雛原詩織視点(5)
午前の授業終わりを告げるチャイムが鳴り、生徒達の緊張の糸は一斉に切れる。
先生が教室のドアを閉めたと同時に、開っきぱなしのノートに突っ伏した。慣れない朝起きの代償がここにきて表面化したようだ。
長時間そのままの態勢でいると額が赤くなって恥ずかしい思いをするのは目に見えているが、今は一瞬でもいいから安息の時が欲しいという願望の方が遥かに上回っている。
全校生徒は大体三組のグループに分かれる。
大食堂でリッチに日替わり定食を注文して、和洋の料理に舌鼓を打つグループ。
売店でお目当てのパンを奪取する為にクラウチングスタートで教師の制止を振り切り、廊下を猛烈な勢いで走るグループ。
そして、教室で優雅に悠々たる面持ちでお弁当を箸でつつくグループに分かれる。
机に何かを置かれた音で重い頭を上げる。できればそのまま眠ってしまいたいが、無視するわけにもいかない。それに休んだお蔭で少しは楽になった気がする。
「これ、落としてたわよ。早く机の上のやつ全部片づけて、一緒にお弁当食べましょ」
「ああ、ありがとう。ごめん、ちょっと待っててね」
麻美が拾ってくれたシャーペンを筆箱に入れ、机の上にあったものを机の中に全てしまうと、テキストとノートが分厚すぎて机の容量いっぱいになってしまう。どこに苦情を言えばいいのか分からないが、この机の小ささは勉強が本業の高校生にとっては致命的だ。……といっても私はそこまで真面目に勉強をするほうじゃないが。
親にはそろそろ塾にでも通いなさいと口を酸っぱくして言われているが、テスト前に必死で徹夜するタイプの私が塾に行っても根気が長続きするとは思えない。
私は机の横にかけてあった鞄を取出し、机の中を整理して午後の授業に備える。
私と麻美はいつも学習机を向い合せてお弁当を広げる。つまりは三つ目のグループだ。彼女は前の席の女子に机を動かしていいか了承を得て、私の机とくっつける。
いつもは学校での時間の中で昼休みというこの瞬間だけを心待ちにしているといってもいいぐらいなのだが、今日の私の心は曇り空だ。鞄の中に入っていたこの二つの弁当箱はどうしよう。
学校に遅れてしまうかもしれないと急いでいたので、ラップをして冷蔵庫か冷凍庫に入れておくという簡単な考えにすら至らなかった。
一つは私がおいしく食べるとして、もう一個のお弁当はどうしよう。今の季節を考えると放課後までに腐る心配はほとんどないとは思うのだが、それでも心配だ。せめて保冷剤ぐらいは持って来ていればよかった。
「あれ、どうしたのそれ? もしかしてお弁当作りすぎちゃったの?」
「うーん。ちょっとね」
麻美は固まっている私を見かねたのかいつの間にか鞄を覗き込んでいた。そして二つの弁当箱を勝手にむんずと取り出す。
作りすぎた言い訳を考えつきそうになかったので、麻美には隠し通そうとしていたのだが、こうも簡単に見つかってしまうとは思わなかった。
いつも食堂か、売店で昼食を摂る黒葛くんの為に弁当を作ったのだけれど、どうしても受け取ってもらえなかった、なんていえる訳がない。
黒葛くんと一緒に暮らしていることは誰にも秘密で、麻美にすら言えないのは心苦しい。それは相談してしまいたいことではあるが、黒葛くんの態度から考えてもタブーだ。
もっとも、麻美に打ち明けたとしても普段の私達の交流のなさを見ている彼女は信じてはくれないだろうけれど。
「それじゃあさ、私にその弁当箱一個くれない? 詩織一人じゃ流石に食べきれないでしょ?」
「えっ、いいけど」
私は麻美の申し出をありがたく受けることにした。
私一人じゃ弁当二箱を平らげることなんて不可能だっただろうから正直助かった。それに食べられたとしても弁当箱二個も平らげてしまったら余計に私のぜい肉が増量してしまう。
だけど麻美ってそんなに食欲旺盛な人間だったかな。
私よりは食べていた気がするけど、それでもいつも持って来ている弁当箱の大きさは私と同じくらいでそこまで大差はなかった。
麻美はありがと、と私に礼を言うと、私の弁当箱を机に置き、麻美自身が持ってきた弁当箱をどこかに持っていく。今日はほかの場所食べるのか、それとも何か用事を思い出したのだろうか。
「はい、黒葛くん」
「どうしたんだ、それ?」
麻美は黒葛くんに弁当箱を突き出す。
私は何をしていいのか分からずに立っていただけだった。
「これはね、私が黒葛くんの為だけに作ったお弁当よ。良かったらさ、食べてくれない?」
え?
どうして?
「悪いが弁当なんていらない。俺は今から橋下と学食行く予定だしな」
「本当なの、橋下くん?」
麻美は落ち込みながら橋下くんを見やる。橋下くんは座っていた椅子を思いっきり引いて、勢いよく立ち上がる。
「おい、瀬川さんの手作り弁当を断るなんてどういう神経してるんだよ黒葛わ。瀬川さん、そんな奴に渡すぐらいならそのお弁当俺にください。うちの母親の手抜き弁当にはもう飽き飽きだ。どうして俺は毎日毎日お昼に昨日の夕食と同じオカズを食べないといけないんだ! 新手の拷問か?」
「んー、そうだなあ。橋下くんが私の為に土下座しながら頼み込んでくれたなら、このお弁当を橋下くんにあげることを考えてあげないでもないんだけどなあ」
本当に土下座しようとしてしゃがみ込む橋下くんを、水溜りを飛び越えるように麻美は飛び越える。
そして嫌がっているように見える黒葛くんに弁当を無理やり持たせる。
「もうっ、そんな顔しないでよ。まるで私が悪者みたいじゃない? そこまでして黒葛くんを困らせるつもりはないわよ。そんなに嫌なら食べてくれなくて結構よ」
いつの間にか麻美と黒葛くんにクラスの視線が集まってくる。二人ともクラスでは目立つほうだから仕方ないのかもしれない。黒葛くんはその視線に気がついたのか動揺していた。
「だから俺は――」
「だけどせっかくなんだからお弁当の中身見るだけ見てよ。これは私から黒葛くんに贈る初めての愛妻弁当なんだから」
「……ああ、わかった。これはありがたくいただいておく」
ある意味黒葛くん以上に頑固な麻美の性格を考慮したのか、彼は意外にあっさりと折れた。それとも自分の意見を聞かない麻美に、抵抗するのが徒労だと分かったのだろうか。
それにしても麻美は料理が苦手で家事など一切手伝わないと常日頃胸を張っていたような気がするけれど、今日だけは弁当を作ったのだろうか。
「おいおい、俺が口をはさめなかったことをいいことに勝手に進めてんじゃねぇ。黒葛、なんでお前がちゃっかりもらってんだよ。少しで、一口でもいいから俺にも分けてくれぇ!」
黒葛くんは、土下座状態から早くも復帰した橋下くんを宥めながらも、鼻水の出ている橋下くんを苛立ち気に避ける。
「汚いからその鼻水を引込めろ。食堂行くぞ。お前確か今日は弁当ないんだろ?」
えっ、と橋下くんは今自分の鼻腔から鼻水がはみ出ていることに驚く。ずずっとうどんを啜る音に似た音をさせながら鼻水を引っ込める。
「あるわけないだろ。お袋があんたに弁当作るぐらいなら、自分の睡眠時間を確保するほうがよっぽどいいって言われたんだよ! とうとう弁当作ることすら放棄したんだけど、うちの母親! このままじゃ餓死するんだけど! なあ黒葛、毎日俺の弁当を作ってくれないか?」
「その言葉だけを何も知らない人間が聞いたらいらぬ誤解を与えそうだから一生お前は俺に近づくなよ」
片方が言い寄っていて、もう片方が冷めているカップルのように歩く二人を見送っていると、麻美が私にウインクをしてくる。
「ほら、私達も食べましょ」
「……うん。あのさ、質問したいことがあるんだけど」
やばい、自分の思っていたよりも暗い声に焦る。私にはできるだけさり気なく麻美に訊いておかなきゃいけないことがあるんだ。
「いいわよ、私は詩織が訊きたいことはなんなりと答えるわよ。あっ、さっきのトップシークレット以外なら何でもって意味だけどね」
声のトーンをあげる。
「麻美ってさ、ご飯作ったりするの?」
「うーん、今日のお弁当はお母さんがおいしく作ってくれたわよ!」
「……いいの? 嘘ついちゃって」
私は黒葛くんにお弁当を渡すことができなかった。それなのに麻美は普通に渡せている。そんな彼女に私はきっと嫉妬しているせいで刺々しい言い方になる。
「いいのよ。嘘も方便っていうでしょ? ああでも言わないと黒葛くんだって受け取らなかったし、詩織のお弁当もどうしていいのか分からなかったんだし、あれで良かったのよ。それに、最近料理はするわ。お菓子作りにはまっているんだけど、今度は弁当に挑戦しようかしら」
ああいう風に私にも強引に黒葛くんに渡せるだけの勇気があればどれだけ楽なんだろう。だけど私の性格がそれを許さない。ひと前ではできるだけいい子であるように演じている私には。
別にクラスの人気者なんかになりたいわけでもないが、私は誰からも嫌われたくない。それはいじめの対象になりたくないだけの汚い自己防衛。
さすがに高校生になってまで誰かをいじめようだなんて幼稚な行いは、少なくとも私が見える範囲の中では認知していない。だけど私が小学生の時にはいじめに似たようなことをされた。
その時は黒葛くんが助けてくれた。いつだって黒葛くんは私の為に身体を張ってくれた。
黒葛くんと交流がなくなってからは人の意見に首を振ったことがなかった。そうやって相手の意見に反した行動をしなければ面倒な諍いに巻き込まれることもない。彼が私を守ってくれなくなり、麻美と出会うまでは私は一人きりだった。そのときに自分なりに学んだ処世術が自分の個性を消すということ。
その期間が長すぎて、自分のアイデンティティというものがどんなものであったのか、さっぱり憶えていない。
だから、麻美のように自由奔放に振る舞える人間を見ていると眩しく感じるときがある。
彼女のように少しでも自分の意見を言えるようになれば黒葛くんとも話せるようになるのだろうか。
「あっ、さっきのお弁当作ったの私じゃないってことは黒葛くんには内緒よ! だって、黒葛くんに私が平気で嘘をつくような人間だって勘違いされたくないから」
……麻美は少し、自分の心に正直過ぎるとは思うけれど。




