雛原詩織視点(17)
「そうやって昔から詩織ちゃんは言いたいことを我慢してばっかりね。だから、陸くんとあんたはお互いにすれ違っているんだ。分かってる?」
「……それは」
ここまで苦しんでいるそもそもの原因。それは麻美に、私の黒葛くんに長年抱いていた気持ちをカミングアウトしていなかったせいだ。そのせいで私は、麻美をなし崩し的に応援する立場になってしまった。
あの時、麻美の腕を振り切って、彼女の前で私の本心をしっかり伝えていたら、今こんなに苦しまなくて済んだ。
悔しいいけど、お母さんの言うとおりかもしれない。
言いよどむ私を見やり、母親はここぞとばかりに責め立てる。
「いいか、言いたいことがあれば、黙って内に溜め込むんじゃなくて、はっきり言いたい奴に向かって口で言え。……喋らなくても自分の気持ちは伝わる。だって相手は昔からの仲だから。なーんて、ものは自分勝手な意見でしかないんだよ」
母親の言いぐさにカチンとくる。
そっちがそのつもりだったら、私にも言いたいことが、言えなかったことで溜まっていた鬱憤は、たくさんある。
「分かっていないのは、お母さんの方だよ。だって、お粥のことだって……」
「お粥? なんのこと」
母親は訝しげに首をかしげている。私は早口で、溜まっていたものを吐き出す。
「だからね、私がお昼に眠っていたときに黒葛くんがお粥を持ってきてくれたんだけど、それが凄く熱かったの。私が猫舌だって、黒葛くんは知っているはずなのに!」
私の言葉に一瞬きょとんとした母親だったが、声を上げて笑い出す。
「あっ、いけね。あいつら起きちゃうよ」
母親は口を手で押さえる。
だから話したくなかったのに、と私は肩を落とす。子どもっぽいって笑われることは分かっていたけど、やっぱり気に障った。
なんでもないことかもしれない。それでも傷ついたのは、私のことを忘れてしまっていたのが、他の誰でもない黒葛くんだったから。それに、私が猫舌だったってことじゃなくて、他にも色々なことを黒葛くんは忘れてしまっている。
母親は少し困惑しながらも、私の問いに対する自分なりの答えをいった。
「それはあれ、あれじゃないの。多分。あんたが起き上がってくるまで、何度も何度もお粥を温めてたからでしょ。それで、いつまで経ってもあんたが起きてこないから、冷めてもいいように、かなり温めたやつを持っていったら、あんたがそのタイミングで起きちゃった。それだけのことでしょ?」
それは……そうかもしれないけど、
「もしも、それがお母さんの言うとおりだったとしても、黒葛くんはすぐに私の部屋から出て行ったんだよ。それってやっぱり、私たちって仲良くないっていうか、」
黒葛くんが私は避けているとしか考えられない。
だけどその事実を受け止めるのは憚れる。
興奮しながら話しているせいか、額の熱がぶり返してきてフラフラする。
「そんなの、考えらえることは二つだけよ」
母親は机に肘を立てながら、滔々と語りだす。
「一つは、あんたの風邪がうつるのが嫌だった。でもまあ、公園からあんたを担いできたあの子にしては考えにくい回答ね。それじゃあ、もう一つの回答。こっちが私は本命だと思う」
母親は人差し指を私の眼前で振りながら、自信ありげに顔をゆがめる。
「もう一つはね、あんたを寝かせるためよ」
「……なにそれ? そんなの、私に一言言えばいいのに。もう寝ていいよとか、何かしら言い方があるでしょ。そんなのありえないよ」
「まあそこは、男のくだらないプライドってやつでしょ。それがカッコいいと思ってんのよ、男ってやつは。それに多分、詩織ちゃんに負い目を感じて欲しくなかったんじゃないのかな……。まっ、言いたいことを我慢しているのはあんたも陸くんと同じようなもんでしょ。こういう考えでいくと、あんた達って似た者同士ね」
母親はぐいっと紅茶を飲み干す。
シチューを食べ終わったから、これで相手の目を見て真剣に話し合える。
「負い目って、一体なんのこと?」
「私にも分からないわよ、そんなこと。だからこっからは完全に予想になるけど、あんたがプチ家出したワケって、どうせ陸くんが絡んでいるんでしょ?」
「……なんで?」
そのことが分かったんだろう、お母さん。
私の表情を見て得心いったのかやっぱりね、と母親は納得気に頷く。
「だから陸くんはあれだけ必死になって、あんたを探したんでしょ。全部自分のせいだって思い込んで……。あの時の陸くんの顔、あんたにも見せてやりたかった。凄い必死だったんだから」
「……そんな」
私は何をやっていたんだろう。
ただ私は黒葛くんが少しでも心配してくれればいいやって、自分のことしか考えていなかった。
だけど反対に、彼は私のことを考えていてくれたんだ。
私は彼の言葉をそのまま鵜呑みして、嘘だということも気がついてあげられずに、私は彼を責めてしまった。それは……彼が望んだことなんだろうけれど、それでもやっぱり、傷ついたはずなんだ。
どうして私はあの時、ちゃんと黒葛くんの話を聞いてあげられなかったんだろう。もっと問いただしていれば、彼のことを分かってあげられたかもしれないのに。私は幼少期の頃から彼のことを知っているから、彼のことは全部把握できているって自惚れていた。
だけど、誰にだって、人ひとりのことを理解するなんて、できっこないんだ。
少なくとも、問題を自己完結している間は。
「それに……お粥を作ってくれたのも、プチ家出した詩織ちゃんのことを、怒らないでやって欲しいって私に頭を下げたのも、ぜんぶ陸くんだったんだよ。言わないとわからないみたいだから、ついでに言っておくわよ」
反論したかったけど、確かにそうなのかもしれない。
私はいつも、自分のことしか考えていなかった。
自分のことを考えるだけで精いっぱいだって線を引いていた。
だけどそれは、怠慢だとは言えないだろうか。
相手のことを思いやる。自分のことを犠牲にして、相手を優先する。それがほんとの――。
「詩織ちゃん、自分を責めるのは楽なのかもしれない。私はそれが、まるっきり必要ないって言いたいわけじゃない。だけど、それだけで終わるのはいけない。本当にやらなきゃいけないのは、自省した後に、あんたが何をやるかってことなんだから」
母親が言いたいのは暗に自分を責めるだけじゃなくて、他人を責めることもしないといけないってことなのかな。
反省した後に何をすべきなのかを意図的にぼかしていて、何が言いたいのか分からない。
言いたいことがあったら言え。
母親の言葉を鵜呑みにすれば、ここは迷わず訊くべきところなんだろうけれど、私にはやっぱりできなかった。
だけどそれは、いつもとちょっと考えたが違った。
いつもだったら、私が我慢すればそれで波風は立たなくていい。そして今は、分からないからって簡単に母親に訊く前に、まずは自分で考えたい。
母親は椅子から立ち上がると、ご飯もういいの? と訊いてきた。私がもうお腹いっぱい、と告げるとカップと皿を流し台に持っていき、皿を洗い出す。
「陸くんがやったことで、詩織ちゃんが気に悩む必要ないでしょ。あの子が全部勝手にやったことなんだから」
きゅ、っと蛇口を閉める音が妙に響いた。
「だけど……詩織ちゃん、ほんの少しでいいから陸くんがどうしてそんなことしているのか考えてあげな。でないとあの子が不憫過ぎて、見てられないからさ」
……その通りだ。
この人はこれからどうすればいいのか、道を指し示してくれる。
だけど、それから私の手を引いて、一緒にこの人は歩いてはくれない。そうしてしまうと、私が依存して、思考を停止してしまうからだ。
たまに、たまにだ。悔しいことに、この人には絶対に敵わないって、心の中で降参する時がある。
そういう時、実感する。
この人は私の……母親なんだって。