優しい声
夕方、講義が終わって夕食の前に自室へ寄ったエルンストは、テーブルいっぱいのお茶のセットを広げてくつろいでいる姉のマリーリアの姿を認めた途端に、すぐさま出て行こうとした。
「あら、入ったらいいじゃないの。自分の部屋でしょう?」
見過ごさなかったらしい。ふふふ、と鈴の音色のような声で笑われる。
輝く金の巻き毛に、濃い緑色の瞳。小柄な外見は、同年代の美少女を思わせるが、これでもシャーロッテとエミリーロッテという双子の母親であり、隣国の王妃でもある。
エルンストは、渋々、部屋の中に入った。
「お茶を入れるわ。座りなさい」
こちらの返事も聞かず、マリーリアはポットの中身をもうひとつあった花柄のカップに注ぐ。
侍女の姿はないが、エルンストはたいして驚いていなかった。この姉は、できることはなんでも自分でやりたがるのだ。嫁いだ先の隣国でも、畑を作って花や野菜作りにいそしんでいるらしい。
「立ったまま飲む?」
いらないという選択肢を選ぶこともできないまま、エルンストは姉の向かい側に無言で腰かけた。姉とは色違いの、青い花柄のカップを持ち上げて口元に運ぶ。二口ほど飲んでから、見ればわかることを口に出した。
「・・・お元気そうですね」
「ええ。あなたも変わりないようね」
にっこりと笑う様は、太陽を思わせる。すべてを照らそうとする太陽を。
自分とは全く逆の姉が、エルンストは苦手だった。
生まれたこの国の民にも、嫁いだ国の民にも愛されている姉が。
「また、舞踏会を開くそうね。お母様から招待状をいただいたわ」
昨日机の上にのっていたものと同じ招待状を見せられたエルンストは、楽しそうなマリーリアの様子に、ため息をついた。
「ええ、知っています。結婚相手を見つけろと言われていますから」
「ふふふっ。思い出すわ。私のときと同じね。私があなたと同じくらいの歳だったころも、ほぼ毎月のようにお母様は舞踏会を開いてくださったのよ。最初は私も嫌だったわ。好きでもない人たちとダンスをするなんて。おかげで、相手を見つけることができたけれどね」
「・・・義兄上とは、政略結婚では?」
「ああ、それはもちろんそうよ。国同士の利益も判断材料ではあったと思うわ。そこは、私が口出しできるところではなかったけれど、お許しをいただけたということは大丈夫だったのでしょうね。実はね、私」
続ける前に、マリーリアは赤い花柄のカップを、両手で包み込んだ。
「お母様に憧れていたの。政略結婚という形で出会ったとしても、夫となる人を愛したいと思っていた。でも、私は、お母様が出会いの場をたくさん作ってくださったこともあって、運良く愛する人と出会えた」
気恥ずかしそうな様子で言ったマリーリアは、やはりまだ同年代の少女に見えた。
「あなたも、出会えるといいわね。一生、愛したいと思える人と」
マリーリアの願いがこめられた言葉は、エルンストの心に少しの波も立てなかった。
「・・・そうですね」
たかだが踊るだけで、そういった相手に出会えるものなら。
エルンストは、うっすらと笑った。
夕食をとっているときから、空の様子が怪しくなっていた。
食べ終える頃には、外ではごうごうと風が吹き荒れ、雨が地面を殴りつけ、雷が落ち始めていた。
「イザベル、今日、一緒に寝てもいい?」
「あー!わたしもー!」
雷が苦手な双子たちに、左右から抱きつかれている城の魔女を横目に、エルンストはさっさと部屋を出てしまう。
廊下を歩いていると、ふと照明が落ちた。慌てて走ってきた兵士が、蝋燭に火を灯して回る。
実際は、窓からほとんど間をおかずに雷光が入ってくるせいで支障はなかった。
自室まで戻り、昼間に満足にできなかった読書の続きをしようかと本を開きかけたが、音が邪魔だった。仕方なく、寝巻に着替えてベッドに横になる。
その間も、雷は鳴りやまない。光の点滅が激しくなっているということは、ひどくなってきているのかもしれない。
寝床が暖まってくると、その気がなかったにも関わらず、眠気が襲ってくる。
頭の回転が鈍くなってくると、どうでもいいと思っていることが浮かび上がってくる。
今頃、城の魔女は双子たちにしがみつかれて身動きが取れなくなっているだろうか。双子たちはどちらとも、怖がりなのだ。
(そういえば・・・僕も)
双子たちと同じで、子どものころは雷が怖かった。布団の中でひとり震えていたら、いつのまにやら誰かが部屋の中に入ってきていて、眠るまで側にいてくれた。しがみついたら頭をずっと撫でてくれた。
『大丈夫。大丈夫ですから』
その声に、どれだけ安心したことか。
ひどく眠いせいか、雷の音は遠くから聞こえてくる。窓から差し込む光の強さは変わらないが。
何度も部屋が光で満たされ、すぐに闇が落ちるのをぼんやりと見ているうちに、暗くなったと思ったら瞼を閉じていた。
そうなったらもう、意識は眠る方向に引きずられていくのみだ。
『ここにいますから、ね?』
完全に眠りに落ちる直前、誰かがふわりと笑ってそう言ったような気がした。