機密電文
―CST:PM20:00(JST:PM21:00)
中華人民共和国首都北京 中南海共産党本部敷地内某所―
「……これは……」
私はその耳に当てていた盗聴器の受信機から聞こえてくる音声内容に思わず固まった。後、口が動かなかった。
この盗聴器は、同じ共産党に潜んでいるものによって事前に共産党本部地下の情報管理室、日本で言うところの危機管理センターに値するところに仕掛けられている。
そこから聞こえてくるのは、マスコミの報道などで聞きなれた中国共産党首脳部の面々の肉声だった。
……奴ら、やってくれたわね。
とにかく、いち早くその情報を本土に伝えないといけない。
でも、今の私にはその長距離の情報転送機器がないし、この手に入れた音声データも送ることが出来ない。
……少し場所を移して、他の仲間に代わりに送ってもらうしかないわね。
「……まずはここを脱出してっと」
すばやくさっきまで記録していた音声データの中身を確認し、問題なく録音されたことを確認すると、護身用のハンドガンを確認。
何の捻りもないごく普通の9mm拳銃で、一応今の国防軍にも自衛隊時代から幅広い用途で採用されている。
とりあえず身の回りの準備は完了。
今ここは中南海共産党敷地内だけど、天安門を入ってさらに紫禁城“端門”を通り過ぎ、さらに共産党敷地内中心を囲うように流れている金水川の上に立っている午門の奥にある太和門の東側の隣にある文華殿の近くの木々の中に身を潜めている。
金水川(金水河とも)はこの共産党中心地の周りにある堀で、別名“護城川”ともいう。
ちなみに、さっき言った金水川の上にある紫禁城“午門”があるところにある橋は金水橋と言う。
幸い警備はここいら辺は薄くて助かっていた。
よし、とりあえずここを東に行こう。
そこには東華門というこの共産党敷地内に入れる門の一つがあり、そこから出れないことはないけど、そんな警備員に見つかりに行くようなバカな真似はしない。
……と、言いたいところなんだけど、
「……やっぱりこの壁がでかすぎるのよね」
この共産党敷地内を覆う壁がでかいのなんの。
しかもここを抜けても目の前は壁。別に泳げないことはないけどそこで泳いで向こうに行こうものなら明らかに不審者扱いでへたすれば通報される。
そもそも、今の私にはこんなでかい壁を乗り越えるためのロープとかの装備がない。
……というわけで、
「……やっぱり最初と同じく玄関から出るか」
自分の身分がばれないのと思ったあなた。大丈夫です、しっかり変装しています。
最初ここに来たときにそこいら辺ぶらぶらしていた適当な幹部兵士とっつかまえてうばった服装に再び変身していたのです。
今の私はとある中国人民解放軍幹部。しかしその正体は日本のスパイだったというなんとも映画的な展開をリアルで実演しております。
「……周りには誰もいないわよね」
一応周辺確認。さすがに木々からいきなり出てきたところ見られたらいくら服装が服装でも怪しまれて即行でバレる可能盛大。
……でも、チラ見した感じでは問題はなさそうだった。
さっさと近くの通路に出てきて、あたかもそこをとおってましたという雰囲気をかもし出しつつ“さりげなく”出口である東華門を目指す。
運よく一人の兵士や警備員にも会わなかった。
今現在の戦況のこともあるし、たぶんここいら辺をぶらぶらしてる暇なんてないんでしょうね。
同時に、私は無線機に手をかざす。
右耳の耳穴に押し込んだ超小型のスピーカーと、後襟のところに周りから見えないように影になって付けられている超小型のマイク。
両者は離れてるしコードとかで繋がってないけど、それぞれ無線信号で連動した機能を働かせることができる。
私はそれに向かって小さくつぶやいた。
「シューベル、こちらマリンス。ホームより脱出開始。そっちはどう?」
シューベルというのは私の同僚。
何の同僚かって言うと、まあもう察してると思うけど、私はJSAのスパイ。
今回私はここ共産党内に潜入してそこで情報収集をしているけど、このシューベルというのはそのサポートを担当してくれる。
返答はすぐに来た。
少し若い男の声。活気のある声が無線に響いた。
『こっちもオーケー。今ゲートの前にいる。さっさときてくれ』
「了解。すぐにここを脱出するわ。後、ガッツたちに本土への通信準備を始めさせて」
もう向こうは準備完了のようね。
では、こっちも急がなければ。
程なくしてその東華門のでかい建屋が見える。
やはりいつ見てもでかい。天安門よりは小さいけどこれもこれででかいわね。
そして、その赤く塗られた門の下には警備員がいた。
……まあ、警備員というか、普通に武装した兵士なんですけどね。
一応最初ここに入るときも何とかここから入れたし、今回も何とか。
本当はその門の隣にある赤い箱型の小屋があり、そこを待機所として使っていると思われるが、そこから警備員全員が出てきたか。まあ、この戦争状態だし仕方ないね。
私はその警備員の一人に流暢な中国語で話す。
「お疲れ。任務が終わったのでここからの外出許可を願いたい」
「ハッ! おつかれさまであります。……? あの、お付き添いの方は?」
「私のような下っ端幹部に付くわけなかろう。なに、用事は済んだしさっさと帰るさ」
「はは、おつかれさまですな。では、どうぞ」
「うむ。すまないな」
……と、難なく最初の関門クリア。
最初入ったときは身分証提示されたけど、まあこの服装奪ったときに入ってたのを簡単に提示して「主席閣下にご報告したいものがある。すぐに通してくれ。主席閣下からも許可が出ている!」とかどうとか言ってとりあえず急いだ雰囲気出したり周主席の名前だしたりして何とか通してもらった。
さっき警備員に言ってた“任務”とはまさにこれのこと。
もちろん、任務は確かにあるけどそんな周主席に報告するようなことはこれっぽっちもないどころかむしろ盗み聞きさせてもらいましたがね。
まあ、とにもかくにも何とか共産党敷地内を脱出成功。やっぱり中国語体得しておいてよかったわ。
門のすぐ前には、一台の灰色のアウディ・A8。……いったいどこからそんなもん掻っ攫ってきたのか。というか、よくそんな都合よく中国にあったわね、その高級車。
「閣下、お車の準備が出来ております」
「ああ、いつもの場所まで頼む。……では、私はこれで失礼する」
「ハッ! お気をつけて!」
「うむ。警備しっかり頼むぞ」
尤も、私を逃がした時点ですでに問題ですがね。
そんなことを思いつつ私は車の後部席に入り、その秘書を“装っていた者も”すぐに運転席に滑り込んでさっさと車を出した。
目の前には東華門の前にある金水川の上をとおる東華門路という橋があり、その両サイドにはまだまだ緑を保っている木々が立ち並んでいた。
そこいらかしこに車も流れており、それに乗りつつ車はどんどんと共産党敷地内の中南海を離れていった。
……私は「ふ~」と安堵の息を吐きつつ、顔をあんまり出さないように深くかぶっていた帽子をとった。
そして、私は運転していた“同僚”に言う。
「……あんた、もう少し演技うまくなれないの? なんかぎこちなかったわよ?」
と、苦笑いしながら言った。
まるでどこぞの大根役者である。よくあれでばれなかったなおい。
そう、彼が私の同僚の人で、今は私の秘書という立場を装っている、コードネーム“シューベル”。
もちろん、機密の関係上本名は知らない。
中肉中背で、少し若い男。大体30代前半あたりだと思う。年齢も知らないし。理由はさっきの名前の件と同じで大体わかるはず。
彼も「はは……」と苦笑いで返しつつ言った。
「重々承知してるよ。な~んか演技自体は昔からにがてでなぁ……」
「それ多用途に出回るスパイとしてどうなのよ……」
「わかってるって。だから今回ここの潜入はお前に任せて俺はサポートに回ったんだろ?」
「まあ、そりゃそうだけど……」
でもさすがにそろそろ直しなさいよ。
私とコンビ組んでもう数年になるけど、一向によくなってないじゃないの。後で演技指導でもしようかしら。
演技指導とか、高校時代演劇部で後輩達にしてやって以来じゃないの。
「……で、マリンス?」
「ん? なに?」
「……その顔、何か情報つかんだんだろ? それも、結構ヤバイ感じの」
「え?」
と、顔を見られただけで見破られたか。
彼、こういう洞察能力は私より結構秀でてるからスパイ向いてないとかそういうのはいえないわけよ。
スパイするに当たってそういうのは結構使えるからね。今までも表での協力者との交渉のときとかこの洞察能力はとてもよく役立っているわ。
しかし、私も見破られるようになったか。ある意味私も落ちたものね。
……まあいいわ。見破られてしまったなら仕方ない。
本当はもう少し後になってから伝えようと思ったけど、ま、時期が早まっただけだしいいわね。
「……ええ、あんたのいうとおりよ。どうやら、マズイ事態になりそうだわ」
「そこまでか……。で、その情報ってのは?」
「言うより聞いたほうが早い。音声データを端末に送るわ。それを聞いて」
そういって太もものポケットから小さいスマホの形をした端末を取り出し、LCD画面のタッチパネルを操作してそこに入れている音声データを複製して彼の持っている端末に送る。
彼も運転しつつその端末を取り出した。
「あいよ。……と、転送来たな。共産党内部の首脳さんたちか」
「ええ。彼等の言っている内容がやばいのよ」
「どれ、そこまで言うんなら聞かせてもらおうか……」
そういってその端末にイヤホンを差し込んで、左耳だけに入れてそこから音声内容を聞く。
……しかし、時間が経つにつれその彼の顔がどんどんと青ざめていくのがバックミラー越しに確認できた。
やはり、彼にとっても驚愕の内容だったみたいね。
全部聞き終えないうち、彼は焦った口調で私に言った。
「お、おい、これ、全部マジなのか?」
「うその音声流してどうするのよ。……信じたくないけどね」
「クソッ……、これが本当なら、もうあいつら、準備ほとんど終えて次の行動に移るぞ」
「ええ。違いないわ。とにかく、これを急いで本土に送らないといけない」
「だな。……じゃ、ちょっと飛ばすぞ」
「え? ……きゃッ!」
すると彼は一気にアクセルをふんだのか、急に車体が加速を始め、少し前のめりにひざに両腕を乗せて座っていた私も思わず後ろに軽く飛ばされて後ろの背もたれに背中からぶつかった。
……もう少し緩やかにやりなさいっての。
「……あんたのその運転も要指導ね……」
「いやいや、今そんなこと言ってられないだろ。今は一刻を争うんだぜ?」
「それはそうだけどね……。はぁ、まあいいわ。で、通信の手配は出来てるの?」
ここで言う通信はもちろん本土向け。
ほかのJSAスパイたちがしっかり準備をしているころであった。
「今ガッツたちから連絡が来て、準備が全部完了して後はこっちの到着を待つだけになった。向こうにもケースZを伝えたし、後は俺たちまちだよ」
「了解。……本当は向こうにこの音声データだけでも遅れればいいんだけど……」
「さっき中国側のスパイと戦闘になってそれぶっ壊れたらしいからな……。今使ってるのは、予備の通信機能が最低限のものしか載せられてないものだし」
「そうなのよね……」
これの少し前、他の場所で諜報活動中の通信担当の仲間達が中国側のスパイらしき勢力と戦闘になり、何とか撃退(という名の全滅)できたみたいだけど、それのおかげで無線機がやられたみたいでね……。
彼の言ったとおり、今使ってるのは予備のあくまで私たちとの連絡通信しか出来ないものだけ。まあ、いわば旧式のもの。
元々持ってた通信端末さえ無事ならすぐに情報を転送してそこから送ってもらえるのだけど……。まあ、なってしまったものは仕方ないし、早く彼の元に急がないとね。
「……ここから後どれくらいで着く?」
「後10分ってところかね」
「10分……、まあいいわ。とにかく急いで」
「了解。……ところでさ」
「?」
彼が話題を変え、バックミラー越しにこの車の後ろを見た。
そして、少し眉をしかめてに言う。
「……お前、後ろのやつ気づいてた?」
「後ろ?」
そういわれるとやっぱりきになってしまうのが人間。
そのまま後ろ見るわけにもいかないので、バックミラー越しに後ろを確認。
そこには後ろ少し離れたところから黒いアウディ・Q6が二台。
横に並んでこっちと同じ針路を走っている。というか、もろについてきていた。
……でもあれ確か、
「……さっきからいなかった?」
「ああ。……あんなに並んでこっちに向かってくるとか、どう見ても怪しさ大爆発だな」
「しかもどっちも漆黒という見事な統一感……。追っ手かしら?」
「たぶんな。どうにかしてまかなきゃなんねぇ」
「でもどうすんの? ここ市街地の真っ只中よ?」
こんなところでカーレースなんてするわけ? 周りは民間乗用車がわんさかいるって言うのに。
……でも、
「……フッ」
……それでも、彼はやる気っぽい。
「ここで撒くにはやっぱ逃げるしかないだろ。……俺の運転技術舐めるなよ。伊達に昔F-1レーサーやってたわけじゃないからな」
「でもそれ一時期だった上とんでもないザコだったって自分で言ってたじゃん……」
大会に出てもいつも下から数えたほうが早い順位だったとかけなしてたのは誰でもないこいつ。
「それでも経験者とそうでないのとではわけが違うぜ。……なに、任せなって」
「はぁ……、仕方ないわね。頼むわよ」
「わかってる。……じゃ、次のT字路を右に曲がるから、そこから勝負な」
「了解」
といっても、そのT字路もすぐ近くに迫る。
信号は赤。本当はここで止まらないといけないけど……。
「……よっしゃぁ、いくぜ」
「楽しいカーレースの開幕だ!」
そんなことを叫びつつまた一気に加速開始。
そのまま目の前でT字路の右の道路に入るために他の車が通るのを待って並んでた他の車同士の狭い隙間を器用に抜けつつ、そこから一気に右にドリフト急カーブ。
危うくT字路の右から来る車にぶつかりそうになるも何とかギリギリでかわし、そのままT字路の右の狭い道路に突入することに成功。
でも、なんか後ろで爆発が起こってるのが見えた。……たぶん、こっちがいきなり突っ込んできたからそれを避けようとした結果ほかの信号待ちの車にぶつかったわね。すいませんね、今こっち急いでるので。
でも、追っ手もこっちの動きに気づいたようね。
私たちと同じく他の車をかわしつつ一気に突っ込んできた。
道路が狭い関係で、さっきとは違って横にでなく縦に並んでいる。
「……奴ら、まだ来るわよ」
「あれを抜けるとはいい腕してやがるぜ。おもしれぇ、いいレースになりそうだッ」
「うおッ!」
すると今度は一気に急ブレーキで後続していた車に後ろからぶつかりに行った。
それほど距離は離れていなかったために、その追っ手の二台の先頭に思いっきりぶつかる。
向こうもこっちの動きに合わせての急ブレーキが間に合わなかったらしい。
少しバランスを崩した先頭車は後続の味方に危うくぶつかりそうになるも、そこは巧みな運転さばきで回避。
そうして向こうが手間取ってる間に一気にこっちも増速、一気に向こうとの距離をとる。
「マリンス! 奴らの先頭のタイヤ狙え!」
「タイヤ!? あれ狙撃してパンクさせろっての!?」
「この狭い道路でパンクさせたら、後続も巻き込んで追跡不能だ! やれ!」
「まったく……」
「家族が全員軍人の母親に無茶させるわねぇもう!」
そんな愚痴を大声でいいつつ奥部座席の右の窓を開け、そこから身を乗り出し手に持っていたハンドガンを追っ手の先頭車のタイヤに向ける。
向かって左のほう。縦に並んでるけど、また体勢を立て直して増速し始めた。
さらに、助手席から誰から同じく身を乗り出す。その手には、うっすらとだけど何かを構えているのが見えた。
……チッ、向こうも考えることは同じか。
「向こうも撃って来るわ! 回避運動!」
「あいよ!」
そういうやいなや、目の前を走行してる民間乗用車をかいくぐりつつ蛇行運転を始めた。
それに思わず振り回されるも、それのおかげで何とか敵の銃撃はかいくぐっていけた。
……だけど、
「……クッ、中々当たらない……」
その代わり、こっちもあんまりうまく当たらなかった。
ボンネットとかヘッドライトには流れ弾で当たってたけど、まあそんなと撃っても意味ないのは当たり前。
……やはり激しい機動の中でこれはきついわね……。
「早くしろ! チャンスはこの一本道だけだ!」
「どっかにさっきみたいな十字路T字路の抜け道ないの!?」
「残念ながらここは完全な一本道だ! それにもうすぐ右に直角のカーブしなけりゃなんねぇ! そこはバスとかの大型車両もごった返してるから簡単には回避できねぇんだよ!」
「クッ、待ってて。すぐに終わらせる!」
とはいっても、中々当たらないのがこの現実。
追っ手も、道が狭いだけに回避運動は最小限に抑えてるけど、でもその代わり銃撃の手はやめない。
危うく撃たれそうになるも、どうにかこうにか交わしていく。
……だけど、時間もない。
「……ッ!」
ふと前を見たときだった。
そこには大型のバスが大量にいた。どんどん駐車場らしきところからでてきてるから、たぶん観光にでも来た団体客でも乗せてきたのかしら?
……こんなときになんで観光なんてしてるのよ。戦争中なのよ今? 自粛ムードどこ行ったのよ! 観光してる暇あったら家でテレビなりネットなりみて戦況見守ってなさいよもう!
「早くしろ! もうもたねぇ!」
「やってるわよちょっと待ってて!」
少しイライラしつつも何とか照準を保つ。
装弾していた9発も残り1発。今さらまたリロードしてる暇なんてない。
……残りのチャンスはこれだけ。時間的にもこれしかチャンスがない。
追っ手の先頭車が後続と並ぶ瞬間を待つ。
「(……よ~く狙って……)」
タイヤに狙いを定めて……、
……よし、今!
「(行け!)」
私は最後に装弾されていた銃弾を放った。
そのまま追っ手の様子を見る。
「……ッ! よし、当たった!」
何とか最後の最後で運が味方してくれたみたいね。
先頭車の左側のタイヤにあたり、高速を出していただけに一気にバランスを崩しスリップで回転して行ったと思ったら後ろから後続していたもう一台の味方にぶち当たってそのまま爆発を起こした。
その衝撃とでかい音もこっちに響く。
……ふぅ、
「……何とか撒いた……」
しかし、安堵もつかの間、
「マリンス! 何かにつかまれ!」
「ッ!」
すでに目の前に右への90度直角カーブが迫ってきていた。
一気にブレーキをふんで減速しつつ右にハンドルを切る。
その間にも他の乗用車や中茶上から出てきたバスの狭い隙間を高速で潜り抜ける。
車体の先のほうは右を向いても、車体自体はまだ左側への慣性が残っている。
「おらぁあああ曲がれぇぇええ!!」
そう思わず彼が叫んだときである。
やっと慣性が弱まり、タイヤも前進をするために地面をけり始めた。
左側に歩道が迫る中ギリギリでドリフトから直進に移行し、他の車を避けつつ通常の走行に戻った。
「……ふへ~、終わったぁ~~」
私は思わず背もたれに背中をバスンッともたれる。
同時に肩の力も抜けた。持っていたハンドガンも席の隣に置く。
そして深い深呼吸を何回か繰り返す。
……JSAに所属して早数年。
こんな映画みたいなカーレースなんて始めてやったわ。
あんなの、せいぜい映画だけだと思ってたのに。
「ふぃ~、何とか撒いたか。久しぶりのカーレースだったぜ」
それなのに彼ときたら疲れるどころかむしろスッキリの表情です。
……昔を思い出してたんでしょうけど、なんでこれでスッキリ表情でいられるのか意味がわからないわ……。
「……あんたほんと無茶な運転するわね……」
「だから言ったろ? 元F-1レーサー舐めるなって」
「言ってたっけそんなこと……」
「おいおい……、ついさっきの話なのに」
「もうそんなこと覚えてないわよ……」
もう今目の前のことで頭使いまくったからいくらか記憶飛んでるわね。まあ、飛んで記憶ってことはそれほど重要でもないはずだしいいけど。
「……で、何とか撒いたのはいいけど、目的地にはいつ着くの?」
「もうすぐだ。ここを左に曲がって、もう一つの細道のほうに入ればそこでガッツが準備してる」
「了解。……もうこんなカーレースはこりごりよ……」
スパイなんだしこんな目立つことしないでもう少し静かに行きたいものね。それこそ忍者みたいに。
忍者って、結局は暗殺者なのよね。海外じゃ派手に手裏剣投げて暴れまくるけど。
ドイツ映画って何かと結構な頻度で忍者出てくるって聞いたけどあれマジなのかしら。だとしたら割りと本気で気になるから見てみたいものね。
「ハイハイ。……にしてもお前」
「ん? なによ?」
「いや……、いい視力してるなってな。あそこから追っ手が銃撃しかけてくるの見るとか、動体視力どうなってんだ?」
「いや……、普通だけど」
とはいっても、まあ視力がいいというのは否定しない。これは親譲りだし。
ちなみに、これは娘にも受け継がれてます。
「娘さんに似たのか? ……あれ? ていうか娘さんが陸軍なんだっけ?」
「まあね」
「で、一番上の兄さんが海で、その下が空か」
「よく覚えてたわねそんなこと……」
「悪いが、記憶力だけは抜群なんでね。……いいねぇ、そんな家庭もってて。俺は一生独身だろうぜ」
「むしろ簡単にできると思うなよ……」
これだっていろいろと試行錯誤の上での結果なんだからね? まあ、その夫も今では立派な潜水艦乗りらしいけど。
……と、そうしているうちに目的地に着く。
「……と、着いたぜ。ここから少し歩いていく」
そういって彼は車を降りた。私もとりあえず後部座席から出る。
ここはまだ中心地に近いんだけど……、
「……ある程度は覚悟してたけど、すごい荒れようね……」
「ああ……、まるでスラムだ」
少し中心から離れただけでこの荒れよう。
建物はボロくなって崩れかけ、当たりいったいには廃車なりゴミなりが散乱していた。
おまけに人気も全然ない。……いや、誰もこんなとこきやしないか。
「もう少し整備してあげればいいのに」
「しょうがないさ。財政難で一部を独立させないといけないほど国をまかなえないんだしな」
「まあね……」
それで生まれたのが台湾やチベットといった外の国だしね。
……ていうか、そんな財政難でいろいろと国がピンチなときになんで金のかかる戦争なんておっぱじめるのかしらね。この国のお偉いさんの頭を疑うわ。
というか、こんなときにも軍事に金使いまくるから一向に財政難回復しないんじゃないの。頭使いなさいよ頭。
政治には素人な私でもこれくらい簡単に考えれるのにいったい何をしてるのかしら共産党は。
「……とりあえず、この細道を行ったところにいる。ついてこい」
「ハイハイ。……でさ、」
「?」
私は後ろを振り向いていった。
「……この車、どうすんの? どうせ適当なところから掻っ攫ってきた借り物なんでしょ?」
「あー……、まあ、放置でいいだろ放置で」
「えー……」
所有者がかわいそうになってきた。
「そんなことより行くぞ。時間もないしな」
「そうね。……とりあえずは急がないと」
そして私たちは細道に入る。
そこにはやはり瓦礫やらゴミやらが散乱して歩きにくいったらありゃしなかった。
……でも、それもすぐに終わる。
細道を進んで他のいくつかの建物の影になっている小さなスペースに一人の男性。
こちらはめがねをかけた少し太った男性。彼が通信担当のガッツだ。
ここなら目立たないと判断したんでしょう。まあ、人気もないし正解っちゃあ正解かな。
「ガッツ、いたか」
「? おお、シューベル、あーそれにマリンス、来たか。待ってたぞ」
「ああ、少しストーカーとカーレースしてきたが、なに、問題はない」
「はは、カーレースか。俺もその場にいたらな」
本気でいってるのならすぐに考えを改めることをオススメする。
「しかしストーカーとか、お前もずいぶん人気になったな」
なんでやねん。スパイが人気とかありえないから。マジありえないから。
「まったくだな。……で、そっちは準備できたのか?」
「万全だ。いつでもいける」
「よし、では早速本土に電文を送ってもらいたい。音声データもある。ケースZで一言メモを添えてな」
「任せな。すぐに送る」
「しかしさいなんねぇ……。向こうとの戦闘に巻き込まれてしかも無線機がいかれるなんて」
「なに、俺自身はなんともなかっし、奴らは全滅させから機密性は守れたしいいさ。それより、その電文内容は?」
「あー、えっと……、とりあえず、この端末を貸すからそこから音声データを取り出して暗号化して、後はこのメモの中身を送って」
そういって私は手元から、さっきからから返してもらった通信端末と、これまたついさっき即行で簡単に書いたメモを渡す。
「これか。どれ……、ッ! お、おい! これマジか!?」
そのメモをみた彼が、さっきのシューベルと同じく一気に顔面を蒼白させて言った。
まあ、反応自体は私の思ったとおりだった。
それに答えたのは隣にいたシューベル。
「マジだ。その音声データも、さっき車の中で聞いた。……信じたくないがな」
「い、急いで暗号化する。これは早く本土に送らないと……」
そういって彼は床においていたスーツケースをあけ、そこに入れていたノートPCに、貸した私の通信端末をつないで音声データを移し始めた。
そしてその中で暗号化し、本土に送る。
彼が必死にタイピングする中、私はシューベルに言った。
「……開戦から早14日。もう戦争も佳境に差し掛かったと思ったのに……」
「ああ……。これは、もう少し長くなりそうかな?」
「でしょうね……。まったく、中国も土壇場でなんて面倒なことを……」
しかも、よりによって手段が手段だし……。
……これは日本を含め、世界各国が頭を抱えることになりそうね。
特にこの戦争に直接介入している日本を含むアジア各国とアメリカあたりは……、ねぇ。
「……本当は私たちもできる限りのことはしたいけど……」
「だが、ここからは政治家と軍の奴らの仕事だ……。俺達は、とにかく情報を集めまくって本土に送るしかない」
「ええ……」
私は少なくない無力感を感じたけど、でもそれが現実なんだし仕方ない。
スパイとは本来そういうもの。表立ってでるわけには行かない。あくまで、裏方の仕事なのよ。
残念だけど、これは表の人間にすべて任せるしかないわね。
「で、転送できたのか?」
「音声データは送った。今からメッセージを自動暗号化して送る。……えっと」
そういって、メモを確認しながらすばやくキーボードをうつ。
「……宛、日本国危機管理センター。発、ガッツ。ケースZ、緊急速報報告。……“中国、”」
「“現在、核弾道ミサイルの発射体制に移行。発射時期不明なれど、要注意されたし”」
その電文は、しっかりと本土にとどけられた…………




