└前世のこと、関係のこと、そして、
その後準備体操を済ませた二人は、まずは水に慣れた方がいいという一火の提案から、一番浅いプールに向かった。
「…ん?」
と、さっきまで隣にいたはずのカレンが、いつの間にやら後方を歩いていた。
その足取りはぎこちなく、彼女の顔も固い。引き締まっているというよりは、硬直していると言った方が正しい印象を受ける。
「…! あ、あ…いえ」
一火が足を止め、自分を見ている事に気付いたカレンは慌てた様子で彼に追いつく。
「どうかしたか?」
「…いいえ」
それ以上は何も言わず口を噤んでしまったので、会話はあえなく打ち切られる事となった。
溶岩のような赤色をした中央のプールとは違い、こちらは底が見えない程濃い紫色をしている。
主に小さな子供を連れた親子がおり、一火達のような(見た目)若者はいない様子だった。
「……よし」
一火は意を決して、内心恐る恐る着水。…そして安堵する。
特におかしな点はなく、変わっているのは色だけのようだし、天使でも服のままで入っても平気そうだ。
「ねぇねぇおとーさん、天使さんがいるよ〜」
「そうだな。珍しいなぁ」
…少し視線を感じるが、それは気にしないようにするとして。
「お前はプールサイドに座って、自分に水をかけてみ」
「……うー…はい」
さっきまでの減らず口はどこへ行ってしまったのやら。
カレンはかなり渋い顔をしながら、そろそろと足を水中に沈めようとする。
「…っ!」
と、つま先が水面に触れた途端、カレンは目を瞑って足を離してしまうではないか。
予想だにしていなかった反応の為、一火は思わずプールから上がり彼女の顔を覗き込む。
「おい…これ、…カナヅチってレベルじゃないだろ」
「う…うるさい、ですね……仕方ないでしょう…っ!」
声が震えている。強がって必死に自分を奮い立たせているのが、付き合いの無い一火でも解るくらいにその姿は頼りなかった。
…さっき彼女の歩みが遅くなったのも、意識的か無意識かは不明だがそういった理由あってのものだろう。
しかし、薄く目を開けたカレンの瞳は澄んだ青色をしているというのに、本人はここまで水が苦手だとは。
「…人間の頃からカナヅチだって言ってたけどさ。…何かあったのか?」
「……」
一火の静かな問いに、カレンは目を伏せてしまう。
その様子から問いの答えは明白だったが、無理にそれを聞く事も出来ず一火はどうしようもなく空を仰いだ。
「いや、言いたくないなら別に良いけど。…しかし、どうしたもんかな…」
「……」
一火の視線は、自然と目の前で遊んでいる人々に向く。このプールだけではなく、視界の隅に他のプールで遊んでいる人達も含めて。
皆楽しげで、家族や恋人、友人達と笑い合っていた。
一火はそれらに目を向けたまま、過去の自分をふっと思い出す。
(昔は巧とよく行ったな、プール)
二歳下の弟とは、小さい頃はプールに限らず年中遊んでいた。
別にこの目つきのせいで友達がなかなかつくれなかったとか、そういうわけではないけれど(真実はどうあれ、一火はそう信じている)。
弟とはよく気が合ったし、血縁関係故の気楽さがあった。
お互いに遠慮なんてものをしなかったし、遊びが小競り合いに発展しても、最後は笑って――。
(あいつ。…元気にしてるかなぁ)
自分がいなくなって、弟は、家族はどうしているのだろう。
元気に毎日を過ごせているだろうか。それとも…兄の、息子の死に嘆いているのだろうか。
それとも…一火などという人間の事は、すっぱり忘れてしまっただろうか。
(…いや、…さすがにそれは)
無い、と信じたかった。
「……あの」
いつの間にか目を瞑っていた一火は、カレンの声でようやく現実に帰って来る。
見てみれば、カレンは膝を抱えその上に顎を乗せて、少し前の一火と同じように目の前の景色を瞳に映していた。
その表情は、こちらからは伺い知れない。
「…あなたは、自分が人間だった頃のこと…どれだけ覚えていますか」
一火は再び目の前の光景に視線を戻し、ゆっくりと口を開いた。
「…結構、覚えてるな。自分の家族とか、友達とか…今だって名前を思い出せるし。覚えてないのは…生まれた頃の事とか、すんごく小さかった頃だな。
…後、自分が死んだ時の事も」
そう告げてから、一火はふうと溜め息を吐いて。
「まだ、自分が死んでしまっただなんて信じたくねえってのが本音だけどな。
だってそうだろ? ある日目を覚ましたら、いきなり『アナタは死にました』だなんて信じたくねぇよ」
「……あなたがそう思うのは、『覚えてるから』でしょう」
その時、カレンが重々しく口を開いた。一火が顔を向けてみても、やはり彼女はこちらを見ず景色のみを瞳の中に湛えていた。
彼女のそんな姿と、その静かな声色からは、哀愁も達観をも感じさせる。
「と言っても、私が自分自身の生前を全く覚えていないのは、きっと『覚える必要がなかったから』だと思って…いえ、…信じていますから。
だからあなたに対して、あまりどうこう言う気は起きません」
それから少し間を置いて、カレンはぽつりと呟いた。
「…でもまぁ…少し、うらやましくは…ありますね」
次に一火の耳に届いたのは、カレンの大きな溜め息。
それは果たしてどういった感情から来るものなのか、一火には解らなかった。
「私…ここに生まれた時には、自分の名前以外何も思い出せなかったんです。しかもその名前も、『どういった字でカレンと書くのか』思い出せなくて。
…どうやら、人間から転生した魔界人はみんなそうらしいですけど」
気付いていましたか? イアンやルビエだって、そうなんです。
…自分の名前は、どんな字で書くのか…思い出せないんですよ。
どうやらそれは、生前何らかの罪を犯した人間に対する、閻魔様が与えた『罰』だという話を聞きました。
「それならば、つまり私が生前の事を全く覚えていないのも『罰』なのかと思いましたが…これには個人差があって一概には言えないそうです」
カレンの話を静聴する一火は、初めて知った事実に驚きを隠せなかった。
自分は自分の名前を『一火』と書く事を覚えているし、それどころか生前の名字だってしっかりと覚えているのだから…カレン達とのギャップを感じてしまうのは仕方のない事だろう。
「……私は、あなたと同じように…たった数日前に転生した身です。その時は自分の名前以外何も思い出せなかった。
そんな私が、自分は水が苦手なのだと思い出したのは…転生した日の翌日…界泉に入ったのがきっかけです」
界泉に入った時、あの青の世界に身を投じた時。
カレンは自分の身体が重くなるのを感じた。鉛のように、おもく。
そしてその瞬間、目の前に去来した記憶は…。
「だんだんと苦しくなっていく呼吸。遥か遠くにある水面。……地上が、光の世界が、だんだんと遠ざかって。…それは、私の身体が閉鎖的な青の世界に沈んで溶けようとしているからで。
…懸命に手を伸ばしても、届かなくて…」
もしかしたら、あれが私の『死に際』の記憶なのかもしれませんね。
まるで達観したように苦笑して、カレンはようやく一火に顔を向けた。
そうして見た一火の顔はどんなものだったろうか、彼女はどこか困ったように笑って。
「…あなたはお人好しさんなんですね。でも、これで解ったでしょう?
……覚えていない生前の記憶なんて、きっと思い出すべきじゃないんですよ」
だから、生前の事をよく覚えている一火は、きっと幸せな日々を送っていたのだろうと。
だから、少し羨ましいと。カレンはそう言っているのだろう。
…けれど。生前の幸せな日々を覚えているという事は、先程一火が心の中で抱えていたように、幸せな人生を思い出して苦悩する事にも繋がるのだ。
残念ながら、それにはカレンも一火すらも気付かなかった。
「イアン達には、カナヅチ以前に水が苦手な事はきっとバレているのだろうと思います。…でも、私はあまり見せたくなかったんです。
自分の無様な姿を…出来たばかりの友達に」
だから今日、彼女はイアン達を連れて来なかった。それは理解したけれど、一火には納得のいかない事がふたつあった。
「オレに無様な姿を見せるのはいいのか?」
「ええ、平気ですよ。あなたは他人ですから」
「……」
一火は即答するカレンの言葉に何故かむっとした。そして、そんな自分に戸惑う。
彼女の言葉は確かなのだ。たった一日前に出会ったばかりの、しかも最悪な初対面をやらかした相手。
目的が似通っているという共通点はあるが、ただそれだけ。ルビエが言ったような『仲間』などでは決してないのだから。
それが解っていても、一火は苛立ちを隠せず。
つい勢いのままに口を開いた。
「…お前は、赤の他人に自分のトラウマとかをベラベラしゃべるのかよ」
カレンは一火の言葉に目を見開く。
「…意外です。『まぁそうだな』って返しが来ると予想していました」
「出会ったばかりの奴に思考を予想されるなんて、情けなく感じるな」
「…確かに、それは失礼しました。
でもあなた、話していてどうしても単純お馬鹿な印象が拭えないんですよねぇ…」
「お前それさっきより失礼だからな!」
一火が声を上げると、ついさっきまでのように陰のない笑顔を浮かべるカレンは「はいはいすみません」と反省の色が全く見えない謝罪をする。
「たくっ…」
その姿に腹を立てつつも、しかし内心は安堵する自分もいた。同時にそんな自分に戸惑い、疑心を抱く。
(こいつの調子が、いつも通りになったからか?)
そんな事を考えた瞬間、いや『いつも通り』だなんてそれこそ出会ったばかりの人間が思う事でもないだろうと思い直した。
しかしならば何故安堵したのか、答えは見えない。
「どうかしましたか?」
唐突に黙り込んだ一火を不審に思ったのだろう。
カレンの声に我に返った一火は、それまで考えていた事を忘れようとするかのように話題を切り替える。
それは、さっき納得がいかなかったもう一つの疑問。
「お前はさっき、イアン達には自分の無様な姿を見られたくないって言ったけどさ…いくら出会って数日とはいえ、友達ならそういうの無条件に受け止めてくれそうだけどな」
上手く言葉には出来なかったが、自分に取って友達とはそういうものなのではという考えを伝える。
カレンの事を心配してわざわざ界泉まで追いかけてきた二人であるし、彼女が水にトラウマがあると伝えても受け入れはすれど非難はしないだろうと思ったのだ。
「…そういうものでしょうか?」
しかし、一火の言葉は逆にカレンには納得いかなかったようで、彼女は目を細める。
「プリンス様を一目見たいなどと息巻いたものの、実は自分はカナヅチだった…なんて、あまりに無様だと思いませんか?
……いえ、それはまあいいんですが」
どうやら、カレンが言いたい事はそれではないらしく。一息吐いてから、再び口を開いた。
「ただのカナヅチなら、いずれは克服出来るだろうという希望があります。ですが、私の場合は『水』自体に恐怖を感じています。お風呂ですら、かなり用心しなければひとりでは入れません。
――…いつ克服出来るかも分からない、そもそも克服出来るかも分からない。私のカナヅチは、そういうものなんです」
友達に、自分のトラウマ知られるのが嫌だというのだろうか。つまり、自分の弱みを友達に見せたくない性質なのか。
(…いや)
一火には、なんとなく違うように思えた。
カレンの口調、また醸し出す雰囲気からは、単なる負けず嫌いやプライドで言っているようには見えなかったのだ。
「――…とにかく、二人は私がこの魔界に生まれて初めて出来た友達なんです。優しい人達だと思います。
だからこそ、…出会って数日で下手な所を見せて…失望されたくはないんですよ」
一火の瞳を射抜くように見つめながら、カレンはそう締めた。
「……何でそんなネガティブな言い方をすんだよ」
『失望されたくない』その言い方が何だかひっかかる。一火は頭の中で疑問に思うと同時に、思わず口に出していた。
対するカレンは一火の言葉に少しばつが悪くなったような、複雑な表情をして。
「……さあ」
そう言ったきり、だんまりを決め込んでしまった。
「……」
(なんだよ…)
一火はあまり釈然としなかったが、黙られてしまってはどうしようもない。仕方なしに話題を変える。
「…じゃあ、これからどうする」
「それは決まっているでしょう。私、あなたに言いましたよね? 『絶対に、私の望みを叶えてください』と」
「いや、そりゃそうだけどさ…お前…」
カレンの口調が幾分か明るくなった事には安堵したが、一火は内心悩んだ。
ただのカナヅチではない、水に対して恐怖心を抱いている彼女を泳げるようにするにはかなりの長期戦が予想された。
それはたった今さっき、本人もそう言っていた。『克服出来るかも分からない』とすら言っていたのだ。あまりにも荷が重い。
気鬱を抱いたような一火の様子に、カレンは苦笑を浮かべる。
「…まぁ、私も鬼ではありません。天女です。別に今すぐになんて言っていませんし、あなたに対しそんな大きな期待はしていませんよ」
「あ…そう」
前半の言葉に一火は『真顔でよくそんな事言えるな…』などと考えながら曖昧な返事を返した。
そんな一火を気にする素振りも見せずカレンは続ける。
「でも。私がカナヅチを克服出来るよう、毎日少しずつでいいんです。指導してください。
…がんばることは、やめたくないですから」
「! ……」
「…あら、またしても意外ですね。何かしら口答えすると思ったんですが」
「口答え、ってお前なぁ…」
上から目線過ぎる台詞に呆れつつも、一火は溜め息混じりに答える。
「別に断る理由も思いつかないから、それに関して異存はない。
けどな…お前のそのトラウマは正直言って、軽くない。お前が自覚してるように、『絶対に泳げるようになる』だなんて無責任な事は言えねぇし、言いたくねぇよ。
…それでも、オレでいいのか?」
「……」
再びカレンが黙り込み、まっすぐに一火を見つめてくる。
自分の姿が彼女の透き通った青い瞳に映っているのが解り、一火は何となく目を逸らしたくなった。
カレンが口を開いたのは、そんな時だ。
「あなたが天使として生を受けた誕生日は?」
「? …なんで急に」
「いいから答えてください」
今までの話題とは無関係と思われる唐突なカレンの問いに、一火は首を傾げながら。
「…七月、八日だけど」
昨日話をした時にそれは言った筈なのだが。
一体カレンは何を考えているのか、そう思った時だった。
カレンは一火の答えに頷き、その真意を告げる。
「そう、七月八日。…その日は、私の悪魔としての誕生日でもあるんですよ」
「!」
「だからですかね。…あなたには少し、親近感のようなものも感じているんです。本当に少しですけれどね」
カレンの告白に、一火は驚くばかりだった。
彼女も自分と同じように数日前に生まれた事は聞いていたが、まさか全く同じ日だとは思わなかったのだ。
つまりそれは…同じ世界で同じ日に、自分達は死んでしまったのだという事で。
確かにその事実を聞くと、不思議と親近感が湧く気がする。
それは自分達が似た目標を掲げているからというのも理由のひとつだろうか。
「まぁ、あなたは話をしていて非常に愉快な方だからというのもあるかもしれませんが、ね?」
含みのある言い方にからかわれているのだと気付いた一火は顔を歪ませる。
「うるせっ。…それよりも、」
しかし、ここで口論する事は一火の本意ではない。
何故なら、もっと他に言うべき事があったからだ。
「…お前がオレに親近感抱いてるなら、さっきの『他人』発言は間違いなんじゃないか?」
一火の発言に、カレンは毒気を抜かれたようにぱちぱちと目を瞬かせた。
「昨日も事故だなんだと色々こだわってましたけど、あなたは細かい事を気にする人ですね」
「いや、昨日のアレは気にしない方がおかしいだろ…」
確かにこちらも悪い事はしたが、それどころではない程の一方的暴力を受けたのだ。それを気にしない方が怖いだろう。
「しつこい男はモテないって聞きますよ?」
「…るせー」
元々この目つきのお陰でモテ期なんてなかったよ、と心の中で悪態を吐く。
カレンはそんな一火をくすくすと笑った。
「ふふふ。でも、確かにあなたの言う通りかもしれませんね。
『他人』発言は撤回しましょうか」
「………」
「…ふふっ」
「な、なんだよ…」
一火を見るカレンは何か企んでいるような、意地悪な笑みを浮かべる。
どこか妖艶さも漂わせるそれは、まさに悪魔に相応しい『悪女』の姿。
一火は非常に嫌な予感がした。
「天使さんは、そんなに私に他人だと思われたくなかったんですか?」
「……?!!」
あまりの衝撃に、声を発する事が出来ない一火は魚のように口をぱくぱくさせる。
…今、目の前の少女は何を言った?
自分の耳を疑ってしまう程、その言葉は一火にとって許容し難いもので。
しかし少女はそんな一火を見ても容赦しないどころか、さらに笑みを深めて続ける。
「だってそうでしょう? どうでもいい事なら、わざわざ私の発言を間違いだって言う理由が見つかりませんもん」
「そっ、そ、それは…ッ」
返す言葉もない一火は、かあっと熱を持ち始める顔を見られないよう、カレンから顔を逸らす。
「どうやらあなたの反応を見る限り、私の自意識過剰ってわけでも無さそうですし…ねっ!」
「――ぅわッ!?」
刹那、一火は隣の少女に腕を掴まれ、ぐいぐい引っ張られた。
カレンの予想外の行動に目を見張る一火は、しかしそれでも彼女に顔を合わせない。
「…ちょっと、天使さん? 人と話す時は目を合わせろって言われませんでした?」
暗にこっちを向けと言われている訳だが、未だ熱の冷めない一火は頑として譲らない。
やがてカレンが溜め息を吐くのが聞こえ、諦めてくれるかと安堵した時。
「イデッ、デデデデ!! や、やめろぉっっ!!」
突如訪れた腕の痛みに、がばりと犯人の方へ向く。
「私だって不本意でしたよ? あなたがこっちを見ないのが悪いんです」
一火の腕を力強くギュウッとつねってみせたカレンは、自業自得だと言い放つ。
「お前だってさっき話してる時顔合わせなかっただろ!」
「あら、そんな事ありましたか?」
「てめっ…は、は、…っくしょん!!」
ギリギリでカレンから顔を逸らした一火が発したのは大きなくしゃみ。
…そういえば、自分は一度着水した関係で身体が濡れていたのだという事を思い出した。
「私に唾をかけなかったのは幸いでしたね」
涼しい顔で言うカレンを、一火は口を抑えながら横目で睨みつける。
「…あー、ったく…誰の」
誰のせいでこうなったと思ってるんだ、と言いかけた一火は、しかし口を噤んだ。
…その言葉は、言ってはならないような気がしたから。
生前より水にトラウマがある彼女を責める言葉になるのではと思ったからだ。
一火の気持ちを知ってか知らずか、カレンは立ち上がり告げる。
「あなたに風邪を引かれると困ります。…だいぶ話し込んでしまいましたし、今日は帰りましょうか」
太陽の光が射さず、常に天上には月が浮かぶ魔界。
その為細かい時刻は一火には把握出来ないが、話し込んでいたと言ってもまだ昼間だろう。しかしそれでも帰ろうとカレンは言う。
(…心の準備が、まだ出来ていないって事か)
彼女が純粋に自分の心配をしてくれているという可能性を無意識に潰し、一火はそう推測した。
そうして二人はその場から去り、来た時と同じようにカレンが先導し歩き出す。
暫くお互いに黙り込んでいたが、ふとカレンは立ち止まり、顔だけこちらに向けて。
「あなたが責任を感じる必要はありませんよ」
「え…?」
「これは私の勝手なお願いなんですから。
…新たにお知り合いになった、『一火さん』という人への…お願いですから」
「……え」
――責任を負う必要はない。
その言葉は、さっき自分が言った『無責任な事は言えない。それでも自分でいいのか』という問いの答えなのだろうか。
昨日今日と、願いを叶えろと何度も強調したくせに、今度は『勝手なお願い』だなんて。
しかも『他人』を撤回し、『知り合い』になって。
…そして、何よりも。
――彼女は初めて、『一火さん』と、自分の名を。
「…それだけです。さぁ、行きますよ」
彼女は再び歩き出す。赤色の髪が波打つように風に靡いた。
放心状態になっていた一火は、もう一度呼びかけられてからようやく我に返り、その背を追う。
何も言えない。言える訳がない。
…何故なら、目の前の彼女の髪色に負けない程に、彼の顔は再び熱を帯びていたから。
その様はまさに一火の名が示すような、ひとつの炎のようであった。
……。
…。
――二人がその場を去ってから、数分の後。
彼らが傍を通り過ぎた、とある家の影がグニャリと歪んだ。
しかしその歪みは一瞬で、注視していなければ誰も気付かないだろう。
歪みが消えた時、その中からやはり一瞬で現れたのは、黒衣を纏った黒髪の少年と彼が手を繋ぐ女児だった。
少年は女児に比べて血色が悪く、その青白い肌には汗も浮かんでいた。
「イアン、だいじょーぶぅ?」
女児が軽い調子で聞く。イアン、とは勿論少年の名前だ。
「…大丈夫だよ。結構疲れたのは本音だけど…」
そう言って、溜め息を吐きながらイアンは汗を拭う。
橙色の髪を持つ女児はそれで相方への興味を無くしたのか、先程一火達が去って行った方を見やる。
「それにしてもー! カレンちゃんとイチビおにーちゃん、いい感じだねぇ!
思ってたより進展はやーいっ!」
子供らしい大きな目を輝かせながら言う女児に、イアンは苦笑して。
「…ルビエ。はしゃぐのはいいけど、僕達結構いけない事をしたんだっていう自覚はあるよね?」
「うん!」
ルビエと呼ばれた女児は、満面の笑みで頷く。
「いわゆる覗きでしょー? でもぉ、元はと言えばカレンちゃんがルビエ達を置いていくのがワルイの! だからお互い様ぁ」
「…向こうは僕達がここにいた事、気付いてないだろうけどね…」
イアンはそう言いつつ、自分達がここまで来る事になった経緯を思い返す。と言っても、簡単な話だ。
自分達を置いて先に行ってしまったカレンをルビエが追いかけると言い出し、『イアンも来てくれるよねぇ?』などと言われてしまえば、もう自分もついて行くのは決定事項へとなっていた。
…元よりカレンの事が心配だったので、ルビエに言われなくとも共に魔界宮殿を出ていただろうが。
そうして向かった先は、魔界に唯一あるプールだった。
カレンと昨日そこについて話をしたし、恐らく確実だろうと目星をつけて。
イアンはルビエに抱きつかれるような形で、彼女の翼によって素早く目的地へと辿り着いた。
予想通り、二人はそこにいた。魔界では目立つ一火の白い翼が目印になっていたのもあったが、プールに入らずただ二人で並んで座っていた姿が印象的だったのだ。
流石に二人の会話を盗み聞きはしていないが、表情から真剣な話をしていたのは解る。
イアンはルビエと共にプールに入りつつ、暫くちらちらと二人を見ていたが、ふと二人の纏う空気が変わった気がした。
カレンの顔が穏やかになり、一火は顔を真っ赤にしていたからだろうか。
…それを目にした時、ルビエは今のように目を輝かせていたのだがそれはまぁ置いておいて。
その直後カレンが立ち上がり一火に何事か話していたが、雰囲気でもう帰るのだと気付きイアン達は急いで建物から立ち去った。
そこまでは良かったのだが…。
『…えっ?! さ、流石に駄目だよそんなの!』
『えぇぇえええ? このまま帰るんじゃあつまらないよぉ〜!』
そんな言い争いを経て、結局イアンが折れた為に覗きに加えて盗み聞きまでしてしまったという訳だ。
隠れるためにイアンが使ったのは吸血鬼の能力で、影に溶け込み姿を隠し、さらに気配をも消すというもの。
ルビエの手を繋いでいたのは共に影に溶け込む為、吸血鬼である彼が触れている必要があったのだ。
しかし、人の血を吸う回数をある理由から最小限に抑えており、そのため普段から貧血気味であるイアンにとって、能力を使うというのはかなりの疲労になっていて。
未だ彼は汗を流し、息も荒くなっている。
それを見て流石に心配したのか、ルビエはイアンを見上げ。
「飲むぅ?」
とだけ、声をかけた。
何を、とは言わない。それはお互いに解りきっていたからだ。
しかしルビエの気遣いにイアンは首を振る。まだ大丈夫だよ、そう言って笑いかけた。
「ここじゃ人目につくかもしれないしね」
「だいじょーぶだよぉ、今誰もいないし。ルビエ達ふたりっきりだよー」
「そうだけど…」
イアンの態度が気に入らないのか、ルビエは口を尖らせ。
彼にとっての脅し文句を吐いた。
「そんな事言うなら、もうルビエの吸わせてあげないよぉ?」
「えっ」
「それでそれでぇ、飢えて飢えて壊れかけのイアンにはー…うん、男の人の血をあげるー」
「!!!」
その言葉を聞いた途端、イアンの顔色がみるみるうちに青くなっていく。哀れ、元々青白かった肌がもはや完全に血の気を無くしていた。
「だっ、駄目だめぜっったいダメ!! 今、今飲むからっ、ね!? アリガタク! 飲ませて頂きますカラ!」
手を合わせ拝むように頼み込むイアンの姿は、端から見れば滑稽だっただろう。まあ彼にとって幸いな事に、周囲にはルビエ以外誰もいないのだが。
「解ればいいんだよぉ」
ニコニコと笑って言うルビエに、イアンはほっとして顔を上げる。
そして今一度辺りを見回し、誰もいない事を確認、頷く。
「…じゃあ」
イアンはその身に纏った黒衣をまるで闇のカーテンのようにばさっと広げ、その中にルビエを誘う。
黒衣で包み込まれたルビエと身体が密着する形になるが、もう二人とも完全に手慣れており、照れた様子は無い。
それだけ、これは二人にとって当たり前の習慣…『儀式』だった。
「…はい」
ルビエは服から左肩を晒し、イアンは彼女の言葉に静かに頷いた。
右手をルビエの左肩に、左手を首もとに優しく労るように添える。
そうして、イアンの顔はルビエの『そこ』に近付いて。
長い時間をかけて辿り着いた時、普段は他の歯と殆ど変わらない、彼の犬歯が鋭く伸びた。
――彼は容赦なく、ルビエの柔肌にその刃を振り下ろした。




