雛原詩織視点(16)
長い夢を見ていた気がする。
再び目を開けると真っ暗だった。開けっ放しだったカーテンから外を見やると、電気をつけていないだけが、暗い理由じゃないらしい。
服は汗でびしょしょで、しかも喉はからからに干上がっている。コップに手を伸ばして水を飲もうとするが、どんなに逆さに振っても水一滴もでない。
そういえば、下に降りずにコップはそのままだった。お腹がある程度満たされると、今度は強烈な睡魔に襲われ、いつの間にか寝落ちしてしまったんだ。
着ている服が、汗びっしょりで気持ち悪い。雑巾絞りの要領で絞れるのではないかと、一瞬考えてしまうぐらいひどい。
人間、寝ている時が一番汗をかくと聞いたことがあるけど、今まで生きてきた中でこの汗の量は一番かもしれない。
私は着ていた服を脱ぐと、クローゼットの近くにあった服を選ぶ。無地で可愛くない寝間着だが、こんな夜に誰も起きていないだろう。
そぅとドアを開ける。黒葛くんがいないことを確認して、パタンとドアをゆっくり閉める。
お盆にお粥とコップを乗せながら慎重に、足音をたたせないように忍び足だ。一番奥の私の部屋だと、階段手前の、黒葛くんの部屋をいちいち通らないといけないので面倒だ。彼とは今、目も合わせたくない。
ダイニングルームに着くと、母親が椅子に座りながらも優雅に、紅茶に砂糖をかき混ぜていた。
あれだけ人に合わないようにした努力が、水泡と帰したけれど、どうもこの人は憎めない。
「ああっ。もう起きて大丈夫なの、詩織ちゃん?」
母親は動かしていたスプーンを止める。
私は、なんど言ったのか分からない注意をする。
「だから、ちゃん付けは止めてって言ってるでしょ、お母さん。クラスメイトの前でちゃん付けで呼ばれると、ほんっとに恥ずかしいんだから……。その言い方止めてよねって、何回も言ってるでしょ」
「いいじゃないの、そんなこと。それにここは学校でも、外でもなくて我が家なんだから大丈夫でしょ」
そういう問題じゃない。今直せないものを、他の場所で直せるはずがない。たぶんこの人は、私をちゃん付けで呼ばない気はない。困っている私を楽しがっている節がある。
「それより詩織、あんたもう熱はないの?」
えっと、と独りごちながら額に手を当てると、いつの間にか微熱程度になっていた。
「うん、おかげ様でだいぶ熱は下がったみたい」
「食欲ある? 夕飯温めてあげよっか?」
「うん、お願い」
本当は起き抜けで、あまり食欲はなかったけど、せっかくの厚意を無駄にしたくない。
母親はコンロの火を付ける。
寒くなってきたから、多少の時間なら冷蔵庫に入れなくても大丈夫な時期になったんだな、となにやら妙に感慨深い気がする。
時が経つのは早くて遅い。
黒葛くんに久しぶりに再会した時も、こんな風に寒かった。
「ああ、紅茶飲んでもいいわよ」
「分かったー」
私は間延びした返事を返しながら、食器棚からキャラクターの描かれているカップを取り出す。そしてポットに入っている紅茶をそそいで、椅子に座る。
母親が飲んでいたカップ。そこに入っていたスプーンを勝手に拝借し、スティックシュガーを三つ投入し、カチャカチャと金属音をたてながら、かき混ぜる。
甘さを自分好みに調節できるのが、自分の家のいいところだ。あとはこれにイチゴジャムでも投下できれば最高なのだが、今は切らしてしまっている。
今度おつかいに行くときにでも買おうかな。
どうせ母親に買って欲しいと頼んでも、三秒で忘れてしまうだろうから。
紅茶の温かさと、のどの渇きを癒した私は、満足気に顔を火照らせる。
母親は少なめについだご飯と、温めたクリームシチューを持ってきた。ご飯少なめという気遣いは、ありがたい。
だけどどうして、ご飯の上にクリームシチューがかかっているのだろうか。育ちが悪いのではないのだろうか。
そして私は、この母親に育てられたことを思い出して、ちょっと落ち込んだ。
この人に何度注意しても同じだから黙っておこう。
気を取り直していると、母親は、私のカップに入っていた小さなスプーンをとって、シチューを掬いあげ、当然のように食べた。
ちなみに私は、一口もシチューを口にしていない。
この人の非常識な行動は、これに限ったことではない。怒るのはやめておこう。
それに……んっ、おいしいと子どものように嬉しそうな母親を叱ることなんて、私にはできない。
「それであんた達はうまくいってんの?」
「へ? なんのこと?」
ようやくシチューに手を付けられるかと思いきや、またタイミングを逃す。
気にしないで、食べながら話そう。
咎められるかと思ったが、母親は気にせずに話を続ける。
「またまたとぼけちゃって。あんたと陸くんのことよ」
「……全然。私のことほとんど無視してるし。それに今日だって黒葛くんは――」
私に心を開いてくれなくて、何もしてくれなかった。彼と一緒に暮らすことが決まった時に、私は誰より喜んだ。
だけど、今ではもうここに居たくない。それどころか、私の知り合いがいないどこか遠くに行きたい。
そう思って、自分一人で生きていけるか試してみたけれど、一日も立たないうちに、こうやって家に帰ってしまっていた。
意気地もなければ、救いもない。
黒葛くんと一緒に住んでから、遠かった距離が近づくのかと思ったけれど、むしろどんどん距離が離れてしまっている気がする。
母親は冷めてしまった自分の紅茶に、ポットの中に入っていた紅茶を注ぎ足す。
「そっかあ、詩織ちゃんはそう感じているんだ。だけど私には、二人とも仲良くやっているように見えたけどなあ」
「いったい、どこが仲良く見えるの?」
唖然としている私を見て、母親は苦笑する。
「だって、陸くんは今日、あんたの看病するために学校休んだんでしょ?」
「えっ、そんなことないよ。黒葛くんは、宿題やってないからサボったって言ってたよ」
「陸くんから直接そう聞いたわけじゃないけど、間違いないでしょ。あの子、宿題や勉強は真面目にやるって、私はいっ――つもあんたから、自慢されていたような気がするんだけどなあ。もしかして、あれは嘘だったのかな?」
そういえば、あの時の黒葛くんどこか様子がおかしかった気がする。素っ気ない返答はいつも通りだけど、どこか歯切れの悪さを感じた。
そうだ。やっぱり黒葛くんは面倒くさいから、宿題をやっていないからっていう理由で学校をサボるような人間じゃない。
そう信じてみると、心中の重りが軽くなった。
「それに、陸くんが昨日、あんたを公園で見つけたのよ。土砂降りの中、あんたを抱えて、ここまで運んでくれたのは他でもないあの子。もしかして、憶えてないの?」
母親の問いに、私は弱弱しく首を振る。
「……憶えてない」
そんなのまったく記憶になかった。あったとしたら、黒葛くんにあんな態度をとるわけない。
「詩織、あんたもちょっとは、陸くんを信じてやりなよ。あんたらが成長する為だったら、私はずっと黙っていてやろうかと思ってたんだ。だけどこのままじゃあ、待ちすぎて私、皺だらけのお婆ちゃんになるかもしれないだろ」
冗談っぽく母親は言っているが、言葉の端々に引っかかる部分がある。
「わかっ――」
分かっていないのは私じゃなくて黒葛くんの方だ、と言ってしまいたかったが飲み込む。
すると母親はあーあ、とわざとらしくため息をつく。どうしたのか訊いて欲しそうな顔をしている。訊けば喜ぶのはわかっていたけれど、気になるものはしょうがない。
「なに? お母さん」
話が長いので、中途半端なところで切りました。すいません。