【2】
快晴に次ぐ快晴。あのびしょ濡れになった日は何だったのか分からないぐらい、ここ数日は晴れが続いていたし、「おはようジャパン」の天気予報は当たり続けていた。まぁ、雲が無いのが分かれば「晴れ」って予報するのは簡単だからぼくだってできることじゃないかと思う。
「べジブル」に来るのは殆ど日課。とはいっても、お母さんに頼まれて来ているから自発的な日課とは言えないけれど。家から、歩いて二分ぐらいの所にあるここ、ベジブルは夕方になると近所の主婦の駆け込み寺の如く賑わう。名前からすると野菜しか売ってそうにないが、ちゃんと魚や肉も売っている。要は、スーパーってこと。
今日は、偶然切らしていたじゃがいもと、広告に載っていた豚肉を買いに来た。夕飯は肉じゃがにするそうだ。クーポンはちゃんと切り取ってきたから、おつりはぼくの物になる、多分。広告の写真と、お店に並ぶ豚肉を比べながら目当ての物を探す。牛肉のパックを指で押しているおばさんがいたから、ぼくは鼻にしわを作って、上唇を少し上げると一瞬だけ嫌悪の表情を作っておばさんを見ておいた。これは人類共通の嫌な気持ちを示す表情だって、本で読んだ。きっと、あのおばさんに伝わったはずだ。人間ならばの話だけど。
人込みをかき分けてジャガイモも手に入れて、方向的には真後ろにあるレジに向かおうとした時だった。
「ぎゃ」
「おうっ」
ちょうど真後ろにいたお爺さんに、これでもかってほど勢い良くぶつかった。鷲鼻で少し釣り上った細い目で、多分七十歳ぐらいのお爺さんはて尻もちまでついちゃって、買い物かごの中身は床に飛び出した。「ごめんなさい」って何度も言いながらぼくはリンゴと玉ねぎを拾った。近くにいたおばさんたちも手伝ってくれなんだかすごく惨めな気持ちになったし、その中には牛肉を押していたあのおばさんもいた。「チョールト!」
いつの間にかお爺さんは立ち上がり、一緒に落ちた物を拾っていてぼくはまた謝った。
「わかっとる。わざとじゃないんだろ」
「は、はい。でも、本当にごめんなさい。お尻は大丈夫でしたか」
「面白い事を言うやつだ。わしの尻の事なんか気にするな。それよりそのカメラは大丈夫だったのか」
すっかり気が動転して自分がカメラを持っていた事も忘れていた。色んなところを確認したけど壊れた様子はなかった。
「大丈夫みたいです。ご心配ありがとうございます」
「ならいい。ほら、お使いの途中なんだろ。早く買って帰るんだ」
ベジブルから家に帰る間、買い物袋を持ってない方の手でカメラを撫でながら、なんでお使いの途中か分かったのかを考えたけど結局分からなかった。そのうちお父さんに聞こうと思った。それから、急いでたせいでクーポンを出し忘れたことに気が付いた。
「もー、豚肉とじゃがいもを買うだけにどこまで行ってきたの」
「面目ない。食事の折にでも申し開きをさせていただきたく候」
はいはい、と言ってベジブルの袋を受け取るとお母さんは台所に消えた。
きっとすぐに美味しい肉じゃがが、お爺さんの尻もちの犠牲の上に出来上がることだろう。それまで、ぼくはマイルームで写真集を見ることにした。今日はじいちゃんがいなくなる前、最後に作った写真集。あの地震が、津波が街をめちゃくちゃにしていく前の姿が写っている。宮城県の海沿いに住んでいたじいちゃんは、三年前のあの地震を境にいなくなった。近所の人に「海を見てくる」って言ったのが最後の言葉だったらしい。まだ九歳だったぼくには、あまりにも突然の別れだった。ある程度、街の状態が落ち着いた頃。ちょうど一年が経った頃だったと思う。「遺体はないけど、葬式ぐらいやってやらないと」とお父さんが言いだして、じいちゃんのいない、本人がいたらまた変なんだけど、お葬式をやった。棺桶は空のままで蓋を閉めた。戸籍上ではじいちゃんは「死んだ事」になってるらしい。
でも、じいちゃんの遺体はいまだ見つかってないし、どこかでこっそり生きている可能性だってある。だから、ぼくはじいちゃんの「とーかぶる」ログイン状態を毎日確認している。もう、確認を初めて三年が経つけど、まだ一回もログインしてこないってことはネットが使えないところにいるのかもしれない。
日本三景の松島の写真から、近所に咲いていたタンポポの写真、なんてことのない海の写真とかそんな物をまとめた写真集。震災の起きる二週間ぐらい前に宅急便で送られてきたんだった。じいちゃんはあれを予測していんだろうか。
ぼくが住む福島だって、何もなかったわけじゃない。偶然あの日学校は午前中だけでぼくは一人で家にいた。外は寒かったから、昼ドラを見たあと、録画していた恐竜の絶滅についてのテレビ番組を見ているところで地震がきた。びっくりして、立ちあがると今度は立っていられなくなるぐらい揺れ始まった。どの位揺れたかは、もうあんまり覚えていないけれど、とにかくめちゃくちゃに揺れた。リビングから通じる台所では、色々な物が床に落ちてすごい音を立ててたし、いつも使ってたパソコンも床に落ちてめちゃくちゃになった。今思うと、あの時地球に隕石が落ちる様な番組を見ていたから、怖さも倍増したのかもしれない。
このままでは、家が潰れちゃうんじゃないかと思って外に出た時は目を疑う他ない状態が広がっていた。近所の家もみんな柔らかくなっちゃったみたいに揺れていたし、電線はあちこちで蛇みたいにうねうねして今にも切れちゃいそうで、ぼくはどうしたらいいかわかんなくて、お父さんは仕事で、お母さんは買い物に出かけてたし、ぼくは一人だったし、こんな地震初めてだったし、揺れてるんだかほんとに膝ががくがくしてるんだか分からないまま、ついに立てなくなって、もう泣くことしかできなかった。
そんなぼくの手を引いて家に連れて行ってくれたのは、隣の家に住むおじさんだった。正直あんまり覚えてないんだけど、水か何かを貰った気がする。とにかく、おじさんとおばさんの家でお父さんとお母さんが帰ってくるのを待たせてもらった。余震が来るたび、ぼくをおばさんがぎゅってしてくれた。昔から知っているとはいえ、よその家の人にこんなにしてもらえるのは変な感じだったけど、もの凄く安心したのを覚えている。
それから、一時間ぐらいでお母さんが帰ってきてぼくを引き取った。その時お母さんは泣いていた気がするけど、ぼくもお母さんが帰ってきて、なんだか知らないうちにまた泣いていたからあんまり覚えていない。つまり、ぼくらはどっちも泣いていたかもしれないってことだ。
お父さんはその二時間ぐらい後に泥だらけになって帰ってきた。隣町から歩いて帰ってきたみたいだった。だってあの時、電車もタクシーもバスも考えられる移動手段はみんなストップしていたからしょうがなかった。父さんを待つ間、電話も全く通じないから、二人でワンセグを見ていると、信じられない光景が飛び込んできた。仙台の空港が水に飲み込まれていた。「映画みたいだ」っていう以外にどんな言葉で表現したらいいか、未だにぼくは分からない。
宮城県名取市っていうのはじいちゃんが最近になって移り住んだ場所で、海の近くに住むんだって、いつもも言っていたその言葉通りに徒歩十分ぐらいで海に行ける場所に家を借りて一人暮らしをしていた。
お父さんは「こんな年になってから家を出なくっても」って止めたんだけど、じいちゃんがどうしてもって言うからお父さんも渋々了解したんだった。七十歳近いじいちゃんが今から一人暮らしを始めるって言えばそりりゃみんな心配になるのは当然だ。なんせ、じいちゃんはお父さんのお父さんなわけで、ぼくもお父さんがそんなこと言いだしたらきっと全力で止める。
ぼくとお母さんが覗き込んだ携帯電話の小さい画面に映るワンセグの右下には日本地図が載っていて、太平洋側とりわけ東北のあたりを赤い線がなぞっていた。津波警報だった。お母さんは真っ青になって、色んな人に電話を掛けまくった。殆どは繋がらなかったけど、偶然繋がった時は一通りの安否確認をしてすぐに切ることを繰り返す。他の人だって今の人と電話をしたいだろうからってお母さんは言っていた。ただ、最後の最後までじいちゃんには繋がらなかった。心配とかそういう感情はそれが恐怖に代わるぐらいの所まで来ていて、ぼくはずっと部屋の中をウロウロしていた。もう、それしかできなかった。
揺れて、揺れて、また揺れて、辺りが暗くなって、一瞬眠って、またまた揺れて、お日様が昇って、雪が降っていて、朝になった。震災は夢じゃなくてちゃんと続いていた。
今はない家や、今はない公園をこうして写真で見るっていうのはなんだか不思議な気分だ。一旦ゼロに戻されたあの場所には、新しい家が建ち、公園や学校ができ、人が戻ってきて生活を始めている。それは、地震前の街から、地震で死んだ人を引き算した状態だって思えてならない。現にじいちゃんはあの街にはいない。
「どこいったんだよ」
心の声の延長のつもりがつい喉を震わせていた。ページを送って、ガラスの反射とかで写真に写りこんでるじいちゃんを探しているうちに最後のページまで来た。
じいちゃんの最後の写真の隣には、ぼくがセロテープで貼り付けた写真がある。
朝だか、夕暮れだか分からないオレンジ色に包まれた公園の写真だ。海辺の公園で、太陽は今にも昇ろうとしているか沈もうとしている。そして、右の方には若い男の人、高校生ぐらいかもしれない人が後ろ姿で写っている。一瞬で今までじいちゃんが送ってくれたどの写真よりもこの写真を気に入った。何がっていう、はっきりした理由をぼくの言葉で表現できないのは悔しいけれど、そういう写真。ぼくの知っている言葉の中で無理やり表現するとするならば、「グッときた」っていうのが一番なのかもしれない。
これは、このカメラで最後に撮られた写真。震災の二週間後、高速道路がやっと復旧して、連絡の取れないじいちゃんの元へ家族で飛んで行ったとき、見つかったカメラだった。がれきの中で偶然見つかったそうだ。いやらしいほどに無傷だった。そして、入ったままになっていたフィルムを現像したらこの一枚の写真だけが出来上がってきたというわけ。
じいちゃんは、いつもぼくにカメラを持たせてくれる時、言うことがああった。
「郁、人には表情があるだろ。怒ったり、笑ったり、泣いたり、な。それとおんなじように、景色にも表情があるんだ。写真はそれを一瞬で切り取る事ができる。ただし、郁がそれを逃さなきゃだ。だから、写真を撮るコツはな、」
ここで、言葉を切ってわざと間を作る。
「慎重に捉えたら、一瞬で切り取る。だ」
このカメラは前々から、じいちゃんが冗談まがいに「自分が死んだら」ぼくにやるって言ってたカメラ。元々はぼくがねだったわけだけど、今の状態から言うと一時預かりってとこだ。無断で現像したから怒られるかもしれないけど、あれ以来このカメラを身につけていつか帰ってくるじいちゃんの為に守っている。担任の君崎先生には最初注意されたけど、事情を話したら「ちゃんと守るのよ」と言われた。残りの先生たちは、なんとなく黙認している様子だった。一度津波に飲まれかけたこのカメラを、なんであろうと二度と水に濡らすわけにはいかないのだ。
そして、この写真を見つけた時から決めていることがある。この公園を見つけて、じいちゃんがシャッターを切った場所に自分も立つ。ということだ。あの頃は四年生でできなかったかど、今年の四月で六年生になって学区外に行くことも認められるようになったから、ようやく一人で調査を始められるのだ。お父さんやお母さんを頼ればすぐにできるのかもしれないけれど、それはやっぱり違う気がする。カメラと写真はぼくとじいちゃんだけの物だから。
どこから湧く自信だかは分からないけど、漠然と見つけられるような気がしてならなかった。写真をアルバムからはがして、調査ノートの最初のページに挟んだ。それからそっと緋色のアルバムを閉じると、下から「ご飯出来たよー」と明るいお母さんの声が飛んでくる。
美味しそうな肉じゃがの匂いは二階の部屋まで届いていた。