××××視点(4)
うっ。
脳裏によぎったのは、抹消したい過去。
催した吐き気に、慌てて私は口を両手で押さえる。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。
もう私に誰も関わらないで欲しい。
特に男が、私の身体に指一本でも触れようものなら、絶叫しながら地面を転がりそうだ。
「気分悪いのか?」
男の再びの問いかけに、私はちょっとだけ首を振り黙殺していると、また男が声をかけてくる。
「お腹減ったのか?」
うるさい。
私はいちいち相手するのも面倒くさくなって、そのまま何のモーションも起こさずに、ずっと下を向いていた。
何分ぐらい経っただろうか。
男は吐息を漏らしながら、去っていった。
私は再び立ち上がり、歩道橋に手をかけた。
酸化してボロボロになった手すりは冷たかった。
死んだら私の身体もこのぐらい冷たくなってしまうのだろうか。
そして、死体になった私には葬式が開かれる。
ほとんど話したこともないようなクラスメイト達がこぞって集まってくるだろう。男たちは近況報告を笑いながら大声でやりあうだろう。女のほうは葬式会場から白々しくも泣いているだろう。
――くだらない。
葬式にも色々種類があるが、あの子は死んで楽になった。これで神様に祝福された世界にいくことができる。……だとか、生まれ変わってまた新しい身体で彼女は生きていくのですだとか、死を肯定するような葬式だけは悪寒がする。
それが本当だったら、全ての人間は自ら命を絶とうとするだろう。
人間は罪を犯してしまったのだから、生きることこそが、十字架を背負うことと同義。
そんなことを、私は絶対に信じることなんてできない。
人は自分の意志で生まれてきたわけじゃない。
両親が汚らしい行為をやったせいで、望まないのに私はこうやってこの世に生を授かってしまったのだ。
それを事実だと認めない葬式を、私は認めない。
誰もが生まれながらに罪を背負っているわけじゃない。生まれたくて生まれたわけじゃない。私がこうであると、勝手に決めつけないでほしい。
葬式で取り仕切る人間が言っている「生きることが罪だ」ということが真実ならば、なんで人は人を産むのだろうか。
「……なにを?」
なにを考えているだろう? 私。
人は死ぬ直前になったら誰もが哲学者や詩人になってしまうという話を聞いたことがあるが、それを聞いた時、私はとんだお笑い草だと一蹴していた。
だけど、今の私はなんだ。
今すぐここから飛び降りて死ねばいいのに、生きていく理由なんて否定したはずなのに、どうしてだか私は生を肯定している。
そう、私は。
生きたい。
こんなにも生を渇望したのは初めてだ。
私は崩れ落ちる。
慟哭は孤独感を加速させる。
私は普段生きていることを自覚しながら、生きていなかった。
だから、自分の人生を粗末に扱うことができた。
だけど、やり直したい。
やり直すことができるのなら、私は心から信じられる親友が欲しい。それから私の全てを懸けてもいいと思えるような恋人が欲しい。
「おこがましいにも……ほどがあるか……」
ぐちゃぐちゃな思考は、自分でも頭がオカシくなったことを証左していることはわかる。
気がふれるとは、こういうことを言うのだろうか。
カン、カン、カン。
歩道橋の階段を渡ってくる音が、次第に近づいてくる。
私ははっとし、そして涙を隠すのをやめた。
どうせ上ってくる人間は私のことを放っておいていってしまうだろう。
私は橋の金属部分を触る。
夜の街に、悠然たる面持ちで立っているビル達を眺める。
足音は私の後ろで止まる。
私はそのとき、どんな顔をしていのか自分では分からない。
だけど、すぐさま私は振り返った。
「どうしたの、忘れ物でもした?」
冷気に晒され、氷のように冷たく私の頬を伝っていた私の涙は、いまではもう気にならない。
見覚えのある色褪せたジーパンと靴。
それとボサボサで、手入れせずに適当に切り揃えられた髪。
鋭い双眸の奥には強い意志が渦巻いている。
ほら、とビニール袋の中からなにやら取り出す。
「おでん。いまコンビニで安いから。ちゃんと割り箸は二個もらってきたからお前も食べろ。あと、からしはつける派? つけない派? 俺はつけたいんだけど、ダシの中にいれても大丈夫か?」
男は歩道橋にどかっと座り、長時間そこに居座り続ける態勢。
男がプラスチックの容器を開けると、おでんの美味そうな匂いが鼻腔をくすぐり、湯気が立ち込める。
私は顔をそらす。
「いらない」
「お腹へってないのか?」
「へってない」
「死にたいのか?」
「ッ…………」
私は思わず言葉に詰まる。
唇をかみしめながら、男を見やると真っ直ぐな視線。
その瞳に濁りはなかった。
……恨めしいぐらいに。
「図星か。そうだと思った」
「……そんなの、私の勝手でしょ。死なせてよ」
死にたくなんてない。
「断る」
「私のことは放っておいてよ」
構って欲しい。
「断る」
「あんたはいったい何がしたいの?」
私を助けて欲しい。
「俺は……ただ泣いている女が苦手で、それからお前を助けたいだけだ」
瞬間。
わっと私は両手に顔をうずめる。
恥も外聞もない。
ただ私は歓喜の涙を垂れ流す。
悔しいな……もう。
たとえその言葉が私を騙すためのものであったとしても、私が一番他人に言って欲しかったその言葉を言ってもらえたなら、私はあなたを無条件で信じる。
「おでん冷めるから早く食べるぞ」
「…………」
何か言おうと口を開いても、まずは嗚咽が先に出てくるので私は何も言えなかった。
男は自分の言葉が無神経だと思ったのか狼狽して、今までで一番の真剣な口調になって話し出した。
悪いとは思いながらも、必死で背伸びをする男の子のようで、どこかおかしかった。
「その、なんだ。俺も死にたいって思ったことがあるんだ。大切な人間に裏切られて、それで好きな人とももう会えないかもしれなくなった。お前の気持ちがわかるなんて、無責任なことはお前に言えない。だけど、お互いに愚痴りあおう。そしたらきっと……ほんの少しだけ身体が軽くなる気がするから」
まだ瞳からは止めどなく涙が溢れてくる。
私は半ば諦め、手の甲で涙を拭きながら、彼と視線を合わせる。
立ったままじゃなくて、私と対等の立場でいようと座ってくれた彼を射抜く。
「名前は?」
「え?」
「あなたの名前よ」
私は今すぐ死のう。
いや、正確にいうとここにいた意気地なしだった過去の私を今の私が殺そう。
――今日ここで私は新しい自分に生まれ変わる。
私にとって運命の相手と思える人間に会えたんだ。そんな凄い奇跡が起きたなら、これからもっと凄いことが起きるかも知れない。
歩き始めよう、私の新しい人生を。