└魔界のアイドル様、爆誕
「お久し振りですわルビエさん。再会の証にお茶でも…と言いたいところですが、申し訳ありませんが今はそれどころじゃありませんの」
ルビエに恭しく御辞儀した女性は、その姿だけ見れば深窓の令嬢のようだ。
しかし言い終わると一転、長い眉を吊り上げて一火を仇を見るような目で睨みつけた。
「天使! わたくしに断りもなくいけしゃあしゃあと魔界に…!
この罪は重いですわよ…――きゃあっ?!」
ジェシカと呼ばれた女性が、一火を睨みつけたまま足を踏み出そうとした時。
イアンを踏みつけていた為に段差が出来ていた事に気付かずバランスを崩し、踏み出した時の勢いのまま思い切り転んでしまった。
「……」
「……」
「うわぁ、ジェシカちゃんってば相変わらずドジっ子さんだねぇ〜」
腕を前に投げ出し、顔面から倒れた姿はある意味見事で、この場の者達は暫く呆然としたように沈黙していた。…ルビエの声だけが響き渡る。
「っ……ぅ〜…!」
と、倒れているジェシカが身をぷるぷると震わせ始める。尻尾も力なく床に這っていた。
さらに気のせいか、先程まで自信たっぷりに張っていた声も震えているような…。
「ジェ、ジェシカ様!」
「ご無事ですかっ!?」
その声を聞いてようやく息を吹き返したのか、取り巻きの男女は急いで両脇からジェシカを助け起こした。
ジェシカは赤い瞳を潤ませながらも、口をかたく結んで涙を零さないように努力している様子だった。
その姿が何だか道端で転んだ小さな子供のように見えて、一火はほんの少し笑ってしまう。
もちろんそんな一火の所業を見逃す筈が無く、ジェシカは一火を再び強く睨みつけて。
「て・ん・し・ふ・ぜ・い・が! わたくしを嘲笑うなどと無礼だとは思わないんですのッ!?」
「そーだそーだー!」
「ばーかばーか!」
「うわっ…」
年若い男女…取り巻き達がジェシカの周囲に寄ってたかって声を揃える(しかも何故か子供口調)という、何とも異様な光景に一火は思わず引く。傍らのカレンも同意のようで目を細めて彼女らを見ていた。
「ところでジェシカちゃんジェシカちゃん。そこの足元にいるイアンにそろそろ気付いたげてぇ」
「はい? …あぁっ!」
取り巻き達の手を借りて再び立ち上がったジェシカは、自分の足元に倒れているイアンにようやく気付いたようで、突如感極まったように膝をついてイアンを持ち上げた。
…そう。持ち上げた、というのが適切だった。
ジェシカはイアンの両肩を掴み、自分の正面に彼の顔が来るようにぐいっと持ち上げたのだ。
そして、そのまま力任せにぶんぶん揺らす。
「イアンさん! なぜこんなところで気絶なさって…!! …あぁ!! しかも背中に大量の靴跡まで!
――…この極悪天使ッ、よくもやってくれましたわね!?」
「いやオレじゃねぇよッ! イアンを気絶させたのはコイツで踏みまくったのはお前らだよ!」
「ちょっ、やめて下さいよ私に矛先向けるの!」
「うるせえ! お前の自業自得だろうがっ!」
一火はカレンやジェシカ達を指して自分は冤罪だと主張する。
いくら悪魔志望とはいえ、理不尽に極悪などと称されるのには納得がいかない。
しかし、どうやら悪魔というものは一度思い込んだら止まらない性質を持っている者ばかりのようで。
ジェシカは目を回しているイアンを取り巻きに任せ、一人で一火の元へ歩み寄る。
「貴方のような極悪天使がわたくしの魔界に侵入するなど、あってはならない事ですわ!
…直ちにここから立ち去りなさい!」
「そーだそーだ!」
「どっか行っちゃえー!」
ジェシカが毅然と告げれば、周囲の取り巻き達も同意の言葉を叫ぶ。…やはり子供口調で。
「もし立ち去らないと言うのなら…手段は選びませんわ!!」
「…っ」
一火はこの空気に飲まれそうになるも、ついに反撃の狼煙を上げる。
「…オレだって好きで天使になった訳じゃねえ!
オレは悪魔になる為にここへ来たんだ!」
「――なっ…!?」
ジェシカや取り巻き達は皆驚いたようで、一様に目を見開く。中にはひそひそと話し出す者もいた。
眉を吊り上げたまま、ジェシカは信じられないといった様子で一火を糾弾する。
「天使風情が、悪魔になるですって…?
愚かしいにも程がありますわ! 貴方、自分が何を言っているのか理解してますの!?」
「何だよ、お前は天使が悪魔になる方法を知ってんのか? だったら教えやがれ! そうすればお前の大っ嫌いな天使じゃなくなるぞ!」
一火の言葉に、場がざわめき出す。
「ジェシカ様をお前呼ばわり!?」「なんと愚かな…!」など取り巻きがついに騒ぎ出した。
「さっきから聞いてりゃ人を極悪だの天使風情だの! 初対面の奴にウダウダ言うお前らの方が、よっぽど極悪だっ!」
元々短気で喧嘩っ早い一火。ここまで来ると売り言葉に買い言葉で、次々と言葉を連ね始める。
そんな彼の一言一言に、取り巻きだけではなくジェシカも青筋を立て始め…。
「ちょ、ちょっと…」
「あーあ」
焦ったように一火とジェシカ達を交互に見やるカレンと、対照的に笑顔を浮かべたまま静観していたルビエが口を開く。
その声は大して大きくはなかったがかと言って小さくもない。よってカレンには聞こえたが他の事に気を取られている一火らには聞こえていない。
わざとらしく溜め息を吐いたルビエは、まるで世間話のように軽く言い放った。
「一火おにーちゃん、ごしゅーしょーさま〜」
――ルビエの言葉と、ジェシカが片足を忌々しげに床に振り下ろしたのは、果たしてどちらが先だっただろうか。
少なくとも言えるのは、今度はカレンでさえもルビエの言葉は最後まで聞き取れなかったということだった。
振り下ろされた足は身に着けたヒールも相俟って、いとも簡単に床を破壊した。
一瞬だけ耳をつんざくような破砕音と目の前で行われた所業が一致した時、一火やカレンは思わず身を竦ませる。
床だったものがただの瓦礫と化し、そのままジェシカが開けた風穴へと吸い込まれていく。
刹那、真下の部屋から悲鳴が上がったが、誰も気に留めない。一火とカレンに関してはそんな余裕がない。
「……」
沈黙が心底怖い。が、一火は口が張り付いてしまったように何も言えないでいた。
カレンや取り巻きもそんな様子だ。…ルビエは知らないが。
「…わたくしは淑女ですから…気に入らない事があったとて即座に手を上げるような真似はいたしませんわ。けれど…」
唐突に口を開いたジェシカの地を這うような声に、一火達は反射的に身構える。
ジェシカは口元だけ笑みの形をつくり、一火に顔を向けた。
「…次は、ありませんわよ…?」
その身が纏うオーラはまさしく悪魔…いや、魔王という言葉がふさわしい程だった…――。
ジェシカは取り巻きに「では、この天使を連行しましょう」と呼びかける。…これ以上ない邪悪な笑みを向けて。
瞬間息を吹き返した取り巻き達は「はい、ジェシカ様!」と声を揃えて敬礼してみせる。
「一火おにーちゃん、残念だねぇ。短い付き合いだったけど元気でねぇ〜」
「いや、おい待てよ! お前こいつの知り合いだろ!? 何とか説得」
「いちいち煩いですわよ!」
「そーだそーだ!」
一火に対してはとことん厳しいジェシカの態度に、周囲の取り巻きもやはり同調。
がっしりと身体を拘束され、動けなくなる。
このままではマズい…一火はそう思うが、何を言った所で向こうは耳を貸そうともしないだろう。
「どこに連れて行きますか?」
「冥界にでも送ります。こいつの数々の無礼な言動は、あの天使長の不祥事にしてやりますわ」
「くそ、おいっ! 勝手に決めんな!」
話をどんどん進められる。一火は何も出来ず、ジェシカ達によって連行され――。
「ま…、待って下さいっ!」
「!?」
一火は制止を掛けた人物の声に、目を見開いた。
自分を拘束している男悪魔と共に振り向く。待ったを掛けたのはやはり、紛れも無いカレンであった。
「…その、人を…、連れて行かれたら…私がっ、困ります…!」
声だけでなく、足も僅かに震えている。けれどカレンはハッキリと言った。
「貴方は…」
ジェシカは訝しげに眉を顰めたが、すぐに笑顔になる。
「どういう事ですの? わたくしに教えて下さいませ」
まるで小さな妹に話しかけるように、その声色はとても優しい。
…正直今までの一火に対する態度を見せつけられた後では、その笑顔は逆に怖い。
カレンもそう思っているのだろう。震えが止まっておらず、あーだのうーだの唸っている。
(どうする気だよ…)
カレンはジェシカに何を言おうとしているのか?
…まさか。
ひとつの考えが一火の中に浮かんだ。が、それは言ったらアウト。
真っ正直に言ってしまえば最後、カレンまでも追放の対象にされるレベルだ。
「遠慮しなくていいんですのよ。さあ、言ってご覧なさい?」
「あの…え、と…」
「カレンちゃんも一火おにーちゃんと同じなんだよねぇー?」
「きゃあああっ!? ルビエなに、何言っちゃってるんですかぁ!!」
あっさりとバラしてくれたルビエにカレンは叫ぶ。
…が、時既に遅し。
「ひっ」
ジェシカのカレンを見る目が明らかに、不審なものを見る目へと変わっていた。
「…どういう…意味ですの?」
思わず悲鳴を上げたカレンに、ジェシカは笑顔で問いかける。
…勿論それは、さっきまで見せていた慈愛の微笑みではない。
ジェシカの表情はまさしく悪魔、いや邪神と呼ぶにふさわしいぐらいだ。
「あああの、私、」
「カレンちゃんは天使になりたいんだってぇ。ね、カレンちゃん?」
再度のルビエの余計な発言に、もうカレンは泣きたくなった。
「おまっ…」
この悪質極まりない嫌がらせに、一火も内心で頭を抱える。