水の国の姫君
城の魔女を下がらせたときには、日没が迫っていた。
オレンジに染まった空と地平線の境界で、太陽が強烈な光を放っているのが、窓から見える。
ここから見える眺めは、幼い頃から変わらない。
近くよりも、遠くに目が行く。町と、そのもっと向こうにある『迷いの森』とも呼ばれている、広大な森。日光に照らされていてもなお、その一帯は黒く見えた。
目を焼く光をやわらげようと、カーテンに手を伸ばすと、握りしめていた水晶が滑り落ちた。
絨毯にぶつかって鈍い音を立てたそれを、拾う。
透き通った透明の水晶の中に、虹羽鳥という珍しい鳥の羽根が一枚。
贈り主について知りたいと思ったのは、今日が初めてだった。
これまでは、誰が何を贈ってこようが興味はなかった。倉庫に押しやって終わりだった。
手の上のこれは、城の魔女に言わせれば珍しいのだろうが、特に高価には見えない。
城の魔女が途中で消した―――消えたと言ったが、あれはどうみても消したとしか見えなかった―――映像に映っていた、鳥をなでた白い手。
そして、声。
優しいあの声は、どこかで聞いたことがある。
それは確かだと、エルンストの心のどこかが告げていた。
数週間前に届いた舞踏会の招待状には、エリーテ姫と、姫様の名がはっきりと記されていた。
それを知らされたときの姫様の様子ときたら、押さえつけておかないと、ぴょんぴょん跳び跳ねるのではと危惧したほど、興奮していた。
口をパクパクさせ始めたので、主の名誉を守るため、アメリアは急いで大臣たちの前から姫様を連れ出すと、姫様のお部屋のドアを開け、夢見心地で引っ張られてきた主の背中を押して言った。
お茶の準備をしてまいります、と。
ます、と言ったときには、これからすぐ起こることに備えて、手早くドアは閉じてしまう。
金のドアノブを回し終えた頃だった。
ーーーーーーやぁったああああああああ!
から始まった数々の叫びに、予想はしていたものの、くらりと目眩を覚えたアメリアは、ゴン、とダークブラウンのドアに額をぶつけた。
そして、今日。
揺れる馬車の小窓から、流れ行く外の景色を見つめていたエリーテ姫は、夕焼け色に染まっている城が近づいているのを知ると、すました顔で向かい側に座っている侍女・アメリアの両手を思いっきり握った。
「な、何をっ・・・一体どうされたんですか?!姫様っ」
最初は、ぎゅうっと握りしめられた手の痛みに顔を歪めていたものの、アメリアは次には絶句していた。
「うふふふふふふふふふふふ」
姫様の笑い声に。
姫様は、豊富な水があるために『水の国』とも呼ばれる自国では、可愛らしいとよく言われる。
末っ子でまだ16歳ということもあるが、長い茶色の睫毛が飾っている大きな空色の瞳と、小ぶりな鼻。その下に位置するふっくらとしたピンク色の唇。本人は、色気を身につけたいらしく、毎日のように鏡の前でそれらしいポーズの練習をしているのだが、その様も可愛らしい。
どんなに見つめられても、おそらく周囲には小動物に見つめられているとしか思われていないに違いない。その証拠に、舞踏会でダンスを踊るときの男性たちの眼差しは、可愛い生き物を見ているようにしか見えないのだ。
「うふふふふふふふ」
「・・・姫様、お願いですからその笑い方はここの中だけにしておいてくださいませね」
姫様は、興奮していた。熱っぽく潤んだ空色の瞳は、はるか彼方にある何かを見つめている。白い頬はかすかに上気し、うっすらとピンク色に染まっていた。
「もうひとつお願いしておきます。私は不器用なのはご存知と思いますが、髪が乱れた場合に手直しができません。早く、心を落ち着かせてくださいませ」
「これで落ち着けと言うの?!見てごらんなさいよ。もう、あんなに近づいてきているのよ?」
「でしたら、カーテンを閉めてしまいましょう」
アメリアは、シャッと音をさせながら白いレースのカーテンを閉じてしまった。
「アメリア!」
むう、と頬をふくらませた姫様は、リスに見えた。
やはり可愛いな、と思いながらも、アメリアは咳払いをすると半眼になる。
「国王陛下より姫様のことを頼むと言われております。崩れた髪型で挨拶をされるおつもりですか?」
「わかったわよ・・・っ」
お父様の名前を出してくるなんてひどいわ、とぶつぶつ言いながらも、姫様はおとなしくすることにしたようだ。
自国では、パーティーのとき以外は髪を結ったりすることのない姫様だが、今日は結いあげられた髪一本一本に気合いが入っているように見えた。左耳の上にとめられた小ぶりのダイヤの飾りが、髪を飾っている。
小柄な身体を包むピンク色のドレスは、今日のために選ばれたもの。胸元や袖口からのぞいているレースは、控えめな量に抑えてあった。姫様が大好きな宝石も縫い付けられてはいない。
アメリアの格好はといえば、姫様が着ているドレスとは違って袖がふくらんでいないオリーブ色のシンプルなドレスだ。フリルなどという飾りは一切ついていなかった。
「やっと、会えるんだわ。エルンスト様に」
姫様は、隣に置いていた革製のアルバムをなでた。それには、姫様の想い人の肖像画が貼り付けてある。
「そうでございますね」
再び、うっとりと宙を見つめ始めた姫様に、アメリアはくすりと笑いを零した。
朝早くから始まった馬車の旅は、日が沈む前にようやく終わった。
ほぼ一日の間、揺られ続けた身体は疲れ切っていたが、これからが大事な時間だった。国王夫妻に挨拶をしなければならないからだ。
姫様の隣にぴたりとはりつき、出迎えてくれたこちらの侍女に案内されるまま、歩いていく。
大きな窓の並ぶ場所に出たときだった。
差しこんできた日光から顔をそむけた先に、白いドレスを着た女性が立っていた。
侍女なのか、それとももっと上の立場の人間なのかわからなかったが、ひとつだけわかったのは、こちらを見て驚いていたということだった。
「イザベル様、こちらの方々は、ロザリンド国のエリーテ姫様とお付きのアメリア様です」
「あ、ああ―――失礼しました。私は、城の魔女です。イザベルとお呼びください」
イザベルは下げた頭を上げようとしなかった。この国ではそれが客人に対する礼儀なのかもしれない。
アメリアも、特にそれに対しては何も言わなかった。
「イザベル様ですね。どうぞ、よろしくお願いいたします」
そろそろ、参りましょう。と侍女にうながされ、姫様とアメリアはその場を離れた。
自国の城にはない、物珍しい置物の数々に興奮しかかっている姫様の腕をしっかりと掴みながら、アメリアは眉を寄せた。
(・・・何なのかしら)
名前を呼んだとき、イザベルの肩がびくりと震えたのだ。
アメリアには、わからなかった。