黒葛陸視点(4)
「何してるの? りっくん」
放課後俺は教室に残り、自分の机にサインペンで罵詈雑言の綴られた黒いインクをなんとか落そうと四苦八苦していた。
授業中、先生が見回る度に、俺は毎回腕を使って隠していた。そしてその度に、どこからかくすくすと笑い声が漏れていた。
なあ、どうしてお前らは、そんなに嬉々として他人を傷つけることができるんだ。
なんで、俺がどうして後ろめたい気持ちにならないといけないんだ。
俺の心中の何も理解出来ずに、こうやって無邪気に質問してくる詩織が憎たらしかった。
お前のせいで、お前を庇ったせいで俺がこんな辛い思いをしているんだ。
お前、わかってんのかよ。
全部お前のせいなんだよ。
お前が泣けば、挫ければよけいな火の粉は俺に降り掛かることもなかったんだ。
なのに、よくそんな残酷な言葉を堂々と吐けるよな。お前のそういう無神経なところが苛められる原因になるんだよ。そうやって他人のことを思いやれないお前なんて、結局はいじめている連中と根本は一緒なんだ。
いいか、今に見てろよ。あいつら、俺をいじめるのに飽きたら、今度はお前をいじめることに本腰を入れるぞ。きっと、この前いじめのやり方は飽きたから、もっと残酷ないじめになっているだろうな。今のうちにそうやって精々笑っていろ!!
……最低だな、俺。
ただの八つ当たりじゃないか、こんなの。
もう、俺には関わるな。
「……なんでもねぇよ。あっ、」
咄嗟に腕で隠した文字を無理矢理こじ開けられ、詩織に見られてしまった。
いちいち詩織に愚痴をこぼすのも憚られるし、こいつにだけは自分のみっともない姿を見られたくなかった。だけど、こうなってしまったら、もう開き直って笑うしかない。
「どうだ? 笑えるだろ?」
これは全部お前のせいなんだ。
お前なんてやつを庇って俺はすげぇ後悔しているよ。
……っていっても、鈍感なお前はこの惨状を見てもどうしたの、これ? って他人事のように訊いてくるんだろうな。
詩織に顔を向けると、俺はぎょっとした。
詩織は大粒の涙を流していた。泣きそうになったことは何度なく見てきたが、彼女が涙を流すのを見るのは初めてのことで、かなり狼狽してしまった。
情けないもので、生まれた時から女の涙に弱く、この時の俺は右往左往するしかなかった。
他の奴だったらこういう事態に陥った時にどう対処するんだ。
くそっ、こういう時に咄嗟の機転を利かすことができないから俺ってやつは……。
どうにか、ない頭を絞って打開策を捻り出さないと、俺はあの時の誓いを破ることになる。
「……ごめん。ごめんね、りっくん」
何のことについて謝っているのか分からず、俺はどう答えていいのか、どうやったら詩織の涙を晴らせるかどうかを考えていた。そうすることしかできなかった。
今まで俺は詩織とコミュニケーションをとる上で悩んだことはなかった。なぜなら物心ついた時から俺達はいつだって傍にいたからだ。まるで二人は兄妹のように、いや本当の兄妹よりも仲が良くて、まさに以心伝心していた。
だから、だからこそ何をすればいいのか。
「……私の、せいだよね」
詩織はなんとか涙をこれ以上流さないようにと、堪えながら自分の本心を紡いでいく。
「私がとろくてみんなを怒らせちゃったから、こうしてりっくんにまで飛び火しちゃったんだよね。私、馬鹿だけど、それぐらいは分かるよ。最低だよね? 私」
「そんなことはねぇよ」
言葉は、思考せずとも勝手に飛び出した。
「ううん、最低だよ。本当はちょっぴりそうなのかなって思ってたんだ。だけどそれを認めたくなかった。もしも黒葛くんのいじめを止めようとしたら、また私がいじめられちゃう。それが怖かったの。自分の弱い心に負けちゃったんだ」
詩織の目尻に透明なものが溜まっていく。
「ねぇ、もう、私はりっくんに近づかないから。一生りっくんとは関わらない。だから、もう大丈夫だよ。もう――」
詩織はわっと泣きながら顔を伏せる。それ以上は涙のせいで言葉が続かないみたいだ。嗚咽が徐々に強くなっていく。背を丸めながら必死に感情が溢れ出てこないようにと堪えている。
はあー、うぜいな。
あーあ、無性に面倒臭くなってきた。
俺ってこういうタイプの女子って本当に苦手なんだよな。泣けば何でも許してもらえるって思っているタイプ。そういう茶番劇は俺がいないどっか遠くでやって欲しいもんだ。
なんかこういう感じ嫌なんだよ。俺が悪くないのに、何でもいいから謝らないといけないみたいな雰囲気。こういう重いやつはどう対処していいのやら。
……ほんと。
……ほんと、馬鹿だよな……お前は。
自分がいじめられている時には全くへこたれていないようにみんなの前では気丈に振舞っていた。俺の前でさえも弱みを見せないようにって、完全には泣き顔をみせなかったくせに、なんだそのザマは。
泣きすぎてかなり面白い顔になってるぞ、お前。
「別にいいよ、そんなこと」
……おいおい、なんだよ。どうしたんだよ、俺。
まったく、これじゃあ俺だって詩織のこと馬鹿にできないな。
どうしてだろうな。なぜか俺の意思とは関係なしに勝手に涙があふれてるんだ。
はっ、ふざけるなよ、俺はこいつの前で泣きたくねぇんだよ。弱みを見せたくないんだよ。
女の前で泣くとか最高にかっこ悪くて……みっともなくて……穴があったら入りたいぐらいだ。
俺ってこんなに涙脆い人間だったか? こんなに感情が簡単に揺り動く人間だったのか?
おそらく、こんなに俺が弱い人間になるのはおそらくこいつと一緒に居るときだけなんだ。
だけど、この弱点はきっと短所じゃない。
詩織の傍にいるときだけ弱くなるってことを裏返せば、自分の弱みをこいつにだけは見せられるってことだから。
それは俺にとって、こいつは、――雛原詩織が――特別な存在ってことなんだ。
「泣いているの?」
あのな、泣いている男に向かってそんなこと訊いたらこっちの立場がなくなるって知ってるか? 本当にどうしようもない奴だな、お前は。やっぱりお前には俺が傍にいて色々教えてやらないと駄目みたいだな。
「泣いてない」
自分の弱さを曝け出せる存在があるってことは、きっととても幸せなことで、絶対に手放してはいけないものなんだ。
だけど、やっぱり今は強がりたい。強がらなきゃいけない。それは女からしたら、くだらなくて安っぽいプライドだって笑われるのかもしれない。
けれど、俺はお前の前では精一杯笑っていたいんだ。
「りっくん、泣なかないでよ。りっくんが泣いていると私までぇ――」
詩織は思い出したかのように再度思い出したかのように泣き出す。
ほんと、こいつは俺の気持ちを理解してくれないな。見て見ぬふりっていう言葉を知らないのか、こいつは。
でも、だからこそ——。
俺は詩織にアイアンクロー気味に目隠しをする。
うぐっと女らしからぬ声を上げるが俺は気にしない。
これで俺の恥ずかしい泣き顔は詩織には見えないし、これなら普段は言えないような馬鹿な言葉も言える。
今日だけは特別サービスだ。明日からは今まで通りだから調子に乗るなよ。
「俺はいま泣いていない。だから、お前の傍にいても全然辛くないってことだ。……だから、お前は俺の傍にいてもいいんだ」
こうでもしないと自分の心に素直になれないんだ。
ちょっと前までは詩織のことは人目を憚らずに好意を抱いていることを、口頭で、おくびにも出さずに触れ回ることが可能だった。
けれど最近、それができなくなっていた。
どうしてそうなるのか、このときまで俺は解らなかった。
やっと解った。
それはきっと――俺がお前の顔を直視出来ないほどに好きになってしまったからなんだ。
†
だいたい三分の一ぐらい消化しました。まだ読みたいという希有な人は、もうしばらくおつき合いください。