雛原詩織視点(4)
教室にはほとんどのクラスメイトが登校していた。
やっぱり朝ご飯を食べるのに時間がかかり過ぎたのと、麻美と喋りながら登校したせいで遅刻ぎりぎりの時間になってしまったのだろうか。
私は教室に掛けられていた時計に目をやる。
だけど、予想外にも時計が指し示す時刻は、私がいつも登校する時間よりはむしろ早いほうだったので私は首を傾げる。
どうしてこんなに人数がそろっているんだろう。
私の様子に気づいた麻美は、教室の中でも人口密度が異常に高い一角に指を指した。
「きっと、あれをやるためなんじゃないの?」
なるほど。
男子生徒達は死にもの狂いで、昨日出題された英語の宿題をやっていた。あんなに慌てる位なら事前にやっておけばいいのに、といつも私は疑問に思う。
私の高校の英語教諭は自分から率先して授業をやろうなんて殊勝な人じゃない。あの先生の英語の授業は毎回宿題の答え合わせで全てが終わるつまらないものだ。つまりは授業時間ずっと宿題の答え合わせができるように、大量の宿題が出されることになる。そうして、毎日宿題に手を付けない男子は、毎回のように悲痛な声を上げている。
最初の頃はまだ真面目にやっていたのだが、この時期になってくると学校の雰囲気にも慣れてしまったのか、最近はめっきり宿題をやらなくなってきている。
その男性陣の中で悠々と、余裕の表情をしているのは黒葛くんぐらいなもので見ていて悲惨だ。英語の担任教諭はそれら全てを見越して黒葛くんと女子生徒には黒板の前に立たせない。
その陰険さが更なる反感を買うことを助長していることに、あの教師は気が付いているのだろうか。 大人になると子どもの頃に何を考えていたのかもすっかり忘れてしまうらしい。
先生だって今の私達と同じように教師に腹を立てていた筈なのにミイラ取りがミイラだ。それとも、自分が受けた仕打ちと同じ仕打ちを生徒にすることによって自分のストレスを解消しようとしているのだろうか。
どちらにしろ救いがたい思考の持ち主だ。
「黒葛! 頼む。今回だけ! 今回だけでいいからっ、お前のテキストを写させてくれ! でないとまたあの先生に虐められちまうよ」
今にも土下座しそうな勢いで黒葛くんに助けを乞いている男子生徒は、橋下一樹くんだ。黒葛くんとは正反対の軽薄な性格なのに、なぜか二人が一緒にいるところをよく見る。
でこぼこな二人だからこそ、足りない部分を補っている関係なのかも知れない。それをいうなら私と麻美も全く違う価値観を持っているのに噛み合っている。
だったら私達もへこんでいる部分を埋め合う関係なのだろうか。
そうは思えないけれど。
私はでこぼこだらけの獣道で麻美はコンクリートのように完璧に舗装されている気がする。
でも、だからこそ私達は一緒にいれるのかも知れない。……それなら噛み合う筈がないか。
確かに完璧に見える麻美だけど、女子に嫌われているという事実がある以上何かしらの欠陥を抱えているのかも知れない。
それは、彼女の性格だろうか。でも、彼女の自然体ともいえる姿勢は私の憧れるところで、良いところでもある。それとも、別の何かがあるのだろうか。
宿題のリミットに追われている他の男子生徒も蜘蛛の糸に縋るような眼で黒葛くんを見る。
「お前のそのセリフ、毎日のように聞いている気がするが、俺の気のせいってことでいいのか?」
「頼むよ、な! 俺らの仲じゃないか! ちょっと写すぐらいいいだろ? お前が損することなんてなにもないんだからさ」
黒葛くんはしがみつきそうに被さってきた橋下くんを苦々しい表情でひらりと躱しながら、痛烈な言葉と汚いものを見るような視線で冷たく突き放す。
「ちょっと、ぐらいならな。お前らいつも俺のテキスト全部写すだろうが。写すなら写すで少しは頭を使ったらどうだ。解答を少し変えるぐらいの工夫ぐらいしろ、馬鹿かお前らは! それに損ならあるぞ。お前に何かしてやるたびに俺の寿命が一か月程縮まる」
「寿命が縮まるって、俺と相手するのにどれだけのストレスを抱えているのか図り知れねぇだろ。そんなに俺ってウザい? まあ、俺と関わっちゃって黒葛も大変だろうけれど、その言葉を投げかけられた俺のことも考えてください! そんなこと言われたら俺はこれから先どうやって生きていけばいいのか分からねぇだろ!」
黒葛くんの言っていることは正論で、橋下くん達のやっていることはあまり感心できない行為だ。けれどあれほど手痛く痛めつけられた橋下くんを見てしまうと彼に同情してしまう。
教室の時計にちらりと目を移すとそろそろホームルームのチャイムが鳴る時間が迫ってきている。
ホームルームが終わった後に十分間の猶予はあるが、その短時間ではあの宿題量とこの男子生徒の人数から逆算して到底間に合うとは思えない。
だからこそ今黒葛くんをなんとか説得しようと橋下くんはあんなにも必死なんだ。
「ああ、俺たちは馬鹿だよ、大馬鹿だよ! 黒葛とは違ってなっ! だけどなぁ、そんな俺らにだって譲れない一線が、プライドってもんがあるんだよ! あの糞教師が宿題をしない俺らを毎度毎度馬鹿にした笑いには俺らだって腹に据えかてんだ! だから、例え俺らの成績が悪かったって、宿題ぐらいはやるってことをあいつに見せつけてやりてぇんだよ!」
完全に逆切れだろうけれど、その言葉には得体の知れない力がこもっていた。
だけどこうして頼み込んでいる時間があればまだ自分自身で宿題を進めた方が効率的だ。それでも頼み込むのは自分で宿題をするよりは黒葛くんの宿題を写す方が楽だからだろうか、それとも今更後には退けないからだろうか。
橋下くんの言葉には頑強な芯が見え隠れしていた。鉛筆のように力を入れてしまえば簡単に折れてしまうようなものだが。
「だったら、自分の力でやれ! だからお前ら馬鹿にされんだろーがっ!」
本気で激昂する黒葛くんに、橋下くんが怯む。
周囲の人間はもっと引いている。黒葛くんのあまりの剣幕に教室が静まる。宿題を写そうと雁首をそろえていた男子生徒も、おしゃべりをしていた女子生徒も黙った。
それだけ黒葛くんの三白眼には迫力があって、教室の時間は止まったかのように誰も動かない。そんな誰もがこの事態をどう収拾しようか迷い、何もしようとしない他人任せの状況。雰囲気。
そこで、麻美だけは動いていた。
「もう、黒葛くん。ちょっとぐらいテキスト貸してあげてもいいじゃない。橋下くん達が困っているのは本当みたいなんだし」
「……瀬川。こいつらを甘やかすと後々ロクなことにならないぞ」
一見、橋下くんに助け舟を出したように思えるこの麻美の言動はきっと、黒葛くんを助けるためだ。 もしもあのまま麻美が何もしていなかったら黒葛くんの周囲の評価は最悪になっていただろう。
こんな最悪の事態をたったの一言でひっくり返すことができるのはきっと彼女だけだ。私は何もすることができなかった。いや、ほかの人たちと同様でしようともしなかった。私には何もできないから、やろうとしてもきっと悪い方向にしか進まないとから何もしない方がマシだって思った。
でもそれは黒葛くんと真正面から接する勇気がないだけのただのいい訳にしかならないんだ。
でも、一つだけ自分に言い訳させてもらえるなら、あれだけ黒葛くんに拒絶されたら、他人から鈍いと揶揄されている私だって心が傷つく。これ以上私に頑張れというのは酷じゃないのだろうか。
黒葛くんの席に近づいていった麻美に、橋下くんが狼のように迫る。
「ありがとう、瀬川。ああ、そうだよな。俺達も本気で困ってんだよ。それなのに黒葛くんは我が儘ばっかり言いやがってよぉ……相変わらずケチだなあ。よし、瀬川、もっとこの分からず屋に言ってやってくれ」
「ほらな。中途半端な優しさを振りまくと、調子に乗った変態にセクハラされることになっただろ。悪いことは言わないからそいつに関わるのだけは止めとけ。俺みたいに後悔することになるぞ」
麻美の両手を強く握りしめている橋下くんを黒葛くんは睥睨しながら揶揄する。麻美は橋下くんの手をゆっくり外すと、黒葛くんにさらに接近する。
「いいわよこのくらい。有名税の一種だと思うことにするわ。それに私、こういったことには慣れているつもりよ」
橋下くんのことはまるで眼中に入っていないかのように麻美は黒葛くんにウインクする。黒葛くんも橋下くんが何か言おうとして口を開きかけたが完全に無視していた。
「有名?」
「ほら、私って結構美人で有名でしょ?」
抜け抜けと言い放つ麻美に、黒葛くんは一瞬きょとんとした後苦笑する。そうなったことによって、教室の空気も緩和する。
凄いな、麻美は。
私は文字通り何も出来ずに立ちすくす。
周りから批難されるかも知れないギリギリな台詞だと思うのに、あれだけの大胆発言を言えるのはきっと麻美の長所で、他の人間には決して真似できないことだ。
でも、その凄さが理解できない人間、いや心の底では分かっているからこそ、やっかみを入れてくる人間は少なくない。どうして素直に彼女の凄さを認めることができないんだろうなあって思う。
やっぱり光あるところに影ができるように、麻美を貶しようと少しでも足にしがみ付いていないと気が済まない人間がいてしまうということは宿命なのだろうか。
私は意図的に麻美の足を引っ張ってやろうだなんて考えたことはない。
ただ麻美という人間を尊敬している。
それだけのはずだ。
私が羨望の眼差しを送っていると、麻美は黒葛くんに耳元で何かを囁いた。その時、私と黒葛くんは一瞬眼が合った気がするが、どちらかとは言わずに目を逸らした。
麻美に何を言われたのかは分からないけれど、黒葛くんは分かったよ、と私がぎりぎり聞き取れた小さな声で呟くと、橋下くんに向き直る。
分かったと言った時に舌打ちのような音が聞こえたような気がした。
「ほら、もう時間ないからさっさと写せよ」
机の中から英語のテキストを取り出して渡すと、橋下くん達は歓喜の声を上げた。ありがとう、瀬川。困ったときの瀬川さん。やっぱり好きだ、瀬川麻美。黒葛を制御できるのは瀬川だけ。
「おい! 俺に感謝しろ! 俺に!」
怒号を撒き散らす黒葛くんだが、その表情は柔らかい。その程度は黒葛くんの許容範囲だと踏んだのか、橋下くん達は英語のテキストを取り戻そうとする黒葛くんをからかいながら、背を向け逃げ出す。
私は麻美が黒葛くんにどんな説得方法を試したのか気になった。クラスメイトである男子達の塊を避けながらなんとか麻美に辿り着く。
「麻美、さっき黒葛くんになんて言ったの?」
「うーん、大したことじゃないわよ。私はただ黒葛くんの弱点をついただけ」
「弱点?」
「いくら詩織だからだって教えてあげられないわよ。こういうのはね、自分で見つけるからこそ楽しいんだから」
黒葛くんに弱点なんてあっただろうか。私が見ている限りどんなことも卒なくこなしているように見える。
敢えて短所を挙げるとしたら少し怒りっぽいところだ。そんなこと本人に指摘してしまったらさらに怒ってしまうだろうけれど。
「なーに? どうしたのよ?」
無意識に笑っていた私に、麻美は自席に着きながら私に質問を投げかけてくる。
言ってしまいたいのは山々だがここで言ってしまうと黒葛くんの耳にも入ってしまいそうだから遠慮しておきたい。仮説だろうがなんだろうが、今黒葛くんを刺激してしまったら、それこそ火に油を注ぐ結果になりかねない。
「教えてあげない。こういうのは自分で見つけるからこそ面白いんだよ」
私はおどけた調子で麻美に言われたことをそのまま返す。
「……もう。そうね、だったら交換条件でどう? 私は黒葛くんの弱点は何かっていうことを詩織に教えてあげるわ。代わりに詩織はさっきなんで笑っていたかの理由を私に教えて。勿論、先に言わなきゃいけないのは詩織よ。なんたってこっちは秘中の秘。黒葛くんの、ううん、私のトップシークレットなんだから」
「えっ……」
麻美の破格の提案には内心かなり揺らいだ。私の笑った理由なんて些末なことだ。それと引き換えに黒葛くんの弱点を知れるなら言うことはない。せめてこの場所を変えれば麻美に話せる。絶対に黒葛くんに言わないという条件なら私も気兼ねなく言うことができる。
「おい、瀬川。余計なこと吹き込むなよ」
黒葛くんが小声ながらも、ドスの利いた声で麻美を牽制する。
他の人間ならば少なからず引いてしまうだろうが、麻美は全く意に介さなかった。代わりに満面の笑顔を返す。
心臓に毛が生えているとはこういうことを言うのだろう。少なくとも私には麻美ほどの度胸は持ち合わせていない。
「ごめんね、黒葛くん。詩織がどうしても訊きたいって言うから仕方なく……」
「ちょぉっと――」
私が口を出す前に、麻美は手でそれを止める。つんのめった文句は私の胸の中で暴れるが、もう一度吐き出そうとする前に麻美に先を越される。
「詩織もごめんね、さっき言っていたあれは全部嘘だから。黒葛くんの弱点なんて知らないし、私が知っていたとしても詩織には教えません。ね、これでいいでしょ? 黒葛くん」
最後は黒葛くんに向き直って平謝りする。
黒葛くんは溜め息をつきながら麻美の席の隣に、つまりは自分の席に着く。
いいな、私なんて机五個分黒葛君と離れている。
でも、黒葛くんと近くの席になっても仲良くなれる気がしないし、グループ学習の時に気まずい思いをするだけだからかえってよかったのかもしれない。
麻美は黒葛くんとそれは楽しそうにお喋りモードに入ってしまった。居場所のなくなった私は自分の席に座る。
ホームルームが始めるまで暇だなと思い、私は教科書を開き予習をし始める。といってもやっているふりだけで、英語の文章は全く頭に入ってきていない。
麻美がいないと私は途端にやることがなくなってしまう。私も黒葛と同じようにクラスメイトとは必要な会話しか交わさない。
だって、たくさんの人間と浅い関係を築くよりは、特定の人間と深い関係を結ぶ方がいいと思うから。
高校を卒業してからも関係が続く、そんな人間関係こそが本物だと思う。
だから私はこれでいいんだ……って思い込もうとしたけど失敗した。
そんなのは人間関係をうまく築けない人間の負け惜しみだ。
だけど今の私に何ができるかなんてわからない。ほんとうに何がしたいのかわからない。
わかりたくもない。