彼の願い
現在、「眠りの国の王子と魔女」という小説を連載しています。
この物語は、その原案となったうちのひとつです。
完全に別物となったのですが、せっかくだから・・・と思ってまとめてみました。
少しでも楽しんでいただけると幸いです。
国の外れ、『迷いの森』とも呼ばれている大きな森がある。
そう呼ばれているというだけであって、正式な名称があるわけではない。どの時代の地図を広げてみても、ただ森があるだけ。
ただ、そう呼ばれるからには、大昔に森の中に入って迷った者がいるのだろうと、エルンストは思った。
(・・・でも、僕は迷わない)
幼い頃、何度も連れてきてもらった場所だ。どこを通ればどこへたどり着くのか知り尽くしている。
『あの曲がりくねった木の先を少し歩いていくと、開けた場所に出ます。綺麗な花は咲いているし、景色もいいし、私の好きな場所のひとつです。でも、崖になっているので気をつけなければなりませんけど』
そう教えられた目印の木は、あれからさらに一回り以上大きくなっていた。
『必死に生き抜いてきたのでしょう』
そう言って幹に触れた彼女がどんな顔をしていたのか、どうしても思い出せない。もっと間近で見ていればしっかりと記憶に残っていたのかもしれないが、そのときのエルンストは、どんなに背伸びしても彼女の顔を間近で見るには身長が足りなかった。一番低い幹にすら手が届かなかったのだ。
幹に触れたエルンストは、背後を振り返った。
風は一切吹いていないはずなのに、カサリカサリと音を立てながら葉が揺れ動いている。湖に石を落としたら波紋ができて広がっていくように、音は大きくなっていった。
薄暗い中、恐れもせずにそれをしばらく聞いていたエルンストは、太陽の光が降り注ぐ中で見ればもっと美しいであろう深い青色の瞳でしっかりと周囲を見回し、言った。
「無駄だよ。何であろうと、僕を止めることはできないんだから」
鳴りやまない音に構うことなく、エルンストは木に触れるとゆっくりと回り始めた。
口ずさむのは、彼女に教えてもらった文句だ。
『もしも、もしもですよ?そんなことは起こらないと願っていますが、森の中で誰かに追いかけられたり怪物に出会ってしまったら、この木の周りを3回、回ってください。そのときは今から言うことを唱えてくださいね?』
虹色の鳥がいる止まり木
ヒュプラ山の煮えたぎる水
夜の女神が作った太陽のタペストリー
望むものを持ってきた
3周したところで、ぐらりと視界がぶれたので、木にすがりついてこらえる。ここで倒れるわけにはいかない。
何度か深呼吸していると、頬に日光が当たっていることに気付いた。さっきまでは一切なかったものだ。
見上げると、青い空が広がっていた。目の前の木を除いて、あれだけ空を覆うように存在していた木々が消えている。
現れたものもあった。
古びた塔だ。
(成功した!)
駆け寄ろうとしたエルンストの右腕を掴んだものがあった。細くて冷たい指だ。温度を一切感じられない指と皮膚に食い込む爪の感触に、足が止まる。
―――――太陽のタペストリーをおくれよ。金の糸がキラキラしている、あれをおくれよ。早く早く。
(ああ、そうだった)
耳元でうるさく言ってくる女の姿は、エルンストには見えない。
女は、おそらく森に潜むエルフだろう。
―――――空間を渡らせてやったじゃないか。望みを叶えてやったじゃないかよう。
空間を渡るには、森のエルフの力を借りなければならなかったが、それにはエルフが欲しがっているものを代価として渡さなければならない。
エルフが欲しがるものというのは、とてつもなく手に入れにくいものでもあったため、渡った後に必ず言わなければならない決まり文句があるのだ。
「タペストリーは、渡ってくる途中でどこかに落としてしまった。だからここにはない」
『そうすると、別のものがほしいと言ってくるでしょう。そのときは、何でもいいですから渡してください』
―――――じゃあ、別のものをおくれよ。
彼女が言った通りの展開だった。エルンストは笑うと、自らの銀髪を数本引き抜いた。
「あいにく、これしかないんだ」
髪の毛の感触が手のひらから消える。
ギリギリ締め付けられていた右腕も自由になっている。
―――――綺麗な銀の糸!誰にも見せてあげないよう!あたしだけのものだよう!
声が近づいたり遠ざかったりしているのは、飛び回っているからなのかもしれないが、相変わらずその姿はエルンストには見えない。
ただ、エルンストの髪をこのエルフは相当気に入ったらしい。
喜んでいたかと思えば我に返ったかのように、沼の宝箱に入れておかなくちゃ、と呟き、気配を消した。
ようやく解放されたエルンストは、塔に近づいた。
赤茶色のレンガを積み重ねて作られた円形の建物は、レンガの状態を見るだけで相当昔に建てられたものだということがわかる。
その塔には、茨がぐるりと巻きついていた。
「フランカ」
返事はないとわかっていても、塔を見上げたエルンストの口から出たのは彼女の名だった。
悲しさも怒りも苦しさも、もとの世界に全て置いてきた。
もう今はただ、会いたくてたまらない。
塔への入り口となっている鉄の扉を押す。
錆ついている扉は、重苦しい音を響かせながらも予想に反してあっさり開いた。