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そうして僕は恋をした

挿絵(By みてみん)

――彼の話。








 それでも僕は彼女が好きだ。


 クラスの中でも亜子は地味で目立たない存在だった。見た目は華美でも派手でもない。制服を着崩すこともなく、スカートを膝丈に着て、シャツのボタンは上まで止まってる。運動が苦手で、勉強が特別でるわけでもない。秀でたものを持っているわけでもなく、大人しくて声も小さい。ただ、とても心優しい子だった。

 どこの誰よりも、美しい子だった。

 例えば気弱な教師を、例えば浮いてる同級生を、そんな歯向かわれないような弱者を選んでからかったり傷付けたり、それがいじめとも呼びきれない中学生特有の無邪気な集団心理であったとしても、亜子は絶対に他人をせせら笑ったりしない。

 不愉快そうに口を結んで、じっとしている。あるいは悲しそうにしている。やはり彼女は目立たないから、表立って非難なんかしないし、そんな様子に気付いているのも僕くらいだ。

 他人を傷付けることに愚鈍な声がでかいばかりの人間まがいのサルが跋扈する檻の中で、彼女の存在はまるで尊いものに思えた。彼女だけが、この不条理な世界を否定しているように見えた。

 好意を持てば、亜子に愛嬌と愛着を感じて止まなくなった。仕草一つ一つが途方もなく可愛らしく見えてきて、気が付けば僕は彼女を目で追っていた。

 言葉を交わすのは、とてもとても勇気を振り絞って捻り出すあいさつくらい。まともに話したことなんてないから、はじめはとてもびっくりされたけど、やっと最近間を置かずあいさつを返してくれるようになった。うれしい。

 でも、それ以上は話しかけられなかった。亜子はおいそれと近付けるほど安い存在じゃない。いや、これは言い訳かもしれない。違うんだ、亜子に嫌われたり遠ざけられたりするのがこわい。

 彼女が、彼女を、失うのがこわい。そこまで至って、僕はやっと気付いた。


 僕は彼女が好きだ。




 きっかけの詳しいことは知らない。

 どうやら亜子が、女子のリーダー格に抵抗したことが発端だという。それまでじゃれあいやからかいの範疇だったものが、亜子へと標的を絞った嫌がらせとなっていた。

 僕も、最初は気付けなかった。亜子の元気がないこと、よく一緒にいた女子たちと距離を取り孤立するようになったことは不思議に思っていた。


 放課後、愉快そうに笑う女子の集団の話を聞けば、亜子の文房具を隠したり上履きに給食の残飯をよそったりして遊んでいるらしい。

 亜子が地味なせいで派手なリアクションはないけど、動きが止まったりうつむいたり、傷付いてるのを見るのが楽しいという。何でも悪いのは亜子で、地味でブスのくせにこっちのノリを邪魔してくるのがうざい。だからちょっとくらい気を晴らすことくらい全然悪いことじゃない、とまた笑っていた。



 ああ、クズだ。


 醜く、汚く、下衆で、卑しい。こんなものがのさばり、美しい亜子が一方的に虐げられる。理不尽だ。

 こんな世界、許されるはずがない。

 僕は、女子たちの輪に入った。


「知ってる?入野さんの噂」


 口元に薄く笑みを浮かべると、女子たちは沸き立った。知らない知らない、と口々に言って僕を促す。

 集団心理を煽るなんて簡単だ。信憑性があるような話のタネを撒けば、あとは勝手に尾ひれがつく。妄想と嘘と真実が入り混じる。亜子が他人とは異質だと言う事を強調し、理解が出来ないと思わせるように単語を選ぶ。適当なそれらしい事実をでっち挙げて、その話の出所は曖昧にしておいた。それだけで、女子たちは食い付き、喜ぶ。野卑なこいつらが美味しく飲み込めるように仕立ててやったのだ、当然だ。


 僕はその場を去り際に、サルたちへこう勧告した。


「バレないようにやりなよ。

 ちょっとずつ、ちょっとずつね」



 悪意を差し向けられた亜子は、かわいそうにひどく傷付いていた。

 噂の効果もあってか、あの女子集団だけでなく、確実にクラスメートの中でも浮いた存在になった。今や休み時間は孤立して、給食も一人で食べるし、グループを作らなくてはならないときは必ず最後に一人残った。もう、仲の良い友達と呼べる相手もいないし、気軽に声を掛け合うクラスメートもいない。

 彼女は現状に一体何を思っていたのだろう。

 一人ぼっち、遠ざけられる毎日。姿の見えない悪意に晒され、あげくに誰も助けてくれない。浅はかで薄情な、すぐに裏切る人間の皮を被ったクラスメートたちを、どう思ったろう。美しい亜子が絶望に呑まれ、心ごと潰されてしまってもおかしくない。

 そう、話しかけるなら今だ。今しかない。

 彼女のたった一人の味方に、僕ならなれる。僕ならなれる。


「社会の教科書って、借りれる?」


 ごく自然に、昼休み通りがけに亜子へ話しかけた。

 緊張が伝わらないように装うのは難しかった。毎日のあいさつは相変わらず、今日やっとはじめて会話に臨もうとすると、亜子はしばらく動きを止めていた。いきなりでびっくりしたのかもしれないし、教室で話しかけられたことが久しぶりだったのかもしれない。


「……え?教科書……?」

「マーカー引きそびれたからうつさせて欲しいんだけど……駄目かな?」


 亜子はうつむいて、僕から目をそらす。後ろから、女子たちの冷ややかな笑いがかすかに聞こえる。


「……他の人に頼んだらどうかな」

「入野さんの教科書は駄目なの?」

「……うん」

「そっか、残念。でも、ありがとう。無理言ってごめんね」


 僕がそう言うと亜子は力無く微笑んだから、胸の奥がザワッとした。ドキドキと心臓が大きく脈打つのを感じる。

 好きな子に微笑まれるのって、こんな気持ちなんだ。




 亜子から離れると、例の女子たちが近付いてきた。


「ねぇ、なんで入野さんなんかに話しかけたの~?」


 何の用かと思えば、全くうるさい。


「だって……入野さん、一人でかわいそうだったから」


 そう答えると、女子たちは口々に「今屋くん、やっさし~」「イケメン~」と笑い出す。

 こいつらは、なんなんだろう。不気味だ。人間でもないのに、人間の形をしている。ニタニタとした下品な目を見るのも憚られ、汚い黄色い歯が覗く口元を無感情で眺める。


「でもお、入野さんの教科書は一つ残らずボロボロなんだからぁ、人に貸すなんて無理無理ィ~」


 メスザルがそう鳴くと、女子たちはいっせいにケタケタ笑い出す。なにがここまで自身の品位を貶めさせるのだろう。吐き気がする。

 僕はすぐにその場を離れようと、女子たちを振り返った。


「知ってるよ、入野さんの社会の教科書がズタズタだって」


 知ってて借りようとしたんだよ。

 亜子が、どんな顔するかと思って。




 その日を境に、僕は少しずつ少しずつ亜子へ話しかけた。話題は他愛もないことばかりで、天気のこととか、授業のこととか、そんなこと。

 実際、亜子を目の前にすると何をしゃべったらいいかわからなくなって、口から滑り出すのはたいていどうでもいいことばかり。気の利いたことや、面白いことを話せればいいのに、意識しようとすればするほど空回る。こんなこと今までなかったのに、亜子の前だと格好悪くなってしまう。

 それでも、変化は起きた。努力は亜子の人見知りに届いたようで、以前よりも打ち解けてきた。あいさつのついでに話もできるようになったし、亜子も僕を見つければあいさつもしてくれるようになった。まだ単なるクラスメート同士の仲でしかないけれど、それでも亜子の味方であることが伝わればそれで充分だ。


「選択教科、入野さんは書道だったっけ」


 授業と授業の合間の休み時間。次は実技で、教室を移動する。


「うん。書道室に行かなきゃ」

「じゃあ途中まで一緒だ」


 残念なことに、僕は選択教科を美術で取ってる。それでも、廊下の先の階段まで、亜子と居れる。


「僕も、書道にすればよかったな」

「どうして?」


 亜子と少しでも長く一緒にいたいから、という本音を飲み込んだ。


「字、綺麗な方がいいし」

「そう?文字なんて読めればいいし」


 こちらを向くこともなく、亜子はまっすぐ廊下の先を見ている。


「私今屋君の字はすぐ今屋君が書いたってわかるから、それでいいと思う」

「……!」


 肌が粟立つ。

 亜子は今の言葉に特別な意味など持たせてないだろう。ただの世間話の範疇。亜子の感じたままの感想。それでも嬉しかった。亜子の中に僕が占める位置があることが確認できたから。


「……どうしたの?」


 隠し切れない笑みを見つけられてしまった。


「あ、いや……褒められたから、照れるなって」

「照れてもらうほど褒めてないよ?」


 亜子と僕の目が合って、二人は笑い合った。

 こうやって少しずつ、僕たちはクラスメートから友達になっていくんだ。そしてやがて、成るべくして想い合う仲となるだろう。




 一方で、女子たちからの亜子への嫌がらせは続いていた。

 暴力を振るったり罵倒したりということはない。あくまでも犯人が誰かわからないイタズラと、傍目からではいじめだとはわかりづらい仕打ち。メスザルたちは、誰に咎められても知らないふりをできる境界をわきまえていた。もちろんそれが亜子の慰めになどにはならない。

 亜子は繰り返される嫌がらせで、少しずつ少しずつ、克服するように耐えることに慣れていく。終わらない悪意に晒されながらも、亜子は教師に訴えることもなければ、学校を休むこともなかった。教室で泣くこともないし取り乱すこともない。ただ淡々と、耐えるのみだった。亜子の心中はどんなものだっただろう。僕はただ、想像するしかない。


「………………」


 席を立っていた亜子は、教室に戻るなり筆箱の中身を探っていた。お気に入りのシャープペンシルが見つからないのだろう。探すのを諦めると、無表情で筆箱のチャックを閉じた。


「入野さん、この前借りた参考書、返すよ」

「え、あ、うん。あ、もう?」

「借りっぱなしじゃ悪いし」


 お気に入りのシャープペンシルが不自然に消えたことなど、亜子は一言も漏らさない。落ち込んでいるだろうに、その様子を見せようとしない。ちょっと前までは、教科書一つ無くなったら、しばらくうつむいて動けないほどだったのに。

 亜子は強くなったんだね。そんな亜子にとって、僕が唯一の希望であったらいいな。いや、そうでなければいけない。今はまだ、何一つも相談してくれないけど。いつか亜子が僕を頼ってきたとき、助けてあげるんだ。


「今度、模試前に図書館で勉強しない?」


 思いつきで、僕は口を開いた。


「勉強?」


 亜子はぱちくりとまばたきする。


「参考書貸し合ってさ、英語でわからないところあったら聞きたいし」

「……私と勉強したって、今屋君のためにならないんじゃない?」


 嫌がってる感じじゃなく、遠慮しているみたい。僕は勉強ができる方らしく、総合成績も特別な勉強などしなくても学年一位だ。亜子は飛び抜けて成績が良いわけじゃないけど、勉強を怠ったりしないからテストの点数は悪くない。


「英語は僕より今野さんの方が点数上だよ?」

「上って言ってもほんのちょっとだけだよ」


 なかなか頷かない亜子だけど、僕がまだ食い下がるとやっと了承してくれた。

 でも、これで二人で出掛けるって、デートみたいだ。そう考えたら、体が熱くなった。思いつきも、悪いものじゃないな。約束した土曜日が、とても待ち遠しくなった。




 待ち合わせは、図書館の前。

 目が覚めてから待ちきれなくて、約束の30分前には図書館に着いてしまった。待ち合わせにやってきた亜子はいつもの制服と違って、それだけで僕はドキドキしてしまう。

 席を取って、しばらくは普通に勉強をした。僕たちは受験生で、口実というだけじゃなく本当に勉強をしなければいけない。亜子は近くの公立を受けるようなので、僕もそのつもりだった。教師は特待生制度もあるから進学校に進むべきだとうるさいが、就職に響くのはせいぜい大学のランクだ。高校くらい、好きに選ばせてもらう。


「……どうして、私だったの?」


 参考書の交換などをしていると、珍しく亜子から話しかけられた。


「何が?」

「いや、今日……今屋君の方がずっとずっと頭いいのに。不公平にならない?」

「不公平って……僕が損するってこと?入野さんが得をして?」

「うん、悪いけどわからないことはいっぱい聞くよ。邪魔しちゃうよ」

「いいよ、いっぱい聞いてよ」


 そんなことを遠慮しなくていいのに、亜子は可愛い。


「……どうして、今屋君は優しいの?」


 そう素直に聞かれると、答えに窮するものだ。正直に亜子が好きだから、なんて言ったら亜子はどんな顔をするんだろう。


「優しいかな?僕も入野さんにたくさんわからないところ聞くつもりだけど」

「……今屋君がそれでいいならいいんだ」


 それ以上は言わず、亜子はまた参考書を睨むことを再開した。


「いつものシャーペンと違うね」


 勉強が一息つくと、僕は話を切り出した。ノートを滑る亜子の手が止まる。


「……そうだったかな?」

「うん、いつもはほら、紫色の、ノックが丸いやつ」


 亜子がなんて答えるか、僕はじっと彼女を見つめた。亜子はこっちに視線をやることもなく、再び右手を動かした。


「ああ、あれか。

 あれはね、どっかいっちゃった。失くしたの」


 亜子は、答えをはぐらかした。

 姿の無い悪意に晒されている学校で、亜子は一人ぼっちだ。だから、毎日あいさつをして勉強も一緒にする僕が間違いなく亜子の一番の味方だ。それは亜子もそう思ってくれているはずなんだ。

 でも、じゃあ、なんで何も言ってくれないんだろう。助けを求めてくれないんだろう。もどかしい。そして、悔しい。


「失くしちゃったんだ、見つかるといいね」


 本当はどうして僕を頼ってくれないのか、亜子を問いただしたかった。でも、僕はにっこり笑った。きっといつか、そう遠くないうちに、亜子は僕のことを特別に思ってくれるはずだから。




 その日は、たくさん亜子の声を聞けて幸せだった。

 英語の文法を教えてくれる声、僕に数式の解答を尋ねる声。亜子の声は、とても静かで少し低く、聞いていて心地よい。

 近くで盗み見た亜子のまつげの長さや、やわらかそうな肌、かすかに香る甘い匂い。全部全部愛おしい。

 こんなに好きなのに、心臓がねじれそうなくらい切ないのに、亜子は僕のことなんかさして気にしていない。僕だけがドキドキして、僕だけが舞い上がってる。亜子のことが好きだと気づいてから、毎日毎日亜子のことを考えているのに、どうして亜子は僕のことを振り返ってくれないんだろう。

 亜子と別れ家に戻り自室に入ると、机の引き出しから一つのそれを取り出した。

 紫色の、ノックが丸い、シャープペンシル。


「亜子……」


 いつも亜子が使っていた持ち物がここにあるというだけで、どうしようもなく胸がざわめく。

 ごめんね、亜子。盗んだわけじゃないんだ、借りているだけ、ただ借りているだけ。すぐに返すから、だから今は少し、亜子の面影を味わせて――。




「そのシャーペン、見つかったんだ」


 教室で亜子にそう声をかけると、亜子は顔を上げた。その手には、ノックが丸い、紫色のシャープペンシルがある。


「うん。書きやすくて気に入っていたからよかった」


 ノックして芯を出す仕草に、僕は口元が綻ぶのを抑えられなかった。


「そっか、よかったね。でも、これ受け取ってよ」

「え?」


 僕は白い小さな紙袋を亜子に差し出した。


「これ、くれるの?」

「筆記用具って、結構受験生のテンション左右するし、と思って」


 本当なら可愛くラッピングしたものの方がプレゼントみたいでよかったけど、それだと亜子はきっと遠慮する。近くの文房具屋で買ってみた、と思ってくれるぐらいがちょうどいい。


「もしかしてシャーペン?私がなくしたって言ったから?」

「安物だけど、自分のついでに思い付いたから」


 念を押すけど、やっぱり亜子は遠慮がちに紙袋をあけた。


「ありがとう、なんかごめん」


 袋から取り出した銀色のシャープペンシルに、亜子はやっと微笑んでくれた。書きやすいのを選んだからきっと亜子は使ってくれる。亜子に渡す前に、僕も使ってしまったけど。


「気にしなくていいけど、お返しはちょっと期待してる」


 亜子は笑って「考えとく」と答えた。またちょっと、亜子へ近付けた気がした。

 それから何回か、放課後に二人で勉強した。二人きりの時間というのはとても貴重なもので、例えそれが隣同士で勉強するだけの時間であっても、僕には特別だった。中間テストが返ってきて、亜子から数学を教えてほしいと言われた時は胸が高鳴りすぎてどうにかなるかと思った。亜子から僕を誘ってくれるなんて、僕を求めてくれるなんて、嬉しい。嬉しすぎる。

 スタバで模試の答え合わせをした時は、きっとまわりから見れば僕たちは恋人同士に見えただろう。そう考えただけで、顔がニヤけてしまう。僕には亜子しかいないのと同じように、亜子に相応しいのは僕しかいない。そのことをより多くの人間に知らしめたい。


 一方、亜子へのいじめが始まって二ヶ月弱。徐々にそれも緩まり始めていた。

 物を隠したり悪戯したりするのは、週に2回ほどの頻度から週1回に落ちた。一通り亜子の持ち物で遊んだからかもしれないし、今はもう落ち込んだ素振りも見せない気丈な様子に面白味を感じなくなったのかも知れない。

 ずっと亜子から距離を取っていたクラスメートたちも、少しずつ亜子を受け入れ始めた。

 四月のある日から亜子は誰からも声をかけられず、どんな嫌がらせを受けても教室の隅でただ一人耐えるしかなかった。それは亜子と常に一緒にいた阿川たちも例外ではなく、亜子は誰に相談することもできず、誰に慰められることもなかった。それがどれほど辛いか、僕にはわかる。

 それが僕が亜子と一緒にいることが増えてきたのを見て、便乗するようにクラスメートたちは亜子に声をかけるようになってきた。ずっと亜子に近付かなかった阿川たちも、様子を窺っているようだ。

 ある意味で言えば、僕の存在が亜子に近付きやすくさせていたのかもしれない。自分で言うのもなんだが、僕は人付き合いは得意な方だったし、クラスメートたちの注目を集めやすいことも自覚している。僕が狙ってなくても、あいつらは俺を持ち上げる。気持ちの悪いくらいに。

 それが、亜子にも作用しているようだ。僕が亜子と話すようになったから、亜子を受け入れる。

 そんなこと、冗談ではない。

 なぜ、今になって亜子に手を出そうとする?あいつらは、バカみたいな亜子の噂を鵜呑みして遠巻きにしてた。なぜ亜子が一番辛い時に知らないふりをしていた輩たちが、どうして今更亜子の味方のような顔をしているのか、意味がわからない。亜子がどんな思いで耐えていたのか、亜子がどんな思いで教室に入ることをためらっていたか。あいつらは、少しでもこの事を考えたことがあるのか?

 僕は人の形をしたクラスメートたちの浅はかさを、心のそこから軽蔑し、憎んでいた。



 ある日、メスザルに呼び出された。メスザルというのは、亜子に嫌がらせすることで自分が優位な存在だと勘違いをしているゲスのことだ。

 呼び出されたのは人気の無い教科準備室。各教科の教材が置かれている言わば物置だ。普段は鍵がかかってるはずだけど、メスザルは教材係としてこの部屋の鍵を教師から借りられる立場らしい。

 こんなところに呼び出されるなんて何の用かと思ったが、応じることにした。


「来てくれて、ありがとう」


 僕が扉を引いて薄暗い中に足を踏み入れると、そこには既にメスザルが待っていた。


「いや、僕も……葉山さんに用があったから」

「えっ?あっ……」


 メスザルの名前が出てこなくて一瞬詰まった。今日はどこかしおらしい。背の小さい小柄なこのメスの様子で、ふと思い当たる。


「あの、今屋君、その……好き、です……付き合って……下、さい……」


 メスザルは今にも消え入りそうな声で言った。

 そういうことか。女子に告白されたことは何度かある。今までは恋愛に特に興味がなかったので断っていたが、こうやって好意を表現されるのは悪くない気分だ。つまり、人に好意を持たれるだけの器量と物腰が僕には備わってる。それはきっと、亜子にも通用する武器となる。


「あの……今屋君?」

「あ、ああ、ごめん。びっくりした」

「返事は、今でなくてもいいの……でも、お友達にはなってくれるよね?」


 この顔を真っ赤にしたメスザルは、どんな思い上がりをしてるんだか。笑わせてくれる。


「嬉しいよ、葉山さん。そう言ってもらえて」


 しかし、こんな奴でも利用価値はある。なるべく穏便にはしておかないと。


「え?じゃあ……!」

「でもごめん、君とは付き合えない」


 勿論付き合うつもりなんて毛頭無い。曖昧なことを言い過ぎて勘違いを吹聴されても困る。僕は亜子だけのものなんだから。


「そ、そんな……」


 今度は顔を青くする。みるみる目に涙を溜めて、いかにも傷付きましたという表情を浮かべた。意味がわからない。


「それって……もしかしてあの子が関係ある?」

「……あの子?」

「入野のこと!あんな子が好きだから、私と付き合えないの!?」


 やれやれ、次は激昂か。面倒なメスザルだ。


「ちょうどよかった。僕の用っていうのは、入野さんのことなんだ」

「えっ……」


 メスザルは泣き止んで、顔をさらに強張らせた。最近亜子と仲良くしてる僕に改めて切り出されると困る心当たりがあるのだろう。


「もうさ、入野さんへの嫌がらせはネタギレなの?」

「……?」

「せっかく僕が入野さんを元気づけてるのに、なんで手加減しちゃうの?」


 メスザルは混乱しているように、目を白黒させた。ポケットから、僕のメアドを書いたメモを取り出す。


「葉山さんには期待してるんだよ」


 去り際に、メスザルの肩に触れて耳元で囁いた。そしてもう一方の手でメスザルの手にメモを捩じ込んだ。

 亜子は一向に僕に振り返ってくれない。これだけ近付けたのに、僕だけが亜子の味方だって示したのに、亜子は僕に特別な気持ちをこれっぽっちもくれたりしない。停滞したものを推し進めるには、多少乱暴な手法も取らざる得ない。葉山佐紀にはその役目を担ってもらおう。


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