雛原詩織視点(20)
公園に生えている草、地面には霜が張っている。足を乗せると、独特の感触が足を伝わってくる。商品を発送する時に付いてくる、衝撃を緩和するプチプチを潰していく感覚に似ている。ひとしきりそれで遊んでいたが、今は公園のベンチに座っている。
いつの間にか、本格的な冬の足音が聞こえる。この公園で、黒葛くんと遊んでいた頃がまるで昨日のことのようだ。もしかしたら、私が死ぬ前にも同じことを思うのだろうか。今までの人生はあっという間だったなあと。そう考えると何だか怖かった。
霜を潰す靴音がしたので、顔を上げると麻美がゆっくり歩いて来ていた。
「体調は大丈夫、詩織?」
「うん、ぜんぜん大丈夫だよ」
「そっか……大丈夫なんだ。待った?」
一瞬、麻美の顔が曇った。何か心配事でもあるのだろうか。
「うーん、正直言って少しだけ待ったかな。でも、その分、頭冷やせたからよかったかも知れない」
学校にいる時は憂鬱な気分だったけれど、待っている間に学校のことを考えるとやっぱり楽しかった。
朝登校すると、相変わらず麻美にハグをされて、そして私は息を切らして追いかけた。教室では今日も、橋下くんが一人漫才を披露して、クラスから失笑が生まれていた。
黒葛くんとも、少しずつだけれど学校や家で話すようになってきて、これから学校に行くのが楽しみになってきた。
「ねえ、詩織、この前の日曜日さ、何してたの?」
麻美は棒立ち。ベンチに座っている私を見下ろしている。私だけが座ったままで話していると、なんだか落ち着かない。
「え? 特に何も。それより麻美、ベンチに座ったほうがいいじゃないの?」
「日曜日はなにしていたの?」
取りつく島がない。しょうがない。あんまり麻美に心配をかけたくなかったのだけど、なぜか麻美が怒っているようにも見えるので言うしかない。
「土日かけて風邪がまたぶり返しちゃって、家で寝てたんだよ。どうせ風邪引くんだったら、平日にして欲しいよね。それだったら、学校を合法的に休めるんだから。……でも、もう心配しなくて大丈夫だよ。もう大分よくなってきたから」
治りかけだっていうのは嘘だったけれど、気の回る麻美のことだ。もしかして、私を公園で長々と待たせてしまったせいで、風邪を悪化させたとうい発想に至ってもおかしくはない。
確かに、麻美を待っている間に体温が上がった気がする。だけど、それを武器に麻美を責めるのは酷だ。
麻美にだって、なにか重要な用事があって私を待たせたのだろうし、一言目に私の体調を訊いてきた。
だから――。
「――くな」
ポツリと、その呟きは私の思考を裂いた。まるでノイズのように、私の脳内を掻き毟った気がした。
どうしてだろう。それは私の親友である麻美の言葉なはずなのに、それなのに。
背筋に寒気がするのも、風邪を引いてしまっているからだ。そうに決まっている。
「え? ごめん麻美、聞こえなかった。もう一度言ってくれる?」
「う――もの」
「え?」
「裏切り者!」
公園に響き渡るような麻美の大音声。麻美の美貌は歪められ、私をまるでゴミを見るような目で、睥睨している。
私の毛穴が、ぶわぁーと腕から全身にかけて一気に開いていく。全身に、電流がはしったかのように動けない。
怖い。こんな麻美初めてだ。
歯を噛み合わせようとするが、上手くいかない。ガチガチと何度も歯の音を鳴らす。気圧されているのは身体だけでなく、心も。
どうしてこんなに、麻美が憤っているのか見当もつかない。唇がカサカサになっていると思ったら、咽喉にも水分が足りない。弁解しようと口を開くが、上手く声が出ない。
元気がないな、程度ではない。ほとんど消え入るような声で、自分の鼓膜を振るわすので、精いっぱいだった。
ミイラのように干からびた咽喉を潤すために、無理やり唾を飲み込む。
「……裏切りものって、どういうことなの? 麻美。私は何も麻美にしていないよ。それどころか、麻美のことを一番に考えているよ」
何をやっても人並み以下な私を、誰かが好きになってくれるはずはない。黒葛くんとだってずっと疎遠だった。嫌われた。だけど、だけど、麻美だけは、出会った時からずっと傍にいてくれた。
だから、いつだってそのことに感謝してきたつもりだ。麻美の為に我慢してきたことだってたくさんある。言いたいことがあっても、彼女を傷つけない為に。
麻美は私に詰め寄ると、手を振りかぶる。
視界がぐるりと変わる。麻美が真ん中にいたはずなのに、視界の端にいる。急に頬に痛みを感じる。
それから数秒。
私はようやく、麻美に頬をはたかれたのだと実感する。
麻美に向き直り、その理不尽さを訴えようと立ち上がろうとするが、肩を両手で抑えられる。
「ふざけないでよ! いつまでそうやって白を切るつもり? ばれなきゃ、私に嘘をついてもいいって思ったの? いい加減にしてよ! 私が何も知らないとでも思っているの! ねえ、詩織私達って親友なんだよね!?」
麻美の尋常でない剣幕に、泣きそうになる。なんで私が、こんなに自責の念に駆られないの。
「そう……だよ。そうでしょ! 私達って親友でしょ! どうしたの、麻美? そうだよ! なんで、そんな……」
顔を横に激しく振りながら、言ったその言葉は、なぜか白々しい。
すぐに虚空に消えていった。
彼女は、私の言葉を鼻で笑って一蹴した。
「親友? 笑わせないでよね。大体あんたのこと私、最初から大っ――嫌いだったのよね。いつでもどこでも私の後ろばっかりついてきて、私の意見を聞いて来るだけで、自分の意思はない。まるで忠犬ね。そしてそれが、当たり前のことだって思っている。はあ? 気持ち悪いわよ、あんた。大体ね、あんたみたいなクズが、クラスで孤立しないのは私のお蔭なのよ。だったらなんで、飼い主に噛みつくような真似をしたの?」
目がちかちかする。目の前にいる人間が、麻美だと信じたくはなかった。汚いものを吐き出すかのようないい口と、ギラギラ真剣な眼差し。本心で言っているとしか思えない。
信じたくない。耳を塞ぎたいけど、体が震えて動かない。どうして、なんで。こんなことになったの。私は何を間違えたの?
今まで光り輝いていたものが、全てモノクロになっていく。麻美と一緒に過ごしてきた日々、交し合ってきた言葉、私が麻美に対して抱いた気持ち。その全てが作り物だったかのようだ。
麻美を見上げながら、拳を握る。
「麻美、何言ってるの? 私、麻美が何を言っているのか全然分からないよ!?」
「あんた、私のことをちゃんと、親友だって思い込んでたんでしょ? なら、なんでこの私に嘘ついたの? 私信じてたんだよ。あんたはほんっ――とに使えない人間だってことは最初から分かってたけど、私の言うとおりに動いてくれるって。だけど、どこの誰が、黒葛くんと一緒にいてもいいって、許可したの? なんで日曜日にあんた達一緒にいたの? ふざけないでよ!」
肩を抑え込んでいる力が、時間の経過と共に威力が増していく。
痛い。叫びたいくらい痛いけれど、振りほどこうとしても、麻美の眼光はそれを許さなかった。
「それは、黒葛くんとたまたま会ったからだよ。それで、たまたま二人ともおつかい頼まれたから、だったら一緒に買おうかってことになったの。行く予定だった、スーパーも一緒だったから……」
麻美は何かを諦めたかのように、私の肩を抑え込んでいた手を放す。そして、何かに取り憑かれたかのように、地面をじぃと睨み付けながら淡々と話し始めた。
「私、用事があって、たまたま詩織の家に近くまで行ったんだ。いつも私達って、家の前で別れて家に入ったことないよね。だから、詩織を驚かせようと思って、サプライズをやってあげようって、連絡を入れずに家に突入しようと思ったの。そしたら、詩織と黒葛くんが二人仲良く歩いてくるから、私思わず目を疑ったわ」
「麻美、待って。私達は――」
「いいから、全部聞きなさいよっ!」
顔を上げた麻美の顔は、なにがおかしいのか笑っていた。それでも瞳の色だけは憎しみに満ち満ちていて、それで狂ったように笑っているから、余計に怖かった。
「……話しかけようと思ったんだよ。どうして二人して一緒にいるの? どうしてそんなに楽しそうなの? 二人とももしかして恋人同士なのって? 冗談っぽく。……だけど、私が駆け寄ろうとしたら二人して、同じ家に入っていくじゃない。ねぇ、二人ってどういう関係なの? どうして私にそれを話してくれなかったの?」
見られた。よりによって、一番見られたくない場面を、一番見られたくなに人間に。
「そ、それは、」
「……詩織」
小さいけど、その声は脳に響き渡る。そして麻美は、なにかを吹っ切たかのように、能面。
私は茫然と彼女の言葉を待ち続けることしかできなかった。
「あんた私が黒葛くんのことを相談する時からなんかおかしかったわよね。私のお願いを渋るなんて、いつもの詩織らしくないって思ってたのよ。ねえ、愉しかった? 滑稽だった? それとも憐れんでくれた? 私が相談している時に、こいつ何言ってるんだって、どのくらい内心笑っていたの? それを教えてくれない?」
麻美が壊れていく。私が壊れていく。
「何いってるの? 麻美。私は――」
「ねえ、どう思っていたかって、聞いてるのよっ! 答えなさいよっ!」
また麻美は豹変し、私の首を絞める勢いで責め立ててきた。
たとえ、どんなに私の本心である言葉を言っても、今の麻美には届かない。だったら、全部最初から説明するしかない。
私は勇気を振り絞って全てを告白する。
「――ちゃんなの」
え? という麻美の言葉が遠く感じる。
「黒葛くんは、私のお義兄ちゃんなの!」