとなく……」
やはり昼間のことが思い出される。本当は冬馬君と間宮さんが繋がっていて、今日のことを知ってるんじゃないかと勘繰ってしまいそうだ。
「……冬馬君が先に言ってよ。冬馬君はどうなの?彼女できた?」
「え?俺!?」
こっくりと頷いた。冬馬君は首を掻きながら、少し照れている。
「俺は……好きな人はいる」
なんだか含みを残した言い方だった。冬馬君はかっこいいし背高いしスポーツマンだし、きっとモテてきたはずだ。もうちょっとすれば可愛い彼女ができそうだ。
「いいね」
「え」
「いや、なんでも」
人を好きになるエネルギーってどこから生まれてくるんだろう。私には無いものだから、照れてしまうくらい人のことが好きになれる冬馬君がうらやましかった。
「私の知ってる子かな?よければ協力する」
冬馬君も恋愛の相談相手は選びたいはずだ。全くなんの役にも立たなさそうな私より適任がいるはず。それでも冬馬君は遠慮がちでも「おう」と応じてくれた。
「……入野はどうなの」
さっきの質問はうやむやにできたかな、と思っていたのに、やっぱり冬馬君は忘れてなかった。
「私は……今のところ恋愛する気はないから」
また悲しい話をしなければいけなくなった。間宮さんのことは伏せておくが、これなら嘘ではない。
「恋愛する気はない、って、どういうこと?」
冬馬君は心底不思議そうに尋ねてきた。
「えーと……今の私は恋人を幸せにできないと思って」
「え、莫大な借金があるとか、そういうこと?」
「いや、そうじゃなくて、もっと精神的なところで」
「つきあうとすっごいわがままになるとか?」
「わがままは控えるようにするけど、それ以前の問題で」
「全然わからない……とんちかなにか?」
とうとう冬馬君からギブアップが出た。
「付き合った後のことを付き合う前に心配することはないと思うけど」
冬馬君の言ってることは正論に聞こえた。
「でも、好きじゃない人と付き合う訳にはいかないよね」
間宮さんのことが脳裏をよぎる。
「それは、まあ……でも、付き合ってみたら好きになるかも」
「好きにならないかもね」
可能性に賭けるのは楽観的ではあるが一理ある。しかし私はその一歩が踏み出せない。
「入野は真面目で、臆病だな」
土手を壊した果てのもんじゃをつつきながら冬馬君は言った。それはなんでもないようなことだったけど、私はその言葉をずいぶん引きずるようになる。
「誰かを好きになるって、理屈も理性も理由もないよ。
好きになっちゃったら、もうそれ以上でもそれ以下でもないんだから」
冬馬君に言われたことが胸に残ってる。
『誰かを好きになるって、理屈も理性も理由もないよ。
好きになっちゃったら、もうそれ以上でもそれ以下でもないんだから』
正直何を言ってるかよくわからなかったけど、きっと恋なんて大層なものではないと教えてくれたのだろう。自然に胸から生まれて溢れる感情。
じゃあ待ってみようと思った。いつか私のことを好きって言ってくれる間宮さんを追いかけたくなる日がくるかもしれない。私も間宮さんに会いたくてたまらない日があるかもしれない。
間宮さんからの連絡は、あの日を境にまた増えた。メールだけじゃなくて電話もたまにある。サークルの日は空き時間過ごせないかとか、一緒に帰らないかとか、そんな約束をよくするようになった。間宮さんも忙しいし私もバイトを入れるだけ入れてるのでなかなか時間は取れない。そんな感じであっという間に二ヶ月経ってしまった。
十二月。クリスマスを前に街中が浮き足立っていた。
学生には年末も何もほとんど関係無かったけれど、バイト先はとても忙しくなった。飲み会のシーズンだから夜のシフトを厚くするために私も駆り出された。お母さんは反対していたけど、バイト先の先輩たちの力になりたい気持ちもあったし、22時を過ぎると夜手当てがつくことを最近知ったので、私に迷いは無かった。
でも、お母さん以上に反対していたのが間宮さんで、わざわざ送り迎えをしてくれるようになってしまった。夜のシフトを入れたのは私の勝手なのに、「まあ、デートがわり?」と間宮さんは笑う。
この二ヶ月も私たちの仲に進展らしい進展は見られなくて、間宮さんには何度も前言の撤回を勧めたけど、彼は譲らなかった。それどころか、事あるごとに「好き」とか「可愛い」とか言うものだから、とても調子が狂う。私は素直に喜んだり照れて慌てたりするような女の子ではないから、間宮さんももっと褒めがいのある子にすればいいのに、といつも思う。
「上映会ですか」
私はスケジュール帳を開いた。十二月はシフトがぎっしり詰まってる。
『一晩で4本。23時から6時まで。どうかな?』
電話口の間宮さんの言う日時の予定を確かめる。
オールナイトの映画上映会。配給会社の主催で、大作からマニアックなものまで、映画祭に出品される作品を一晩で鑑賞するというイベントだった。映画好きと自称するのは憚られるけど、ジャンルに関わらず観るし好きだし、それは間宮さんと私で共通していた。
26日の夜はバイトは入れてるけど上映会には間に合いそうだし、翌日は大学も無くてバイトが始まるのも遅い。行けそうではあるけど、夜中家に戻らないというのはあんまり気が進まない。それに連れが恋人でもない男の人というのをどうお母さんに説明したものか。
『あ、もちろん二人きりじゃなくて、マリちゃんとか誘おう』
私の心を読むように間宮さんからの提案がある。
『夜だしね。ダブルデートみたいにするとか』
そう言ってもらえるとすごくありがたい。でも、デート……言われてみれば確かにそうだ。
「ありがとうございます。楽しみですね、上映会。マリちゃんには私からメールしてみます」
『うん、よろしく。亜子ちゃん』
電話を切って、スケジュールに上映会の時間を入れた。なんだか、恋人みたいだ。
「なに、恋人?」
「……お母さん、帰ってたの」
急に声をかけられたと思ったら、パートからお母さんが帰っていたらしい。
「……恋人とかじゃない。友達。」
「そうなの?最近よく電話してるし、今のデートの約束だと思った」
我が母ながら鋭い。私は誤魔化すように立ち上がって、お茶の準備をした。パートから帰ってきたお母さんはまず最初に緑茶を飲む習慣がある。
「私が亜子くらいの時にはもうお父さんと出会ってたのに」
「そんなこと言われても」
まだ18才なんだし、せっつかれてもないものはない。私はお母さんにお茶を出すと、お湯を張りに浴室へ逃げ出した。
上映会当日、意外なメンバーが揃った。
間宮さん、マリちゃん、そして冬馬君。私は全員と顔見知りだから気兼ね無くていいけど、どうしてマリちゃんは彼氏ではなく冬馬君を誘ったのだろう。マリちゃんは誰にも聞こえないような小声で、「不可抗力だったのよ、不可抗力……とぶつぶつ呟いていた。
「お久しぶりです、間宮さん。自分、冬馬絋也と言います」
「ああ、一回会ったことあるね。久し振り」
二人が並んでるのが不思議だった。面識はそんなにないはずなのに、なんだか険悪なような気がする。まあそれも、ずっと映画を観てるだけだから関係無いだろう。
私たちは、間宮さん、私、冬馬君、マリちゃん、の順で四人並んだ席を取った。長い時間の上映会なので、飲み物と食べ物を買って席に着いた。
最初の一作は、ヨーロッパの映画でとにかく色がきれいな映画だった。続けて邦画。群像劇のコメディで、馴染みある俳優さんたちが出てくることですごく観やすい。
続けて二作見終えると、どちらも楽しかったけれどさすがに同じ体勢でいるのが疲れてきた。少し長めの休憩になるらしいので、トイレがてら席を立った。このオールナイトの上映会のイベントは、都内のシアターがいくつもある映画館を貸し切ってやっている。二つのシアターを開放して同じ内容を上映しているようだが、オールナイトで映画を観に来る人と言うのは世の中には結構いるみたいだ。恋人同士や私たちみたいな学生のグループ、壮年の夫婦らしき人たち、一人で映画を観に来たような男の人もいる。休憩になればやはりトイレは混むし、少ない人数で応対してくれてる売店も忙しそうだ。
「入野も飲み物?」
「あ、冬馬君」
みんなとはぐれたと思ったけど、冬馬君と再会できた。
「映画館って乾燥してるよね」
「すぐのど渇くな」
私たちは列に並ぶ。何か食べちゃおうかな、と遠くのメニューに目を凝らした。
「……間宮さんと入野って、仲良いのな」
「?なんで?」
急に変なことを言い出すな、と後ろにいた冬馬君をちらりと見る。
「いや、今日ってつまり、デートだったってことだろ?」
痛いところ……というか、やわいところを突かれた。
「……あー、でも、二人だけなら来れなかったよ」
デートだということを素直に肯定できないのが我ながら不思議だ。
「……好きなの?間宮さんのこと」
「へんなこと聞くね」
私はもう視線を食べ物のメニューに移した。私にはとても答えにくい問いかけだった。
「だって、前に言ってただろ。恋愛する気ないって」
冬馬君が私に何を言わせたいのかわからなかった。冬馬君は優しいから、気にしてくれているんだろうか。
「……変わってないよ、今も恋愛する気はない」
「あ、入野」
とん、と誰かに押された。
私は自分でもびっくりするくらい呆気なく足元がぐらついて、冬馬君の胸に倒れこんでしまった。転ばないようにと構えてくれた冬馬君の腕が私をすっぽり包む。
数秒くらい、冬馬君に抱き締められていることに気付かなかった。
「あ、ごめん」
離れようと冬馬君を見上げると、思ったより顔が近い。冬馬君は、何を思ったのか、私の頬へ手を添えた。
お腹の底がざわざわした。この感覚を、私は知っている。
「あ……」
すると、私は無意識のうちに冬馬君を突き飛ばしていた。呆然とする冬馬君の表情を見て、ハッと気付いた。
「ごめんなさい。ごめんなさい……」
すぐに謝罪の言葉は出た。でも、体と心が解離しているような感覚。
思い出してしまった。もうすっかり忘れてしまっていたと思ってたのに、私はまだあの時のことを覚えてる。もう顔も声も姿もおぼろげだけど、こんなに深く跡が残ってるなんて。
今屋君。
そうだ、今屋君という名前だった。いつも優しかったのに、本当は酷いことをしていた少年。肌をなぞられる気持ち悪さ。裏切られた怒りと憎しみ。なんで忘れてたんだろう。
残酷な教室、泣いてる友代、みじめな私、誰も助けてなんてくれない。全部全部、今屋君が仕組んだこと。今屋君の指が私の胸に突き刺さる。どうしよう。
「……もう、いいよ、謝らなくて、入野?」
「え、あ……」
私はずっと謝罪を繰り返していたらしい。冬馬君の声で我に帰る。
「俺の方こそごめん、びっくりしたよな……今のは、その、なんていうか……」
「うん、わかってる。わかってるよ」
体の感覚が戻ってきた。普通に戻らなくちゃ。なんでもないように振舞うのは、慣れてるはずだもの。
「………………。入野、大丈夫か?席に戻ってても……」
私は気付いてしまった。なんで私は人を好きになれないのか。まだ中学生の彼から逃げ切れてないからだ。
こわい。
私は知っている。人の怖さを。話の噛み合わない恐ろしさを。心の底に潜んでいる悪意を。未だに私の腹の中をその冷たさが蝕んでいる。
「いや、ただの立ちくらみだから。気にしないで」
だけど、私は平気なふりをした。だって、私は慣れている。泣き出したいほどの孤独を飼いならす方法は、あの時に学んだのだから。
上映会の帰り道、私の気持ちは沈んだままだった。
映画の内容はかろうじて把握できるくらいには鑑賞できたけど、そこには感想もなにも浮かばない。間宮さんの言葉に、私は上手く答えていただろうか。こんなにどうしようもない気持ちを悟られたくなくて、いつも通りを装った。
私は途方に暮れるしかなかった。偶然突きつけられた、過去の傷跡。もう忘れていたと思ってたことが、こんなに深く刻みつけられてるなんて考えてもみなかった。じゃあどうすればいいのだろう。四年の歳月でも拭えないものが、いつか消え去ってくれるのだろうか。
いつものように、うちのアパート下まで間宮さんが送ってくれる。鉄骨のむき出しの階段下、私は間宮さんを呼び止めた。
「間宮さん」
決心していた。お別れを告げよう。これはけじめだ。
「今までありがとうございました。今日で、間宮さんに甘えるのを止めることにします」
頭を下げて地面を見る。雨上がりの濡れたアスファルト。冷たい風が、頬の下を通ってく。
「……何かあった?」
間宮さんの声音は優しかった。私はうつむいたまま間宮さんの顔が見れない。
「ずっと元気なかったね」
隠していたのに、間宮さんにはお見通しだった。
「……私、ダメなんです。間宮さんに優しくしてもらえるような人間じゃなかった」
何年も立ち止まったままの私をこのまま待たせるなんて、都合の良いことは許されない。それは、優しい間宮さんへの誠意のつもり。でも、こんな風にしか誠意を伝えられない自分が情けない。
自己嫌悪とみじめさと疑心と申し訳なさが入り交じる。もう何色かもわからない感情が、どろりどろりと全身を巡る。心臓が熱い気がした。
「だから、お別れするべきだと思いました。わがまま言ってすみません。ありがとう、ございました。」
あんなに優しい間宮さんの指先が、まるで凶器のように見える。そう、私は人を疑うことを知っている。だから間宮さんの優しさすら受け入れられなかったんだ。
それは根拠もなにもない。ただの被害妄想。でも、私はそれを拭えない。悪いのは私だ。だから、ここに置いていってもらうしかない。私なんかのために、間宮さんが足を止める必要なんてないから。
「亜子ちゃん」
長い腕を伸ばして、間宮さんは私の肩に手を置いた。
「泣きそうな顔になってる」
そんな顔、してたかな。無表情には自信があったのに。うつむいたまま動けない。
「……こわいの?」
「こわい……?」
そうかもしれない。私はこわいのかもしれない。もう、人に否定されたくない。ならば私が人を否定しなければ。冬馬君は私を臆病と言った。その通りだ。私は怯えている。
「こわいことは人に話さなきゃいけないよ。克服できない」
間宮さんは優しい手つきで、頭を撫でる。だめだ、甘えちゃだめだ。ふるふる、と首を横に振る。強がらなくちゃ。
「……亜子ちゃんは強情だ」
でも、間宮さんは許してくれない。私の頭を撫でたまま。
「今日、なにかあったんだね?」
この問いには素直に答えなきゃいけない気がした。そうじゃなければきっと間宮さんは離してくれない。
「……昔のことを、思い……出したんです」
「昔の、こと?」
問い返されて、口篭る。
「…………」
言えない。言ってしまうと、みじめになる。そう思って口を結ぶが、間宮さんは私の言葉をじっと待っていた。
こわいことは人に話さなきゃいけない、か。私はそんなことしたことがなかった。いつも一人で震えてるだけ。
「……ちょっと、あって。ほんとう、それだけ、です」
私はより一層の壁を作った。立ち入ってほしくない。私の精一杯の拒絶。怯えることが、私を守る唯一の方法だから。
「ひどいことをされたんだね」
「え?」
「亜子ちゃんが今こんなにこわがってるのは、誰かに傷付けられたからだ」
私が何も言わなくても、間宮さんは心を読み解くみたいに言い当てる。どうしてそんなことを知ってるの?私はやっと顔を上げた。間宮さんは優しく私を見つめていた。
「毒を飲まされない限り、心は蝕まれない」
つまり、私がここまで怯えているのは、誰かに傷付けられたことがあるせいだと、間宮さんは言い当てた。
「俺は許せないな、亜子ちゃんをこんなに傷付けたやつを」
「………………」
私の心の底にも、憎しみが残ってる。あの人に会わなければ、と考えてしまう。そう、許せない。許したくない。
「そいつにも毒を飲ませてやれればいいのにね」
間宮さんが囁くように言う。底冷えをする鋭さが、甘美な響きにも聞こえた。
「だって、許せない。亜子ちゃんが今もこんなに怯えているのに」
そう囁く間宮さんは、美しい悪魔のようだった。彼の言葉に、昔心の奥にしまったものが沸き立つ。そんなこと、今更仕方ないのに。でも、仕方ないから忘れたふりをするの?もし、本当に毒を飲ませることができるなら私は迷わないのだろうか?
「……なんてね」
まるで魔法が解けたみたいに、いつもの笑顔の間宮さんに戻る。
「俺は亜子ちゃんとお別れする気はないよ」
間宮さんの手が私の頭を離れた。
「こんなにかなしそうな顔をする亜子ちゃんを放ってはおけない」
「………………」
私は首を横に振ることしかできない。困らせるつもりも、迷惑をかけるつもりもないのに。間宮さんの右手は、私の黒い髪に伸びた。
「世界がどんなに残酷であろうとも、俺のことはこわがらないで。俺は君のことが、好きだから。」
まるで騎士が忠誠を誓うかのように、私の髪に口づけた。その所作は、まるで儀式でもあった。私の引いた境界線を溶かしてしまう儀式。
結局、私は逃げ出せなかった。本当は、間宮さんを拒絶するべきだったと思う。傷付く勇気もないくせに、都合良く間宮さんの優しさを与えてもらいたいなんて、許されてはいけない。
なのに私は間宮さんのせいにして、現状に立ち尽くした。いつか境界線は溶けて消えていってしまうのだろうか。私の中の毒は、中和されるのだろうか。
アパートに戻って取り出した携帯電話には、冬馬君からのメールが届いていた。冬馬君にまで心配をかけているようだ。
私はどうすればいいのだろう。答えは出せない。ずっと、私は誰にも頼らず生きていくのだろうか。
いつかの少年の眼差しが頭をよぎる。それを振り払うように、布団にくるまって目をぎゅっと閉じた。どうして私がこんなに苦しまなくてはならないんだろう。
「そいつにも毒を飲ませてやれればいいのにね」
落ちていく意識下で、間宮くんの声が囁いた。




