絶望を溶かして
――彼の話。
思っていた通り、亜子は翌年志望していた大学に受かった。その朗報は亜子の母親である佑利子さんからもたらされた。シフトに入っていると、娘が大学に受かったから今夜はすき焼きよ、と言っていたので、良い肉をサービスしたら更に喜んでくれた。
入学が決まれば、亜子のまわりも慌ただしくなった。通学経路に合わせてバイトも変えたようだ。
亜子との出会いをやり直す前に、確かめなければならないことがあった。亜子が俺を見ても、本当に気付かないかどうか。それを試すために、俺は亜子の新しいバイト先へ行った。大学と最寄り駅の乗り換えの駅にあるコーヒー店だ。
緊張する。亜子と会うのも、四年ぶりになる。駅のトイレで入念に髪型をチェックする。鏡に写った男は、亜子の知らない男だ。ついでにかっこいいと少しでも思われたい。
「いらっしゃいませ」
コーヒー店は賑わっていた。カウンターにはオーダーを待つ列ができている。その先に、注文を受ける亜子がいた。
彼女の姿は、何度か遠くから見ている。中学の頃から大人びいた亜子。派手になったわけじゃないし、化粧が濃いわけでもないのに、ずっとずっときれいになった。俺は、亜子を見るたびに恋に落ちてる。
見とれている間に、列はどんどん進む。じかに聞く亜子の声も、少し落ち着いた声音になっていた。
「ご注文はお決まりですか?」
俺の番になってしまった。目の前に亜子がいる。
亜子は俺の目を見て、笑顔を作って注文を待っている。亜子が、俺を見ている。
なんていうことだろう。俺が亜子に今屋と気付かれないか確認のためだったのに……こうして亜子を目の前にしたら、叫びだしたい気分だった。俺は今屋だと名乗って、亜子の中に俺が刻み付けられているか確かめたい。俺をまた、認めてほしい。
「あ……ドリップのアイスをショートで」
すんでの理性で留まった。違う、なんのために何年間も準備してきたと思っているんだ。
「かしこまりました。ご料金、280円になります」
亜子は、気付いて無いようだった。他の客とまったく同じようにレジを打ち、レシートを差し出した。
「少々お待ちください」
安心したような、心残りのような、中途半端な気持ちを飲み込んだ。
「ありがとう」
「ありがとうございます」
俺の小さな礼に応えるように、亜子は微笑んだ。
亜子に俺だとばれないことが証明された。だとすれば、もう少し大胆に亜子の近くへ行ける。後をつけるのも、様子を覗きに行くのも、人混みに紛れて怪しまれないよう振る舞えば、亜子に俺の顔を見られても構わない。もちろん頻繁に存在が認められてしまえば亜子に不審がられてしまうので、注意は必要だ。ただ、姿を隠さなくてよくなったのは非常に大きい。
出会いをやり直すのはどのタイミングが最適か。大学にいるときに声をかけようか。街中でナンパという手もある。本屋などで偶然を装うこともできる。
どうにしろ、俺は待ち切れなかった。何年も触れるのを耐えていた亜子がすぐ近くにいる。
そして、時は偶然やって来た。
それは、亜子が夜の9時を過ぎてもバイト先から帰ってないので、心配して様子を見に行った帰りだった。
コーヒー店と言っても営業時間は夜までやっていて、たまたま亜子はこの日ラストまでシフトが入っていたようだ。心配なので駅前までは見送ろうと思い、同じ電車の同じ車両で帰ることにした。金曜日の夜のためか下りの電車は混み合っていて、押し込まれるまま乗り込むと、意図せず亜子と触れ合うほどそばになってしまった。
こんな近くにいて、亜子の体と密着して、理性が飛んでしまいそうだ。葛藤をしていると、亜子が俺の邪心を察知するかのように体の向きを変えた。ドキッとする。そうだ、俺は亜子を手に入れるたい。衝動的な欲求で動いてはいけない。
しかし、亜子はこちらを向きながらも後ろを気にしている様子だった。亜子の更に後ろには、飲み帰りの様子のサラリーマンがニヤニヤと笑みを浮かべている。
すぐに理解した。こいつ、殺してやりたい。
「何してんだよ」
手を出す代わりに、俺は声を上げた。男は自分のことだとわかったみたいだったが、逃がしたりはしない。
「痴漢、してたよな?」
亜子を触れていた手を掴んだ。よりによって亜子を狙うとは。嬲り殺すのは無理でも、社会的な制裁は受けてもらわなければ気が済まない。
「な、なんだよ、言いがかりだぞ!俺は今居眠りしかけてて……」
男は開き直った。その慌てている様子では、すぐにボロが出るだろう。……と、思えば、助け船はすぐに出された。
「私、見てたわ。女の子嫌そうにしてたのに、この人それ目を開けて見てたし」
ビジネスカジュアルに身を包んだ30代ほどの女が後押しをしてくれる。これで男の立場は決定的になった。
サラリーマンは「ちがう、やってない」とまわりに主張していたけれど、電車内は興味本意半分、嫌悪感半分で、男をジロジロと見ていた。当の被害者である亜子はあまり表情を変えることはなかったが、左手を右手で抱える動作は困惑を示していた。
そのうちに、電車は次の駅に着いた。亜子も俺も通過駅ではあったが、この男を駅員に突き出さねばならない。
「降ります」
その一言で、独特の一体感に包まれた満員電車は道を開けてくれる。
「悪いけど、君もいいかな」
動きを止めてた亜子へそう尋ねると、彼女は頷いた。まさかこんな形で亜子と出会うことになるとは思っていなかったが、これは良い契機だとしよう。
電車から降りると、片手を捻り上げて固定する。まだ諦めていない男は抵抗気味だったが、逃がすわけがない。こんな形で瀬下の仕事の経験が役に立つとは。しかし、気を抜くと顔がにやけてしまいそうだ。あの亜子がそこにいる。なるべく普通に、スマートに、振る舞わなくては。
「大丈夫だった?」
心を落ち着けてから、後ろを振り返った。うつむいていた亜子がこちらに顔を上げる。
「え?」
大人びいて綺麗になったけど、可愛らしさは変わらない。好きだ、と改めて思う。
「怖かったでしょ」
「あ、ああ、ええ、まあ」
頷いてはいるが、あまり怖くはなかったようだ。それならそれでもいいが、自身が男の性的衝動を煽りかねないことは自覚してほしい。今回のような痴漢は防ぎようはないかもしれないが、大学に入れば女子高とは違い飢えた男共がたくさんいる。
駅員室は改札口の横にあった。大きな駅ではないので、歩きたがらない痴漢を連れていてもそんなには時間はかからなかった。
事情を説明すると、駅員たちは三人がかりで対応してくれた。その間も痴漢は俺や亜子の言葉を遮ろうとするが、うるさいのでギリギリと腕を捻ると、少しばかり黙った。
あとは駅員が痴漢の身柄を引き取ると言うので拘束の手を離せば、痴漢は解放されたとばかりに喚き始める。
「ちがう、ちがうちがう!俺はやってない!!冤罪だよ、冤罪!!え!?どうしてくれるんだよ!!!」
まったく、うるさいゴミだ。
こういったことはやはり日常的にあるのか、駅員の話の聞き方や手続きに関しては速やかだった。亜子の話の他に、俺も見たままのことを証言した。
あとは警察の対応になるらしく、警察に被害届を出すまで帰れない亜子より俺の方が一足早く解放された。
「どうもありがとうございました」
駅員室を出ようとすると、亜子に呼び止められて礼を言われた。
「ご親切に助けていただいて……」
深々と頭を下げる亜子に、不思議な気持ちになる。まさか、あんなにも憎まれていたのに、こんな風に礼を言われる日が来るなんて。亜子に今屋だと気付かれていないのは間違いないらしい。
「たいしたことしてないよ」
笑いながら手を振る。恩を売るなんてつもりはこれっぽっちもなくて、亜子に触れたあの汚らわしい男が許せなかったという方が本音だから。
「いや、でも、ぜひ後日お礼を届けさせてください」
他意はないんだろうな、とはわかってる。単に借りを作るのが居心地が悪いんだろう、とも。中学の頃からそういうところはあった。亜子の母親を見れば、義理堅い亜子の性格も頷ける。
「いいよ、そんなこと。じゃあ、気を付けて帰って」
名前すら名乗らず、俺は駅員室から離れた。もちろん、あえてここで亜子と繋がりを作っておかないのは、偶然を装った再会がいくらでもできるからだ。
その日の亜子が家に帰れたのは、深夜1時前。心配で数分に一回ほどのペースで発信機の電波を確認してしまった。
でも、これでやっと亜子に会えた。やり直せる、全部。また、亜子の隣にいられるようになる。
サークルは、火曜日と木曜日と、不定期で土曜日にあることもある。あの金曜日から、ようやくのサークルの日。
ただ、同じキャンパスにいたとしても好き勝手に動ける訳ではない。当然ながら同じサークルにいるやつらの目もある。亜子の位置は発信機で特定できるし、俺も去年からこのキャンパスに来ているので勝手は知っている。
グラウンドは、講堂棟と実技棟の間にあり、通る者はよく通るが、実技棟に用がない者はグラウンドを見かけることすら無いだろう。亜子の取ってる授業などをなるべく情報収集しようとはしてるが、発信機と盗聴器だけでは限界がある。
できれば今日、亜子に再び会っておきたい。
サークルを抜けて人の多いオープンスペースや食堂をうろつくか……と考えていた時、目的の人を見つけてしまった。
横には男がいる。それは気に食わないが、とにかく亜子だ。
「こんにちは、また会ったね」
近付いて、にこやかに挨拶をする。亜子は一瞬固まったが、すぐに俺だと気付いてくれた。
「あ、あのときの」
「覚えててくれた?」
あまり他人に興味がある方ではない亜子らしい反応だった。偶然あの時居合わせた男が同じ大学のキャンパスにいるというのも、亜子の反応が遅れた一因だろう。そんな偶然は滅多に起きたりしないものだから。
「その節はありがとうございました」
とても他人行儀だな、と苦笑する。それはまあ、今は他人なのだけれども。それがくすぐったいような、もどかしいような気持ちになる。
「あのあとは変な人に遭ってない?」
「はい、あの人も警察の人が告訴上を作ってくれて」
ちら、と亜子の隣の男を見る。
背の高い、顔も悪くない男だ。亜子との距離感から見れば、大学で知り合ったばかりの友人といったところか。突然現れた俺に、少し苦そうな表情を浮かべている。つまり――こいつは亜子のことを気になっているらしい。おそらく亜子の性格からいえば、こいつの一方的な片想いだろうが。気に食わない。
「よかった。君可愛いから、変なやつに目をつけられやすそう。気を付けてね」
自然と、さりげなく、亜子を褒める。『間宮』は、こういうことが言えるキャラクターだ。軽そうなこのキャラが亜子のタイプに入るかどうかはわからないが、鈍感すぎるほど鈍感な亜子はこうやって直接言葉にするくらいがちょうどいいはずだ。
「あ、その、同じ大学だったんですね」
少しどぎまぎしている様子で、亜子は話題を変えた。やっぱり、褒められ慣れてない。可愛い。
「あー、君はここの学生か。実は俺、サークルでここに来てるだけで」
亜子の質問はちょうどよかった。
これからキャンパスで偶然会うはずなので、この情報は亜子に与えておきたかった。もう少し話をしていたいと思ったが、グラウンドの奥から呼ばれていた。まあ、頃合いか。
「あ、呼ばれた。じゃ行くよ」
呼ばれた方に手を振って、すぐに戻ることを合図する。すると、急に亜子が手持ちのバッグに手を突っ込んだ。
「あ!あ、じゃあ、これ、お礼……」
差し出されたのは、いちご味の飴玉だ。そういえば、お礼をさせてほしいとこの前も言っていたっけ。
「こんなもので恐縮ですが……とりあえず気持ちです。また、本当のお礼は改めてしますので」
今日まさか会うとは思わなかったから手持ちもないけど、ということみたいだが、なんとも可愛らしいお礼だろう。
「気にしなくてもいいのに。でも、ありがとう、ありがたくいただく」
こんな風に気を使ってくれることがとてつもなく嬉しい。顔が自然と綻んだ。
飴玉を亜子の手から取って、「じゃあ、また」とグラウンドに戻った。持ち帰った飴は、少し迷ったがその日のうちに舐めてしまった。
ようやく、ようやく、歯車が回り始めた。
亜子のことをもう少し調べるには、協力者が必要だと思っていたが、そうは上手くいかなかった。
サークルのマネージャーはこっちの公立大の女の子が多く、亜子と同じ学年の女の子もいたが、多すぎて的が絞りきれない。とりあえず分け隔てなく優しくしておき、亜子と同じ学部の子は特に目をかけているが、それでもまだ五人くらいいる。亜子の行動パターンを知るにはまだ足りなかったが、だけど木曜日だけは分かりやすかった。
木曜日、亜子は五限目まで取っていた。教職でも取るつもりなのかもしれない。でも、夕方遅くに授業が終わるというのは都合がよかった。今日は同じサークルのやつらには、バイトがあるからと別行動にした。亜子と出会うためだ。
時間を潰しながら亜子の授業が終わるのを待ち、校門付近で待ち伏せる。
「こんにちは」
姿の見えた亜子へ、タイミングを見計らって声をかけると、振り向いた彼女はすぐに挨拶を返してくれた。
「あ、こんにちは」
「今帰り?」
白々しくも演技をしながら亜子の隣に並ぶ。 今日も亜子はかわいい。
当たり障りなく会話を続けると、シラバスを見て検討をつけていた通り、この時間の授業はやはり教職を取るつもりだかららしい。少し驚く。人間なんて、結局自分勝手な愚図ばかりなのは亜子も知っているはずなのに。選択肢の一つと亜子は言っていたけど、俺なら考えられないことだ。
でも、なら、亜子に合わせて文部科学省に入ってもいいかもしれない。上位機関に入った旦那というのも頼れるだろう。
話をしていくうちに一緒に帰ることにできた。バイトの話なんかをしていると、会話の切れ間に亜子が「あ、そうだ」と何かを思い出した。
「ずっと名前も聞いてないなって気になってて……私の名前は」
そうか、まだ自己紹介も充分にしていない同士だ。でも、亜子の名前なら知ってる。
「入野亜子」
「え?」
「駅員さんにそう言ってるの聞いちゃった」
一瞬びっくりしていた亜子にネタばらしをすると、力なく笑った。かわいい。そんな彼女が俺が今屋だと知ったら、亜子はどんな顔を見せるんだろうか。
「俺は間宮」
でも、『間宮』を名乗るために、数年間をかけて今日までやってきた。
「間宮さん」
名前を呼ばれただけなのに、この胸の高鳴りはなんだろう。我ながら単純だ。でも、この喜びに俺は抗うことができない。
「……やっぱり、もっとお礼欲しい」
欲張りになってしまう。本当はもっと時間をかけていくつもりだったけど、俺の中の『間宮』が、亜子を求めて悶えてる。
「あ、もちろんさせてください」
亜子は何も知らない顔で快諾した。まったく、亜子はダメだなあ。無防備にそんなことを言ってしまうと、何を要求されるかわからないのに。
「お礼は、亜子ちゃんの連絡先、がいいな」
「え……連絡先?」
明らかに亜子はためらっていた。それはそうだ、よくも知らない男にそう易々とは教えてはいけない。俺の亜子はそうあってほしい。でも、今、俺は亜子と繋がり合う術がほしい。矛盾した相反する願望が、俺の中で食い合った。
「……いいですよ。そんなのでよければ」
亜子を、捕らえた。少し考えた亜子が、頷く。
「やった。じゃあ赤外線送って」
これでメールや電話をすることができる。とても大きな前進だ。
使い慣れていない亜子の携帯電話を二人で覗き込みながら、やっと連絡先を手に入れた。中学のあの頃から電話番号は変わっていなかった。
帰り道、同じ方向に帰ることと、同じ駅に帰ることを確認し合った。もちろん、俺は最初から知っていることで、むしろ亜子になるべく近い部屋を選んでアパートを決めたくらいだ。事実は隠して、すごい偶然で近所だったと驚くフリをする。あの町は中学の入学と同時に引っ越したところで、あの女が住む俺の元の家もそう遠くない。知らない町ではないのだが、一人暮らしの大学生を強調するためにも街の話を続けた。
「地元トーク聞きたいな。おすすめの総菜屋さんとかない?コンビニって飽きるし」
「作ったほうがいいですよ、ごはん」
「そう思う?だよね~」
普段は食べるものには無頓着だし、よく食事も忘れるけれど、亜子の作ったご飯は美味しいんだろうな。
「お惣菜なら商店街にある、肉屋さんのメンチカツが美味しいです」
「え、お惣菜の話になっちゃう?今、亜子ちゃんがごはん作りにきてくれるっていう展開期待したんだけど」
思ったよりも、この『間宮』というキャラクターは俺に馴染んでいるようだ。なんの抵抗もなく亜子を口説こうとできる。
それに対して、亜子は距離を図りかねているというか、少し警戒してるようにも見える。
「なんでですか」
「夢くらい見るさ」
少し必死すぎるくらいに食い付くと、亜子は呆気に取られた後、吹き出した。
それがすごく嬉しくて、中学の時、他愛なく話していた時のことを思い出した。どんな亜子も可愛いけれど、笑顔が見れると俺まで嬉しくなる。
「笑顔、かわいい」
俺は自然とそう口にしていた。
「!?や、やめてください」
亜子はびっくりして身を竦ませ、まわりを気にし始めた。電車の中、誰かに聞かれていないかを確めたらしい。これだけのことしか言ってないのにそんなに恥ずかしがるなんて、俺の本音を伝えたらどうなっちゃうんだろうか。
「いや、本当のことだから」
「いいですよ、褒めていただかなくても」
おや、社交辞令か何かと思われているようだ。平気で亜子のことを口説けるキャラクターであるがゆえに、その言葉の重みが伝わらないとは皮肉な話だ。こんなこと、亜子にしか言わないのに。
「褒めたつもりはないけどな」
「え、けなされてたんですか、私」
「いやいや、本音が漏れちゃっただけだから」
わりと今のはストライクが決まったんじゃないかと思ったが、亜子は平気そうな顔をしてスルーしてる。やはりというか、手強い。
「私、パン屋さんも好きですよ。カエルの紳士が立ってるお店。商店街の結構行った先にあるんですけど」
しかも話題変えられた。まあ、いいか。畳み掛けるような場面でもないので、亜子の話題転換に従った。
しばらくパン屋の話が続いたが、こんな話を誰かとしたこともない。少し新鮮だったし、嬉しかった。今日、バイトへ向かう前に買おうと決めた。
「いいこと聞いた。パン食べたくなったし。でも、亜子ちゃんの手料理も待ってるよ」
パンも良かったが、亜子の料理も捨てがたいので、再びその話を蒸し返してみた。すると、亜子は困ったように答えた。
「料理なら彼女に頼めばいいじゃないですか」
なるほど。亜子には、『間宮』とは彼女が居ながらも他の女の子にもちょっかいをかけるような男の見えるらしい。
当事者を回避するのは亜子の癖で、自分が『間宮』の歯牙にもかかってないとすら思ってるかもしれない。それは困る。俺の戦略的にも、亜子の護身のためにも。
「え?いるの?俺に彼女?」
とりあえず、否定するしかない。亜子以外は興味すらない。
「え?いないんですか?」
そう聞き返されたということは、ずいぶん遊んでそうに見えているらしい。これは検討事項だ。
「……ごめんなさい、つい決めつけちゃいました」
「いや、亜子ちゃんから見てモテそうってことなら俺も捨てたもんじゃないんだな」
どう誤解を解くべきか考えながら、でも顔の造形に関しては亜子に認められたということにしておく。自分ではあまり好きな顔ではなかったが、武器になるというならその恩恵に預かろう。
最寄り駅に着くと、改札出口で亜子と別れることになった。家の方向は一緒でも、これから俺のバイトがあるサニーマートは駅の向こう側にある。
最後、「メールするからね。あと、見かけたらガンガン声かけるから」と宣言をして手を振った。亜子も、苦笑しながら小さく手を振り返してくれた。
それから亜子とは会う機会は減ってしまった。
本当は毎日のように会いに行きたいし、駅や大学で待ち伏せたいけれど、あまりに不自然だと怪しまれてしまう。
瀬下の仕事の方でもやや手のかかる案件に関わってしまったこともあり、会えないことも試練のうちだと割り切った。その代わり、メールは毎日のように送った。内容は些細なことで、『なにしてんの~』とか『◯日サークルあるから!』とか、軽いものばかり。それに対して、亜子も『バイトしてました』とか『会えたらいいですね』とか、当たり障りなく返信してくれた。
やっぱり、中学の頃とメールの様子も変わらない。俺は『間宮』であるがために、使ったこともない顔文字や絵文字やデコメを駆使するが、亜子は基本的に文字だけ。俺のメールへの返信はそんなに間を置かず返してくれるが、返信以外で亜子からメールが来ることはない。元からあまり連絡を多く取るような性格でもないらしく、返信の速度から言えばこれでもだいぶ気を使ってくれている方かもしれない。
でも、やっぱりメールだけじゃ我慢できなくて、一度だけ最寄り駅で同じ時間帯の同じ電車に乗るように待ち伏せしたし、亜子の大学でも二、三度ほど顔を見に行った。
近くにいるはずなのに、偶然に任せてしまうと全く会えないものなのだと思った。
その日は、取っていた授業が休講になり、サークルまでの時間が空いてしまった。同じサークルで同じ学年の堀米と、少し早いが亜子の大学へ行って時間を潰す、という話になった。
あわよくば亜子と会えるかもしれない、という目論見もあったが、堀米と一緒に居たこともあって発信機を調べてまで亜子を探すことはしなかった。
だから、偶然向かったテラスに亜子を見つけると嬉しさのままに後ろから両肩を叩いた。
「亜子ちゃん!」
「!?」
亜子はびくりと体を震わせて、固まる。
「あはは、ごめんごめん。偶然見掛けたからテンション上がっちゃった」
俺だとわかった亜子は、少し安堵していた。今日も亜子はかわいい。
「間宮さんと堀米さん!あれ、どうしたんですか?」
名前を呼ばれ何事かと思えば、亜子と同席していた子にも見覚えがある。あれは、うちのサークルのマネージャーをやってる、確か黒河マリカ、だったはず。
「取ってた授業休講になったからちょっと早めに来た」
堀米が黒河に答えるが、黒河の疑問はまだあるようだった。
「え、で、なんで間宮さん、亜子ちゃんのこと知ってるんですか?」
「いや、こっちこそ、なんで亜子ちゃんとマリちゃんが?」
俺の方は大体の察しはついていた。黒河マリカは、亜子と同じ学年の同じ学部だと見当をつけていた子だ。それで亜子と一緒にいるということは、二人は友人だと思って間違いないだろう。
こう上手くサークルが亜子への交遊関係まで作用をもたらすとは、かなりラッキーだ。
亜子は亜子で、俺と黒河がなぜ知り合いなのか不思議そうにしていたが、すぐに黒河がひとりでに気付いた。
「あ、そうか……え!?嘘!?」
そして、亜子と俺を見比べて、目を見開いている。
「もしかして、亜子ちゃんの王子様って間宮さんのこと!?」
聞き捨てならない話だ。「何々、王子様ってなに?照れる」と、話に割り込む。
「そう、助けてくれたのが間宮さん。王子様ではないけど」
ようするに、亜子は痴漢の時の話を黒河にしているらしい。もちろん、その時居合わせた人物と自分の通っている大学のキャンパスで再会したとなれば、友人にその顛末を話すのは自然。
黒河の目線で言えば、卑劣な痴漢から颯爽と助けた俺の存在は王子様のようなのだろう。それが亜子にそのまま通用すればいいのだが、そんなに甘くない。
「言ってよ、亜子ちゃん!」
「え?え?」
気付いた黒河は、亜子の肩を掴んでがくがく揺らした。黒河の立場からすれば、話を聞いていた人物が身近な俺だったというのは寝耳に水だろう。ただし、亜子はまだよくわかっていないようだ。
「あー、つまり、俺とマリちゃんは同じサークルってこと」
そういえば、俺が何のサークルに所属してるかなんて、聞かれたこともないし話したこともない。
黒河との接点を説明すると、亜子はやっと事態を飲み込めたようだった。ついでに、なんのことだか全くわかってない堀米にも、亜子とのことを説明する。
堀米も黒河も、亜子と俺の縁に肯定的だった。それからフットサルの話なんかもしたが、亜子はあまり乗り気では無さそうだった。まあ、スポーツには興味無いのは俺も知ってる。
ひとしきりしゃべった後、時間が来たので俺たち三人はサークルに向かった。亜子はバイトらしい。亜子と分かれると、黒河が興味津々で俺に尋ねてきた。
「亜子、可愛いですよね?」
どうやら黒河は俺と亜子をくっつけたいようだった。阿川友代とは違ったタイプで安心する。他人の色恋に口出しするのが趣味という女は一定数いて、こういうタイプであれば心置きなく助力を求められる。
「亜子ちゃん、可愛いね」
「きゃー」
何も照れることなく亜子を褒めると、黒河は自分が褒められたかのように喜ぶ。
「俺も、亜子ちゃんみたいな子、いいな~」
「駄目。亜子ちゃんは俺のだから」
話を聞いていた堀米が割り込んでくる。堀米は本気ではなかったかもしれないが、牽制はしておかなければならない。
「えっ?えっ?つまり、それって?えっ?」
黒河が興奮気味に俺に結論を求めた。
「本人には何も言わないでね」
しぃ、と唇に人差し指を当てるだけで、俺は黒河に答えた。黒河は、共犯者になったかのような表情で、こくこくと頷いた。
「で、どうなの、彼女は」
いつもの店で、ビールを一杯空けた頃合いで瀬下は話を切り出した。たまに飲みに付き合ったときの、お決まりの話題だ。
「やっと普通に話せるようになったよ」
「鈍行だな~」
「マイナスだった頃に比べれば、進展だね」
いつしか俺は瀬下に敬語を使わなくなってきたが、瀬下は大して気にしてないようだ。
「嫌われてるって言ってたけど、それは克服したんだ?」
枝豆に手をつけながら、瀬下は様子を聞いてくる。
「いや、今他人のふりしてる」
「はっ!?」
「俺が俺だって気付かれてない状態」
「ああ……イメチェンで?最初会ったときに比べれば変わったもんな~。ずいぶん軽そうになった」
瀬下から見てもやはり軽そうに見えるらしい。髪型だろうか、少しこれからのことを考えてしまう。
「……でも、それ進展か?いつかバレるだろ、名前とか」
「顔すら忘れてるくらいだから、俺の下の名前くらいじゃバレないんじゃない?」
「あ、名字は前と違うのか」
瀬下は半分納得しながらも、薄氷を踏むようなものだと指摘した。
「完全に他人に成りきれるってわけじゃねーし、なんかの拍子でバレるかもよ?」
「そうかな……」
姿も声も話してみても亜子は俺と気付かなかった。
それはそれで物足りなく思うところはあるが、でももうこれ以上何で気付かれることがあるんだろう。
「バレた時、二度嫌われることになるだろ?今から謝っといた方が無難だとは思うけどな」
まさか今の幸せな状況を自ら壊す気は無いが、バレてしまったときの対策は確かに立てておいた方がいい。
もしそうなったとしても、亜子を俺に繋ぎ止めておく何かが必要だ。




