└その力強さは
「――なっ……!?」
「きゃっ……!」
前触れなく、一火達がいた地面が――なくなった。まるで忍者屋敷にある落とし穴のように、音もなく開き――というか、落とし穴だった。
「うわぁああああああ!!」
「きゃああぁああああっ!!」
まっさかさまに落ちていった、その先は――。
(……っ!?)
その先は、固い地面などではなく――水、だった。落とし穴の先にあったのは、広々とした屋内プールのようになっていたのだ。
勢い良く落ちた一火はすぐにはそれを把握出来ず、重い衝撃と強い圧に、ただ息が出来なくなるような錯覚を覚える。――そう、それはただの『錯覚』だ。
今の一火は、人間ではなく天使である。水の中でだって、呼吸は普通に出来るのだ。
一瞬息が出来なくなったのは、突然の出来事にパニックになっていたのと、まだ自分が天使であるという感覚が薄かった為だろう。
――だが。
(まずい……あいつッ!)
カレンの姿が、見えない。周囲を見回してみても、発見できなかった。その事実を確認した時、一火は血の気が引くような感覚がした。
カレンは、水にトラウマを持っているのだ。足先が水に触れただけで、かなりの拒否反応を示していたというのに。――いきなり、全身が水に浸かってしまったら。
(……くそ!)
自分でも、一瞬だけ呼吸を忘れたのだ。パニックになったカレンが、見つからない今もなお呼吸困難になっている可能性が高いと思った。
そう考えたら、いても立ってもいられなくなって。
一火は、見えない水底に向かって泳ぎだした――。
『このノロマ! いつもぐずぐず泣きやがって、うぜーんだよっ!』
――……沈みゆく意識の中、いくつもの声が聞こえてきた。
『そ、それはっ……! あ、あなた、たちが……ひどいこと…言うから……』
『んだよ、ノロマのミオザキのくせに。生意気言ってんじゃねぇよ』
『ぅっ……』
三人の男女の声と、もうひとつ。……今より若干幼く感じるそれは、確かにカレン自身の声だった。
幼いカレンは、周囲の人間の言葉に身を縮こまらせて。振り絞ったなけなしの勇気をも、萎ませてしまった。
(あぁ……そう、だった……)
カレンは、それを他人ごとのように聞きながら、ぼんやりと思い出す。
――自分は生前、いじめられていたのだということを。
今聞いているこの声は、中学生の時のもので。
(私は……この日)
母の頼みで買い物に行っていた時、不運にもいじめっ子達と出くわしてしまったのだ。
――そして、そこはちょうど川辺だった。人を避けるように歩いていたのが、この日は裏目に出てしまった。
『――キモい顔で見んじゃねぇよっ!!』
『あっ……!?』
それは、瞬く間の事だった。
気が付けば、自分は川に突き飛ばされていて。げらげらと笑い声を上げるいじめっ子達の声を聞きながら、沈んでいったのだ。
(……)
何も息が出来なくて。辛くて、悔しくて、苦しくて。でも、もがいてももがいても身体はどんどん沈んでいって。意識も、遠くなってきて。
(――ああ……これは……)
走馬灯なのだと、カレンは思った。人間として死んだ記憶を、悪魔として死ぬ瞬間に思い出すなんて、酷い皮肉だと思った。
(……いま、死んだら)
人間から転生し、悪魔になって。それで二度目の死を迎えたら、自分の魂はどうなるのだろう。誰にも気付かれる事なく、消えてしまうのだろうか?
(……い、や……)
その時、カレンは心の底から『嫌だ』と、『消えてなくなりたくない』と、心の奥底で叫んだ。
『――人にあれこれする前に、まずは自分の気持ちを言えよ!』
(……ほん、とう……は)
たったさっき、一火に言われた事を思い出す。その言葉に、カレンは今になって素直に応える事が出来た。
(ほんとうは……私、自分のこと……ちゃんと知りたかった……あなたが、うらやましかったんです……)
もはや本人には届かない言葉。この気持ちを伝える機会は、もう永遠にないだろう。
(…………でも……)
――カレンの心に、さっと影が差す。暗雲のような死のにおいが、すぐそばまで近付いてきていた。
(こんなに辛い記憶なら……思い出さなければ、よかった……)
後悔しながら、しかしカレンは見えない水面に向かって手を伸ばす。――今もなお、その心にはひとつの望みがあったから。
(しに、たく……ない……)
――そう、口にした時。
カレンの手を、力強く握る『誰か』がいた。