色がない世界
広げた本のページの大部分は、それを置いている石の台ごと影で覆われている。影を作り出しているのは、ページをめくっているエルンストではなく、背中合わせに立っている大きな木だ。
枝の間を風が通り抜けて、さわさわと葉が揺れる。時々、エルンストの髪もふわりと持ち上げられる。
それを押さえつけながら読書に没頭していたエルンストは、こめかみを引きつらせた。突如、この静かな時間を邪魔する者が現れたからだ。
視界がふさがれ、閉じることを余儀なくされた瞼から伝わってくるのは、大きく広げた子どもの手のひらの感触。すぐさま頭をふって外そうとするが、かえって逆効果だった。仕方なしに、極めて優しく言う。
「シャーロッテ、離しなさい」
「ちがうもん。シャーロッテじゃないもん」
間違えられたのが、不服だったのだろう。隣国の小さな姫君がぷうと頬を膨らませているのが、見ずともわかる。
これだから子どもは面倒なのだと、ため息をつくと姫君の名前を呼ぶ。
「エミリーロッテ」
ぱっ、と手が外れ、見事な金の巻き毛を持った小さな姫君が顔をのぞかせた。
緑色の大きな瞳に宿っているのは、好奇心というエルンストにとっては歓迎できないものだ。
それが、もうひとりいるのだからさらに困る。
「ずるーい!エミリーロッテったら!」
城から、エミリーロッテと同じ顔をした少女が叫びながら走り出てきた。
その後から、供の騎士が慌てて走ってくる。
「だぁめ!こっちこないでよ、シャーロッテ!」
至近距離での遠慮ない大声に、エルンストは耳を押さえる。
この後のことを考えるだけでうんざりだった。
姪たちは、どういうわけかエルンストの取りあいを始めてくれるのだ。
退散するに限る、とエルンストは本を閉じると立ちあがった。
「どこに行くの?エルンストおにいさま」
上着の裾が小さな手に握られている。
「静かなところ。ここはうるさいから」
眉ひとつ動かすことなく、エルンストは上着を強く引っ張った。
目隠しをされたときとは違い、手はあっさりと外れた。
ただし、大きな瞳には涙がたまっていたが。
「僕は、静かに本を読みたいんだ。君たちの相手はしたくない。遊びたいなら2人で遊べばいい。1人じゃないんだから、いろんな遊びができるだろう」
10歩ほど歩いたところで、エミリーロッテが泣きだした声が聞こえてきたが、エルンストは振り返らなかった。
17になったからだろうか。これまでより自由な時間が減った。
王位継承は2番目である事実は変わらないものの、政治に関する勉強の時間も増えた。それを淡々とこなしていく毎日。
淡々としているのは、それだけではない。父と母との会話、食事。各地の視察。年中、開かれるパーティー。
特にパーティーは、何が楽しいのかよく理解できない。ダンスを踊り続けて得られるものといえば、疲労感だけでしかないのに。
自室の机の上には、パーティーの招待状が載っている。
(この間、僕の誕生パーティーをしたばっかりだっていうのに)
理由は、言われずともわかる。
―――――いろいろと、そういった縁組の話はあるわ。あちこちの国からもね。けれど、今のところ、あなたにも選ぶ自由がないわけではありませんからね。早く、選んでしまいなさい。
母が、にっこりと笑いながら言ったことだった。
父と母は、たいていの王族がそうであるように政略結婚だったらしい。顔を合わせたのは、結婚式の数時間前だという。それでも、2人は恋に落ちた。今も、仲はとてもいい。公務の間をぬっては、庭園を散歩したり贈り物をしあったり。
お互いを見る目は、常に優しい。母は、いつも嬉しそうだ。
(僕には、無理だ)
誰かを好きになるなど。まして、愛するなどできるはずはない。
エルンストの世界には、そんなものは存在していないのだから。
小さな姫君が、庭園の大きな木の下で泣いている。側には、そっくり同じ顔をしたもう一人の姫君が困った顔をして立っていた。その近くには、さらに困った顔をした騎士がひとり。
「どうしました?」
「あ、イザベル・・・」
困り顔が泣き顔に変化しつつあったもうひとりの姫君―――シャーロッテが、手を伸ばしてきた。それを、握ってやってから、顔を覆って泣きじゃくっている姫君の肩をぽんぽんと叩く。
「エミリーロッテがね、エルンストおにいさまを怒らせてしまったみたいなの・・・」
泣くことに一生懸命の、エミリーロッテの代わりにシャーロッテが言う。
「いっしょに遊びたかっただけなんだけど・・・嫌われちゃったのかも」
言葉にしたことで、不安感が煽られてしまったのだろう。シャーロッテの緑色の瞳にも、あっという間に涙が溢れた。
「大丈夫。きっと、タイミングが悪かっただけですよ。エルンスト様は何をされていたのですか?」
ぽろぽろと涙をこぼしはじめたシャーロッテの頬に、白いハンカチを当てながら、イザベルは小さな肩をさすった。
「本を・・・読んでいたの」
涙混じりの声で言ったのはエミリーロッテだった。
「でも・・・でもね、エルンストおにいさま、最近なんだか元気がなくて・・・遊んだら元気になるんじゃないかって」
弁解するように、横からシャーロッテが口をはさんできた。
イザベルは、わずかに目を見開く。
この2人の小さな姫君たちが、エルンストの変化に気付いていることに。
エルンストが変わったのは、フランカの干渉による『歪み』のせいなのだが、イザベルとフランカが2人がかりでかけた魔法により、この国の人々は、初めからエルンストの性格はああだと思いこんでいる。
――――心を操る魔法は、子どもには効きにくいっていうしね。それよりも。
イザベルは、エミリーロッテに言った。
「次は、本を読んでいないときにお願いしてみてはどうですか?」
こくり、とエミリーロッテが頷く。
素直な反応にイザベルは微笑んだ。そして、思いついたことを言った。
「では、今日は私と遊びませんか?」
「ほんと?!」
「遊ぶ!!」
たったいま、泣いていた顔が笑顔に変わる。
こっちこっち、と4本の手に引っ張られながら、イザベルも小さな姫たちに笑いかけていた。