黒葛陸視点(10)
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俺の父親は、目に見えてやつれていった。
……あたりまえだ。
自分の親友と、自分の愛していた人間、同時に裏切られてしまったから。
口数は少なくなり、土日は自室で塞ぎ込むことも少なくなかった。棒のように、がりがりになっていく父親を見ながら、俺は何もしてあげることもできなかった。
父親をあんな姿にしてしまったのは俺のせいだ。
もしも俺の母親――今となっては、もうあんなやつ母親だとは思いたくないが――と、詩織のおじさんが不倫していることを、俺が明るみにしなければ、こんなことにはならなかった。
俺と詩織が、この件について黙秘していれば、誰もが幸せでいられたのかも知れない。
だけど、あのまま詩織を放っておくわけにもいかなかった。
あのまま何もしていなかったら、きっと詩織は、ストレスで心がパンクしてしまっていただろう。
俺も詩織も、あの時はお互い子どもだったってことだ。
……正しいことを突きつけることが、全ていい結果になるとは限らない。
時には我慢しないといけないこともある。
言いたいこと。
やりたいこと。
自分を押し殺すからこそ、それは他人の為になるんだ。
詩織のおばさんも、俺の父親と同様にかなりまいっているようだったが、おばさんのほうがまだ立ち直りが早かった。
たまに父親の様子を見にくるがてらに、料理を振る舞ってくれた。非常に助かった。俺は料理なんて作ったことなんてなかったし、俺の父親もどっこいどっこいだった。
それに父親は食欲と料理を作る気力がなく、いつも俺にお金を渡して自分は何も食べないのだ。
だけど、詩織のおばさんが作ってくれた料理だけは、作ってくれたおばさんに対する義理なのか、それとも大学時代から続いている友情なのかは、判明しないがほんの少しだが手を付けてくれる。
それに俺も、食い飽きたコンビニ弁当からも解放されるから一石二鳥だ。
胃袋だけじゃなく、精神的にもかなり助かった。
父親が落ち込んでいるせいで、俺は悲しみに暮れるタイミングを逃し、それが内側で積もっていった。
しんしんと、雪が降り積もるようにゆっくりと浸食していった。
だけど、詩織のおばさんが来てくれたお蔭で、少しは気が楽になった。同じ境遇の人間が傍にいるだけで、こんなにも 安堵できるなんて知らなかった。
父親と詩織のおばさんは度々会っているのは、隠しきれていなかった。どう誤魔化そうとしても、二人が密会したと思われる日は父親の顔色がいいし、口数も増える。増えたといっても、「ああ」とか、「いいや」が、「分かった、それでいい」とか、「それじゃない、これだ」に変わったぐらいだったが、それでもマシなほうだ。
話し相手のいなくなった俺は、口数が減っていき昔のような快活さは影をひそめた。
そして、俺と詩織の関係はどうなったかというと、何もない。不倫現場を押さえたあの時から、会ってすらいない。
詩織はどうしていますか、と詩織のおばさんに訊いても、瞳に涙を溜めながら「あの子は大丈夫よ」と言うだけで、それ以上は口を固く閉ざしていた。
詩織のことが心配だ。
会わなければいけない。
あいつが本当に大丈夫なのか確かめなければいけない。
そう思っていた。
だけど、どうしても、自分から確かめる勇気がなかった。
もしも責められてしまったらどうしようとか、やつれている詩織を見て、事の重大さを再確認して、せっかくカサブタができて、治りそうな心の傷をまた開きたくなかった。
何もしないまま幾何の時が流れた。
そんなあるとき、神妙な顔をした父親に、お前に大事な話があると言い出した。
その時の父親は貫禄があって、夜逃げ騒動からは、かなり立ち直っていた。俺と普通に会話できるぐらいには回復していて、仕事も軌道に乗ったおかげで、暮らしも大分楽になっていた。
……親子ともども、料理だけは上達しなかったが。
「陸、高校生活は楽しいか?」
「……普通だけど」
「その、なんだ、友達はいるのか?」
「まあ、いるよ。面倒くさいけどそれなりに話している。それよりなんだよ。言いたいことあればさっさと言えば?」
重要な話になればなるほど、父親は言い回しがやっかいになる。本人に言わせれば、「物事には順序というものがある」 と言い訳しているが、どう考えても必要ないものだ。
俺の家には、リビングルームというものが存在しない。ダイニングルームと兼用だ。だから俺達はいつも、食事するところで向かい合っていた。
父親はふんぞり返り、瞼を瞑った。
「お前、新しい母親ができても構わないか?」
「はあ?」
「……だから母親だ。あいつ――お前の本当の母親は、どこかに行ってしまった。連絡が取れないばかりか、帰ってくる気配もない。離婚届を書いてもらっていなから、その人と結婚するというわけにもいかない。だが、お互い二人で話し合った。……一緒に暮らさないかと、お互い支え合って生きていこうと。ずいぶん勝手かもしれんが、あっちの方ではもう、話がついている。……あとはお前の返答次第だ。嫌なら嫌だと言っても構わん」
俺に何を言われても堪えられるように、受け止められるように、父親は腕を組みながら、口を引き締める。
「……それは本当の話なのか?」
「ああ、本当だ。それにこれは重要なこと。今返事しろとは言わない。だが――」
「なんだ、良かったな。俺はてっきり一生親父にはいい人ができないかって心配してたんだ」
父親がこんなにも照れくさそうにしているのは、初めて見た。いい人なんだな、その人。
「そうか、だったら……」
「ああ、いいよ。良かったな、親父みたいな何もできなくて、しかも嫁さんに逃げられた男を好きになってくれる物好きなんて……そうはいないだろ」
「ばっ――いや……。そうか、ありがとう陸」
本当は嫌だった。
あんなことが起きてから俺は他人を信じたくはなかった。
誰だってそうだろう。一番信頼している家族に裏切られてしまったら、もう何も、誰も信じられない。
それなのに、父親はもう一度誰かに、自分を委ねようと考えるようになった。それを止めることなんて、誰にできる。
ここで俺が断ってしまったら、父親はまたやつれかねない。いきなり赤の他人と同居するなんて……。
「なあ、それで相手は? 会社の同僚?」
「雛原さんだ。お前もよく知っている」
「雛原……って、あの雛原?」
「ああ、お前もあの人に懐いてくれているみたいだし、ほらあそこの詩織ちゃんとも、仲良かっただろう。年齢は一緒だが、誕生日はお前の方が早いから、お前が義理のお兄さんだな。しっかり面倒みなさい」
すっかり安心しきっている父親に、もう詩織と仲が良かったのは昔の話だと、俺は言うことができなかった。
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