そして歯車は回りだす
夜の気配に、エルンストは顔を上げた。読んでいた本を閉じ、机の端に押しやる。政治と経済担当の学者に読めと言われたから読んでいたのだが、同じことを回りくどく書き連ねただけの内容だったので、もう二度と読むことはないだろう。
「誰だ?」
それでも、読書に没頭していたのは認めなければならなかった。ノックの音への返事が遅れたからだ。こちらの返事を待ち、沈黙している扉の向こうの誰かに、少し遅れて問う。
そろそろお時間でございます、と、か細い女の声が聞こえた。
「・・・すぐに行く」
かしこまりました、の返事と同時に、足音が遠ざかっていく。
部屋を出てからのことを考えると、ひたすら憂鬱だった。
今日は一体、何人と退屈なダンスをしなければならないのだろう?
オレンジ色のドレスを着た姫様を見たアメリアは、安堵の息をついた。
失礼いたします、と部屋を出ていく侍女たちに、感謝の気持ちをこめて頭を下げる。
この国の侍女たちの仕事も、自国の侍女たちと同じくらい素晴らしいものだった。これから舞踏会に出る姫様が輝いて見えるように、あれこれ手を尽くしてくれたのだ。
髪は改めて整えられ、編みこみになっている部分にはいくつかの小さな真珠のピンとダイヤの髪飾りが差しこまれている。大粒のダイヤの髪飾りは、シャンデリアの明かりが当たるたびに星のような輝きを放つことだろう。
ドレスの色も決して派手ではなく、遠くから見ると、濃いベージュにも見えた。たくさん、ひだがあるが大げさに見えないのは、生地が軽くて滑らかなサテン地だからか。
「ちょっと、地味じゃない?あの赤いドレスのほうがいいんじゃないかしら?」
「いいえ。そのドレスのほうがよろしいかと思います。とてもお似合いですよ」
「そう、かしら」
納得いかない、といった顔でクローゼットを開けようとしていた姫様が、はにかみながら振り返った。
「アメリアがそう言うなら、これにしておくわ。よく見れば、大人っぽいデザインで素敵よね」
「ええ。それに、軽い生地ですので、ダンスの時は動きやすいと思います」
「・・・エルンスト様と踊れるかしら」
頬を染めながら落とされたため息は、これから始まる舞踏会への期待と不安に対するもの。その証拠に、白い絹の手袋に覆われた両手はさっきから落ち着かない。
客人のひとりである姫様と踊らない理由はないのだが、それでも不安らしい。
アメリアは目を細めると、姫様のドレスの襞を綺麗に見えるよう整えながら言った。
「きっと、踊ってくださいますよ。今日の姫様は、今までで一番お綺麗ですもの」
室内は着飾った姫君で溢れていた。貴族だけではない。各国の王女様もいる。どれも高そうなドレスばかりで、その中に混じる自信のないイザベルは、自然と壁際に追いやられていた。
彼女たちが待っているのは、エルンスト王子ただひとり。
どうせ誰も見ていないと、折れそうなほど細いワイングラスの中身をぐいっと飲み干す。口の中にすっきりしたリンゴの味が広がった。アルコールが入っていないことは確認済みだ。
(・・・あ)
新たに入ってきた2人に、イザベルはほっ、と息をついた。
濃いベージュのドレスを着た可愛らしい王女様のほうは、すーっと通り過ぎて、隣の黒髪の女性に視線が固定されてしまう。
王女様のドレスとくらべると、アメリアが着ているオリーブ色のドレスは、さっぱりした印象だった。
長い髪は、出会ったときとは違ってまとめあげられている。飾りもひとつかふたつといった様子だ。
それだけのことに、イザベルは安心した。
(・・・フランカは、絶対にあんな髪型にしないし、あんな笑い方もしない。だから、大丈夫)
フランカの持つ色と同じだけなら、よかった。黒髪に黒い瞳なら、どこにだっている。
現れたアメリアという女性は、それだけではなかった。フランカにとてもよく、似ていた。
フランカではないとわかっていても、心が揺さぶられた。今ごろ、フランカがどうなっているか考えると一層に。
イザベルは、テーブルに並べられている果実水のグラスを取った。どうせ、誰も見ていないと、ぐいっと飲み干す。
部屋の中では、綺麗な少女たちが互いに話していた。どこか緊張感が漂ってくるのは、やはり花嫁候補の一人という自覚があるからか。飲み物を取りにこようとしていた、黄色のドレスの少女が弾かれたように後ろを振り返った。
遅れて、そばにいた別の少女も同じほうを向く。
つられて見たイザベルは、皆が一斉に黙りこんだ理由を知った。
緩やかな螺旋階段の上、珍しく黒以外の服を着たエルンストが立っていたのだ。
「皆さん、ようこそ。今宵はどうぞ楽しんでください」
柔らかい言い方ながらも、声は硬い。ここからは表情を窺うことはできないが、少しも微笑んでいないに違いない。
けれども、少女たちにとっては、そんなことよりも目的の人物が現れたことのほうが重要だったらしく、盛大なため息が人数分聞こえてきた。
エルンストが階段を下りて、手を2回叩く。それは合図だったようで、待機していた楽団が演奏を始めた。少女たちと、側にいた男性たちが手を取り合う。流れができるのはあっという間で、エルンストの姿もすぐに見えなくなった。
「ーーーハァ?何だって?」
突然、目を尖らせた老婆に夫婦は顔を見合わせた。
妻のアンリは困惑している。きっと自分も同じような顔をしているのだろうとヴォイドは思った。
この、つぎはぎだらけの貧しい身なりをした老婆がやって来たのは、つい1時間前のこと。
やって来るなり、産まれた息子の将来について語りだした。曰く、息子は人の上に立つ人間になるだろうと。
老婆が語った内容は、いいことばかりだった。息子には輝かしい未来が約束されていると言ったのだから。しかし、老婆は村の人間ではない。よそ者だ。村はひどく閉鎖的ではないが、よそ者に対する警戒心は強い。村で育ったヴォイドとアンリも同じで、老婆に対する警戒心は、こうしている間ももちろん働いている。
「あの、」
「お黙り」
「・・・すみません」
半ば口ごもりながら謝って、どうしようかと思ったとき、老婆がこちらを見ていないことに気づいた。老婆は、宙を睨んでいるのだ。
「あれはもう、終わったことだろう?」
老婆は、宙に向かって話しかけていた。
幽霊でもいるのか----腕に鳥肌が立った。それとも、頭がおかしいのか。
隣のアンリが立ち上がる気配がした。
怖いからだと思ったが、微笑んだところを見るとそうではないらしい。
見上げた彼に、お茶を入れなおしてくるわと囁くと、つい先日産んだばかりの息子を抱いて行ってしまった。
「あれは、あっちが勝手に介入してきたんだよ!ねじ曲げたのはあっちだ。あんただって見てたはずだ」
ヴォイドの存在を、老婆は気にしていない。うろうろと視線をさ迷わせながら、ヴォイドの目には見えない存在に怒りをぶつけ続けている。
「嫌だね。ねじ曲げられた運命を修正するなんてそんな面倒な----あれは!お互い様だろう?!何でそんな大昔のこと----ああもう、わかったよ。行けばいいんだろう!」
それきり、老婆は目には見えない存在に怒鳴るのをやめた。怒らせていた肩から力を抜き、目を閉じると長いため息をつく。
「・・・お茶を一杯もらえるかい」
「いま、入れなおしているところです」
すみません、と最後につけ足して言うと、老婆はさっきとは打ってかわった穏やかな表情で、老婆は節くれだった指をカップに向けた。
「そこの、冷めたやつでも構わないよ。いきなり押しかけたのはこっちなんだからね」
「それなら・・・どうぞ」
「悪いね」
どれに対する謝罪なのかとヴォイドが頭をひねっている間に、冷めきったお茶を飲み干してしまうと、老婆はキョロキョロと部屋の中を見回した。
「どうかされましたか?」
また意味のわからないことを喋り出すのかと思ったが、違っていた。
「あの坊やはどこだい?」
「妻と一緒にいますが・・・」
「じゃあ、悪いけど呼んでおくれ。ちょいとばかり急がないといけなくなったからね」