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└誰かさんの存在



――……一火はかなり疲れていた為、その日は天界に帰らずイアンの部屋を借りて眠った。

ベッドに入ると、すぐに眠気が襲ってきて。目覚めた頃には、翌日の昼になっていた。



「――起きましたか?」


「……っ!?」


まだ頭が完全に目覚めておらず、ここが魔界である事を忘れていた一火は、カレンの声にがばりと起き上がった。

ベッドの傍らに置いた椅子に腰掛けていたカレンは、その反応に目を丸くして驚きつつも、「おはようございます」と告げる。


「あ、ああ……そうか」


ようやく自分は魔界で眠っていた事を思い出した一火は、カレンの挨拶に応える。



「……お前、いつからここにいたんだ?」


「つい数時間前からです。私もあの後、ずっと寝ていまして。目を覚ましたのは今朝でした」


「そうか……って、数時間もここにいたのかよ?」


「……なんです、そんなに寝顔が見られたくないんですか?」


「い、いや……そういうわけじゃねーけどさ……」


目を覚まさない自分を前に、カレンはずっと何を思っていたのだろう。一火はそれが気になった。


「……あの、ですね。私、思い出したんです」


一火が問いかける前に、カレンは語り出した。今まで忘れていた、自分の記憶のかけらを。



「私が死んだのは、溺れたからじゃなかったんです」


「……そうだったのか?」


「はい」


頷くと、カレンは急に一火から目を逸らし。僅かに頬を染めながら、小さく呟いた。



「一火さんが、そうしてくれたみたいに。……あの時も、私を助けてくれたひとがいたんです」


「……そ、そうだった……のか」


カレンのそんな顔を初めて見た為か、一火までなんだか照れ臭くなってしまう。会話が途切れ、妙に気まずい沈黙が流れた。



「――あ、あのっ……ありがとう、ございました」


沈黙を破ったのはカレンだった。カレンは座っていた椅子から立ち上がり、一火に頭を下げる。


「お、おい……んな事やらなくていいって……! なんか調子狂うだろ……!」


「いいわけないです! これは譲れませんっ!」


「いや、いいってマジで……!」


どちらも譲らない問答が続き、もはや終わりがないように感じられてきた時。突然、カレンが俯き黙り込んだ。一火はどうしたらいいのか分からず、彼女を見つめていると。



「……私はどうやら、人との関わりに怯えていたようです」


そうして、カレンは話した。中学校の頃、いじめられていた事を。妙にネガティブなことばかり考えて、それでいて理性的な人間を演じている理由は、そうした経験からだとカレンは言った。

人との関わりに怯えていた経験が、悪魔に転生してもなお心の根底に残り、くすぶり続けていたのだと。



「私、あなたがうらやましかったです。人間の頃のこと、あなたはいっぱい覚えていて。それは私には、ないものだったから。


……でも、思い出したら思い出したで、辛い面もあるんですね」


「……」


カレンは少し寂しそうに笑う。……思い出した記憶が全て、幸せなものとは限らない。それを今、理解したのだ。



「……ですが、この記憶は……思い出せて良かったと、今は感じています」


「えっ?」


思いも寄らない発言に、一火はカレンを凝視する。カレンは先ほどと違い、吹っ切れたような笑顔を浮かべていた。



「確かに、この記憶はトラウマの原因になったものですけど。逆に原因が分かったことで、すっきりしたような気持ちにもなっているんですよ。……まあ」


カレンは何処かはにかみながら、言葉を続ける。



「そう思えるようになったのも……あの時、私を助けてくれた『誰かさん』がいたから。その人のことを思い出せたから、だと思いますけどね」


「……そう……だな」


一火はカレンの言葉に納得し頷く。そして密かに、かつてのカレンを助けた『誰かさん』に感謝した。その人間が彼女を助けなかったら、彼女は本当にそこで死んでしまっていたかもしれないから。



「……そういえば、一火さん。昨日、なにげなーく私の名前を呼びましたね」


「はっ?!」


急に悪戯めいた調子で言うカレンに、心あたりのない一火は素っ頓狂な声を上げた。……そう言われれば、どこかで呼んだような気がするが。タイミングなどは全く思い出せない。




「一回だけ、あなたは私を呼んでくれました。……数日間の付き合いがあったのに、名前を呼んだのはたったの一回とか。信じられませんね」


「べ、別に意識してそうしてたわけじゃねぇよ!」


ただ、何となく機会がなかったのだろう。そもそも一火としては指摘されるまで、自分がカレンの名前を一度も呼んでいなかった事に全く気が付いていなかったのだ。



「――分かりました。では、もう一度ここで名前を呼んでくれたら許してあげます」


「なっ……! て、てめぇ……!」


拗ねた様子のカレンを、一火があれこれ宥めていたら何という事か。してやったりと言いたげなカレンの笑みに、一火は自分がうまく誘導されたことに気が付いた。


「名前を呼ぶ、それもたったの一回ですよ? それで許してあげるなんて、今の私はかなり天使として有望株ですね!」


「……お前なあ」


一火は深い溜め息を吐く。だが、同時に安堵もしていた。カレンが元気を取り戻したように見えたからだ。


――カレンは、小さな記憶のかけらを見つけた。それは辛くも優しい、かけがえのない記憶。


その結果、少しでも彼女が自分に素直に生きられるようになったのなら、それはとても良い事じゃないかと一火は思った。


(そうやって笑ってる方が、オレも接しやすいし……見てて、悪い気はしないし……な)


一火はそう思いながら、カレンの名前を――。



「……か、か……か……」



――呼ばなかった。いや、呼べなかったというのが正しいだろうか。


「……あの、なんでそこで詰まるんですか?」


「う、うっせ! 待て!」


「待て、って……」


呆れたように目を細めるカレンに、一火はなおも待ったをかける。


――つまりは、いざ意識して呼ぼうとしたら、何となく気恥ずかしくなってしまったのだ。


「あ、あー……その……なんだ……」


全く意味をなさないセリフを吐きつつ、一火はいつの間にか熱くなっていた頬をぽりぽりと掻く。


――そうして。ああじゃないこうじゃないと、暫くの間唸っていたが。やがて意を決したのか、カレンの目をまっすぐに見据えて。



「かっ……カレン!」


「……」


「って、何で黙るんだよ!? いいんだろこれで!」


気が付けば、もう一火の顔は羞恥で真っ赤に染まっていた。そもそも、転生するまで女子の名前を呼ぶ事に縁のなかった一火である。意識して名前を呼ぶなど、恥ずかしくて仕方がない行為なのだ。

……ルビエや緒印の名前は問題なく呼んでいるのでは、というツッコミをする者がいなかったのは、もしかしたら彼にとって幸いだったかもしれない。


とにかく、それぐらい勇気がいる事だったのだ。



「……ええ。いいでしょう、許してあげます」


カレンは満足げに笑い、そう告げた。それにより、ようやく羞恥から解放された一火は再び大きな溜め息を吐く。――そうして、顔の熱も逃げてしまえと思いながら。



「……ふふ」


「今度はなんだよ……」


「いーえ、別に。なんでもありませんよ。一火さんは本当に愉快な人だなあ、なんて思ってませんから」


「……もう突っ込まねーからな!」


どこかデジャヴを感じるやり取りを終えると、カレンは少しだけ神妙な表情になる。そして、一火が戸惑いを覚えてしまう程に静かな声で、問いかけてきた。



「……あの、一火さんは自分の生前の名字、覚えているんでしたよね。――教えて貰えませんか?」


「……? なんだよ急に」


「い、いいじゃないですか! ただの興味本位ですっ!」


(ただの興味本位? ……ホントかよ)


問いかけて来たカレンの表情と声色が、真剣そのもので。興味本位で聞いているようには、全く見えなかった。


一火は訝しみながらも、しかしそんな真剣に聞いているカレンの問いを無視する気にはならなかった。元より、名字は別に隠していたわけではない。言ってもなんの問題もないのだから。



「――山陰やまかげ。……だったけど?」


そう答えた時、カレンは一瞬だけ目を見張った。だが、一火が何事かと問いかける間もなく、カレンは口を開いてしまう。



「山陰、一火さん……。そう……ですか。……ありがとうございました」



――カレンの確信を持ったような声色。それが、一火の心に疑問を残した。



その後、一火はカレンの不可思議な言動についてすぐに問いただそうとした。が、ちょうどイアンやルビエが部屋に来たために、タイミングを失ってしまう。



(なんなんだよ……こいつ)


結局、この侵入試験前後の日々。

一火はカレンへの疑問をひとつ解消したものの、今度はまた別の疑問を生んでしまう事となった。


彼女の真意を一火が知るのは、まだもう少し――……先の話になりそうである。




→つづく。




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