特別な時間と運命の魔女
エルンストは、17歳になろうとしていた。
背もすっかり伸びて、とうの昔にフランカを追い越している。可愛らしかった顔立ちは、美しいと表現されるものへ変わっていた。
銀髪は、肩のあたりで切り揃えることにしたらしい。青い瞳はさらに深みを増したようにも見えた。
一方で、魔法で花を作り出しては身分を問わず贈っていた、エルンストの優しさは成長しても変わらなかった。
目の前でつまずいたものがいれば助け起こしてやり、病に苦しむものがいれば薬と食事を与える。エルンストはできることを精一杯やっていた。
皆から愛されているエルンストの周りには、常に誰かがいた。
ここ数年、隣にいることが多いのは貴族の令嬢で、見るたびに相手が違っていた。
皆、美しい少女や女性たちばかりで、エルンストと並ぶと一枚の絵画のように見えた。
雷の夜、震えながらしがみついてきた子どもはもうどこにもいない。
それに気付いたフランカは、少し寂しくなった。
エルンストの17歳の誕生日を祝って開催された、舞踏会が始まった。
9歳のあの日以来、フランカはダンスに引っ張り出されることなく、また壁にぴったりと背中をくっつけて王家の人々を見ていた。
外では花火が打ち上げられ、夜空を鮮やかに染めている。
今日も、エルンストは完璧だった。瞳と同じ色の服に身を包み、令嬢たちをエスコートする様は完璧としか言えなかった。
国王と王妃も、ダンスの合間に優しい眼差しをエルンストに送っている。
いくつもダンスが続いた後、楽団がダンス用ではない音楽を奏で始めた。
ダンスの輪が途切れ、あちこちから談笑の声が聞こえてきたということは、休憩に入ったのだろう。
フランカは、喉が乾いたであろう人々が、こちら側のテーブルに置いてあるワインを求めて押し寄せてこないうちに、紺色のリボンをかけた小さな銀の箱を、プレゼント置き場になっている大きな白いテーブルの上に置いた。
テーブルの上は、もう何も置けないほどいっぱいになっていたが、フランカの贈り物は手のひらに収まる大きさのものだ。中身をエルンストが気に入ってくれるかどうかはわからない。メッセージもただシンプルに、『誕生日おめでとうございます』とだけ書いて入れた。一生懸命考えたけれど、それしか思い浮かばなかったのだ。
フランカが箱を置いて、また元の場所に戻ろうとしたとき、エルンストの姿が見えた。
エルンストもフランカに気づいたようで、にっこりと笑いながら向かってくる。
「フランカ」
フランカはローブの裾を持ち上げると、深く頭を下げた。
「17になったからといって、そんなにかしこまらないで。君にまでそんな態度を取られるのは、何だか寂しい」
苦笑とともに、さらに近いところから聞こえてきた声に、フランカは微笑みながら顔を上げる。
―――ああ、もうこんなに大きくなったのだ。
「申し訳ありません。あまりにもご立派になられたので。―――飲み物はいかがですか?」
「果実水をもらおうかな。そうだ、フランカ。少し風に当たりたいからバルコニーに出ないか?」
半円形のバルコニーには、先客はいなかった。
静かだったかといえば、それも違う。
月が出ていない空を、色とりどりの花火が次から次に染め上げていたし、特別に一般開放されている下の庭園では、酒がふるまわれていることもあって賑わっている。ついには誰かが調子外れの歌を歌い出し、ばらばらの手拍子も加わった。子守唄だったことに、エルンストはたまりかねたようにふきだした。
「よりにもよって子守唄を歌うなんてね」
ゆるりと、風が吹いた。バルコニーに設置されている明かりが左右に揺れる。
子守唄は3番まであるのだが、1番が終わると聞こえなくなった。歌っていたのが子守唄だということに気付いたのだろうか。それとも、相当ろれつが回っていなかったから、歌っている途中に眠ってしまったのだろうか。
エルンストは静かに空を見上げた。
フランカは、さっきエルンストから渡された果実水のグラスに口をつけた。
3口ほど飲んだあたりで、ほう、とエルンストは息をついた。
「花火を上げていたことは知っていたけれど、こんなに綺麗なものだとは知らなかったよ。もっと早くに知っていれば、去年もその前も見たのに。もったいないことをした」
拗ねた物言いをするエルンストの整った横顔を、赤い光が照らしだす。
フランカは、くすりと笑った。
「パーティーには主役がいなくては。主役が不在のパーティーは、つまらないものです」
「主役もつまらないものだよ。フランカが踊ってくれれば楽しいかもしれないけど」
「え?」
フランカは目を瞬かせた。
エルンストが、はあっ、とどこか悔しげな様子で、息を吐き出すのを瞬きしながら見つめる。
「9歳のパーティーの次の日、父上にひどく怒られた。フランカの仕事の邪魔をするなって」
(・・・そうだったの)
たった一度のダンスとなった理由は、それだったのだ。
初めて知った事実に、心が痛む。
そういえばあの後、謝ろうとしたフランカに、王妃は微笑みながら首を横に振ったのだ。それどころか『ありがとう』と言われた。
「フランカ」
「は、はい」
「そんな顔をしないで。ごめんね。今だったら、父上の言うこともよくわかるんだ。フランカがどんなに大事な役目を負っているのか」
「・・・いいえ」
フランカは空を見上げた。花火はもう終わったらしく、新たに打ちあがってはこない。煙で白く濁った闇を見る瞳は、夜空ではなく、遠い昔のあの日を見ている。ふんわりと浮かんだ笑顔に、エルンストがはっとした表情を向けたが、半分思い出に浸っているフランカはもちろん気付いていない。
「私はあの日、初めてワルツというものを踊りました。ステップを踏むのに夢中だったけれど、楽しかったんです。・・・確かに、楽しかったんです」
だから、ありがとうございました。
フランカは、笑った。今まで見せたどの笑顔よりも、一番綺麗な笑顔だった。
エルンストは、息を止めていた。それに気付いたのは数秒後のこと。
フランカはまだ、にこにこと笑っている。
それは、この場においてはエルンストのものだった。
エルンストだけの、ものだった。
心にじんわり広がっていくこれは、幸せというものなのだろうか。
いや、これは―――――
特別な時間は、フランカが「飲み物を取ってきます」といったときに終わった。
空いたグラスを渡して、華奢な後姿がカーテンの中に消えるのを見送る。
そういえば、ダンスはまだ始まらないなと思っていると、ガラスが割れる音が耳に届いた。
次に、カーテンをかき分けてフランカが再び姿を現す。
「そこにいてください!」
声量は抑えつつも、フランカは切羽詰まっていた。
「だめだよ、城の魔女」
しゃがれた声に、フランカがぎくりと身を強張らせる。
「私は私の役目を果たすためにここに来たんだからね」
フランカは半分転げながら、バルコニーに飛び出してきた。
そのまま、エルンストの前に立つ。
「静かな場所で伝えたかったのでね、城の魔女を除いて眠ってもらったよ」
その言葉に、エルンストは下の庭園を見た。いつの間にか、すっかり静まりかえっている。目をこらせば、彫刻やベンチに寄りかかって眠っている人々の姿が見えた。
「さて」
浮き上がったカーテンの向こう、一体誰が現れるのかと思っていたら、現れたのはつぎはぎだらけの服を着た老女だった。
「・・・運命の、魔女様」
フランカが低く呟き、エルンストを庇う。
「そうだよ。わかっているだろう、城の魔女。私はただ予言を伝えに来ただけなんだ」
フランカの警戒と緊張は緩まない。
しばし、無言の時間が続いたあと、老女はやれやれと肩をすくめた。
「なら、そのままでお聞き。エルンスト王子、あんたはこれより3日後に100年の眠りにつくだろう。そして」
「いいえ!」
老女の言ったことの意味を理解するよりも先に、フランカが激しく首を振りながら言った。
「いいえ!いいえ!そんなこと」
必死に否定の言葉を口にしたフランカは、エルンストを振り返ると肩に触れて「すみません」と言った。
なぜ謝るのだろう、と思ったエルンストは、急激な眠気が襲っていたことで理解した。
勝手に眠らせることを謝ったのだ、と。
「確かに、守るという役目をあんたは背負っているけれどね。私の役目はどうしてくれるんだい?まだ全部を伝えていないじゃないか」
偉大なる運命の魔女は、呆れながらも困っていたようだった。
もしかしたら、予言の邪魔をしたのはフランカが初めてなのかもしれない。
フランカは、エルンストをバルコニーの床に横たえてから、跪いた。
「申し訳ありません。偉大なる運命の魔女様。・・・しかし、魔女様の予言は人間にとってはむごいものです。100年の眠りのあと、この方はひとりぼっちになってしまう」
「でもね、定められた予言は成就されなければならない。それはわかっているだろう?」
「ええ・・・」
フランカは、伏せていた顔を上げた。口は笑っているのに、黒い瞳には強い意志、覚悟そんなものが浮かんでいる。
「エルンスト王子様への予言は、」
「あんたっ?!」
言葉を紡ぎ始めたフランカを見た、運命の魔女の顔色がはっきりと変わった。
フランカの周囲がゆらゆらと波打っている。魔力を外に放出しているのだ。
知らしめなければ。この世界に。
これから何が起こるのか。
(私は、干渉する――――!)
魔力をのせるのは、声。
ぴりぴりと粟立つ肌は、正直だ。奪われていく体温も。
フランカのやることではない、と全身が警告している。
魂の奥底まで刻み込まれた、干渉してはならないという「決まり」が、フランカを止めようとしている。
(まだ、言い終わっていない!)
フランカは噛みしめながら、続く言葉を紡いでいく。
膨大な魔力を消費し、フランカがやろうとしているのは予言の書き換え。
「決まり」を破り、別の運命へとつなげる。
「予言は、王子様の知らない場所・時間で成就するでしょう」
「ちょっと!」
制止の声にもフランカは止まらない。一番、制止を求めていたのは自身の身体だった。たった数行、言葉を言うだけでひどく消耗して、傍目にもわかるほどガタガタ震えている。
意思の力だけがフランカを動かしていた。
「そして、それを、成す―――のは」
四肢には身体を支える力は残されていなかった。石の床に顔を押しつける姿勢になりながら、目を閉じる。引き裂かれそうな痛みに、涙が流れた。もうやめろ、と全身が叫んでいる。
震える声で、何とか最後の一言を絞り出す。
「わ、たし――――」